2017 12/07
著者に聞く

『大嘗祭―天皇制と日本文化の源流』/工藤隆インタビュー

長江流域の少数民族イ(彝)族の女性(左)と著者 中国四川省美姑(メイグー)大涼山地区の以作(イーヅオ)村にて。(1997年3月17日、撮影・工藤綾子)

『大嘗祭―天皇制と日本文化の源流』を刊行した工藤隆さん。いま話題になっている「大嘗祭」とは、どんな儀式なのか、どのような特徴と歴史があるのか、伺いました。

――大嘗祭とはそもそもどういった儀式でしょうか。

工藤:大嘗祭は、天皇が即位した後に一度だけ行う大規模な新嘗(にいなめ)祭のことです。新天皇は、まず神器(じんぎ)を渡されて践祚(せんそ、即位)し、少しあいだを置いて即位の礼を行い、践祚の半年~1年半後くらいに大嘗祭を行います。新嘗祭は、伊勢神宮のアマテラスオオミカミに新稲を捧げるとともに天皇もそれを食する毎年冬至ごろの祭りでした。

しかし、このような毎年の新嘗祭が、天皇位継承儀礼の一連の流れの最後の部分に組み込まれたのは、600年代末の天武・持統天皇のころだったようです。それ以前のニイナメ儀礼がどのような性格のものだったのかについては、よくわかっていません。『古事記』『日本書紀』の神話や『万葉集』の東歌(あずまうた)などによれば、新嘗祭の主役は〈女〉だったらしく、また東南アジアの水田稲作儀礼の文化人類学的報告によると、やはり稲収穫儀礼の主役は〈女〉でした。これらのことを手がかりに、ニイナメ儀礼の起源に迫っていけば、結果として大嘗祭の起源も見えてくることになるでしょう。

――それでは大嘗祭という祭りの特徴はなんでしょうか。

工藤:「祭り」には、限られた当事者だけがかかわる「秘儀」の部分と、地域の人々も参加して行われる「公開」の部分とがあります。普通、「祭り」というと、御輿担ぎや、山車(だし)の引き回しなど、地域の人々が参加して賑やかに行われる「公開」の部分がイメージされます。しかし、大嘗祭の最も重要な部分は「秘儀」にあたりますので、一般人には公開されません。その「秘儀」の部分は、大嘗祭を進行させている関係者および新天皇しか知ることができません。しかも、大嘗祭が行われる大嘗殿の中での具体的な所作は、天皇自身でさえも口外することが許されません。

そのため私たちは、平安時代の儀式書や、江戸時代に桜町天皇のときに復活した大嘗祭について国学者が書き残して公開した史料(閉門の罰を受けた)などを参考にして、推測するのがせいぜいです。それらによれば、大嘗殿の中では、新天皇は、神社で神主が神に供え物をして拝礼しているのと同じようなことをしていたらしいと推測されます。

しかし、大嘗殿の中には、中央にベッド状のものが置いてあるのですが、伊勢神宮のアマテラスオオミカミの座もあり、天皇はそのアマテラスの座に面して座って供え物を捧げます。このとき、中央のベッド状のものは使用されないのです。
ということは、中央のベッド状のものは、古くからの稲の祭りであるニイナメ儀礼の残影であり、本来は、つまり弥生時代にまでさかのぼれば、稲の神がこのベッドにやって来ていたと考えられます。

600年代末の天武・持統天皇のころに本格的に制度が整えられはじめたと思われる大嘗祭は、伊勢神宮の神事形式を援用しつつも、それとは別に、弥生時代に起源を持つ水田稲作儀礼であるニイナメ儀礼の痕跡も、中央のベッド状のものとして取り込んだと考えられます。その名残りが今でも大嘗祭に残っているのです。

また、大嘗殿内の「秘儀」の直前までの式次第の部分は、ある程度平安時代の儀式書に記述されています。それによると、そのなかで最も重視されているのは稲と、その稲から造られる神酒(みき)と、それらに密接にかかわる「造酒児」(サカツコ、「造酒童女」とも書く)1人を筆頭とする6名の女性たちです。

これらの儀式書から見える大嘗祭は、奈良・平安時代に形式化が進み、また洗練度を高めたものの記録ですから、縄文・弥生時代にまでさかのぼる原型的なニイナメ儀礼からは大きな変質を経ていると思われます。しかし、そのような平安朝大嘗祭でも、特に稲、神酒と、それらにかかわるサカツコを筆頭とする女性たちが重要な存在であったことは、原型的なニイナメ儀礼の残影として重要です。

