- 2025 04/22
- まえがき公開

正しさとは何かを探究してきた政治哲学。向き合う現実の世界は進むも退くも地獄、「よりマシな悪」を選んでなんぼの側面をもつ。命の重さに違いはあるのか。汚い手段は許されるか。大義のために家族や友情を犠牲にできるか。本書はサンデルの正義論やトロッコ問題のような思考実験に加え、小説や戯曲の名場面を道しるべに、「正しさ」ではなく「悪さ」というネガから政治哲学へいざなう。混迷の時代に灯火をともす一書。 『政治哲学講義 悪さ加減をどう選ぶか』の 「はじめに」を公開します。
歴史上もっとも有名な政治家の一人と言ってもよい、イギリスの首相ウィンストン・チャーチルに関する説話から始めよう。第二次世界大戦を通じてイギリスを率いた彼は、ヨーロッパで孤立状態のなか対独戦争を戦い、最終的にはアメリカの参戦も得て世界をナチス・ドイツから救った英雄として描かれる。戦後は冷戦の開始を宣言したいわゆる「鉄のカーテン」演説や、逆説的に民主主義を擁護した「民主主義は最悪の政治形態」の格言でも知られる。1953年には著書『第二次世界大戦』でノーベル文学賞も受賞している。
チャーチルには考えさせられるエピソードがある。それは、ドイツによるイギリス本土への攻撃がもっとも激しかった1940年、とりわけ多くの被害を出した工業都市コヴェントリーの空襲に際し、攻撃計画を事前に察知しながらあえて見逃したというものだ。背景には、ドイツが第一次世界大戦後に開発したエニグマ暗号とそれを解読する努力があった。当時のイギリスでは、絶対に解読不可能とされていたこの暗号を解読するための最高機密作業「ウルトラ」が組織され、密かに暗号解読に成功していたのだ。
ドイツ側の通信を解読した結果、チャーチルはコヴェントリーが攻撃対象であることを事前に察知したが、暗号解読の事実を伏せるためにあえて避難指示を行わなかった。仮に事前避難でドイツ側に不審を抱かせてしまえば、暗号解読の努力が水泡に帰してしまうからである。
この空襲で都市の中央部はほとんど破壊され、500人以上が死亡し、4万戸以上の家屋が損壊した。結果的に、ドイツは終戦までエニグマを使用し続け、イギリスが暗号解読を秘密裏のままにしていたことが最終的に戦争を勝利に導いたとされる。付け加えると、この説話は現在、事実に基づかない神話であるとの見解が有力である。そもそも、エニグマの解読作業の存在それ自体が、戦後もなお機密事項であった。話の発端は、解読作業に関わっていた人物によって1974年にその存在が暴露された際、こうしたエピソードが併せて紹介されたことにあるようだ(ウィンターボーザム『ウルトラ・シークレット』92頁~)。ともあれ、これが彼の手腕や業績とともに広く語られていること自体、政治について考えるべき何事かを示している。
なぜこの説話が好んで語られるのだろうか。それは、大義のために小悪――というには大きすぎるが――を選んだという状況のジレンマ的構造にある。一方で、チャーチルが自国および世界を救ったことは事実かもしれない。他方で、その結果彼は救えたはずの人を救うことができなかった。これら二つの選択肢は原理的に両立せず、どちらかを選べばどちらかを犠牲にせざるをえない。このように、政治の世界はせいぜいのところ、複数の悪のあいだでマシなほうを選んで良しとなるような側面も宿命的に背負っている。
こうした問題構造は、政治学者の丸山眞男がかつて言った政治的判断の特徴を思い起こさせる。いわく(「政治的判断」369頁)、
政治的な選択というものは必ずしもいちばんよいもの、いわゆるベストの選択ではありません。それはせいぜいベターなものの選択であり、あるいは福沢諭吉のいっている言葉ですが、「悪さ加減の選択」なのです。……悪さ加減というのは、悪さの程度がすこしでも少ないものを選択するということです。
「悪さ加減の選択」は、現在の私たちにとっても無縁ではない。それを劇的に示したのが、2020年以降、数年間にわたり私たちの生活に大きな影響を与えてきた新型感染症問題だろう。突如世界を覆ったこの問題をめぐっては、人的接触を避けるための移動の制限や営業の自粛、救命装置やワクチンの分配方法などをめぐって、何を選んでも誰かに痛みを与えざるをえない政策の是非が論争の的となった。第1章2節で見るように、政治の世界では利害の対立が不可避であり、何かを優先し、何かを後回しにせざるをえない状況が生まれる。
正義論に残された問い
本書が主題とする政治哲学とは、制度や政策のあり方といった、政治の世界における「べき」(規範)の問題を分析し、体系化する学問分野である。隣接する倫理学や法哲学と同様に、政治学の下位分野としてこうした課題を担っている。従来の政治哲学は、ジョン・ロールズの『正義論』を現代の古典として、政治社会の基底的ルールとなる正義原理の探究を主な課題としてきた。2010年代以降、マイケル・サンデルの正義論講義が放映されたことで、だいぶ世間のイメージも定着してきたのではないだろうか。
