新もぐら伝 ~狼~第2回
第1章
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成田空港近くにある二階建ての一戸建て一階のリビングルームに、米光健吾(よねみつけんご)とその仲間の男女が七人、詰めていた。
全員スーツ姿だが、サラリーマンといった風情ではない。起業家や投資家の集まりという雰囲気だった。
二階には部屋が三つあり、一部屋に二人ずつ、女性が泊まっている。歳の頃は、十八歳から二十四歳。六人は、明日の早朝出発のシンガポール行きの飛行機に搭乗する予定だった。
一人の女性が二階から降りてきた。梨々花(りりか)という名前の女性で、ウエーブのかかった栗色の髪をなびかせ、タイトなスーツに包まれた腰を揺らしながら、米光のところへ戻ってきた。
米光の右手にある一人掛けソファーに腰かけ、脚を組んで、ふうっと息をつく。
「どうだった?」
米光が訊いた。
「ちょっとまずいわね」
梨々花は電子タバコを取って、ホルダーにスティックを挿入した。加熱されたスティックのフィルターを唇に包み、蒸気を吸い込み、吐き出す。
薄い白煙が少し宙を舞って、消えた。
「誰が騒いでんだ」
「鎌田希美(かまたのぞみ)って子。現地の受け入れはどうなってるんだとか、バイト先の斡旋(あっせん)業者から詳細が届かないだとか、まああれこれと細かくて。それが同室の子から、他の部屋の子にも伝播(でんぱ)してしまって、他の子たちもあれこれ不安を口にするようになってる」
梨々花がタバコを吹かす。
「シメてきましょうか?」
男の一人が言う。
「やめときなよ。一晩乗り切って、飛行機に乗せてしまえばいいだけだから」
梨々花は男を見上げた。
「とにかく、騒ぎになるのが一番面倒。君たちは、彼女たちが逃げ出さないよう、出入口と外を見張っててくれればいい」
梨々花が言う。
男は米光を見た。米光がうなずく。男はうなずき返して、他の男たちを見た。男たちは全員が首肯(しゅこう)して、部屋を出て行った。
梨々花以外の女二人は、階段下のエントランスとキッチンに向かった。エントランスにいる女は、二階から降りてきた女性たちの監視役、キッチンの女は監視に加え、凶器を持たせないために包丁などを管理する役割もある。
「どうする?」
二人になり、米光が訊いた。
「またあとで様子を見てくるわ。朝までちょこちょこ見に行けば、どこかで寝るでしょう。寝なくても、一睡もしていなければ、逃げる気力もなくなる」
梨々花が笑い、壁にかかった時計を見た。
午前零時を回ったところ。あと八時間ほどで、女性たちをシンガポールへ送り出せる。
梨々花は米光と組んで、ワーキングホリデーのエージェント会社を経営していた。
ワーキングホリデーという名目は間違っていない。応募してきた女性を現地に送り、語学学校に通わせ、仕事も斡旋している。
だが、問題は〝斡旋される仕事〟だった。
梨々花たちの会社では、応募してきた女性には〝飲食店の仕事〟と紹介している。しかし実態は夜の街の仕事で、ほとんどの者が風俗で働かされることになる。
梨々花が米光たちにワーキングホリデーの会社の設立を持ち掛けたのは三年前のこと。梨々花自身が、借金を相殺(そうさい)するために外国へ売られたことがきっかけだった。
初めは悲しくて、悔しくて、いっそのこと死んでやろうと思ったこともあったが、何度か客を取ると抵抗感もなくなり、容姿がよかったこともあって、借金はみるみるなくなっていった。
帰国した梨々花は、これは商売になると思い、かつて、地元で遊びまわっていた時の仲間である米光に声をかけた。
米光は腕っぷしだけが自慢の、半グレのような男だった。梨々花が声をかけた時も、大した仕事はしていなくて、金欠でフラフラしている状況だった。
米光はすぐ梨々花の話に乗った。
米光は、国内外でトラブルが起こった時の処理を任されていた。梨々花が設立した会社では副社長の肩書をもらっている。
米光は逃げようとした女性を監禁したり、内情を暴露しようとした女性を脅したりしていた。
また、外国の仲介者が金をちょろまかしたり、逃げたりしたときは、海外にまで出向いて、相手を追い込んだ。