このように、古いニイナメ儀礼の痕跡を残していることが大嘗祭の大きな特徴だと言えます。

――これまでも大嘗祭についていろいろなアプローチの本が刊行されたと思いますが、本書の特徴はなんでしょうか。

工藤:大嘗祭は、ニイナメ儀礼としての誕生から、天皇位継承儀礼の一角に組み込まれて現代に至るまでの間に、かたちをいろいろと変えてきました。大きく分けると次の4つの段階があったと考えられます。

①大嘗祭の原型(弥生時代のニイナメ儀礼)のあり方
②男王たちが覇権を争った古墳時代のあり方
③600年代末ごろの大嘗祭整備開始期のあり方(初期大嘗祭)
④700年代以後の、式次第が完成して固定化される平安時代のあり方

このうちの①と②の、弥生時代から古墳時代くらいまでのあり方、すなわち大嘗祭の原型を中心に論じているのが本書の特徴です。従来の大嘗祭論は、そのほとんどすべてが④700年代以後の、式次第が完成して固定化された平安時代のあり方を論じるものでした。それは、平安時代の『儀式』『延喜式』という漢文で書かれた儀式書の記述の範囲内での正確さを求めるのが、文献証拠に基づく学問的手法としては堅実かつ安全なものと思われていたからです。

しかし、平安朝の儀式書からは、まず③600年代末ごろの初期大嘗祭の形がわかりません。ましてや、①と②の弥生時代から古墳時代くらいまでのあり方を論じるためには、文字記録がまったくないのですから、文化人類学や日本民俗学の事例を手がかりにして論じていくことが必要になります。

私は、大嘗祭の本質・原型・源に迫るための切り札は、この文化人類学・日本民俗学の報告に基づくモデル理論だと判断しましたので、本書ではそれを、①その原型(弥生時代のニイナメ儀礼)のあり方に迫る部分で活用しました。この点が本書独自の特徴でしょう。

――それでは、そのモデル理論についてくわしくお聞かせ下さい。

工藤:伝統的な国文学の世界では、文化人類学の現地調査報告を取り入れることにとても消極的です。つまり、日本列島の外の地域の民俗資料にまで視界を広げることに消極的です。

しかし、『古事記』『日本書紀』『万葉集』が登場する700年代以前には、仮に弥生時代以来と限定しても千数百年の、無文字文化の時代があったのです。その時代の文化状況がどうなっていたのかを考えるには、特にアジア全域の文化人類学の報告を手がかりにして、日本列島民族の儀礼形態を推測するモデル理論に頼るのは当然のことなのです。

多くの国文学者が傾倒している折口信夫(おりくちしのぶ)を純粋ヤマト文化主義者だと思っている人が多いようですが、実は彼は、柳田国男との対談で「私などの対象になるものは、時代がさかのぼっていくことが多いので、エスノロジーと協力しなければならぬ」(1950年、第二柳田国男対談集『民俗学について』筑摩叢書、1965年)と述べています。

日本の民俗芸能のほとんどは、その始まりは中世か近世です。出雲神楽・備中神楽・高千穂神楽などいわゆる「神代(じんだい)神楽」も、内容こそアメノイワヤト神話など『古事記』に素材をとっていますが、実は中世・近世に始まったものであり、どんなに古く見たとしても平安時代くらいまでしかさかのぼれません。

折口が、新野(にいの)の雪祭り、愛知の花祭り、坂部(さかんべ)の冬祭り、下伊那の霜月祭りといった奥深い山村の祭りに古代的なものを感じ取ったことは有名ですが、実はそれらの祭りが形成されたのは、ヤマト国家が形成されて数百年を経たあとの、中世・近世期でした。

折口自身も、それらでイメージされる古代像よりもっと古い源にまでさかのぼるには、「エスノロジー」(文化人類学=民族学)の報告の助けが必要だと感じていたのです。そこで彼は、沖縄本島、また石垣島など八重山地域にまで足を延ばし、日本本土の内側の祭り・民俗だけをモデルとする限界を突破しようとしました。彼は、大正10年(1921)、大正12年(1923)、昭和10年(1935)の計3回、沖縄を訪問しました。当時の沖縄調査は、時間のかかる船旅であり、現地でも移動や日常生活でかなりの困難があったと思われます。

