波乱万丈な頼子第二十八回

七章

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 ストリートビューで何度もシミュレーションしたのに、そのアパートにはなかなか辿り着けなかった。
 どこで間違ったんだろう?
 あ、あの人に訊いてみようか?
 千栄子は、前を歩くスーツ姿の男性に声をかけてみた。
「あの、すみません。この辺に『湘南マリーナコーポ』というアパート、ありませんか?」
 男性が、千栄子の姿をまじまじと観察しはじめた。
 怪しいと思われているのだろうか。
「あ、私、怪しいものではありません。......えっと、そう、YouTuberなんです」
「YouTuber?」
 なんで、YouTuberなんて言ってしまったんだろう。男性の目がますます鋭くなった。
「あ、いえ、その......」
 狼狽えていると、
「湘南マリーナコーポなら、すぐ近くですよ。向こう側の角を曲がったところです」
 と男性は一転、営業マンの表情で言った。見ると、その手には大量のチラシ。どうやら、この近くにマンションが建つらしい。
「もしよかったら、これ、どうぞ」
 そしてその一枚を、千栄子に差し出す。受け取らないわけにはいかない。
「あ、どうも......」と言いながら、千栄子は小走りで、向こう側の角を目指した。

 その数分後、千栄子はそのアパートにようやく辿り着くことができた。
 胸が高鳴る。
 ここに、頼子さんがいる、そう思っただけで。
 動悸の高まりを両手で押さえながら、集合ポストを覗いているときだった。
「あの、なにか御用ですか?」
 と、後ろから声をかけられた。
 振り向くと、ロックTシャツを着た老人が立っている。
「ここでなにをしてるんだい?」
「いえ、あの。......そう、不動産サイトを見て、来たんです。空き室があるってあったから」
「ああ、その情報、だいぶ古いね。今は、全部埋まっちゃっているよ」
「え? ......あなたは?」
「ぼくは、このアパートの大家」
「ああ、そうですか。あの、ここには似たようなアパートがあと二棟あると思うんですが」
「うん、あるよ。この裏に二棟。でも、そっちも満室だよ」
「そうですか......」
「ほんと、いやんなっちゃうよ、不動産サイトは。釣り広告っていうの? それに使われているんだよね、うちのアパートが。何度も削除依頼を出しているんだけど、全然効果なくて」
「あの......」
「そういうことだから、ごめんね。お役に立てなくて」
「あの、そうじゃなくて、実は、私、人を捜しているんです」
「は?」
「ですから、本当は入居希望ではなくて、人捜しなんです」
「人捜し?」
「ネットの動画で、昔の恩人を見つけたんです。その人が住んでいるのはここのアパートらしくて」
「うん? どういうこと?」
「YouTubeって分かります? そこにチャンネルを持っているある一人暮らしのおばあちゃんが、私の恩人で。で、その人が撮影していると思われるアパートが、どうもここなんです」
「なるほど。でも、それ、うちじゃないと思うよ」
「どうしてですか?」
「だって、うちのアパートには、おばあちゃんは住んでないから。六十歳以上の一人暮らしはお断りしているの。だって、ほら、孤独死とかされたら、困るでしょう?」
「いや、でも」
「ごめんね。他、あたってくれるかな?」
 しっしっと野良猫を追い払うように、老人はあからさまに千栄子を邪魔者扱いした。これ以上食い下がったら、警察に通報されかねない勢いだ。千栄子は、すごすご、その場から立ち退いた。
 数分、歩いた頃だった。猛烈な喉の渇きがやってきた。
 すがるように周囲を見回すと、小さなメニュー看板が見えた。「ノリカ」という名前の喫茶店らしかった。メニュー看板には、......ナポリタン......オムライス......ミックスサンド......クリームソーダ......プリン......オムレツにカレーに......。
 メニューを見ているうちに、今度はのっぴきならない空腹もやってきた。そういえば、朝から飲まず食わずだ。冷や汗まで出てきて、このままでは倒れてしまう。前にもあった。仕事中に倒れて、病院に運ばれた。すると、低血糖だという。母親も同じ症状で倒れて、そして昏睡状態に陥り、そのまま鬼籍に入った。自分もまた、母親と同じ体質を受け継いでしまったようだ。それからは気をつけていたが、今日はそれどころではなかった。頼子に会えるかもしれない喜びと、頼子の正体を知ることができるかもしれない興奮で、飲むことも食べることも、すっかり忘れていた。
 重たいドアを開けると、店主らしき女性が、ぎょっとした表情でこちらを見る。
 どうしよう? もしかして、もうやってないのかな? それは、困る。とにかく、なにか食べたい。飲みたい。
 千栄子は、声を振り絞った。
「あの、すみません......おはなしを......きいて......」
「あらら、ごめんなさいね。今は、休憩時間なんですよ」
 この店の主なのか、初老の女性があからさまに顔を歪めながら言った。
「......いえ、......客ではなくて......ちょっと、きいてほしいことがありまして......」
「ごめんなさい、うち、そういうの、興味ないんで」
「いえ、ちがうんです......わたし、人をさがしているんです......この辺にヨリコっていう名前の女性が住んでいませんか?」
 女性が小首を傾げる。
「すぐそこに、湘南マリーナコーポというアパートがありますよね?」
「ええ、ありますね」
「そこに住んでいるはずなのですが......」
「ヨリコっていうぐらいだから、その人は女性の方?」
「......はい」
「だったら、なにかの間違いじゃないかしら。あのアパート、女性は住んでいないはずよ」
「......そうなんですか?」
「男性で、しかも単身者ばかりだって聞いた」
「......そうなんですか。......そうなんで――」
 ああ、もうだめだ。もう、だめだ。千栄子はドアにしがみつく形で、床にへたり込んだ。
「ちょっと、あなた、大丈夫?」
「ごめんなさい、ちょっと、低血糖かもしれません。......朝からなにも食べてないんで......」
「あら、大変。救急車呼びますか?」
「いえ、大丈夫です。......あの、申し訳ありませんが、なにか食べるもの、いただけませんか? お金ならありますので」

