新もぐら伝 ~狼~第6回

第2章

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 星野(ほしの)海外留学研究所は、東京都港区南青山のビルの一室にある。
 ガラス張りの瀟洒(しょうしゃ)な七階建てビルで、オフィスは六階と七階に。ビルの一階と二階はカフェとフレンチレストランだ。
 通りを挟んだ東手には青山霊園があり、夜になるとひっそりとした隠れ家のような場所になる。
 代表の星野隼平(しゅんぺい)は海外渡航歴が豊かで、自身も学生時代、留学していた経験がある。
 スタッフは二十名ほど。四十歳の星野を筆頭に三十代、二十代といった若者が職員として働いていて、海外の高校や大学、専門学校などに留学するための支援を行なっている。
 六階のオフィスは会議スペースにもなっていて、星野は毎月一回、定期的に留学案内セミナーを開いている。
 また、スタジオも完備していて、ユーチューブに動画を配信したり、Zoomを使ってオンライン相談会を開いたりしている。
 スタッフが若いこともあってか、評判は上々で、全国からの問い合わせは絶えない。
 星野海外留学研究所では、大きく二つのコースを用意していた。
 一つは正規留学をサポートするコース。高校や大学の交換留学、私費留学に関する手配や書類作成、学校や渡航場所の選定、留学後のサポートなどを請け負う。
 もう一つはワーキングホリデーのサポートをするコースだ。こちらは、主に短期で語学留学をしたい人たち専用に設けたコースだった。
 近年、円安でありながら、海外留学は盛り上がりを見せていて、ワーキングホリデーで海外での生活を経験し、英語スキルや現地での就労経験を活かして、自分の価値を高めようとする若者たちが増えていた。
 ワーキングホリデーにも様々な種類がある。オーストラリアやカナダなど、二国間で協定を結んでいる二十九ヵ国はワーキングホリデービザで一年から最長三年間、その国で働きながら学ぶことができる。
 ただ、協定国のビザ発給基準は厳格で、国によっては発給数の上限が決まっているところもあり、取得は難しい。
 シンガポールなどは、日本政府が定めた大学生が対象で、半年間だけワーホリビザを取得し、勉強しながらの労働も認められる。
 しかしこちらも、昨今のトラブルを考慮し、審査基準が厳しくなっている。
 そうした状況を踏まえて、ワーキングホリデーと称しながら、ビザのいらない三十日以内の短期滞在観光ビザで入国させ、自社と提携した学校に通わせながら、違法に働かせるような業者も出てきている。
 星野の研究所では、そうした違法斡旋(あっせん)は行なっていない。
 だが、このところ、協定国での就労でも違反行為を犯す者が出てきている状況を危惧していた。
 違反、違法行為が続けば、協定国のワーホリビザ発給数がますます減らされ、最悪の場合、協定を破棄される可能性もある。
 それは、とても迷惑な話で、意欲ある若者の芽を摘むことになる。
 星野はスタッフの何人かに、悪質な斡旋業者を調べさせ、自分のところに訪れた若者たちがそういう業者に触れていれば、注意喚起をしていた。
 悪質業者は総じて安価だ。どうしても海外へ行きたい若者や余裕のない親の目が向いてしまうのもわかる。
 星野の研究所でも、ギリギリまで経費を削ってプログラムを提供しているが、それでも国によっては数百万、場合によっては一千万を超える金額となってしまう。
 単に若者を適当な学校に放り込んで、サポートも手薄にすれば安価にできるが、それでは意味がない。
 星野の家も決して裕福ではなかった。が、様々な奨学金を取れるだけ取って、海外の大学で研鑽を積んだ。
 海外へ出ようとする若者に、自分の体験をフィードバックしたい。そして、世界を舞台に活躍してもらいたい。
 多くの留学エージェントは、星野と同じ思いで若者の支援をしている。
 だからこそ、若者の夢を食い物にしようとする業者は許せなかった。
 その日の業務もほぼ終えた。二十四時間サポートを行なっているので、サポート担当要員を残して、星野は帰り支度をしていた。
 すると、スタッフの女性がノックをして入ってきた。
「星野さん、お客様です」
「ん? 誰だ?」
「吉野仁美(よしのひとみ)様です」
「またか......」
 星野はため息をついた。
「どうしましょう? お断わりしますか?」
「いや、通してくれ」
 星野は帰り支度をやめ、執務机の前にあるソファーに腰を下ろした。
 待っていると、スタッフが仁美を連れて戻ってきた。
「遅くに、申し訳ありません」
「いえ、どうぞ」
 テーブルを挟んだ向かいのソファーを手で差す。
「コーヒーでもどうですか?」
「お構いなく」
 仁美は言うと、星野の向かいのソファーに浅く腰かけた。
 星野がスタッフに目をやる。スタッフは小さく頷いて部屋を出て、ドアを閉めた。
「で、ご用件は?」
 星野は訊いた。
「先日の申し出、お考えいただけたかと思いまして」
 仁美が笑顔を向ける。
 吉野仁美が突然、研究所を訪れてきたのは三カ月前のことだった。
 若気でスカートスーツの似合う清楚な雰囲気の女性だった。てっきり、自身の留学に関する相談かと思いきや、彼女も留学エージェントをしたいということだった。
 仁美は海外留学経験があり、渡航歴も豊富だった。英語に関しては、日常会話に支障のない程度は話せるものの、専門的な単語になると少々怪しい。
 仁美には、個人でエージェントを始める前に、まずそういうところで働き、実務を覚えた方がいいとアドバイスをした。