「悪さ加減の選択」と聞いて、サンデルの講義によって人口に炙膾した、いわゆるトロリー(トロッコ)問題を思い浮かべた人も少なくないだろう。「縛られた5人に向かって暴走する路面電車を、転轍機を操作して1人に向けることははたして許されるか」という思考実験のことだ。彼はこうした問題提起を手がかりに、人々がどう生きるべきか、社会がどうあるべきかといった正義や善き生の考察に進む。そういえば、先の感染症問題もトロリー問題に引きつけて論じられることが多く見られた。
しかし、サンデルの正義論にはなお、「悪さ加減の選択」に関するシビアな考察が欠けている。トロリー問題のような状況で正義原理が命じる選択をしたとして、はたして「正義は達せられた」と胸を張って言えるだろうか。むしろ、たとえやむをえない選択だったとしても、そこで何かが損なわれたと感じざるをえないのではないか。トロリー問題は、5人を犠牲にするか、それとも1人を犠牲にするかを不可避的に迫るものだ。そこで問題となっているのは、選択の正しさというよりも、むしろ選択がしばしば抱える割り切れなさである。
そこで、本書は「講義」と銘打っているが、現在主流となっている政治哲学のアプローチとは一線を画している。現実の模範となるような正義に適う理想社会を探究することは、政治を哲学するひとつの有力な道であるが、唯一の道ではない。正義論のなかには、「悪さ加減の選択」が避けがたく抱える、割り切れなさのような「リマインダー(心残り)」に考察の重心を置く系譜もある。具体的には、バーナード・ウィリアムズ、トマス・ネーゲル、マイケル・ウォルツァーといった哲学者たちだ。
要するに、ここで注目したいのは、政治の世界における「正義」の有り難さということである。いずれも重大な価値のなかで、何を優先し、何を後回しにするかが問われる状況は、正しくあるいは善く生きるどころか、複数の悪のなかでどちらを選ぶべきかを私たちに迫っている。その結末は、そこに巻き込まれる誰にとっても、本来望ましいものよりも避けたいものでしかない。本書では、正しさというポジよりも悪さというネガから政治の世界を照射しなおすことで、政治における「悪さ加減の選択」が含意することを哲学的に再構成してみたい。
その一方で、「難事件は悪法を作る」という格言もある。あたかも悪と悪のあいだの選択が人間の宿痾かのように扱ってしまうと、問題を大きく見誤ることになるだろう。第8章3節で振り返るように、一方で悪と悪のあいだの選択を迫られた場合、どのような決断を、どのような根拠で下すかを考えることと、他方でこうした選択それ自体を克服する方途を探ることは矛盾しないし、むしろ両立させるべきだ。本書は前者に重心を置いているが、それは本書なりの問題意識に由来している。
本書には生死の問題が数多く登場する。同じ人間の生死の問題について云々するのはおこがましい、不謹慎だと思われるかもしれない。しかし、数年にわたる感染症問題を潜り抜けた現在、私たちはあらためて、この世界が生命や自由といった重大な価値の選択を迫られ、その重みを抱えざるをえない世界であることを痛切に実感しているのではないだろうか。誇張ではなく、ときに政治は生死の問題である。本書ではこうした問題意識から、汚れた手問題や正戦論といった、従来の正義論のなかで論じ尽くされてこなかった論点にも目を向ける。
もともと丸山は、「悪さ加減の選択」を選挙時の政党・候補者選びの文脈で示していた。それは民主主義社会において、究極的に主権者である私たち一般市民にとっての選択でもあるのだ。悪と悪のあいだの選択を迫られて、私たちの声はおのずと熱を帯び、価値観の分断はいよいよ深まっていく。だからこそ、こうした場面でなおどのような「正義」について語ることができるか、たとえ唯一の正解はないにしても、あらためて原理的に考察することには意味があるだろう。
作品で読み解く
トロリー問題のような哲学者が考案する思考実験に注目することは、物事を安直な二者択一として単純化しているとの異論が向けられやすい。いわく、それは単なる語り手の創作物であって、ほかにも考えられたはずの別の選択肢を隠しただけの擬似問題にすぎない。それゆえ、私たちの思考枠組みがこうした恣意的な限界に囚われるのは問題である。「悪さ加減の選択」に頭を悩ませるよりも、一層望ましい第三の選択肢を見つけようとする想像力のほうが重要だというわけだ。
