- 2023 07/06
- 著者に聞く

アジアの中心に位置する、世界最大の高原チベット。この地に生まれたチベット仏教は、各地に多大な影響を及ぼし、いまなお人々の心を捉えてやみません。チベットの文化・宗教と歴史を古代から現代まで解説する『物語 チベットの歴史』を刊行した石濱裕美子先生にお話を伺いました。
――石濱先生は、そもそもなぜチベットについて関心を抱き、研究されようと思ったのですか。
石濱:私が大学に入った頃、ちょうどNHKのドキュメンタリー『シルクロード』シリーズが一世を風靡しており、東洋史は人気学科でした(今からは想像もつかないですが笑)。
なので、東洋史を専攻しモンゴル史ゼミに入り、在学中に初めて行った海外旅行先がインドとネパールでした。そこでデリーやカトマンドゥでチベット難民の存在に触れ、また、チベット仏教はモンゴルにも伝播していたことから、卒論の役に立てばという感覚で、帰国後チベット語を勉強し始めました。
大学院に入って原史料を読み進めていくうちに、チベット仏教がモンゴル史に大きな影響を与えていたことが分かり、チベット世界からモンゴルを見る方が政治力学がよく分かることに気づきました。
ゼミでこれを発表すると「チベット・モンゴル関係」を「モンゴル・チベット関係」と言い直せと言われるなど、はじめの頃は苦労しました(笑)。
――本書はおひとりでチベットの歴史を全部解説するという、しかも、チベット高原だけでなく、モンゴルやロシア、イギリス、日本、インドなどの周囲の国々との関係も解説するという、時間のスパンも叙述のスケールも大きな内容です。本書執筆にあたって、特に既著とどういうちがいがありますか。お教え下さい。
石濱:私の専門はポタラ宮を建設した17世紀のダライ・ラマ5世から、現代にいたるまでのダライ・ラマ政権の歴史です。
しかし、ダライ・ラマの前世に古代チベットの諸王や中世の聖者たちが措定されていることが示すように、ダライ・ラマ政権は古代・中世チベット史を踏まえた上で成立し、運営されてきました。
このチベット人の歴史認識を尊重して、力不足ながら古代から現代までを通しで叙述しました。
チベット仏教思想の持つ普遍性はその時代その時代でもっとも豊かな「帝国」の人々の心をつかみ、時代が進むにつれてその影響する範囲は拡大していきます。
チベット仏教は、13世紀にモンゴル人(元朝)、17世紀に満洲人(清朝)へと広がり、ダライ・ラマ14世のインドへの亡命とともに、欧米において多くの支援を受けるようになりました。
現在欧米でダライ・ラマはマインドフルネス等の仏教的なものすべての顔となっています。
本書で述べたチベットのこのような影響力は、しかし、いままであまり注目されてきませんでした。それは、チベットという「国」が現在存在していないことが大きく関係していると思います。
本書によって少しでもチベットの持つ影響力が正しく認知されるようになれば幸甚です。
――本書ご執筆にあたってのご苦労、あるいは工夫した点、新たな発見などありましたら、お教え下さい。
石濱:「神話化した歴史」と「神話が生み出した現実」を区別することに苦労しました。
現在のダライ・ラマが好んで科学者と対話していることが示しているように、チベット仏教は科学や論理を重視していますが、一方では転生や化身やシャーマンのお告げといった神秘的な事象もコミュニティの中で普通に語られています。
古代と現代、神秘と論理、これらが矛盾なく共存しているチベット史を、偏見を持たれないように伝えるにはどうすればいいのか表現に苦労しました。
工夫した点といたしましては、読者の方が本文を読む上で具体的なイメージを結べるように、本文中にあがっている著名な僧院や聖地などの写真や、その所在地を示した地図を豊富にのせました。
既存の文献に掲載されたチベットの地図はどれも簡略なものですので、本書の地図はチベットに興味のある方には重宝されるものになると思います。
――本書の反響などありましたらお教え下さい
石濱:チベット史に関する書籍は数多く出版されてきましたが、専門書や洋書が多く、一般の人が気軽に手にとって理解できるようなものはありませんでした。
本書が駅前の本屋さんで手に取れる新書形態で発売されたことにより、いままでになく幅広い層の方に読んでいただけている実感があります。
ものすごく卑近な例をあげますと、ご近所のロータリアンがご自分の属している複数のロータリー・クラブで本書を紹介して下さり、その中のかなりの方が実際に読んで下さり、チベットのことをよく理解できたとおっしゃって下さいました。
――チベット研究の転機となったことがありましたらお教え下さい
