波乱万丈な頼子第一回
一章
1
大阪万博か。
猪又千栄子(いのまたちえこ)は、トーストを齧りながら、ひとりごちた。テレビには、二〇二五年に開催予定の万博のニュース。工事が大幅に遅れているとか、そんなネガティブな話題が流れている。
「あの頃とはまったく違うな」
千栄子にとって大阪万博といえば、昭和四十五年だ。
当時、千栄子は六歳で、小学校入学前の幼稚園児だった。
「あのときの万博は、ほんと、凄かった。テレビも万博一色だったし」
そして千栄子は、ふんふんふんと鼻歌を歌いながら、右手人差し指でテーブルの表面をなぞった。そのメロディーは、当時の子供向け番組で頻繁に流れていた「太陽の塔」の絵かき歌だ。いたるところにこれを描き、母親にずいぶんと叱られたものだ。
「そうそう。そういえば、新幹線の中でも――」
しかし、千栄子の記憶はここでストップする。毎回そうだ。
確かに、あのとき、新幹線に乗った。
そう、万博に行くために、大阪行きの新幹線に。
はじめての新幹線。それに乗るという喜びと万博に行くという高揚感で、前日は眠れなかった。......ようやく睡魔がやってきた頃、「さあ、起きて」と、母親にたたき起こされた。電灯の光がまぶしくて目が開けられない。
「あの電灯のまぶしさまで鮮明に覚えているのに」
家を出たのは、まだ夜も明けぬ早朝。
「あの冷たすぎる空気もよく覚えているのに」
最寄りの鹿島田駅から南武線に乗って川崎駅に行き、それから東海道線に乗り換えて横浜駅に行って――
「タクシーに乗って、新横浜駅に行ったことも覚えている」
新横浜駅に着く頃にはすっかり陽も昇り、汗ばむぐらいに気温も上がっていたが、
「ホームから見た風景に戸惑ったんだよね」
"横浜"というぐらいだから、子供ながらに港がある風景を期待していた。なのに、実際の風景は、どこまでも続く田んぼ。「これが、横浜?」子供の脳では処理できないほどのパニックが襲う。
その記憶のせいか、今も"横浜"と聞くと、港のある風景ではなくて、あの田園風景がまっさきに浮かぶ。
「私があまりに、『ここ、横浜? 本当に横浜?』と何度も訊くもんで、母がシウマイ弁当を買ってくれたんだっけ」
シウマイ弁当を食べたのも、そのときがはじめてだった。その美味しさにやみつきになり、今も目にすると、つい買ってしまう。
「シウマイ弁当を持って、新幹線に乗り込んで。......はじめのうちこそ、車窓に流れる風景を楽しんでいたけど、それもすぐに飽きて。シウマイ弁当を食べ終わる頃には、すっかり暇を弄んでいた。隣に座る母は眠り呆けていて、相手にしてくれない。通路を挟んだ向こう側の席に二人連れの若い女性がいて」
今では信じられないけど、当時はひどく社交的な子供だった。まったくの他人でも話しかけて、「ね、遊ぼう」と。そのときも、落書き帳と色鉛筆を握りしめて、二人に声をかけた。そして、「太陽の塔」の絵かき歌を披露した。
「こんなに鮮明に記憶しているのに」
千栄子は、手にしていたトーストを、いったん皿に戻した。
『それは、記憶じゃなくて、ただの妄想じゃないの? それとも夢を見ていたとか?』
母はそう言い切った。さらに、
『万博なんかには、行ってないから』
と、ほとんど怒鳴りつけるように言った。
その剣幕が恐ろしくて、あれきり、万博の話題を出したことはない。
でも、いつかはもう一度、訊いてみようと思っていた。
「ね、万博、行ったよね?」
でも、その機会を得ることはなく、母は去年、他界した。八十一歳だった。
その
「絶対、万博に行った」
でも、そう言い切れる自信はない。
アルバムを紐解いても、万博で撮られた写真は一枚もない。なにより、千栄子の記憶も、行きの新幹線の中で見知らぬ二人の女性に絵かき歌を披露したところで途切れている。
「......やっぱり、夢、だったのかな」
千栄子は、残りのトーストを口に押し込むと、さてと、と背筋を伸ばした。
そして、ノートパソコンを引き寄せると、それを開いた。
お気に入りのあの動画、更新されているだろうか?