ただし、もっと考えれば別の選択肢が見つかるはずなので、思考実験は擬似問題にすぎないと言うことは、問題に対処しているようでしていない。実際、チャーチルの説話が示すように、「悪さ加減の選択」に訴えざるをえない大小の局面は存在しうる。本書で取り上げるジレンマ状況にはかなり人工的な設定によるものもあるが、それは現実にもありうる状況の要点を際立たせた素材である。悪と悪のあいだの選択それ自体を克服する方途を探るからといって、仮にこうした選択を迫られた場合、どのような決断を、どのような根拠で下すかを考えなくてもよい理由にはならない。
しかしながら、トロリー問題のような思考実験に含まれる抽象化の方法に、依然として違和感を覚える人もいるかもしれない。いわく、ジレンマ状況について思考を求められる場合、必要なことは現実の複雑さを捨象することよりも、むしろより多くの個別的情報を与えることである。行為主体はどういう人物なのか。どの時代のどの場所で生きているのか。登場人物との関係は何か。こうした現実の詳細を教えられないかぎり、ジレンマ状況に真剣に取り組むことは難しい。心理学者のキャロル・ギリガンが言うように(『もうひとつの声で』248頁)、
仮説上の人物たちの骸骨のような生活に実体が与えられてはじめて、その人たちが直面している道徳的問題に映し出される社会的不正義を捉えることができる。また、そうしてはじめて、その道徳的問題の発生が示す個々人の苦しみや、その問題の解決が生み出してしまう苦しみを想像できるようになるのである。
こうした指摘には一理あると思う。抽象的な思考に慣れている人であれば、記号的人名や数字的操作によって現実を抽象化した仮説的な設定から、無理なく直観を引き出したり、複数の選択肢に思い悩んだりすることができるだろう。しかし逆に、数多くの情報を付加され、肉付けされることによってはじめて、行為主体が迫られる選択を追体験し、そこから自分なりの答えを導き出す人もいるだろう。これは人それぞれの思考様式次第である。哲学的な思考実験はそのひとつの方法であるが、すべてではない。
そこで、本書のもうひとつの特色は、トロリー問題のような哲学者が考案する思考実験に加えて、小説や挿話のような作品を通じて、「悪さ加減の選択」を論じようとする点にある。具体的には、『ビリー・バッド』『アンティゴネー』『荒涼館』といった題材を各章ごとに取り上げる。作品を参照することの効用は、それがジレンマ状況を効果的に描き出す点にある。私たちは作中の登場人物に感情移入し、その状況をリアルに思い浮かべる。それはときに思考実験よりも効果的に、私たちを思考に誘う呼び水となるだろう。
本書の構成を簡単に紹介しておく。第1章は、「悪さ加減の選択」をジレンマ状況の一種として構造的に分析し、なぜそれが政治の世界で生じがちであるのかを説明したうえで、選択の指針として「マシな悪の倫理」という考え方を導入する。第2・3章は、それぞれこの倫理が備える三つの特徴を掘り下げながら、第2章では偏向的観点/不偏的観点の区別、第3章では功利主義と義務論の対比、および続く二章で論点となる義務論的制約という考え方を紹介する。
第4章は、「悪さ加減の選択」をめぐる論争の本丸として、トロリー問題に取り組む。この問題の何が「問題」なのかを詳しく説明するなかで、消極的義務/積極的義務の区別、および「問題」を通じて浮かび上がってくる優先テーゼや手段原理を紹介する。第5章は、トロリー問題からさらに先に進んで、義務論的制約をあえて乗り越える汚れた手問題の分析に進む。この問題は、政治における「悪さ加減の選択」のいわば極例である。
第6・7章では、視点を国内社会から国際社会に移し替える。するとそこには、一般義務/特別義務という、さらに別の区別が浮かび上がってくる。この区別と消極的義務/積極的義務の区別が織りなす複雑な規範の様相を偏向テーゼや不偏テーゼによって整理するのが、第6章の役割である。第7章は、戦争という非日常的状況においてこれまでの議論がどのように立ち現れるかを、二重結果説や最高度緊急事態論とともに考える。第8章は、「悪さ加減の選択」を引き受けた行為主体がどのような責任に直面するかという、本書全体を補完する内容である。
以上の本書の内容に関して、あらかじめ2点お伝えしておきたい。第一に、本書は以前の章を踏まえて以降の章が展開されるという、いわば積み上げ式の体裁になっている。すでに政治哲学の議論に通じている方は別だが、できれば順序通りの読書をお勧めしたい。第二に、本書は「講義」と銘打ちながらも、その話題は今なおきわめて論争的であり、本書で示した内容はその一部にすぎない。個別の章や論点に関心をもたれた読者諸氏はぜひ、巻末に挙げた「読書・作品案内」なども参考にしながら、さらに議論を深めていってほしい。
(まえがき、著者略歴は『政治哲学講義』初版刊行時のものです)