新もぐら伝 ~狼~第9回
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YHエデュケーションの本社は渋谷にあった。道玄坂(どうげんざか)を国道246号線に向かって上り、道玄坂上交番前の交差点を左へ曲がり、二十メートルほど進んだところにある四階建ての低いビルの最上階フロアが本社オフィスだ。
二階と三階のフロアも借りている。そこでは、留学生の講習を行なったり、保護者に対する説明会を開いたりしている。
一階には以前、文具店が入っていたが、少子化と不況のあおりを受け、今は空き店舗となっている。
賃貸物件ながら、実質、YHエデュケーションの占有ビルとなっていた。
吉野仁美(よしのひとみ)がオープンフロアの一番奥にある社長の席でスケジュール確認をしていると、すらりとした長身の肉体にタイトなスーツを身に着けた男が近づいてきた。
「社長、ちょっといいですか?」
男は仁美に声をかけた。
仁美は男に笑顔を向け、立ち上がった。事務作業をしている近くの女性社員に声をかける。
「茜(あかね)ちゃん、ちょっと打ち合わせしてくるから、緊急の連絡があったら、スマホによろしく」
「承知しました」
茜と呼ばれた若い女性は、笑顔で返した。
仁美は笑顔を崩さず、オフィスを出て、男と一緒にエレベーターに乗り込んだ。三階フロアに降り、留学生研修をしている大会議室を横切り、その奥にある応接室に入った。
十畳ほどのこぢんまりとした部屋に、ソファーとガラステーブルが置かれている。
クライアントと大事な打ち合わせをする時や、留学希望の親子と密な話をする時などにこの部屋を使う。
テーブルとソファー以外には何もない。が、ソファーとテーブルは高級なものにしている。
シンプルに見せつつ、金持ちの客が来た時にも恥ずかしくないよう、配慮していた。
仁美に続いて、男が入ってドアを閉めた。
とたん、仁美の顔から笑みが消えた。
向かって左手のソファーの真ん中に座り、脚を組む。
男は右側のソファーに腰を下ろした。
「どうだった?」
「やはり、狼のようですね」
男が答えた。
柴原稔(しばはらみのる)という三十五歳の男で、元ホストだ。長身で彫りの深い顔立ちをしていて、なかなかのイケメンなのだが、強引さがないためか、店でナンバー1を取れずにいた。
仁美は、柴原が在籍していた店に通っていた。
ホストクラブでは、最初に指名したホストがその客の担当となり、接客することになる。よほどのことがない限り、一度担当となったホストを替えることはない。
仁美は他の女性とは違い、そこそこの金額で店を楽しむ客だった。いわゆる〝太客〟ではないため、担当ホストに深く入れ込むことはなく、通う店もコロコロと替わった。
彼らもげんきんなもので、あの手この手で仁美から金を引き出そうとするが、ケチでもなければなびきもしないただの客だとわかると、売り上げにならないと見限り、仁美の方から断わるよう、ぞんざいに扱った。
仁美もそうしたホストは切った。
そんな中、不器用ながら、仁美がただの客とわかっても丁寧に接待してくれたのが柴原だった。
仁美はYHエデュケーションを立ち上げる際、スタッフとして働かないかと柴原を誘った。
柴原は、店でナンバー1を取らない限り、やめられないと返した。
不器用でホストらしからぬ生真面目なところを持ち合わせているが、そこそこの向上心もある。
仁美はナンバー1を取らせるから、部下になれと言った。
柴原も三十歳を超え、ホストを続けていくにはきつい年齢となっていた。
仁美の申し出を受け入れた。
その月、仁美は連日通っては一日に数百万、時に一千万円を使い、約束通り、柴原をナンバー1に押し上げた。
その三カ月後、柴原はホストをやめ、YHエデュケーションの設立スタッフとして、仁美の下についた。
柴原の主な役目は、傘下に収めた留学エージェントの管理だった。
仁美の会社では、留学希望者を一度本社で一括登録させ、そこから傘下のエージェントに振り分けている。
ほとんどは適材適所、規模や希望する留学先、留学形態に応じて振り分けているので問題はないが、たまに文句を言ってくる傘下のエージェントがいる。
自分のところに高額の留学生が回って来ない。他より数が少ない。短期ばかりを回される、など。
そうした苦情が出た場合、柴原が傘下のエージェントに出向いて話をまとめてくる。
柴原は相手の話を聞くのがうまい。相手がどんなに無理難題を突き付けてきても、怒ることなく最後まで話を聞き、折衷(せっちゅう)案を提示する。
