君と歩いた青春 駐在日記月曜日の訪問者は、スキャンダル(前編)

〈昭和五十二年五月十六日 月曜日。
 医者の本分は病(やまい)を治すこと、もしくは命を救うことです。私は外科医をやっていましたから、大きな怪我を治すために、そして命を救うためにメスを握っていました。ですから、自分の仕事は常にひとりの人間を相手にしていました。
 でも、周平(しゅうへい)さんたち警察の人たちは事件というものを仕事にしていました。事件は、大抵は多くの人の間に起こります。どんなに少なくても加害者と被害者がいる限りは二人以上の人間が関わります。そして、もっともっとたくさんの人たちが関わって大きな事件になってしまったものもたくさんあったはずです。
 警察官の妻になった以上は、そういう大きな事件に関わってしまうこともあるのではないかと思っていました。
 その反面、田舎の駐在所暮らしなのだから、そんな大きな事件が村で起こるはずもないと思っていました。
 実際、今日というか、この五月に村で大きな事件が起こったわけではありません。表向きには何も起こっていません。
 ただ、人の出入りがあって、そしてひとつの人間同士の争いや憎しみや愛情や、そういうものが、複雑に絡み合い、雉子宮(きじみや)で終わりを告げました。
 表には決して出ないのでしょう。誰かが出させないのでしょう。周平さんも事件として報告はしませんし、できません。その忸怩(じくじ)たる思いは推し量ってあまりあります。私も、こうして日記にも詳しいことは書かないでおきます。書けません。
 でも、書いておきます。今日五月十六日に、雉子宮で、ひとつの、たぶん、愛が終わったことを。〉