 たまに、こういう若者が研究所を訪ねてくることがある。ほとんどはそうアドバイスをすると、星野のとこで働かせてくれと言ってくる。
 今、事務所で働いているスタッフの中の何人かもそうした若者だ。が、仁美が訪ねてきた時は空きがなく、申し出があれば断わろうと思っていた。
 しかし、仁美は想定外のことを言ってきた。
 であれば、研究所を買い取らせてくれ、と。
 あまりに意外な申し出に、星野は唖然とした。本気とは思えなかったが、冗談にしては突飛すぎる。
 星野は断わって、仁美を帰した。
 それで終わりだと思っていたが、仁美はその日から何度も電話をかけてきて、言い値で買い取るので譲れとしつこく迫った。
 ぶしつけ極まりない申し出に憤慨し、星野は仁美からの連絡をシャットアウトした。
 だが今度は、事務所へ直接訪れるようになった。もちろん、丁重に追い返していたが、それが一カ月も続き、さすがに星野も見過ごせなくなった。
 仁美は星野の仏頂面も気に留めず、話を進めようとした。
「先日もお話しさせていただきましたが、私はいくつかの留学エージェントを買い取り、運営しています。どこもうまくいっています。代表の方はもちろん、従業員の方もみなさんそのまま働いていただいています。いうなれば、単なるオーナーです。お譲りいただいても問題ないと思いますが」
 その話を聞き、星野は深くため息をついた。顔を伏せ、やおら起こす。
「吉野さん。あなたが買い取ったというエージェントのことを調べさせてもらいました。小さなエージェントをまとめて包括的な窓口を作り、それぞれのエージェントに留学希望者を紹介するという取り組みは評価します。しかし、うちは独自のスタイルとルートが確立していて、そのスタイルを気に入ってくださった方々にサービスを提供しています。なので、他から留学希望者を紹介していただく必要はありません。もちろん、情報交換や必要な情報の提供は、可能な限り協力させてもらいますが、それ以上もそれ以下も必要ありません。それともう一つ」
 星野は仁美を見据えた。
「あなた方の原資は、どこから出ているのでしょうか? 申し訳ないが、あなたが運営しているYHエデュケーションの資金繰りを調べさせてもらいました。クラウドファンディングや有志の出資で賄(まかな)っているようですが、それにしても、留学サポート費用が安すぎる。アメリカで年間費用、渡航費を含めて九十万円はありえません。他の諸外国にしてもかなりリーズナブル、いや、採算度外視の破格と言った方がいい費用で学生を送り出している。それで正常な運営ができるとは、到底思えないのですが」
 忌憚(きたん)なく問う。
 仁美は微笑(ほほえ)んだまま、まっすぐ星野を見つめ返した。
「渡航費用は確かに安く設定していますが、採算度外視というわけではありません。むしろ、これまでのエージェントさんが高く設定しすぎです。もちろん、それなりの名門校へ行くにはお金がかかりますが、学費以外の経費を精査すれば、十分採算がとれるラインの価格設定はできます。そうした私たちの活動に賛同していただき、出してくれる方は星野さんたちが思っているより多いんですよ。名前を明かせない方もいらっしゃるので、そこを証明しろと言われても困るのですが」
 仁美は淡々と返した。
「まあ、証明できるできないはともかく。私とあなたでは、留学に関するスタンスが違いすぎる。仮に単なるオーナーだったとしても、あまりに考え方が違う方に参画されるのは、私どもに何のメリットもない。うちはハッキリとお断わりします。どうしても傘下を増やしたいのであれば、他をあたってください」
 星野は立ち上がった。
「どうしてもお譲りいただけませんか?」
 仁美は潤んだ目で星野を見上げた。
 その仕草も癪(しゃく)に障る。今まで年配の男性を色香で落としてきたのだろう。
 星野は眉間に皺を立て、睨み下ろした。
「お帰りください」
 強い口調で言う。
「そうですか。なら、仕方ありませんね」
 仁美は目を伏せてふっと笑み、やおら立ち上がった。
「もう二度とコンタクトはしないでいただきたい。私はあなた方と関わるつもりは一切ないので」
「わかりました。ご面倒をおかけいたしました」
 仁美が小さく頭を下げる。
「ただ」
 ゆっくりと顔を上げ、星野を見つめる。
「星野さんが関わるつもりはなくても、関わらざるを得なくなるかもしれません」
 双眸(そうぼう)が冷たく光った。
「どういう意味でしょうか?」
 星野は見返した。
「そのままの意味ですが、いかようにも受け取っていただいて結構です。では」
 会釈し、仁美は部屋から出て行った。
 星野は仁美の背中を最後まで睨みつけた。

新もぐら伝 ~狼~

Synopsisあらすじ

伝説のトラブルシューター「もぐら」影野竜司の血を引く竜星は、自らを見つめ直す旅に出た。

だがその後ふいに消息を絶ち、安否不明となっていた。

同じ頃、裏社会ではある噂が知られるようになる。

リュカントロプル(狼男)が違法売春組織を襲撃、

構成員を半殺しにし、女性を掠っていくという――。



最強のハードバイオレンス・アクション

新たなる「もぐら」伝説、ここに開幕!

Profile著者紹介

1964年兵庫県生まれ。文芸誌編集などを経て、小説家へ転向。「もぐら」シリーズ(小社刊)が120万部を突破した。他の著書に「リンクス」シリーズ、「D1」シリーズ、「ACT」シリーズ、「警視庁公安0課 カミカゼ」シリーズ、『死してなお』『紅い塔』『AIO民間刑務所』などがある。

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