また折口は、当時は日本領だった台湾にも行きました。しかし、アジア全域の少数民族文化の調査は、国際情勢、交通・通信網の未発達そのほかさまざまな時代の制約があったので、折口は実現できませんでした。もし折口が現代に壮年期を生きていたら、おそらく彼はアジア辺境の少数民族の村にまで足を踏み入れたことでしょう。

現在は、個人でも中国辺境の少数民族の村に民俗調査で入れる時代になりました。航空機、車、通信手段が発達し、また日本の経済力伸長のおかげで調査経費の工面も楽になりました。今や、日本の古代文学を始原から考えようとする発生論的古代像は、折口が時代の制約ゆえに実現できなかったこと、つまり「エスノロジーと協力」することで得られる、より高度な水準を目指す段階に入りました。

私も折口と同じように、日本国内の民俗行事を見歩いたのち、石垣島・西表島も含めて、沖縄全域の祭りを訪問しました。そのようななかで、沖縄の先の長江(揚子江)流域に、原型的な文化を伝えている多数の民族が存在することを知り、1994年以来、中国雲南省を中心としてアジア各地の少数民族文化の現地調査に踏み出しました。これらの調査からは、日々の生活と密着し祭式のなかで歌われている“生きている神話”の実例や、実際に配偶者や恋人を得るという実用の目的で行われている“生きている歌垣”にも触れることができました。それらの素材をモデルにして、『古事記』の古層や、歌垣の原型を想定できたのです。

――そのような研究をされてきたなかで、とくに本書執筆にさいしての御苦労がありましたらお聞かせ下さい。

工藤:このように、20年以上にわたる少数民族文化の調査から、大嘗祭の原型をとらえようとしたのですが、ここで本当の意味での「執筆の苦労」が登場しました。というのは、日本列島に流入したジャポニカ米や水田稲作技術の源が長江以南地域だとはわかったのですが、肝腎のその地域の少数民族の稲作儀礼に、〈女〉が主役の水田稲作儀礼の典型的な事例が残っていなかったからです。『古事記』『日本書紀』『万葉集』などの伝承や、また東南アジアの水田稲作儀礼のように、主役を〈女〉が務める稲収穫儀礼の実例に出会えなかったのです。ハニ族のように、田から稲を刈り取ってきて家の中の先祖棚に供えるところまではその家の主婦が務めていても、そのあとの宴席となると男戸主が主役になってしまうのです。

そこで、女性原理濃厚な長江以南地域の在来の文化に、北方から南下してきた男性原理の漢族文化が重なって、〈女〉が主役の前段と〈男〉が主役の後段という二重構成になったという分析にたどり着きました。そうすると、日本古代の弥生時代にもすでに、縄文時代以来の女性原理が濃厚な基盤の上に、男性原理が濃厚な文化が重なったと考えることができました。のちの大嘗祭においても、前段は女性であるサカツコが主役、後段の大嘗殿の中では原則として男性である天皇が主役という二段構成になっていることも、同じような意味であると理解してよいのでしょう。

――日本古代の文化も、二重構成になっていたのですね。

サミュエル・ハンチントンが、世界をキリスト教圏、イスラム教圏、東方正教圏(ロシア)、仏教圏、中国、そして日本と分けたうえで、「文化と文明の観点からすると、日本は孤立した国家である」と述べています(『文明の衝突と21世紀の日本』集英社新書、2000年)。また同書で、「日本が特徴的なのは、最初に近代化に成功した最も重要な非西欧の国家でありながら、西欧化しなかったという点である」とも述べています。

日本がそのような位置づけになったのは、私は、日本文化の基層が長江以南地域の少数民族文化と共通しているからだと考えています。これらの少数民族文化には、以下のような3つの特徴があります。

まず、その宗教は、教祖、教典、教義、教団、布教活動の揃った本格宗教でなく、自然と密着した精霊信仰(アニミズム)とそれを基盤にした原始呪術(シャーマニズム)が中心になっていることです。仮に本格宗教が流入しても、アニミズム、シャーマニズムの側に引き寄せて変形させてしまっています。

