波乱万丈な頼子第三十四回
九章
34
「もう無理!」
莉々子は、逃げ出すように、階段を駆け降りた。
が、階段の途中で足がもつれ、危うく足を踏み外しそうになる。莉々子は、しがみつくように手すりを掴んだ。そのときだった。
「うん?」
湘南マリーナコーポがもうひとつある!
それは、今、自分がいる湘南マリーナコーポとまったく同じデザイン、作りの建物だった。よくよく見ると、『湘南マリーナコーポⅡ』とある。
「は? どういうこと?」
その場でスマートフォンを取り出すと、地図アプリを開き、現在地を表示させてみた。
「うそ。湘南マリーナコーポ、向こう側にももうひとつ、ある」
ここまで同じということは、もしかして、部屋の作りもまったく同じなんじゃないだろうか? ということは、『波乱万丈な頼子』を撮影していたのは、もしかしてここではなくて、あちら側?
「高幡さん、大丈夫ですか?」
藤村が、階段の上から顔を覗かせる。
「うん、大丈夫。......っていうか。湘南マリーナコーポって、三棟あるんですか?」
やはりこちらを覗き込んでいた大家さんに向かって、莉々子は質問してみた。
「うん、そうだよ。ここだけじゃないよ。ここから数分のところにも、うちのアパートがあるよ。そっちは、鎌倉マリーナコーポという名前だけどね。そっちは、Ⅴまであるよ」
と、大家さんは意気揚々とVサインを出して見せた。
Ⅴってことは、五棟。
やはり、この人、大地主だ。
そのときだった。
「なにしてんですか! ひとのアパートで!」
と、下から一際大きな声がした。見ると、大家さんの奥さんだ。
「あ、すみません」
反射的に、莉々子は頭を下げた。この人には先日、きっぱりと断られている。弁護士を使う予定は一切ないと。弁護士は大嫌いだと。
「あら、あなた。今度はなんの用? 先日、お断りしましたよね?」
ほら、来た。
「いえ、今日は......」
「あの奥さん、すみません。ひとつ、質問いいですか?」
藤村が、タンタンと階段を駆け降りてきた。
「大塚頼子さんて、ご存じですか?」
大家さんの奥さんの顔が、あからさまに変わった。
「......知らない」奥さんは一瞬口ごもったが、「とにかく、困るのよね! 今から業者さんが来るんだから、あなたたちがいると邪魔なのよ」
「業者さんって?」
「だから、ゴミ屋敷専門の掃除屋さんよ! 今日は、見積もりに来てくれることになっているの」
「おい、おまえ、またそんな勝手なことを!」
大家さんが、脱兎の如く飛び出してきた。「金はどうすんだよ、金は!」
「ほんと、あんたはケチくさいわね! もう嫌なのよ、この状態で放置しておくのが! 近所にも変な噂たってるし! このままでは、他の部屋まで事故物件扱いされて、借り手がなくなるわよ!」
夫婦喧嘩がはじまった。
莉々子たちは、そっと、その場を立ち去った。
+
「おおつかよりこって、誰?」
湘南マリーナコーポを後にすると、莉々子は早速、藤村に質問してみた。
「覚えてませんか? 秩父の山林で遺体で発見された女性ですよ」
「ああ、そういえば」
「大塚頼子って名前を出したとき、奥さんはもとより、大家さんの顔色も変わったんですよね。たぶん、あの二人、大塚頼子って人を知っているんじゃないかな」
「でも、なんで唐突に、大塚頼子さんのことを訊いたの?」
「あの部屋のポストに、こんなものがあったんですよ」
藤村は、スマートフォンの画面をこちらに向けた。
それは、集合ポストの中を写したものだった。
いつの間に、こんなものを撮ったんだ。
「高幡さんと大家さんが話しているときにどさくさに紛れて、撮ったんです。......で、こちらを見てください」
藤村が画面をワイプすると、それは、水道代の領収書だった。宛名には、『大塚頼子』とある。
「え? なんで? どうして?」
「答えは、ひとつでしょうね。大塚頼子って人が、あの部屋の住人だったんですよ」
「え、でも。......じゃ、柏木光太郎は?」
「その人は、現在の住人」言いながら、藤村はもう一枚、画像を表示させた。
それもまた、水道代の領収書だった。
「さっきの領収書は、一年前のものでした。で、これは、今年に入ってからのものです。宛名は、柏木光太郎」
「去年? え。でも待って。さっき、大家さんが言っていたじゃない。あの部屋の住人は四年前から住んでいるようなことを」
「たぶん、又貸ししてたんじゃないかと。あるいは、シェアハウス的な感じで複数人が使用していた可能性もある」
「いずれにしても。あの部屋に、二人の頼子が住んでいた可能性が高いってことね。秩父で遺体で発見された大塚頼子って人と、あの部屋で孤独死していた久能頼子って人」
「その久能頼子さんのことも、もしかして、大家さんは知っていたんじゃないかな」
「それはないわよ。だって、まったく知らない人が死んでいたって言っていたんだから」
「いやいや、大家さん、頼子のことを"彼女"って言っていたんですよ」
「そりゃ、代名詞だからでしょう?」
「ただの代名詞ではなくて、なんていうか、......そう、かなり近しい人に対して使う"彼女"だった。うん、間違いない。あの口ぶり、あの表情は、久能頼子さんを知っている感じだった」
「だとしたら。......どういうこと?」
「大家さん夫妻は、『波乱万丈な頼子』の動画の存在を知っていたんじゃないかな。なんなら、動画撮影に協力していたんじゃないかな?」
「は?」
「まあ、こんなところで立ち話もなんなので、ちょっと、入りませんか?」