石濱:大きな転機は二度ありました。
最初は研究を始めた初期の頃のことです。私は17世紀のダライ・ラマ5世について研究していたため、現ダライ・ラマ14世に関しては積極的に会いたいという気持ちはありませんでした。
しかし、1995年、ダライ・ラマ14世が成田空港にトランジットした際、謁見に行く在日チベット人のエスコートで私も成田空港についていくことになりました。チベット人たちと一緒に到着口でダライ・ラマを出待ちしていたところ、ダライ・ラマの姿が視界に入った瞬間、周りのチベット人たちが一斉に五体投地を始めたのです。衝撃でした。ダライ・ラマを頂点に仰ぐチベット社会はまだそこにあったんです。
その後、来日するチベットの高僧の法話などを聞きに行くうちに、彼らは史料の中にある17世紀の僧院社会そのままの世界で生きていることが分かりました。彼らに接するにつれて、史料の中にある、どのようなことを指しているのか分からなかった言葉について、具体的な内容が分かるようになりました。
さらに、現代チベットについての知見が深まるにつれ、ダライ・ラマ14世やチベットが現在置かれている状況についても調べるようになり、現代史にも興味を広げる契機になりました。
二度目の転機は、2013年にモンゴル国の首都ウラーンバートルで開催された国際チベット学会に参加した時です。
チベット・モンゴル条約百周年を記念してその調印場所であるウラーンバートルが会場に選ばれたのですが、実は私がウラーンバートルに行くのはこれが初めてでした。町を歩くとジェブツンダンパ8世(モンゴルのダライ・ラマにあたる転生僧)期の遺構が残っており、それをみるとジェブツンダンパ8世の宮廷がダライ・ラマ13世の宮廷の影響を受けていたことが明白に見て取れました(ちなみに、1904年から1905年にダライ・ラマ13世は現在のモンゴル国に滞在していました)。
しかし、モンゴル史の研究者たちはモンゴル・ナショナリズムの影響を少なからず受けているため、外来のチベット仏教の影響について無関心でした。
そこで私がやらなければと、いままで手を付けていなかったチベット近代史についても研究を広げるようになりました。その結果としていわゆる三大ダライ・ラマ(5世、13世、14世)の研究をコンプリートすることになりました。
――これから書こうと思っていること、しようと思っている研究など、今後のご関心について、お聞かせ下さい。
石濱:コロナ禍の直前、ロシア領内のチベット仏教徒ブリヤート人が、欧米とダライ・ラマ13世をつないでいた、との仮説を実証すべく、ブリヤート共和国での史料調査を予定していました。しかし、コロナ禍により計画は中止となり、続いて起きたウクライナ戦争により史料探索が不可能な状況が続いています。
そこで、日本でもできるテーマということで、二年前から20世紀初頭にチベットに入った日本人、寺本婉雅、矢島保治郎などをチベット仏教界の視点から再検討する研究を始めました。
20世紀初頭、チベットと日本はそれぞれ異なった思惑を持って互いに近づいていくわけですが、この両国の接近については、帝国主義の地政学に基づく思惑や全世界的な仏教復興運動など、より大きな世界史的な要因も働いていました。
これらも含めてなるべく大きな視点から日本とチベットの関係を調べていくつもりです。
――最後に読者、特に若い人に、「これだけは言っておきたい」ということがありましたらお願いします。
石濱:産業革命以後、人間社会はただ快適を求めて行動し続け、その結果として、現在みるような気候危機・戦争・格差などの様々な問題を生み出してきました。
誰の目からみてもこの文明は明らかに行き詰まっています
チベット仏教では、すべての事象は依存し合って存在しているため(仏教用語で「縁起」)、一部で起きたことは良いことも悪いこともすべて全体に波及すると考えます。ロシアがウクライナに侵攻したことによって世界が受けている影響一つみても、これは明らかなことでしょう。
従って、人は、自分(仏教用語で「我」)と、自分や自分の延長にあるもののみに責任を持つのではなく、全体に対して責任を持った行動(仏教用語で「増上意楽」)をとらねばなりません。
ダライ・ラマはまた、幸せとは他者との関わりの中でうまれてくるものであり、他者に対する思いやりは、結局は自分のためになると説いています。これは人間の社会が進むべき道を示していると言えるでしょう。
古い「自分」思考から脱して、「全体」を考える、節度ある行動を社会になじませていけるのは未来ある若い世代です。賢い選択をしてくれることを期待しています。