第二に、その少数民族の持つ世界観が、自然と密着したアニミズム、シャーマニズムを背景にした神話世界を中心に据えていることです。

第三に、その集団・民族は、〈国家〉樹立を目指さず、仮に〈国家〉らしきものを作っても弱小であることです。

長江以南の少数民族文化は、国家を作らず、あるいは作ったとしても弱小であっただけでなく陸続きでもあったために漢族の侵攻によって国家を維持することが出来ませんでした。いっぽうで古代日本は、大陸とのあいだに海の防護壁があったおかげで、大陸国家からの直接の侵略を受けませんでした。しかし、国家の樹立や運営の実用的かつリアリズム型の知識だけはその大陸国家から学ぶことができました。その結果、それらとは逆方向の、もともと持っていたアニミズム・シャーマニズム・神話的世界観や、歌垣文化圏の恋歌文化といった文化資質も濃厚に残すことになったのです。

日本は、この、リアリズム型の知識と、それとは逆の方向性の文化資質を抱え込んで、およそ1400年間、〈国家〉としての体裁を維持して21世紀の現代にまで至っています。このとき、アニミズム・シャーマニズム・神話的世界観や、歌垣文化圏の恋歌文化といった文化資質は、ほとんどDNAのように現代日本文化の基層として生き続けています。この点が、「西欧化しなかった」(ハンチントン)という指摘の意味でしょう。

――来たるべき次代の大嘗祭にさいして、わたしたちはどういったところに注目するとよいでしょうか。

工藤:1868年の明治新政府の登場によって、日本の社会制度には大きな変化が生じました。天皇制については、「大日本帝国憲法」が「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」としたように、天武天皇のように武力王でもあった初期天皇制の時代に歴史を逆戻しする一方で、天皇の呪術王的側面では、女性神職を廃止するなど卑弥呼以来の女性性の部分は排除しました。明治天皇には、富国強兵政策のなかで、武力王・軍事王の姿が求められたのです。そのような潮流のなかで、それまで重要視されていたサカツコという童女も明治天皇の大嘗祭では廃止され、大正・昭和・平成の大嘗祭でも復活しませんでした。

しかし、このサカツコは、『古事記』『日本書紀』神話の中でニイナメ儀礼を行っているアマテラスオオミカミやカムアタカシツヒメ(どちらも女神)、巫術の女王卑弥呼、そして、長江以南アジアの〈女〉が主役の水田稲作儀礼などの残影と考えてよい存在です。簡略化された形ででもよいですから、次回の大嘗祭ではサカツコの復活を望みたいと思います。

もう一つ、大嘗祭の行われる旧暦11月下旬は、新暦では冬至のころにあたります。この時期は、季節的な衰弱・仮死の冬から復活し、春を引き寄せようとする鎮魂祭が行われる時期でもありました。この自然界の生命力復活の祭祀に、収穫された稲(稲の仮の死)からの翌年の稲の子の誕生の儀礼が重ね合わされ、そこにさらに新天皇復活の祭祀が重なって、大嘗祭が形成されたのでしょう。

ということは、この祭りは冬至のころすなわち新暦では12月下旬に行われないと、自然界の生命力復活という大きな呪的目的が見えにくくなるのです。旧暦の11月を新暦の11月にそのまま移したために、季節感に1か月余のズレが出てしまったのです。
ということで、できるならば、大嘗祭の期日を新暦の12月下旬(冬至のころ)に移すとよいのです。それができないのならば、想像力で、きょうは実は太陽の力が最も弱まる冬至のころで、暗くて寒い冬の極みなのだと時間をずらして、大嘗祭の報道に接するとよいでしょう。

――最後に若い人たちへのメッセージがありましたらお聞かせください。

工藤:21世紀の日本にも、その基層には、アニミズム・シャーマニズム・神話的世界観や、歌垣文化圏の恋歌文化といった文化資質が、濃厚に生き続けています。このような文化資質は、西欧的な近代化を基準とすれば、“後れた文化”という印象を受けるでしょう。しかし、西欧的近代化には大きな副作用があります。その最大のものが自然破壊です。