藤村が指差した方向に視線を向けると、そこには『スナック・ノリカ』のネオンサイン。ああ、もうそんな時間なんだ。そういえば、なんだかお腹が空いた。
「うん、入ろう」
莉々子は、藤村のあとを追った。
「あら。あなたたち、どうしたの?」
ママが、呆れたように言った。「てっきり、もう帰ったのかと」
「ええ、色々とありまして。それに、ママさんに訊きたいこともあったものですから」藤村が、まるで常連のようにカウンター席に腰を下ろす。
「訊きたいこと? いいわよ、なに?」
「柏木光太郎さんが、ここに通いはじめたのはいつからですか?」
「こーちゃん? うーん、いつだったかな。そんな昔じゃないわよ。一年ぐらい前」
「四年前とかではなくて」
「それは、ない。四年前には、あの部屋には他の人が住んでいたから」
「もしかして、女性ですか?」
「さあ。......どうだったかな。忘れちゃった」ママがぺろっと舌を出す。そして、「それにしても、こーちゃん、どこに行っちゃったんだろう? あの部屋であんな事件が起きてからというもの、行方知れずなの。......ここだけの話ね。警察は、こーちゃんを疑っていた節があるのよ。孤独死したとされる女性を殺害したんじゃないかって」
「え? 警察は、殺人を疑っていたんですか?」
莉々子が言うと、
「まあ、ここだけの話だけどね」
「話はがらりと変わって――」藤村が、メニューを広げた。「なにか、食べさせていただけませんか? あ、お酒は結構です。僕、飲めないんで。......莉々子さんは飲みますか?」
+
流れで、ボトルをキープすることになった莉々子は、やけくそ気味で、水割りをがぶ飲みした。
なんで、こんなところでこんな散財をしなくてはならないんだ。こんなところにボトルを入れたところで、無駄になるだけなのに。次があるかもわからないのに。というか、次なんてもうあってほしくない。もう、この件はこれきりにしてしまいたい。
好奇心で首を突っ込んでしまったが、今は大いに反省している。なんの変哲もない日常が懐かしい。恋しい。......あの日に戻りたい。
「高幡さん、どうしたんですか? 泣き上戸ですか?」
「ほっておいて。涙が勝手に出てくるだけだから」
「はい、わかりました。じゃ、泣いていてください。......で、ママさん、ここだけの話をもっとしてみませんか?」
「うん?」
「湘南マリーナコーポの大家さん夫妻のことですよ」
「ああ。中曽根さんね」
ママの表情が、あからさまにねじくれる。
「評判、悪いわよ、あの夫婦は。というか、よく素性がわからないのよね」
「どういうことですか?」
「気がついたら、ここにいたのよ」
「昔からの地主ではないんですか?」
「違う、違う。なんなら、あたしのほうが古株よ」
「意外です」
「あたしがここに店を構えたのは......そう、大阪万博が開催された年だから、かれこれ半世紀前のことね」
「そんな昔から、ここに?」
「そう。で、中曽根さん夫婦が現れたのは、それから二十年ぐらい経った頃だから、今から三十年ぐらい前かな」
「いったい、どういう経緯で、中曽根さんたちはここに?」
「それが、よくわからないのよ。気がついたら住み着いていたっていうか」
「でも、あんなに不動産を持っているんですから、ただのよそ者ではないと思うんですが」
「うん。厳密にはよそ者ではないのよ。そもそも旦那の親が土地を持っていて。それを相続したらしいの。で、ずっと地方をふらふらと渡り歩いていたあの旦那が嫁を連れてここに戻ってきたってわけ」
「なるほど。夫婦に子供は?」
「よくはわからないけど、いないんじゃないかな」
「じゃ、あの不動産をつぐ人はいないんですね?」
「ところがね」ママが声を潜めた。「あの旦那、かなりの女好きで、愛人をあちこちに囲っているっていうのよ。だから、隠し子の一人や二人、いてもおかしくないと思うの。......ここだけの話」ママはさらに声を潜めた。「こーちゃんって、中曽根の旦那の隠し子なんじゃないかって、思うの。だって、そっくりなのよ。なんなら、せっちゃんも隠し子なんじゃないのかな」
「せっちゃんって、瀬山涼さん?」
「そう。......そういえば、最近、せっちゃんの姿も見えないのよね――あら?」
パトカーのサイレン?
めっちゃ近くで聞こえる。
莉々子の酔いも一気に吹っ飛んだ。
「うん? なにか事件なんでは? あ、サイレン、止まった」
マジで、この近くで何かがあったようだ。
まずは藤村が、外に飛び出した。莉々子もそのあとを追う。
湘南マリーナコーポの前に救急車とパトカーが数台停まっている。
「いやだ、いったい、なにごと?」
Synopsisあらすじ
法律事務所で事務職をしている高幡莉々子は仕事の一環で見つけた、ある動画チャンネルに興味を抱く。「頼子」という70代の女が、困窮した生活状況や波乱万丈な人生を語る動画だ。投げ銭だけでも相当儲けているはずなのに、やらせじゃないの? ちょっとした好奇心から莉々子は次第に取り返しの付かない事態に巻き込まれていく・・・・・・。
Profile著者紹介
1964年、宮崎県生まれ。多摩芸術学園卒業。2005年『孤虫症』でメフィスト賞を受賞し、デビュー。11年に文庫化された『殺人鬼フジコの衝動』がベストセラーに。他の著書に『坂の上の赤い屋根』『さっちゃんは、なぜ死んだのか?』『ノストラダムス・エイジ』など多数。
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