2021 02/26
著者に聞く

『インドネシア大虐殺』/倉沢愛子インタビュー

9.30事件で殺された将軍たちを祀ったルバンブアヤの記念碑前にて。スハルト政権により、彼らだけが事件の犠牲者だというストーリーが作られ、ジェノサイドのことは覆い隠されてしまった

1960年代後半、インドネシアで二度のクーデターが起こった。事件発生の日付から、前者は9.30事件(1965年9月30日)、後者は3.11政変(1966年3月11日)と呼ばれる。一連の事件に端を発する権力闘争の渦中で大規模な殺戮がおこなわれ、多くの一般市民が残酷な手口で命を奪われた。『インドネシア大虐殺』は、日本ではあまり馴染みない史実を克明に描き出し、話題を呼んだ。戦後アジア史の闇を描く異色の一冊は、いかに生まれたのか。著者に執筆の背景をうかがった。

――研究テーマとしてインドネシアを選んだ理由から、おうかがいできますか。

倉沢:私が大学で卒論を書いたのが1969年、インドネシアでスハルト政権が正式にスタートした翌年でした。同国が西側に与する開発体制へと転換したことにより、日本は政府、企業ともども経済進出を全面的に開始していました。スカルノ大統領夫人だったデヴィ夫人が、政変で夫の国を追われて日本へ戻り、やがてフランスへ逃れていったのもおなじ時期です。急速に日本との関係が密接になっているにもかかわらず、面積から見ても人口から見ても東南アジアで最大の国家であるインドネシアのことは意外と知られておらず、未知であるがゆえに興味をそそられました。

研究を始めてすぐに目を引いたのは、インドネシアの独立記念日が1945年8月17日、つまり日本の敗戦のほんの2日後だったということです。そして、1942年に旧支配者であるオランダを追い出した日本軍が、3年5か月もの間、この国を統治しており、そして日本が戦争に負けたのを契機として、インドネシアの民族主義者たちが直ちに独立を宣言したのだということを知りました。

何が起こっていたのだろう? 日本の戦争がどう絡んでいるのだろう? という疑問が浮かびました。そこで、ともかくまず日本軍の統治の実態が知りたいと思い、研究を始めたのです。当時は詳しいことがほとんど何もわかっていなかったので、農村を中心に住民からの聞き書きを続けました。そうした研究の成果を20年かけて博士論文にまとめました。現在の日本とインドネシアの関係を考えるうえでも、日本による占領の歴史は知っておかねばならない事実です。

――『インドネシア大虐殺』では、1960年代の世界を覆う不穏な空気感が活写されていますね。当時の国際情勢を簡単に教えていただけますか。

倉沢: 第二次大戦終結後、ソヴィエト連邦を一方(東側、社会主義陣営)の領袖とし、アメリカ合衆国をもう一方(西側、自由主義陣営)の領袖として世界的に展開されていた、イデオロギーの違いをめぐる戦争を「冷戦」と呼びます。戦後の世界を二分してきましたが、1989年11月に東西ドイツを隔てていた「ベルリンの壁」が崩壊し、双方の往来が自由になったのを契機として、冷戦は終結したとみなされています。

1960年代は、ひとつでも多くの国を自らの陣営に引き込もうと双方が必死に政策を展開していた時代で、アジアでも壮絶な闘いが繰り広げられていました。両陣営の決めたラインに沿って南北二つの国に分断されていた朝鮮半島やベトナムも、その例です。西側諸国は、ドミノ理論的に共産主義が拡大することを恐れており、アメリカはそうした事態を阻止するために軍隊を派遣して、ベトナムでの内戦に軍事介入したりしていました。

インドネシアについても、350万人の党員を擁し、国会議員や閣僚のポストも得ていたインドネシア共産党(PKI)が、機会をみて政権奪取を試みるのではないかと彼らは考え、何とかしなければならないと案じていました。そのような中で発生したのが、9.30事件です。西側諸国と同じ懸念を共有していたインドネシアの国軍当局は、クーデターの背後には共産主義者がいたとして、直ちに共産党つぶしにかかりました。その過程で、200万人ともいわれる人びとが共産党との関係を疑われて虐殺され、最後には反共勢力が実権を掌握しました。このように、冷戦という国際情勢はアジア各国にも大きな影響を与えていたのです。

――おなじ冷戦下のアジアで起きた出来事でも、たとえばベトナム戦争などにくらべて、インドネシアの惨劇については、あまり知られていないように感じます。真相はどこまで解明されているのでしょうか。

倉沢:インドネシアでは、虐殺事件後に政権を取った反共派のスハルト大統領らが強固な開発独裁体制を確立し、事件の真相を覆い隠してきました。1998年に、30年以上続いたスハルト政権が民主化を求める民衆のパワーの前に倒れ、ようやく風穴が開きます。そして、研究者や人権団体による事件の究明が許されるようになりました。

かなり早い時期から解禁されていたアメリカのCIA等の文書にくわえて、インドネシア政府の1950-60年代の公文書もようやく一部が解禁になったため、科学技術・調査庁から許可を取れば参照できるようになりました。とはいえ、事件の背景についての核心的な記述がふくまれた文書などは見つかっておらず、謎に包まれたままです。

