ブラック・ムーン第二回

 

 上着の左肩から、ぱっとほこりが舞い立って、マックは声を上げた。そのまま、横ざまに馬から転落する。
 しかし、マックはまるで軽業師のように体をひねり、足から砂地におり立った。
 くるりと向き直るなり、すばやく拳銃を構える。
 トウオムアは撃鉄を起こし、マックめがけて二発目を放った。しかし、弾ははずれた。 同時に、マックの銃口が煙を吐いて、トウオムアは左の太ももの横に、衝撃を受けた。
 よろめいたはずみに、拳銃を取り落とす。
 マックが、顔を真っ赤にして、わめいた。
「このあま、せっかく生かしておいてやろうと思ったのに、もう容赦はしねえぞ」
 トウオムアに向かって、また撃鉄を起こす。
 とっさに、トウオムアは身をかがめて、拳銃を拾い上げようとした。しかし、傷の痛みに耐えかねて、膝をついた。
 そのとき、背後にいた鹿皮服の男が、トウオムアの脇をすり抜けた。
 マックに向かって、猛然と走りだす。
 虚をつかれたマックは、あわてて鹿皮服の男に銃口を巡らし、引き金を引いた。
 それより早く、男は頭から地面に飛び込んで一回転し、片膝をついて起き直った。マックの銃弾は、男の頭上を飛び抜けたとみえ、背後の砂地にめり込んだ。
 次弾を放とうと、撃鉄を上げた瞬間マックは悲鳴を上げ、たたらを踏んだ。
 銃口がそっぽを向いたまま、轟音とともに煙を吐く。
 マックは左手で目を押さえ、わめきながらさらに撃鉄を起こして、立て続けに二発撃った。
 しかし、弾はいずれもあらぬ方向に飛び去り、鹿皮服にもトウオムアにも、当たらなかった。
 わけが分からなかったが、マックに何か異変が起きたことは、確かだった。
 トウオムアは、鹿皮服がすばやく体を起こして、一直線にマックに駆け寄るのを見た。
 マックが、あわてて拳銃を男に振り向け、発砲する。
 弾は、体を沈み込ませた男の頭上をかすめ、その背後でまた砂煙を巻き上げた。
 男はマックに突進すると、腰に差した鞘(さや)からサーベルを引き抜き、一閃(いっせん)させた。
 トウオムアの目には、鋭い光が一瞬宙を走ったようにしか、見えなかった。
 マックはのけぞり、空に向かって立て続けに引き金を引いたが、すでに弾倉がからになったとみえ、すべてから撃ちに終わった。
 間をおかず、マックの喉もとから勢いよく血が噴き出し、砂地に飛び散る。
 マックは拳銃を握ったまま、その場にどうとうつ伏せに倒れた。
 それきり、動かなくなる。
 砂地がたちまち、血に染まり始めた。
 トウオムアは、太ももの傷口を左手でしっかりと押さえ、耳をすました。
 木立の中へ消えた、ソルティとザップの駆け去る音は、もう聞こえなかった。しかし、トウオムアとマックが発砲した銃声はすべて、二人の耳にも届いただろう。
 もっとも二人は、それをトウオムアたちを始末した、マック一人の発砲音、と受け取ったかもしれない。いや、そうであってほしい。
 どちらにせよソルティもザップも、マックが自分たちのあとを追って来るもの、と考えているはずだ。わざわざ、様子を見にもどることはあるまい。
 追いついて来れば、それでよし。
 もし追いつかなければ、逆にマックがやられたとみなして、二人ともそのまま逃げ去るだろう。マックが死んで、追っ手がソルティとザップの二人に減れば、礼金の額がそれぞれ五割増し、という計算になるからだ。
 鹿皮服の男は、トウオムアにもマックの死体にも、目をくれなかった。
 サーベルを腰の鞘に収め、先刻のすばやい動きとは打って変わった、いかにも重そうな足取りで、木立の中へ踏み込んで行く。
 どうやら緊張が解けて、体の力が抜けたらしい。長時間、あの川を流されて来たとすれば、無理もないことだ。
 それにしても、マックを倒したときに見せた体の動きは、驚くべきスピードだった。
 どこへ行くのか、といぶかりながらもトウオムアは、それ以上男にかまわなかった。
 太ももの出血はかなりひどく、早く手当てをしなければならない。
 体を起こし、マックに撃たれた左足を引きずって、土手の上へもどる。
 下をのぞき、木立に向かってキーマ、キーマと二度叫んだ。
 しばらくすると、茂みを揺らしながら愛馬のキーマが姿を現し、土手を駆けのぼって来た。先刻、母子で追っ手から姿を隠す前、念のため追い放っておいたのだ。
 キーマは、コマンチの言葉でカム(来る)を意味し、それをそのまま名前にした。賢い馬で、キーマと呼べばどれほど遠く離れていても、かならず駆けもどって来る。
