- 2022 11/17
- 中公新書の60年
人は、思考するだけでなく、思索することができ、さらには思惟することもできる。思索するとき人は、五感で感覚可能なものを超え、意味やイマージュといったものをたよりにしながら「おもい」を深めていく。思索とは「おもい」の深みを索もとめることにほかならない。また、思惟とは「惟」が人間を超えたものを意味するように、形而上の世界へと「おもい」を馳せることを指す。
思考から思惟への旅路の道標になる本はそう多くない。福永光司の『荘子 古代中国の実存主義』(1964年)はその優れた例外の一つだ。福永が描き出す荘子は、いわゆる実存主義者ではない。その領域を超え、あくなき熱情をもって実在、すなわち「単なる物を超えた世界」を探究する。
「物ヲ物タラシムルモノハ物ニハアラザルナリ」、という『荘子』の一節を引きながら、福永は、荘子のような人物にとって「物」は、「物ニハアラザル」ものへと扉にほかならないという。現代人が現実と呼ぶ領域の奥にそれを支えるもう一つの世界が存在する、というのである。
同質のことを心の世界において探究したのが河合隼雄だった。河合はユング派の心理学者、臨床家として知られているが、それは彼の業績の始まりに過ぎない。その核心は「日本人の意識構造」あるいは西洋に対する「東洋の意識構造」の探究にあった。『無意識の構造』(1977年)は、そうした彼の心への態度を端的に示している。
「日本人の意識の構造は明らかに、西洋人のそれと異なっているのだから、無意識の在りかたもそれに従って異なってくるのも当然と思われる」。心理学は、ヨーロッパから始まり、日本にもたらされた。その手法には大きく学ぶところがある。しかし、学説のすべてを受け容れる必要はない。東洋哲学の伝統があるように、東洋の心理学があってよい、むしろ、その実現が急務であると河合は感じていたように思われる。
文字は単なる記号ではない。それは、この世界と「実在の世界」をつなぐ扉である。そう白川静は考えていた。『漢字百話』(1978年)は書名にあるように、文字をめぐる百の小品が収められている。その8番目「名と実体」と題する一文で白川は、文字の本質にふれ、こう語っている。
「すべて名づけられたものはその実体をもつ。文字はこのようにして、実在の世界と不可分の関係において対応する。ことばの形式でなく、ことばの意味する実体そのものの表示にほかならない。ことばにことだまがあるように、文字もまたそのような呪能をもつものであった」。文字は、「物」の姿を象っているというのは真理の一面であり、文字が真に引き受けているのは、外見だけでなく、内実であるというのである。そして、それを読むことは人を「実在の世界」へと導くというのである。