2021 10/01
著者に聞く

『本能―遺伝子に刻まれた驚異の知恵』/小原嘉明インタビュー

生まれたての仔鹿はすぐにプルプルと立ち上がります。歩けなければ敵に襲われて死んでしまうからです。このように、誰にも教わらなくても出来る、生存に必須な行動が「本能」です。これまでは単純な行動だけと思われてきましたが、最近の研究では、もっと高度な行動にも本能が関わっていること、本能がどう引き起こされるかの仕組みなども判明しています。『本能―遺伝子に刻まれた驚異の知恵』を刊行した小原嘉明先生にお話を伺いました。

――そもそも一般的に言われているところの「本能」とは、どういう意味でしょうか。

小原:「動物が生まれつき持っていると考えられる不思議な行動能力」というところでしょうか。科学的に説明が困難な動物の行動が、あいまいなまま「本能」とされることも散見されます。

――その「本能」の、具体的な例としてどんなものがありますか。

小原:渡り鳥がまだ一度も行ったことがない何千キロも遠くの目的地がどちらの方位にあるかを知っているとか、一度も聞いたことがないのにスズムシが種に特有の「リーンリーン」という「歌」を奏でるなど、その例は数えきれません。
本書にもそのような例がたくさん紹介されています。

――それらの「本能」について、これまで生物学の研究は進んでいたのでしょうか。

小原:「本能」についてのまともな研究は、N. ティンバーゲンをはじめとする初期動物行動学者が前線を切り開いた20世紀半ばまでさかのぼります。
しかし、より本格的な研究は、行動生態学や進化生物学が大きく進展したここ40~50年のことです。

――本書で小原先生はなぜ「本能」について見直しをしようと思ったのでしょうか。

小原:動物の行動は、同じ行動でも、経験を通して発達する習得的行動(学習)とされる場合と、経験に依存せず生まれつき可能な行動(生得的行動)とされる場合がある、という致命的な混乱がありました。
その原因は動物の行動が、異なる多くの組織や器官がかかわって構築される「複合的形質」である、という基本的認識が欠けていたからだと思われます。

動物の行動は、外敵や配偶者などの行動の対象を見極める眼や耳などの感覚器官や、その感覚情報を受けて情報を取捨選択する脳などの中枢神経系、しかるべき筋肉をしかるべきタイミングで活動させてしかるべき行動を組み立てる中枢神経系、それらの神経司令を機械的行動として表現する筋組織、また行動の発現に重要な役割を果たす生殖腺などの内分泌系など、多くの組織や器官がかかわって成立する「複合形質」です。

問題はこれらの組織や器官の発生・発達が組織や器官によって異なることです。ある組織や器官は何も経験しなくても(生得的に)発生・発達し、別の組織器官は経験を通して(習得的に)発生・発達します。
この場合、もし前者に注目するならこの行動は生得的に発達する本能行動であり、後者に注目するなら学習を通して発達する習得的行動、ということになります。これはあきらかに矛盾です。

そこで私は「行動=複合形質」という認識に立って本能について再考してみようと思い立ち、本書の執筆に取り掛かりました。

――小原先生の見直しによって、「こんなものも本能に基づく行動だよ」と見なせる行動はありますか。

小原:例えばガンのヒナなどで知られている親の「刷り込み」という特殊な学習がありますが、これも実は「初めて見る動く物体」について回る行動は生得的に決まっていることや、「刷り込み」が起こるタイミング(孵化後の時間)も生得的に決まっているなど、本能と考えられる部分がいくつもあります。
これ以外の試行錯誤学習などの通常の学習を通して発達するとされる行動にも、本能が深くて必須の役割を演じています。

――本能について正しく知ることは、人間にとっても大事ですか。

小原:人間の行動は一般に学習を通して発達するとされます。これは一面事実ではありますが、「行動=複合形質」という観点から改めて見直すと、人間の行動パターンや行動の発現に係わる情緒や感情などは、意外に大きく生得的仕組みに依存していることが分かります。
そのような事実を冷静に顧みることは、人間の適切な行動を考えるのに資すると考えています。

――今後のご関心についてお教えください。

小原:個人的には、本能行動の構築に決定的な役割を演じている、本能の構築に関連する組織や器官、とりわけ中枢神経系の中の行動の組み立てや司令に関係するニューロン、あるいはニューロン回路網の分子遺伝学的・発生進化学的研究がどのような知見を提供してくれるか、それが楽しみです。

小原嘉明(おばら・よしあき)

1942年福島県生まれ.東京農工大学農学部卒業.同大学教授等を経て,現在,尚絅学院大学客員研究員.東京農工大学名誉教授.この間,1997~2005年の9年間,ケンブリッジ大学にてMajerus M. E. N.教授と共同研究.理学博士.専攻・動物行動学.
著書『入門! 進化生物学』(中公新書,2016),『モンシロチョウ――キャベツ畑の動物行動学』(中公新書,2003),『まぼろし色のモンシロチョウ――翅にかくされた進化のなぞ』(福音館書店「たくさんのふしぎ」,2020),『暗闇の釣り師グローワーム』(福音館書店「たくさんのふしぎ」,2015),『アオムシの歩く道』(福音館書店「たくさんのふしぎ」,2013),『進化を飛躍させる新しい主役――モンシロチョウの世界から』(岩波ジュニア新書,2012),『イヴの乳――動物行動学から見た子育ての進化と変遷』(東京書籍,2005),『恋の動物行動学――モテるモテないは,何で決まる?』(日本経済新聞社,2000),『父親の進化――仕組んだ女と仕組まれた男』(講談社,1998),『行動生物学』(培風館,1997),『みつばち家族の大冒険――おどろくべきみつばちの生態』(偕成社,1992),『オスとメス 求愛と生殖行動』(岩波ジュニア新書,1986),『入門 動物の行動』(岩波書店,1986)他.