2017 07/18
著者に聞く

『ミルクと日本人』/武田尚子インタビュー

ミルクで乾杯をする著者(右)

近代の日本社会でミルクはどのように受容され、普及していったのか。多様な資料を駆使し、綿密かつ実証的にそのプロセスを明らかにした『ミルクと日本人――近代社会の「元気の源」』。ユニークな切り口で近代社会を描いた着想の原点について著者の武田尚子さんに聞いた。

――はじめに、前著(『チョコレートの世界史』中公新書)でチョコレートを切り口に近代社会について記した武田さんが、今回はミルクを切り口にしたのはなぜですか?

武田:『チョコレートの世界史』の後半で、「キットカット」を製造していたイギリスのチョコレート企業ロウントリー社の資料を使ったのですが、そのなかにコンデンスミルクの製造実験を繰り返している資料がありました。カカオ豆の加工と、ミルクの加工の技術力を高めることが同じ時期に行われていたことにまず興味をもちました。

私の専門分野は社会学で、近現代社会の集団・組織をおもな分析対象としますが、「加工」という段階が入ると、社会学的には俄然おもしろくなります。つまり、原料(第一次産品)生産だけの話よりも、「加工」が入ったほうが、組織が複雑になり、機械導入などをめぐって集団間で葛藤や調整が生じます。

カカオ豆で「加工」を分析するおもしろさにはまっていたので、同時期に加工技術が進んでいたミルクについても掘り下げたいとずっと考えていました。「加工」が入ると、関係するアクターが増えて、社会構造の分析が重層的になるのです。

――日本のミルクを対象にしたのは、どうしてでしょうか?

武田:執筆の動機はいろいろあって、これも話せば長くなるので、バッサリはしょって言うと、私の研究テーマは近代社会の変容プロセスを追究することですが、以前から気になっていた資料に、東京市社会局発行の『牛乳のすすめ』がありました。関東大震災後に社会政策的視点から貧困層に牛乳が届く方法を議論しているものです。

ロウントリー社の資料のなかにも、病気欠勤率が高い従業員に牛乳を支給している記録がありました。おもに10代の身体虚弱な女性労働者です。栄養不良→病気→欠勤→退職→貧困という悪循環に陥ることを防ぐための手段です。欧米でも貧困層になることを未然に防ぐためミルクをつかっていることに興味をもちました。

ミルクを掘り下げるなら、このような貧困対策の視点を組み込んだものを書きたいと思っていたのです。『牛乳のすすめ』のことが頭の片隅にあったので、ロウントリー社の資料でもミルクの記事に関心をもったのかもしれません。着想の原点は日本の『牛乳のすすめ』、構想を深めるアイデアはロウントリー社のミルク資料といえます。

――執筆中に印象深かった出来事やエピソードがあれば、お聞かせください。

武田:ミルクの関連資料を求めて、あちこちのアーカイブや個人所蔵の資料を見に足を運びました。札幌の雪印メグミルク酪農と乳の歴史館で、特別のはからいで一瀬幸三寄贈資料を見せていただき、色とりどりの鮮やかな牛乳の引き札(チラシ)を目にしたときは驚きました。多くの方に紹介したいと思い、先人の努力の賜物を受け継いで、この本が出来ました。

渋沢栄一たちが箱根仙石原にひらいた耕牧舎資料の一部は、そのあとを継いだ箱根温泉供給会社にいまも所蔵されています。箱根の大涌谷の噴火がおさまり、会社が落ち着いてから、資料を見にうかがいました。耕牧舎で使っていた牛乳配達用の木箱が現存していて、感動しました。

――この本を書いたことにより、武田さん御自身が新たに発見したことなどありますか?

武田:私がおもしろいなと思ったのは、この本を読んでくださった方々が、それぞれの「ミルク」「牛乳」の記憶を語ってくださることです。多くは子どもの頃の体験です。「ミルク」が子どもの世界と密接に関連していることに改めて興味を持ちました。

ミルクや牛乳について多くの人が何かしら語る思い出があるというのは、社会学的に興味深いことで、ミルクが同時代人の共通体験、集合的記憶のアイテムになっていることを意味します。大人になると牛乳をあまり飲まなくなる人もいるので、子どもの頃の学校給食が現代日本人の共通体験を生み出す基盤として重要な役割を果たしているのかもしれませんね。

――今後の研究についてお聞かせください。

武田:近現代社会の変動プロセスを、地域の空間構造、産業構造、階層構造、生活構造、文化体系などの面から社会学的方法で明らかにするのが私の研究テーマで、近代東京の物流の変化とそれに関わった労働者をテーマにした本がまもなく出版されます。具体的には荷車の改造によって物流に変革が生じ、後ろから荷車を押す「立ちん坊」が近代東京で人の目をひいたことを書きました。(『荷車と立ちん坊――近代都市東京の物流と労働』として吉川弘文館から8月25日に刊行予定)

武田尚子(たけだ・なおこ)

早稲田大学人間科学学術院教授。お茶の水女子大学文教育学部卒業。2000年、東京都立大学大学院社会科学研究科修了、博士(社会学)。武蔵大学教授などを経て、2013年より現職。専門は都市社会学、地域社会学。著書に『チョコレートの世界史』(中公新書)、『海の道の三〇〇年』(河出書房新社)、『もんじゃの社会史』(青弓社)、『マニラへ渡った瀬戸内漁民』(御茶の水書房)、『20世紀イギリスの都市労働者と生活』(ミネルヴァ書房)などがある。