- 2018 10/29
- 著者に聞く

天皇や上皇を支え、朝廷の政治を動かした、「貴族の中の貴族」ともいうべき公卿(くぎょう)。風雅な趣味に興じ、遊んでばかりいたようなイメージとは異なり、彼らは真面目に政務に取り組み、かなり多忙でもあったという。奈良・平安時代から南北朝期まで、公家社会屈指のエリートたちが繰り広げた「会議」の変遷を『公卿会議―論戦する宮廷貴族たち』にまとめた美川圭さんに話を聞いた。
――書名にもある公卿とはどういった人ですか。
美川:おおよそ、三位(さんみ)以上の位をもち、大臣、納言(なごん)、参議といった官職についているトップクラスの貴族のことを言います。人数としては20名弱から多くて30名ぐらいまでで、現代でいえば、内閣の国務大臣といったところです。
――大昔の会議の様子を、後世の我々がうかがい知ることができるものでしょうか。
美川:平安時代以降の貴族たちのなかには、克明な日記をつけている人が多いのです。すべてが現在まで残っているわけではありませんが、自分の子孫が朝廷で立派に仕事ができるように、具体的なことがらを正確に書いてくれているので、研究にはたいへん役に立ちます。もしかすると現代のさまざまな会議の議事録などよりも、内容がよくわかるかもしれません。
――そもそも「会議」に関心を持った理由は。
美川:橋本義彦さんという長年宮内庁書陵部につとめておられた学者が「院評定制について」という鎌倉時代の公卿会議についての優れた論文を書かれています。その論文を学部の卒業論文執筆の際に、ひとつひとつ史料を確認しながら熟読して勉強したことがきっかけです。40年ほど前、鎌倉時代の朝廷なんてテーマで卒論を書こうとする学生は皆無でした。指導教授にもけっこう不思議な目で見られました。でも、人がやらないテーマを研究するのは楽しかったです。
――執筆にあたって苦労した点は。

美川:古代では、中世の貴族の日記のような詳細な記録がありません。とくに平安時代前期に陣定(じんのさだめ)という形式が成立する以前の公卿会議のありかたは、なかなかわかりません。古代史家たちも、のちの儀式の史料を遡及的に使ったりして、ずいぶん苦労しながら研究しています。その難解な内容をわかりやすく書くのはとても大変でした。成功したかどうか、あまり自信はありませんが。
――貴族たちの営みや働きぶりから、現代の我々が学ぶべきことがあるでしょうか。
美川:財務省の公文書書き換えが話題になりました。700~1000年前の貴族たちは、その点ずいぶんまじめに記録を残してくれています。もちろん自分の子孫たちの繁栄という目的ではあったのですが、目的はどうあれ、後世の歴史家として、それは感謝しています。文化的事業にも力を入れていますしね。現在の政治家も官僚も、後世の歴史家に評価されるような仕事をしていただきたいです。
――最後に読者へのメッセージをお願いします。
美川:同じ支配者であれば、殺し合いをもっぱらにしながら世の中を治める武士たちよりも、文学、美術、音楽にも造詣が深く、それらをも巧妙に利用した貴族たちの方に、私はずっと親近感を感じます。中世までの日本はサムライの国だったのだろうか。ぜひそのことをもう一度考えていただきたいです。