波乱万丈な頼子第十八回

五章

18

「え、困るわ。そんなの持ってこられても」
 中曽根さんの奥さんが、眉毛を八の字に垂らして、苦笑する。
 午前十時ちょっと前。莉々子は、明石先生に言われた通り、紹介状と借りていた服と、そして自腹で買った菓子折を持って中曽根宅を訪れていた。
だが、なんだか雲行きが怪しい。
 もしかして、服のことを怒っているのか?
「あ、すみません。お返しするのが遅れましたが、服はちゃんとクリーニングに出しましたので――」
「ううん、服のことはどうでもいいのよ。それ、どうせ、捨てようと思っていたものだし。でも、せっかくきれいにして返してくれるんだから、これはありがたく、納めさせてもらうわね」
 じゃ、菓子折が迷惑だったのか? 昨日、仕事帰りに虎ノ門ヒルズに寄って購入した、高級チョコレートなんだけど。五千円もしたんだけど。
「チョコレートは大好き。これもありがたくいただいておきますね」
 じゃ、なにが迷惑なの?
「だから、紹介状なんて持ってこられても、困るんですよ」
 え?
「だって、アタシ、おたくと契約することじたい、お断りしたんですから」
 そう......なんですか?
「よくよく考えてみたら、下手に首を突っ込まないほうがいいかなって。だってほら、なにか事件とかに巻き込まれる恐れもあるわけでしょう? だから、このままでいいかなって。亡くなった人の素性を探ってみたり、住人の行方を探したりするのも、なんだか、アレかなぁって」
「あの、でも」莉々子はここで、ようやく言葉を差し込んだ。「部屋の原状回復料とか、賠償請求とか......諸々、諦めるんですか? とろうと思えば、一千万円はとれると思いますよ?」
「それでも、その何割かは、あなたたちの事務所に入るわけでしょう? そもそも、こんなアパートに住むような人だもの、一千万円なんて払えるはずもない。仮に、民事裁判になったりしてこちらが勝ったとしても、相手に支払い能力がなかったり自己破産なんかされたりしたら、とりっぱぐれるどころか、裁判費用だけで大赤字だもの。あなたたち法律事務所は儲かるかもしれないけどね」
「.........」
「前にもあったのよ。店子が家賃を滞納した上に夜逃げしてね。裁判になってこっちは勝ったんだけど、結局、先方からはなにもとれなかった。裁判費用だけがっぽりとられて、大赤字。そんなことがあったから、アタシ、弁護士って大嫌いなの。なのに、うちの主人が勝手にあなたの事務所に依頼したっていうじゃない? だから、アタシ、必死で説得したのよ。今回の場合は、人捜しにもお金がかかる。前のときよりもっともっと赤字が膨らむわよ?って。そしたら、うちの主人もようやく納得してくれてね。で、先日、電話で依頼をキャンセルさせてもらったのよ。でも、あなたのところのボス......明石さんっていったかしら。なかなか引き下がらなくてね。で、今日、無理矢理約束させられたのよ。でも、実際、来たのは、子分のあなた。その点についても、アタシ、実は腹の底から怒っているのよ。ああ、これだから、弁護士は......って。前の弁護士もひどかったけど、今回の弁護士もひどいって」
 中曽根さんの言うとおりなら、明石先生のほうから頼み込んだ約束なのに弁護士でもなんでもない事務職員がやってきたら、そりゃ、カチンとくるだろう。
 莉々子も前々から気になっていたのだ。そりゃ、弁護士は飲食業のようなサービス業ではない。過度なカスタマーサービスは必要ないかもしれないけれど、それにしても、あまりに依頼者(カスタマー)をないがしろにしてないか? 端から見下してないか?と。時には、依頼者の都合などそっちのけで、どんどん事を進めてしまう。時には、依頼者の希望にそわない結果に弁護士自ら誘導することもある。たとえば、和解なんかしたくないという依頼者の希望をねじ伏せて、「これが最良なのです」と、和解に持ち込んだりする。
「......すみません」
 莉々子は、思わず頭を下げた。
「あら、なにもあなたが謝ることはないわ。アタシも言い過ぎた。ごめんなさいね」中曽根さんも、頭を下げる。そして、
「いずれにしても、あのアパートは、近々、取り壊す予定なのよ。だから、原状回復とか、そういうの、必要ないの」
「取り壊すんですか?」
「あのアパート、見た目は小綺麗だけど、築年数は結構経っているのよ。あちこちにガタがきていてね、その都度修繕してきたけど、もう限界。どうしようかって手をこまねいていたら、ワンルームマンションにしませんか?って、不動産会社からお誘いがあってね」
「そうなんですか。だったら、今現在の住人さんたちには退去してもらわないといけないですね」
「それも、不動産会社がやってくれるって。今の不動産会社って、なんでもかんでもやってくれるのよ。こちらの希望通りにね。だから、まるっと任せようと思って」
「......なるほど」
「だから、あなたの事務所に任せることはなにひとつないの。ごめんなさいね」
「......そうですか」
どう応えていいかわからず、莉々子は曖昧な応えを繰り返した。これも、法律事務所で働く者の悪い癖だ。営業スキルというやつがまったく身についていない。これが、不動産会社に勤める者だったら、あの手この手で、アプローチを試みるのだろう。......でも、そんなアプローチ、なにひとつ思いつかない。それでもなにかアプローチしなくては......と、莉々子は言葉を絞り出した。
「では、例の部屋の住人さんの行方も、不動産会社が?」
「ええ、もちろん。今、探してくれているところ」
「ちなみに、その住人さん、いつから住んでいるんですか?」
「え? ......いつからだったかしら」中曽根さんが、目をあちこちに泳がす。「ごめんなさい。うち、あのアパートだけじゃなくて、他にもいくつかあってね。店子だけでも五十人はいるのよ。いちいち覚えていなくて。......あら、いやだ。もうこんな時間じゃないの」
 中曽根さんが、これ見よがしに腕時計を見た。
「アタシ、午後から用事があってね。今から準備をしなくちゃいけないの。......もう、いいかしら?」
「はい。すみません。貴重な時間をいただきまして」
 そして莉々子は、深々と頭を下げると、その家を後にした。