 トウオムアは、土手に上がったキーマの鞍(くら)から、革袋を取ろうとした。
 しかし、左ももの出血がひどくてしっかり立てず、縛った革紐がほどけない。
 そのとき、背後で蹄の音が聞こえた。
 はっとして振り向くと、例の男が馬に乗って木立の中から、姿を現すのが見えた。
 それを見て、男がマックの馬を探しに行ったのだ、と分かる。運よく馬は、遠くまで逃げなかったらしい。
 そばまで来ると、男は鞍の上で体を寝かせるように傾け、地面に滑りおりた。
 さっきの動きが嘘のように、足元をふらつかせている。気力はともかく、体力をかなり失ったようだ。
 出血している様子はないが、顔や手に細かい擦り傷のようなものが、ちらほら見える。 ともかく傷に関するかぎり、自分よりひどくはないようだ。
「悪いけど、この革袋の紐をほどいて、おろしてくれない」
 トウオムアが頼むと、男はのろのろした動きながら、言われたとおりにした。
 中から、長めのバンダナを取り出して、革袋を男の手に渡す。
 トウオムアは、バンダナで傷口の上をきつく縛り、とりあえず血止めをした。
 それから、男に言う。
「馬に乗せてちょうだい。あそこの木立まで行くの。たぶんあの仲間たちは、もうもどって来ないから」
「だといいがね」
 男は、疲れた声で応じて、そばに来た。
 トウオムアを鞍に押し上げ、自分はマックの馬の手綱をひいて、ゆっくりと木立へ向かう。
 中にはいると、日陰を探してトウオムアを抱きおろし、草地に横たえた。
 トウオムアは、すぐに体を起こして、男を見守った。男の腕は力強く、見た目よりもしっかりしていた。
 男は、手にした革袋をトウオムアに渡し、腰からサーベルを鞘ごと引き抜いた。
 三ヤードほど離れた、別の場所にすわる。それから、次は何をすればいいかと問うように、トウオムアを見返した。
 その目を意識しながら、トウオムアは黙ってバンダナをほどき、傷の手当てを始めた。
 さいわい弾は、太ももの肉をそいだだけで飛び抜け、中に残っていなかった。
 思い切って、バックスキンのズボンの一部を、鉤形(かぎがた)に切り裂く。
 革袋から、ニワトコを干した粉を取り出し、ていねいに傷口にまき散らす。その上に、干し草を編んだ薄い布を当てて、バンダナでしっかり縛った。
 最初は、それをじっと見つめる男の目を、意識した。
 むろん、素肌を見られたくはなかったので、背を向けることも考えた。しかし、万が一ということもあり、男を自分の視野に入れておかなければ、不安だった。
 ただ手当ての途中で、男はそうした気配を察したとみえ、自分からすわったまま体を回して、トウオムアに背を向けた。
 手当てを終えたあと、トウオムアはその背に声をかけた。
「あたしの名は、トウオムア。英語で言えば、ブラック・ムーンよ。あんたの名は」
 男はゆっくりと向き直り、トウオムアをまっすぐに見た。
「ハヤト、と呼んでくれ」
 耳慣れぬ名前だ。
「あんたはインディアン、それともメキシカンかしら」
「ジャパニーズだ」
 知らない部族だった。土地の名前だとしても、聞いたことがない。
 男が口を開いた。
「あんたは、インディアンか」
 聞き返されて、一瞬言葉に詰まる。
 顔の色や髪形は、確かにインディアンだ。しかし、顔つきはインディアンではなく、瞳の色は緑に近い青だった。
 少し迷ったあげく、正直に答える。
「もともとは白人だけど、十年前にコマンチにさらわれて、今は九十九パーセント、インディアンよ」
 ハヤトと名乗った男は、何も言わずに目で先をうながした。
 トウオムアは続けた。
「さらわれたのは、十五のときだった。今じゃ族長の妻で、すっかりコマンチになじんでしまった。もう、もとにはもどれないわ」
 ハヤトは、軽く口をすぼめたものの、すぐに冷静な目でトウオムアを見返した。
「さっきの男たちは、何者だ。あんたと子供を、連れもどしに来たらしいが」
「そのようだね」
「あんたは、連れもどされたくないようだったな」
 トウオムアは、少し考えた。
 理由は分からないが、この男ならわけを話してもだいじょうぶだ、という気がした。
 正直に打ち明ける。
「あたしの父親は、ニューメキシコのシルバー・シティの近くで、牧場をやってるんだ。名前は、ジョシュア・ブラックマン。あたしはその娘で、もとの名前はダイアナ。さっきの男たちは、確かに父親に金で雇われて、あたしたちを連れもどしに来たのよ。正確に言えば、あたしたちじゃなくて、サモナサを」
「サモナサ」