+
【波乱万丈】頼子の孤独な終活【70代】
「なんか、最近、こういう波乱万丈系の動画、多いよね?」
高幡莉々子(たかはたりりこ)は、誰に話しかけるともなく、ひとりごちた。
いつものことだから、周囲の人も特に反応はしない。
新橋の雑居ビルの六階にある、法律事務所。
ここで働きはじめて十年になる。はじめこそは司法試験に挑戦していたが、今も挑戦している体(てい)を貫いているが、実際はとっくの昔に諦めている。事務職(パラリーガル)として一生を終えるのも悪くない。お給料だって、そこそこもらえるし。なにより、自分は裏方のほうが向いている、弁護士になったとしても、その多忙さゆえに続かない可能性が高い。だったら、はじめから......などとあれこれ合理化して、現状を受け入れている。
「なんです?」
珍しく、莉々子の独り言に反応する者がいた。後輩パラリーガルの藤村(ふじむら)だ。いや、パラリーガルともいえない、アルバイトだ。年齢は莉々子と変わらないアラサーだが、まだ学生だ。高校の教師をしていたがそれを辞めて法科大学院に入り、司法試験に挑戦している。ゆくゆくは検事になりたいらしい。学費をまかなうために司法試験の勉強の傍らバイトに明け暮れている......という苦学生だ。
「なにか、面白い動画、あるんですか?」
「いやだ。その言い方。まるで、仕事をサボって動画を閲覧しているみたいじゃない」
「違うんですか?」
「違う。仕事の一環。YouTuberの詐欺行為の事例を調べてんの」
「詐欺行為?」
「詐欺というか、詐欺未遂というか」
「で、今見ている動画はどんな?」
「七十代のおばあちゃんの動画」
「七十代の? 今はそんなお年寄りまで動画を配信する時代なんですね。すごいな」
「今の七十代といえば、まさに団塊世代。学生運動をやって、ミニスカートはいて、グループサウンズやフォークソングに熱狂して、ときにはヒッピーになって。バブル時代にはいちばん美味しい思いもした。思うほど、そんなにお年寄りではないんだよね。気持ちが若いというか」
「ああ、わかります。うちの祖父母がまさにそんな感じです。なんなら、僕より考えが革新的なんです」
「でしょう? だから、動画を配信するようなポジティブな人がいるのはわからなくはないんだけど。......でも、なんか、怪しいのよ」
「どこが?」
「類似動画が多いのよ。六十代○○子の年金生活とか、七十代未亡人○○子の崖っぷちな毎日......とか。いわゆる、VLOGなんだけどね」
「ブイログ?」
「ブログの動画版。多くは、日常的な風景を日記風に動画にしたもの」
「ああ、はいはい。一部で流行ってますね」
「で、二〇二〇年頃から、シニアのVLOGが急に流行りはじめて。でも、なんか、おかしいの」
「どんなふうに?」
「シニアのVLOGチャンネルは主に女性が配信しているんだけど――」
「うんうん」
「どれもこれも、
莉々子は、「シニア VLOG」で検索した動画チャンネル一覧を表示させて、それを藤村に見せた。
「うわ、本当だ。どれもみな同じだ。......っていうか、これ、全部違うチャンネルなんですか、本当に?」
「そう。全部違うの。なのに、ここまでそっくりなのよ。内容も、定型があるのかっていうぐらい、同じ。顔は出さないで延々と料理している動画に、困窮した生活状況や波乱万丈な人生を記したテロップが流れる」
「まあ、でも、そういうこともあるんじゃないですか? 例えば、僕がよく見ているペット系の動画もそうですよ。どこかのチャンネルがバズると、他のチャンネルもこぞって真似するんです。タイトルからBGMから字幕のフォントからカット割りまで」
「まあ、確かにね。そういうことはよくある」
「でしょう? だから、シニア系の動画でバズったチャンネルの後追いをしているだけじゃないですかね? 高幡さんもさきほどおっしゃったように、今のシニアは活動的ですから。再生数がとれるようなフォーマットを勉強しているんだと思いますよ」
「......そうかな? なんか、
「相変わらず高幡さんは、疑り深いな。生活に困窮しているからこそ、お小遣い稼ぎでせっせと動画を作っているんじゃないですか」
疑り深い? あなたのように信じやすい人より、マシだとは思うけど。思ったが、もちろん口にはしなかった。
気がつくと、藤村はもうそこにはいなかった。電話対応をしている。
「でも、やっぱり、違和感あるんだよね。特に、この動画チャンネル」
莉々子は、
【波乱万丈】頼子の孤独な終活【70代】
という名のチャンネルを改めて表示させた。登録者数十万超え。動画の平均再生数は十五万。再生回数百万を超える動画が十本。ライブ配信もしており、一回のライブで投げ銭は五万円以上。
「動画の稼ぎだけでサラリーマンの初任給以上の稼ぎがあるはずなのに」
相変わらず、「困窮」を前面に押し出している。昨日のライブも、「お金がない 助けて」を連呼していて、そのたびに投げ銭が舞った。
「これ、軽犯罪法第一条第二十二号に抵触していない?」
軽犯罪法第一条
左の各号の一に該当する者は、これを拘留又は科料に処する。
第二十二号
「
莉々子は、憮然と、パソコンのディスプレイを睨み付けた。
ディスプレイには、【波乱万丈】頼子の孤独な終活【70代】の、最新のサムネが表示されている。
『重大なお知らせ』
という真っ赤なゴシック体。
はいはい。よくある、釣りサムネね。「重大なお知らせ」とか「最後のご報告」とか「緊急事態発生」とか、意味ありげなコピーで視聴者を釣る。実際に再生すると、「チャンネル登録者数が一万人を超えました」とか「配信は今年最後になります」とか、なんてことはない内容。
だから、今回もその手口だろう。
再生してみると、いつもの、
「ほらね。やっぱり、ただの釣りじゃん」
テロップが流れてきた。
『頼子はみなさまに感謝いたします』
「なにが、感謝いたします......よ。なにが、頼子よ。絶対、偽物に決まってんじゃん。ほんと、こいつの正体、暴きたい」
Synopsisあらすじ
法律事務所で事務職をしている高幡莉々子は仕事の一環で見つけた、ある動画チャンネルに興味を抱く。「頼子」という70代の女が、困窮した生活状況や波乱万丈な人生を語る動画だ。投げ銭だけでも相当儲けているはずなのに、やらせじゃないの? ちょっとした好奇心から莉々子は次第に取り返しの付かない事態に巻き込まれていく・・・・・・。
Profile著者紹介
1964年、宮崎県生まれ。多摩芸術学園卒業。2005年『孤虫症』でメフィスト賞を受賞し、デビュー。11年に文庫化された『殺人鬼フジコの衝動』がベストセラーに。他の著書に『坂の上の赤い屋根』『さっちゃんは、なぜ死んだのか?』『ノストラダムス・エイジ』など多数。
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