 それにしても。
 中曽根さんは本当に大地主らしい。自宅は大きな門扉を構え、玄関ドアまで五十メートルはあった。もっとも、その玄関には入れてもらえず、お勝手口での対応だったが。そのお勝手口だって、普通の民家の玄関ぐらいの広さはあった。
 昨日、ちょっとした好奇心でこの辺の土地の登記簿を閲覧してみたのだが、なんと、この町の十分の一は、中曽根さんが所有している土地だった。ここまでの大地主なら、顧問弁護士がいるはずだ。でも、奥さんのあの口ぶりからは顧問弁護士の影は感じられず、そもそも、顧問弁護士がいるならば、あのご主人はうちの事務所に相談はしなかっただろう。
 いったい、この広大な土地と資産は、誰が管理しているのだろうか?
 そんなことをつらつら考えながら歩いていると、例のアパートの前まで来ていた。湘南マリーナコーポ。
「そもそもだ」莉々子は呟いた。「このアパートの二〇一号室で、あの動画は撮影されていた。となると、二〇一号室の本来の住人が動画チャンネルを運営していたと考えるのが自然じゃない? だとすると、その住人は今もどこかであの動画を編集し、アップしているはず。となると、やっぱり、スマイル企画が超怪しい。私が動画を投稿した幽霊会社。......もしかして、スマイル企画は、あの部屋を拠点にしていたんじゃない?」
 なにか証拠はないかと、郵便受けの前まで行ってみる。しかし、二〇一号室の郵便受けの差し込み口にはガムテープが貼られている。
......それでも、どうしても気になる。だって、もはや、他人事ではないのだ。私も片足を突っ込んでいるのだから。うちのママだって。
周囲を見回し、誰もいないことを確認すると、莉々子はそっと、ガムテープを剥がしてみた。
 差し込み口から中を覗いてみると、チラシやDMらしきものがいくつか見える。本当はそんなことはしたくなかったが、背に腹は代えられない。莉々子は取り出し扉のツマミを引っ張ってみた。それは、あっけなく開いた。ダイヤルの暗証番号で解錠できる仕組みらしいが、そもそも、その設定すらしていなかったようだ。再度周囲を見回して誰もいないことを確認すると、郵便受けの中身にスマートフォンのレンズを向けて素早くシャッターを切る。そして、扉を閉めた。
 はぁ、はぁ、はぁ、はぁ。
 ロックバンドのドラムのように、心臓が乱れ打ちしている。全身が心臓になったような気分だ。やはり、自分にはこういうことは向かない。さっさと、この場を立ち去ろう......としたとき、郵便受けの隣に、案内板が貼られていることに気がついた。そこには、「入居者募集」という言葉とともに不動産会社の名前が記されている。
 あ。もしかして、中曽根さんが言っていた不動産会社って、ここ? ここも念のため、撮っておくか。
 そして莉々子は、再びスマートフォンのレンズを向けた。

波乱万丈な頼子

Synopsisあらすじ

法律事務所で事務職をしている高幡莉々子は仕事の一環で見つけた、ある動画チャンネルに興味を抱く。「頼子」という70代の女が、困窮した生活状況や波乱万丈な人生を語る動画だ。投げ銭だけでも相当儲けているはずなのに、やらせじゃないの? ちょっとした好奇心から莉々子は次第に取り返しの付かない事態に巻き込まれていく・・・・・・。

Profile著者紹介

1964年、宮崎県生まれ。多摩芸術学園卒業。2005年『孤虫症』でメフィスト賞を受賞し、デビュー。11年に文庫化された『殺人鬼フジコの衝動』がベストセラーに。他の著書に『坂の上の赤い屋根』『さっちゃんは、なぜ死んだのか?』『ノストラダムス・エイジ』など多数。

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