また、政府は真相究明に向けた積極的な動きをほとんどせず、調査・研究は各方面からの大小さまざまな嫌がらせによって、しばしば圧力を受けてきました。唯一、真相究明が必要だと真剣に考えた元大統領のアブドゥルラフマン・ワヒドも、別の理由にかこつけて罷免されてしまいました。ですから、政権サイドも不用意に手を付けられないセンシティブな話題なのです。

私が調査を始めた2000年代初めには、まだ多くの関係者が生存しておられ、証言を得ることもできましたが、今はそのほとんどが鬼籍に入られて、新たな真相究明もあまり期待できない状態といわざるを得ません。

――21世紀の今になっても、インドネシアではジェノサイドに対する歴史的清算が進んでいないのですね。

事件を風化させまいとして元政治犯や遺族たちが合唱団を作り、獄中歌などを通じて訴えている

倉沢: スハルト政権が倒れてからは、政治犯も釈放され、民主化や地方分権化が進んでいるとおおむね評価されています。また、経済も順調に成長しています。そして、以前にくらべれば人権問題にも気を配るようにはなりました。

しかし、現地で暮らしてみるとわかりますが、実際は今も様々な人権侵害や市民的権利の制限がおこなわれています。表向きはイスラーム過激派の活動防止のためと謳っていますが、国のイデオロギー(建国五原則)に従わないものに対しては、非国民であるという評価を容赦なく下しています。そのような中でジェノサイドの歴史的精算が進むはずもありません。

NGOや国家人権委員会が独自に調査して報告書を政府に提出しても、殺害の責任を問われた者もいなければ、名誉回復された政治犯もいません。2015年11月には、非人道的な被害を受けた人や元政治犯が原告となって、1965年の虐殺の責任を問う国際人民法廷がハーグで開催されました。これまでの調査結果が表に出され、インドネシア政府の対応が注目されましたが、結果的に政府は黙殺しました。

――貴重なお話ありがとうございました。今後取り組むご予定の研究テーマについても教えてください。

倉沢:コロナ禍で感染症やワクチン開発などの問題に関心が集まっていますね。インドネシアの歴史の中にも、日本の軍に徴発されていた数百名のインドネシア人労務者が、感染症の予防接種を受けた直後に集団で破傷風を発症して苦しみながら命を落とした、という痛ましい事件がありました。日本占領期、78年前のことです。当時、この事件はインドネシアの医師たちが仕組んだ謀略だと一方的に断定され、その主犯格のモホタル博士が処刑される結果となりました。

私はこの事件に注目して、30年ほど前にインドネシアと日本で調査をおこないました。日本軍の秘密文書も入手して読み込んだのですが、どうやら日本当局が破傷風のワクチン開発に躍起になっていて、その臨床実験のために労務者に集団的に摂取したところ、何らかの手違いが生じて病気を発症させてしまったようだと推定しています。そして、満州での人体事件などで悪名高い大日本帝国陸軍の防疫給水部が裏で関与していた可能性が高いこともわかりました。

しかし、そうした結論がもたらすであろう社会的影響を考えて、反論に十分耐えうるだけの傍証をもうすこし集めたいと考え、出版を控えておりました。その原稿はまだ手元にあります。機が熟したように感じるので、近いうちに世に出したいと考えています。

――最後に、アジアの地域研究を志す若者にメッセージやアドバイスをお願いします。

倉沢:偉そうな言い方に聞こえるかもしれませんが、日本人はアジアと対峙するとき、とかく相手を「発展途上国」と位置づけて、何とかこれらの国々の発展に役立ちたい、という「上から目線」で見てしまうことがしばしばあるように思います。「役に立ちたい」という気持ちの何が悪いのか、と思われるかもしれませんが、その発想の裏には、(先進国の)自分は何か役に立てる、という優越感が潜んでいるように思います。特に、正義感にあふれた若い世代は要注意です。経済的に恵まれた国の人間だからといって、それだけで何かができるようになるわけではないということをまず自覚して、他国へ接近する必要があります。

それからもうひとつ、「役に立つ」という自負と関連していることなのですが、相手国へ行って調査をするときは、「科学の真理の追究のために必要なことをしている」という意識ではなく、「させていただいている」という意識を持っていてください。こういっては元も子もないですが、我々の調査研究なんて、突き詰めていけば結局は知的好奇心やエゴ、業績のためであることが多く、その国にとっては迷惑なことかもしれないのです。そういう自覚が欠落しないよう、常に気をつけていなくてはいけない。

これは後期高齢者と呼ばれる齢になって、私自身ようやく「悟った」教訓です。自戒の念を込めて、若い世代に申し送りしたいと思います。

倉沢愛子(くらさわ・あいこ)

1946年生まれ。東京大学大学院修了。コーネル大学大学院ならびに東京大学にて博士号(ともにインドネシア研究)。摂南大学、名古屋大学教授を経て慶應義塾大学教授、その後名誉教授。専門はインドネシア社会史。『日本占領下のジャワ農村の変容』(草思社、1992年、サントリー学芸賞受賞)、『資源の戦争』(岩波書店、2012年)、『9・30 世界を震撼させた日』(岩波書店、2014年)、『楽園の島と忘れられたジェノサイド』(千倉書房、2020年)ほか、著書多数。