梨々花と米光の名前は、裏の同業者の間では少し知られるようになり、小規模な会社や個人が買収や入社を持ち掛けてきたり、現地での交渉がスムーズになったりと、東南アジア圏ではネットワークを築きつつあった。
「ねえ、健吾。ちょっと別の話なんだけどさあ」
「なんだ?」
米光は下卑た目で、梨々花の体を舐めるように見やった。
「つまんないモノ、おっ勃てんじゃないよ」
梨々花が冷ややかに見返した。
米光は舌打ちし、脚を組んで、体を横に傾けた。
「あんた、リュカントロプルって聞いたことある?」
「なんだ、そりゃ?」
米光が首を傾げた。
「ラテン語なんだけど、日本語では狼男とか人狼って意味」
「狼人間の話か? なんだよ、いきなり。ホラー話には興味ねえぞ」
米光は不機嫌そうに眉を上げる。
「ホラーみたいな話だけど、そうじゃないのよ。私らの同業者から、ちょっと妙な噂を聞いてね」
「噂?」
米光が訊き返すと、梨々花はうなずいた。
「私らみたいに女の子を集めているところを急襲して、女の子をさらっていくヤツがいるらしい」
「商売敵か?」
「だったらいいんだけど、そうじゃなくてさ。女の子たちはどこかに消えたまま。女の子たちを監禁していた人たちは半殺しにされて、精神に異常をきたした者もいる。生き残った連中に話を聞くと、たった一匹の狼人間に襲われた、と」
梨々花が真顔で言う。
米光も一瞬真顔になったが、すぐに笑いだした。
「そりゃ、おまえ。敵にやられた連中が錯乱して、適当なこと言ってんじゃねえのか?」
「だったらいいんだけど、ちょっと気になってね......」
「何を気にしてるんだ?」
「都市伝説かと思ったんだけど、同じ仕事をしてた私の知り合いも、知らない間に消えちゃったのよ」
「ヤバくて逃げたんじゃねえか?」
「それなら、どこからか噂が聞こえてくるはずなんだけどね」
「気にしすぎだって。どこかのバカが、自分たちがやられたのを隠すのに、つまらねえ嘘を──」
話していると、玄関から突然、けたたましい音が響いた。
米光と梨々花はびくっとして、上体を起こした。
「何......?」
梨々花がドアの向こうを見つめる。
米光が立ち上がった。ソファーを回り込み、玄関へ向かおうとする。
その時、リビングのドアが飛んできた。米光は両腕で顔面をカバーして顔を伏せ、背を丸めた。
重い何かが転がる音がした。足に何かが当たる。米光は足元を見た。
目を見開いた。玄関を見張らせていた仲間だった。
鼻の頭が顔にめり込んでいた。口元は血まみれになり、白目を剥いて、痙攣(けいれん)している。
バキッとガラスを踏む音がした。
米光はガードを解いて、顔を起こした。
ドアの向こうに男が立っていた。大きめの苔色(こけいろ)のくすんだパーカーを着て、ジーンズを穿(は)いている。フードを深く被り、少し顔をうつむけているので、はっきりと顔は見えないが、全身からは鳥肌が立つほどの殺気が漂っていた。
「てめえ......何者だ?」
米光は拳を軽く握った。
男は問いには答えず、口を開いた。
「おまえがヤングツアラーの社長か?」
ヤングツアラーというのは、米光が副社長を務める会社の名前だった。
「だったら、どうだってんだ?」
米光は顎を上げ、男を見下ろした。
「嘘つけ。ヤングツアラーの社長は女性だろう?」
男が少し顔を上げた。フードの奥にある両眼が米光の背後に座っている梨々花に向く。
「社長に用がある。関係ないなら、おとなしくしてろ」
男は梨々花を見据えたまま、歩きだした。
米光の前を過ぎようとする。
「こら、待て」
米光がフードをつかんだ。
男の膝が少し曲がり、体がかすかに沈んだ。その膝が伸びた瞬間、米光の体が大きく舞い上がった。
顎(あご)を撥ね上げ、血をまき散らしながら、海老(えび)のように仰け反る。
男の右腕が天を突くように伸びていた。
梨々花はあんぐりと口を開けた。
男はアッパーを放っていた。が、まったくわからなかった。魔法でも使ったのかと思うほどの速さだ。
しかも、大柄の米光の体が宙に浮いて、ソファーを越えて飛んでくる。