折衷案といっても、ほとんどの場合、本社が決めた方針のままだ。それをいかにも譲歩したように話を持っていき、まとめてしまう交渉力がある。
それは、柴原がホスト時代から、ずっと見てきた。
どのホストも女性客とトラブルを起こす中、柴原は担当した女性とただの一度も揉めたことがなかった。
人の懐に入るのが上手で、殺さない程度の金額と絶妙な距離感で、客を転がしていたからだ。仁美は柴原の人たらしの手腕を認めていた。
留学生がごねた時にも、柴原の交渉力は活かされた。留学生自身はもちろん、その両親も見事に丸め込んでしまう。
大きな交渉事は不得手だが、YHエデュケーションには欠かせない戦力だった。
今回、傘下にいたヤングツアラーが何者かに潰された。
柴原はその件を調べていた。
「その情報、間違いないの?」
仁美が訊く。
「現場にいた女の子を見つけて、話を聞いてきました。おそらく、間違いありません」
「困ったねえ......」
仁美はソファーの肘掛けを握った。
YHエデュケーションの傘下には、二種類あった。
一つは通常の留学エージェント。留学希望者の渡航先の選定から申請書類作成の手伝い、渡航後のサポートまでを引き受ける〝表〟の業務を行なっているところだ。
もう一つは、留学という名目で海外の売春組織に女性を送り込む、〝裏〟の業務を行なうエージェント。こちらは傘下と言いつつ、YHエデュケーションの提携先リストには記載していない。
万が一、警察当局に傘下が踏み込まれた場合でも、つながりを否定するためだ。
本社従業員の中でも、通常業務に従事している社員はその事実を知らない。
裏稼業を知る者は少ない方がいい。
「米光(よねみつ)や梨々花(りりか)には会えた?」
「いえ、入院していますが、警察病院の個室に入れられ、ドア口には警察官がいるようなので」
「完全にクロ扱いされてるってことね」
仁美はため息をついた。
「ヤングツアラーの関係書類はすぐに処分しておいて」
「承知しました」
柴原が頭を軽く下げる。
「で、狼に関する情報はないの?」
「細身の若い男だというのはわかっていますが、それ以上のことはまだ......」
「ほんと、狼だか何だか知らないけど、迷惑な話。うちの傘下でもう三社やられてるのよ。もっと狙い撃ちされたら、先方との取引も難しくなる。今でさえ、用意できなかった分を払えと言ってきてる。まだなんとかできてるけど、これ以上、女の子を送り込めなくなったら、取引停止もありうるわ」
仁美は肘掛けに拳を叩きつけた。
「ただ、狼の件なんですが」
「何?」
「現場にいた女の子によると、正体を知っていそうな子がいたというんですよ」
「誰よ、それ」
「鎌田希美という女です。ヤングツアラーが襲われた翌日、シンガポールに送り込む予定だったブツです。ヤングツアラーの渡航者名簿に名前がありました」
「その子は今どこに?」
「行方知れずだそうです」
柴原が言うと、仁美は胸下で腕を組んだ。右の前腕を起こし、宙を睨みながら親指の爪を噛む。
「捜せそう?」
「一応、鎌田希美が渡航前に暮らしていたマンション、実家や両親の住まいは調べていますが」
柴原が言うと、仁美は組んだ脚を解き、柴原を見据えた。
「わかった。こっちの業務はいいから、その鎌田希美って女の子を捜して、狼の情報を集めてちょうだい。そして、狼の正体を突き止めて」
「わかりました。では、ヤングツアラーのデータを処分してすぐ、捜索にかかります」
柴原は立ち上がって一礼し、応接室を出た。
仁美は閉まるドアを睨む。
「待ってなさい。狼狩りよ」
そうつぶやき、口辺に笑みを滲ませた。
Synopsisあらすじ
伝説のトラブルシューター「もぐら」影野竜司の血を引く竜星は、自らを見つめ直す旅に出た。
だがその後ふいに消息を絶ち、安否不明となっていた。
同じ頃、裏社会ではある噂が知られるようになる。
リュカントロプル(狼男)が違法売春組織を襲撃、
構成員を半殺しにし、女性を掠っていくという――。
最強のハードバイオレンス・アクション
新たなる「もぐら」伝説、ここに開幕!
Profile著者紹介
1964年兵庫県生まれ。文芸誌編集などを経て、小説家へ転向。「もぐら」シリーズ(小社刊)が120万部を突破した。他の著書に「リンクス」シリーズ、「D1」シリーズ、「ACT」シリーズ、「警視庁公安0課 カミカゼ」シリーズ、『死してなお』『紅い塔』『AIO民間刑務所』などがある。
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- 第9回2025.01.13