「あの男たちが奪って行った、あたしの息子のことよ。父親からすれば、サモナサは自分の血を受け継いだ、たった一人の孫なの。つまり、血のつながっただいじな跡継ぎ、ということになるのさ。あたしは一人娘だったし、跡を継ぐ男の兄弟がいないからね」
「なぜ孫だけさらって、あんたを一緒に連れて行かないんだ」
 トウオムアは、唇をゆがめた。
「父親は、あたしがうとましいんだよ。母親を、手ひどく扱って死なせたことで、あたしに負い目があるからね。それで、あたしに憎まれているのを、よく承知してるのさ」
 ハヤトが何も言わないので、トウオムアは続けた。
「それに、十年もコマンチのあいだで暮らしていれば、あたしはもう白人の世界にもどれないだろうと、父親はそう判断したに違いないわ」
 ハヤトは、首をかしげた。
「そうとも、かぎるまい」
「あんたは、父親を知らないのさ。ただ、血を分けた娘には違いないから、あたしは生かしておくようにと、あいつらに指示したんだろう。つまり、それがせめてものお情け、というわけさ」
 ハヤトが思慮深い目で、トウオムアを見返す。
「自分で思っているほど、あんたはコマンチになりきっていない、という気がするがね」「どうして」
「あんたの英語は、おれが耳にするほかのアメリカ人の英語と、さほど変わらないように聞こえる。少なくとも、おれが話すあやしい英語よりは、ずっと達者だ。白人と、十年も離れて暮らしていれば、もっと言葉を忘れても不思議はないと思うが」
「それには、わけがあるのさ。コマンチと一緒に暮らし始めてから、彼らの言葉を教わるのと引き換えに、英語を教えてやったからね。コマンチが、白人の密売商人と取引するとき、だまされないようにするためだ」
 ハヤトはうなずいたが、すぐに言葉を継いだ。
「見たところ、あんたの息子の父親は、コマンチだろう」
 トウオムアは肩をすくめ、それが長いことしなかった白人のしぐさだ、ということを思い出した。
「そのとおりさ」
「あんたの父親は、あんたがコマンチの子供を生んだとか、どこで暮らしているかとかいうことを、どうやって知ったんだ。追っ手の三人が、たまたまあんたたちを見つけた、というわけじゃあるまい」
 それについては、トウオムアもあれこれと、考えてみたものだ。
「父親はたぶん、今言った白人の密売商人たちから、あたしたち母子のことや居場所を、聞いたんだろう。闇取引をするときに、あたしたちはそういうやつらと、何度も顔を合わせたからね」
 ハヤトが、また思慮深い顔をして、話をサモナサにもどす。
「あんたと同じで、あんたの息子もいきなり白人の世界にはいって、うまくやっていけるかどうか、分からんだろう」
 この男の言うとおり、父親のジョシュアも当然そのことを、考えたはずだ。
「それは、なんとも言えないね。ただ、サモナサはあたしと違って、まだ五歳になったばかりだ。今ならまだ、白人の世界に同化できる可能性が、十分にあるだろう。あたしの父親は、そうにらんだんじゃないかね」
 トウオムアが口を閉じると、ハヤトは無意識のように左の肩口を、右手で押さえた。
 それを見て、この男も負傷しているらしいことを、思い出す。
「あんた、血はあまり出てないようだけど、どこか怪我をしてるんじゃないのかい」
 そう確かめると、ハヤトは途方に暮れたように、眉根を寄せた。
「崖から、下の砂地に落ちるまでに、何度も木の枝にぶつかった。そのせいで、打ち身がひどいことは、確かだ。もっとも、そのおかげで死なずにすんだ、ともいえるが」
 トウオムアは、黙って考えた。
 迷ったものの、太ももにひどい銃創を負ったまま、ソルティたちのあとを追って、サモナサを取り返すのはむずかしい、と考えざるをえない。
 ハヤトにしても、食べ物や水筒を持っている様子がなく、このままでは行き倒れになるだけだ。
 当面は一緒に行動して。互いに力を貸し合うのがベストだ、と判断する。
 トウオムアは、声をかけた。
「こっちへおいでよ、ハヤト。傷を見てあげるから」
 ハヤトは、すぐには動かなかったが、やがてゆっくり腰を上げると、トウオムアのそばにやって来た。
 トウオムアはハヤトに手を貸し、上着とシャツを脱がしてやった。
 長時間、水につかっていたとみえて、どちらもくしゃくしゃだった。ただし、暑い日差しを浴びたせいで、すでに乾いている。
 上半身を裸にすると、顔や手に比べて肌はさほど日焼けしておらず、引き締まった筋肉が目につく。コマンチの戦士にも、ひけを取ることはあるまい。