よく、ドラマや映画でそういうシーンは目にする。しかしそれは大げさな映像表現で、実際にはないものだと思っていた。
梨々花も平和に生きてきたわけではない。暴力沙汰の場面には何度も遭遇しているが、ただの一度も、人が舞い上がる喧嘩など見たことがなかった。
目の前で起きていることに現実味がない。スローモーションに映る光景は、夢でも見ているようで、ぼんやりとしていた。
米光の体が背中から落ちてくる。白目を剥いた米光の顔が目の前をよぎった。次の瞬間、米光の体がテーブルに落ち、天板が砕けた。
その音で、梨々花は正気に戻った。寒気が爪先から脳天にまで突き抜け、体が硬直した。
男がソファーを飛び越えてきた。着地と同時に、米光の腹を踏む。米光は呻(うめ)いて、血の混じった胃液を吐き出した。
その体液が、梨々花の脚とスカートにかかる。
「おまえが社長だな?」
男は左手を伸ばした。梨々花の細い首をつかむ。
梨々花は息を詰めて、男の手首を握った。
「おまえが送り出した女性たちのデータと、おまえと同業の連中のデータ、受け入れ先の斡旋業者のデータも渡せ」
男が首を絞める。
梨々花は首を何度も何度も縦に振った。
と、騒ぎに気づいた女の子たちが二階から駆け下りてきた。
状況を目の当たりにした一人の女性が、悲鳴を上げる。
「静かに! 僕は君たちを助けに来た者だ」
男は梨々花を見据えたまま言った。
しかし、女性たちからすれば、男は留学エージェント会社の女性社長を襲っているようにしか見えない。
一人の女性が、近くにあった雑誌の束を両手に取った。駆け寄ると同時に、男の後頭部を殴る。
男の上体が前のめりになった。女性はもう一度、殴ろうとした。
男が振り返りざま、右手の裏拳で雑誌を弾(はじ)いた。女性の手から離れた雑誌がばらばらと宙を舞って落ちる。
男はフードを少しずらし、顔を上げた。
女性は目を見開いた。
「......竜星君?」
すると、女性の目が男の背後に向いた。女性は息を止めた。
梨々花は男の視線が離れた隙に、足元に落ちた天板の欠片(かけら)を握っていた。その尖端で男の左二の腕を刺した。
男は梨々花に顔を戻した。
梨々花が少し片笑みを浮かべている。
男は梨々花を静かに見下ろし、頬に平手打ちを食らわせた。
梨々花が呻いた。首が傾き、切れた口から血が飛ぶ。
「希美さん、他の女の子たちを連れて、ここを出てください。こいつら、あなたたちをシンガポールに送り込んで、夜の街で働かせようとしていたんです」
「嘘でしょ?」
「僕の調べに間違いはない。急いで。こいつらの仲間がここへ集まる前に!」
男が強い口調で言う。
梨々花が顔を起こす。男はまた梨々花に平手打ちを入れた。
希美は逡巡した様子で男と梨々花を交互に見やった。が、やがて意を固め、振り返った。
「みんな、ここから出るよ!」
希美が声をかける。女の子たちは、急いで二階へ戻っていった。
「竜星君」
「僕は大丈夫。希美さんも急いで」
「大丈夫って、どうするつもりよ!」
「僕はこいつの仲間が集まってきたところで」
梨々花を見据える。
「潰します」
男の両眼が吊り上がった。
血走った眼が赤く光る。それはまさに人を喰らわんとする獣人のようだった。
Synopsisあらすじ
伝説のトラブルシューター「もぐら」影野竜司の血を引く竜星は、自らを見つめ直す旅に出た。
だがその後ふいに消息を絶ち、安否不明となっていた。
同じ頃、裏社会ではある噂が知られるようになる。
リュカントロプル(狼男)が違法売春組織を襲撃、
構成員を半殺しにし、女性を掠っていくという――。
最強のハードバイオレンス・アクション
新たなる「もぐら」伝説、ここに開幕!
Profile著者紹介
1964年兵庫県生まれ。文芸誌編集などを経て、小説家へ転向。「もぐら」シリーズ(小社刊)が120万部を突破した。他の著書に「リンクス」シリーズ、「D1」シリーズ、「ACT」シリーズ、「警視庁公安0課 カミカゼ」シリーズ、『死してなお』『紅い塔』『AIO民間刑務所』などがある。
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- 第9回2025.01.13