   +

 主の女性が出してくれたのは、カレーだった。どこか、タナカさんが作るカレーに似ている。千栄子は、あっという間に平らげた。
 さきほどまでダラダラと顔中を流れていた汗も、ようやく引っ込んだ。
「はぁぁ」とため息を吐くように、千栄子は大きく息を吐いた。
「お客さん、ここでは見ないお顔ですね。お仕事かなにかで、ここに?」
 女性が話しかけてきたので、
「いえ、さきほども言いましたが、人を捜しているんです」
「えっと、ヨリコだっけ?」
「はい、そうで――」
 と、そのとき、扉が開く音がした。しゃらんしゃらんと、ドアベルが鳴る。
「ああ、あの人に聞けば、なにか分かるかも」
 女性の視線を追うと、そこには若い男性がいた。......若いといっても、たぶん、三十代後半だろう。
「ママ、いつもの」
 男性は、迷わずカウンターの奥の席を陣取ると、まるで自宅に帰ってきた息子のように、ぶっきらぼうに注文した。
 この女性、ママって呼ばれているんだ。ああ、そうか。ここ、たぶん夜はスナックに変身するんだろう。ボトルがずらりと並んでいるし、カラオケセットもある。
「ねぇ、せっちゃん」ママが、男性に向かって言った。「あなた、ヨリコって人、知ってる?」
 せっちゃんと呼ばれた男性が「はぁ?」と、不機嫌そうな顔をこちらに向けた。
「このお客さんがね、ヨリコって人を捜しているのよ。なんでも、湘南マリーナコーポに住んでるんだって」
「そんなばあさん・・・・、知らねーな」
 え? ばあさんって言った? なんで、頼子がシニアだってこと、知っているの?
 千栄子が身を乗り出すと、男性ははっと口を噤み、「あ、注文はキャンセル。ちょっと用事を思い出した」と、逃げるように店を出て行った。
「どうしたのかしら、せっちゃん」
 ママが呆然と見送る。
「あの、すみません。あの男性は?」
「ああ、せっちゃんね。湘南マリーナコーポの住人よ。確か、二〇二号室に住んでる」
 二〇二号室? もしかして、頼子の隣人?
「ね、そのヨリコって人、どんな人なの?」
 ママの質問に、千栄子は咄嗟に答えられなかった。
「どんな人と言われても......」
「髪が長いとか短いとか、太っているとか痩せているとか、美人なのかそうじゃないとか。そもそも、ヨリコって何歳なの?」
「たぶん、七十代です」
「たぶん?」
「実は、私もよくは知らないんです」
「え?」
「実は――」
 千栄子はスマートフォンを取り出すと、『波乱万丈な頼子』のチャンネルを表示させた。
「私が捜しているのは、この人なんです」
「あら、いやだ。顔が映ってないわね。これじゃ、全然、分からないわ。......うん?」
 ママが、どこからかメガネを取り出した。そして、スマートフォンに顔を近づけたり、離したりをしばらく続けて、
「この人、見たことあるわよ。うちに何度か来たこと、ある。この首のほくろ、間違いない」
「本当ですか?」
「歯がガタガタで、歯医者に通っているって言ってた。横須賀線に乗って、ここまで」
「横須賀線に乗って通ってる?」
「うん。確かに、そう言ってた」
「じゃ、湘南マリーナコーポの住人ではないんですか?」
「自宅は横須賀のほうだって言っていたわよ」
「そう......ですか」
 万事休すだ。
 推理はことごとく外れていた。
 でも、頼子が横須賀に住んでいるかもしれないという情報はゲットした。
「でも、おかしいわね。せっちゃん、ヨリコって人のこと、なんだか知っているようなそぶりだったわよね」
 ママが、どこぞの名探偵のように右手を顎に添えた。
「せっちゃんという人も、謎の多い人なのよ。最近、ここに引っ越してきたんだけどね。なんだか、働いている様子がなくて。......まあ、湘南マリーナコーポって、そんな人ばかりだけどね。大家さんがあんな人だから、店子まで訳ありな感じの人ばかり」
 ママが、やれやれと言わんばかりに、肩をすくめる。
「あ、そんなことより。そろそろラストオーダーの時間なんだけど、追加の注文、ある?」
 ママの問いに、千栄子はゆっくりと首を横にふった。


次回の更新は9月6日を予定しております

波乱万丈な頼子

Synopsisあらすじ

法律事務所で事務職をしている高幡莉々子は仕事の一環で見つけた、ある動画チャンネルに興味を抱く。「頼子」という70代の女が、困窮した生活状況や波乱万丈な人生を語る動画だ。投げ銭だけでも相当儲けているはずなのに、やらせじゃないの? ちょっとした好奇心から莉々子は次第に取り返しの付かない事態に巻き込まれていく・・・・・・。

Profile著者紹介

1964年、宮崎県生まれ。多摩芸術学園卒業。2005年『孤虫症』でメフィスト賞を受賞し、デビュー。11年に文庫化された『殺人鬼フジコの衝動』がベストセラーに。他の著書に『坂の上の赤い屋根』『さっちゃんは、なぜ死んだのか?』『ノストラダムス・エイジ』など多数。

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