1700年代のイギリスでの産業革命以後、資本主義経済が地球規模に広がり、21世紀の現在では、発展途上国を含めて全世界でGDP(国内総生産)を競い合う時代になりました。地球環境の汚染と、地球財の消尽が加速度的な勢いで進行しています。そのうえ、核兵器や原子力発電所の登場によって、地球の生活環境の全体が一気に崩壊に向かう可能性さえ見えてきました。
このようなときにこそ、日本の基層文化であるアニミズム系文化が、そのような生存環境崩壊の流れに対して、ブレーキ役を果たすでしょう。アニミズム系文化には、自然と共に生きる思想があります。生態系を重視するエコロジー思想とも通じていますし、またアニミズム系文化の節度ある欲望の感覚は、「GDPはほどほどに」という抑制された生産・経済活動の可能性を示唆するでしょう。

またアニミズム系文化は、近代合理主義が取りこぼしがちな人間存在の曖昧領域を許容し、寛容さを示す心性も持っています。また神話が示す世界は、人々の空想力を豊かに展開させてくれますし、恋歌文化の伝統は、潤いのある感性を育てます。そして、縄文文化に典型的なように、女性原理が強いので平和志向も強いのです。
そのうえ、日本文化には、島国文化・ムラ社会性という特性もあり、そこには、人と人の和をたいせつにする助け合い精神や寛容の精神のような得がたい美徳があります。

ただし、これらの文化資質は、近代合理主義を基準とすれば、たしかに国際政治の現場などにおいて現実的思考を取りにくいという側面もあります。そこで、近代合理主義の側のリアリズム的思考もしっかり取り入れて、その弱点を補う必要はあります。
日本は、古代に、〈国家〉を目指さない少数民族文化の特徴を持っていたにもかかわらず〈国家〉を樹立し、それを21世紀の現代にまで維持してきています。古代国家形成期の経験を生かして、明治期の近代化にも成功しました。したがって、その歴史体験から得られた知恵も動員して、今後とも、アニミズム系文化の伝統と近代文明を融合させるべく、模索を続けていくことが必要です。

最後に付け加えます。私が20歳のころ(1962年)は、まだ1945年までの、軍国主義ファシズムと結びついた天皇制に対する嫌悪感が、教養人一般の感情に強く残っていました。その結果、天皇存在そのものはもちろん、天皇と密接な関係を持つ『古事記』や伊勢神宮に対しても同じような反感と違和感をいだく教養人が多かったのです。

しかし、敗戦後の新憲法で、天皇から武力王(軍事王)・政治王としての側面が除かれました。残ったのは、アニミズム系の祭祀・行事・和歌などの継承者としての文化王的側面です。したがって、敗戦後72年を経た現在では、天皇・『古事記』・伊勢神宮に親しみを感じることが、そのまま右翼的な国粋主義思想や、偏狭な愛国主義に向かうのではない道が見えてきています。アニミズム系文化を継承しているそれらは、エコロジー思想にも通じる、地球規模の文化遺産としての普遍性を持っています。そのような文化特質が、かなりの高水準で達成されつつある西欧的近代化と併存している点にこそ、21世紀日本の独自性があるのです。

最近、若い人たちが、伊勢神宮など神域とされるようなところを指して「パワースポット」と言ったりしているようです。それは、それらの地域に凝縮されている、縄文・弥生時代以来の、人間生存の原型的生命力のようなものを感受しているからでしょう。私たち人間の生存の原点を見つめようとしているという意味で、それはとてもよいことです。ただし、その感性を過剰な神秘主義や偏狭な愛国主義に向かわせないような、心のしなやかさを持ち続けてほしいと思います。

工藤隆(くどう・たかし)

1942年,栃木県生まれ.東京大学経済学部卒業,早稲田大学大学院文学研究科修士課程修了,同博士課程単位取得退学.大東文化大学文学部日本文学科教員を経て,現在,同大学名誉教授.専攻,日本古代文学.1995年4月~96年3月,中国雲南省雲南民族学院・雲南省民族研究所客員研究員.
主著『古事記の起源』(中公新書,2006),『古事記誕生』(同,2012),『日本芸能の始原的研究』(三一書房,1981),『大嘗祭の始原』(同,1990),『ヤマト少数民族文化論』(大修館書店,1999),『歌垣と神話をさかのぼる』(新典社,1999),『中国少数民族歌垣調査全記録1998』(共著,大修館書店,2000),『中国少数民族と日本文化』(勉誠出版,2002),『四川省大涼山イ族創世神話調査全記録』(大修館書店,2003),『歌垣の世界』(勉誠出版,2015.第33回志田延義賞受賞)ほか