 ただ、左の肩が赤黒く内出血しており、そのほかの背中や胸元のあちこちにも、あざができている。かなり高いところから、転落したようだ。
 それを思えば、まだ傷が少ない方だろう。
 おそらく、下半身も同じ状態に違いないが、ズボンを脱がせるわけにはいかない。
 トウオムアは、革袋から自分が使った薬草と、バファローの脂を取り出した。
 二つを練り合わせて、自分のと同じ布にまんべんなく塗り、赤黒い左肩の患部に貼りつける。
 そのほかの打撲した箇所には、同じ練りものを自分で塗るように、ハヤトに言った。
 ハヤトが処置をすませるのを待って、トウオムアは気にかかっていたことを、口に出した。
「一つだけ、教えてくれないか、ハヤト」
 ハヤトは、シャツと上着をきちんと着込み、トウオムアを見た。
「何が知りたいんだ」
「さっきあんたが、マックを切り倒したサーベルのわざは、どこで身につけたんだい」
「おれが生まれたところさ。ジャパンという国だ」
「ジャパン。それであんたは、ジャパニーズというわけか」
「そうだ。だれも知らぬ国だから、説明しても分からんだろう」
「ついでに聞くけど、あんたがサーベルで斬り倒すまえに、マックが左の目を押さえたのが見えた。蜂か何かが、飛び込んだみたいだった。ひょっとして、あれもあんたのしわざじゃないのかい」
 トウオムアの問いに、ハヤトはかすかな笑いを口元に浮かべ、鹿皮服の襟元に指を走らせた。
 その指先に、細い針のようなものが、現れる。コマンチが使う縫い針より、はるかに短く、細く、鋭い針だった。
 ハヤトは、それをゆっくりと口元へ持っていき、頭上の木の茂みに向かって、ふっと息を吹きつけた。
 葉ずれの音が、一瞬やんだような気がする。
 次の瞬間、幅二インチ(約五センチメートル)ほどの葉が一枚、ひらひらと舞い落ちてきた。
 トウオムアは、思わず笑った。
「すごいわざだね。コマンチにも、ブロウパイプ(吹き矢)という武器があるけど、あんたのわざの方が効き目がありそうだ」
 土手の下で、ハヤトが鹿皮服の襟に指先を触れ、口元へ運ぶのを見た。おそらくそこに、針が仕込んであるのだろう。
 ハヤトは表情を緩めず、話をもとにもどした。
「あんたは、これから追っ手の二人と息子のあとを、追うつもりか」
 トウオムアも、真顔にもどる。
「ああ、そのつもりだよ」
 ハヤトは、眉を曇らせた。
「その怪我では、すぐには無理だな。たとえ、コマンチの薬で出血が止まっても、動き回れば傷口がふさがらない。やつらと出会ったところで、後れを取るだけだぞ」
 それは、もっともな指摘だった。
「あんたもその体じゃ、あまり無理ができそうにないね。そもそも、だれも連れはいないのかい。たった一人で、崖から落ちた、とでも」
 ハヤトが答えるまでに、少し間があく。
「連れは何人もいたが、今どこにいるのか見当がつかない。川に沿って引き返しても、もとの場所にたどり着くまで、どれくらいかかるか」
 そこで、言葉を途切らせる。
「あんたの連れも、上流から下流に向かって、探しに来るだろう。そうすれば、途中で出会えるんじゃないか」
 ハヤトは目を伏せ、トウオムアの太ももにうなずきかける。
「その傷は、医者の手当てを受けた方がいい。コマンチの薬だけでは、もたないだろう。この川を、もうしばらくくだったところに、ビーティという小さな町があるはずだ。そこへ行けば、医者がいると思う。おれがあんたを、送って行く。おれもついでに、診てもらいたいしな」
 トウオムアは、ハヤトをじっと見た。
「このあたりに、詳しいようだね」

ブラック・ムーン

Synopsisあらすじ

新選組副長・土方歳三は箱館で落命した――はずだった。記憶を失った土方は、内藤隼人と名を変え、米国西部へと渡っていた。彼の命を狙う元・新撰組隊士との死闘の末、ラヴァ・フィールズの断崖から落下した隼人だったが……。
逢坂剛が放つ、究極のエンターテイント・”賞金稼ぎ”シリーズ!

Profile著者紹介

逢坂 剛

1943年東京生まれ。80年『暗殺者グラナダに死す』でオール讀物推理小説新人賞を受賞しデビュー。86年に刊行した『カディスの赤い星』で直木賞、日本推理作家協会賞、日本冒険小説協会大賞をトリプル受賞。2013年に日本ミステリー文学大賞、15年には『平蔵狩り』で吉川英治文学賞を受賞。本作は『果てしなき追跡』『最果ての決闘者』につづく“賞金稼ぎ”シリーズの第3弾。

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