 昨日の夜遅くに雨が降って、今朝は雲ひとつない晴れになっていました。雨はたくさん降るとちょっと嫌になってしまうものですけど、こうして空気中の塵(ちり)なんかをきれいに洗い流してくれる気がして、本当に今朝はいちだんと朝の空気がきれいに感じます。
 二年前の春に初めてここにやってきたのですから、三度目の春。
 五月になって季節は深まり、気温もどんどん上がってきて、やがてやってくる初夏の匂いも感じさせます。
「うん」
 いつものようにものすごく姿勢良くまっすぐ上を向いて寝ている周平さんを横目で見ながら朝起きて、そっと部屋を出て着替えてから、駐在所の扉も台所の窓も開け放ちます。
 古い古い江戸時代から続く建物を使っている駐在所ですけど、圭吾(けいご)くんが一緒に暮らすようになってからどんどん便利になっていっています。
 お風呂を桶(おけ)から全部作り直して、大人二人が一緒に入れるほどの檜(ひのき)のお風呂にしたのもそうですけれど、窓や玄関などの扉に、網戸も作ってくれたのです。これはとても素敵で助かりました。
 これで、普段は開けっ放しにしている駐在所の表の扉から虫が入ってくることもなくなったし、台所に入ってくる蝿(はえ)や小さな羽虫なんかもほとんどいなくなりました。
 去年の夏などは暑くて寝苦しくて窓を開け放っていた夜には蚊帳(かや)を吊って寝ていたのですが、今年の夏は蚊帳もたぶん必要ありません。
 もっとも、古い家ですからあちこちに隙間などがあってそこから虫が入ってくるのはどうしようもなく、今度は床板の張り替えなんかもやってみるかな、と圭吾くんが言っていました。
 でも、せっかく長い時間を掛けて黒光りする風情のある板の間ですから、そこがまったくの新品になってしまうのはどうなのかなぁ、とも思っていて、悩ましいところです。
「おはよう!」
「おはよう」
 私が起きるとほとんど同時に早稲(わせ)ちゃんも起きてきます。二人で、朝ご飯の支度です。
 圭吾くんも寝起きはすごく良くて早稲ちゃんが起きるとすぐに起きてきますし、この四人の中でいちばん遅く起きるのは周平さんです。
 でも、寝ているときに電話があったり物音があったりするといちばんすぐに跳び起きるのも周平さんなんですよね。これは警察官の習性みたいです。
 圭吾くんと早稲ちゃんが新しいトースターを買ったので、近頃の朝ご飯はいつもトーストです。スクランブルエッグやベーコン、ハムを焼いたり、マカロニサラダを作ったり。どっちかと言えば和食党だった周平さんも、すっかりそういう洋食の朝ご飯もいいもんだな、と言ってます。
「ミキサーがあればスープとか作るのもきっと楽よね」
「そうね。でもなくても大丈夫だけどね」
 うちの母が、あったら便利なものはなくても平気、と節約の心得を言っていました。便利な器具は確かに便利だけれど、それまでなくてもやってきたものはできるだけそのままでやっていけば節約になるのだとか。
 新婚さんである圭吾くんと早稲ちゃんは、いつか自分たちの新居で使うためのいろんなものを少しずつ買い揃えているのですが、台所用品などはそれを私も使わせてもらっているので、何だか申し訳ないし、いつか二人がここを出ていったときに不便さを感じてしまったら困るなぁとも思っています。
 開け放った窓から野鳥の声が聞こえてきます。いつものことなのですが、朝は特によく聞こえるように思います。
「いただきます」
 ご飯ができたところで、四人でテーブルについていただきますをします。ラジオを点(つ)けて、朝のニュースや番組を聞きながらご飯を食べます。
 ニュースは、特に周平さんは駐在所勤務であっても事件などを把握しておきたいので、いつも聞いています。
「ここんとこ、この辺のニュースばかりだよねー」
 圭吾くんがトーストを齧(かじ)りながら言います。
「大事件だもんね」
 早稲ちゃんも言いながら頷きました。
 とても大きな収賄疑惑、そして汚職事件のようです。世界的な大企業と日本の政治家が癒着して、飛行機やら自動車やら様々なものを国家的に導入するにあたって、とんでもない大金が裏取引をするためにその間で行き交っていたとか。
 発覚してけっこう経ちますが、いまだ全容が解明できずに政界も経済界も本当に大騒ぎになっています。総理大臣の辞任にまで発展するのではないのかと、ニュースでも言っていました。
「汚職事件とかは、周平さんは管轄じゃなかったんでしょう?」
 早稲ちゃんが訊くと、周平さんは小さく微笑んで頷きました。
「そうだね。基本的には僕は捜査一課で扱うような殺人とか強盗とか、そういう物騒で危ないものの担当だったから」
「でも、この政治の汚職事件とかでもさ、誰かが口封じに殺されたかもしれない、とかなったら、周平さんたちも動いていた?」
 そうだね、って頷きます。
「もうこんなに大きな事件だったら警察はどこもかしこも動くことになるかな。そしてその事件に関連して他殺と思われる死体が出たんだったら、それはもう捜査一課の仕事になるね。捜査本部が置かれてひとつの大きなチームになって、それぞれが担当毎に動くよ」
「病院と同じよね。大きな手術はチームになってやるんでしょ?」
 早稲ちゃんが私に言います。それも、その通りですね。
「同じかもね。医者はそれぞれに専門分野があるから、本当に複雑に絡み合った手術だったら、たくさんの医者が集まってチームでやるから」
 普通の手術であっても、麻酔医がいて外科医がいます。もちろん手術を担当する看護婦さんも。
「どの仕事もそうだよね、専門の人たちが集まってこそいいものが出来上がっていくんだから」
「神社だって神主さんと巫女(みこ)さんがいなきゃね」
「そうそう」
「犬も猫がいなきゃ?」
 ちょうどミルがチビとじゃれついていたところでした。ミルとチビは年が近いから仲がいいのか、よくじゃれあっています。
「とりあえず、こんな大事件がここの駐在所まで影響を与えることはないけれどね」
 周平さんが言って笑います。駐在所での仕事は、ここに住む人たちの安全を守ること。大きな事件など何も起こりません。
「でもこの間の、山狩りはびっくりしたけどね」
 早稲ちゃんが言って、皆であぁ、と頷きました。隣りの唐上(とうじょう)市で銀行強盗事件が起こって、その犯人が逃走して山の方に逃げていったのですよね。目撃証言があったので、周平さんと圭吾くんはもちろん雉子宮の消防団が、つまり比較的元気な男の人たちが集まって山の捜索をしたのです。
 結局さらに山向こうの町で発見されて逮捕されました。これでもしも犯人がここの山で見つかったなら、誰かが怪我でもしたら大変だと思っていたのですが、何事もなくて皆でホッとしていたのです。
「真面目にきちんと働いてこそ、幸せな人生を送れるのに、どうしてそういうことをしちゃうのかしらね」
 早稲ちゃんが顔を顰(しか)めて言います。その通りですよね。
「そうなんだよね」
 周平さんたち、警察の人たちが毎日毎日暇で暇でどうしようもなくて、給料泥棒と呼ばれるような世の中がいちばんいいんですけれど。
「ごちそうさまでした」
 朝ご飯が終わると、それぞれに支度をして仕事へ向かいます。
 周平さんはジープに乗ってパトロールへ。圭吾くんはミルを連れて散歩と一緒に〈雉子宮山小屋〉に向かい、早稲ちゃんは神社へ行きます。ミルは一匹で山を駆け回って遊んで、駐在所へ帰ってくることをきちんと覚えました。
 私は、一人で駐在所の留守番をしながら、家の掃除です。毎日のことですけれど、ここの家は広いので、一週間のお掃除は今日はここを掃除する、と順番を決めてやっていきます。駐在所から遠い部屋や表の掃除をしているときに電話が入っても拙(まず)いので、その辺りは周平さんがいるときにやることにしています。
 毎日毎日きちんとやるべきことをやる。そうすることで、毎日の生活は心豊かになっていくものだと思います。
 もっとも、そんなふうに思うのもここで過ごすようになってからです。横浜での外科医としての日々は、もちろん一生懸命仕事をして生きていましたが、自分の心のありように気を配ることなど考えもしませんでした。

      ☆

 夕方になって急に気温が上がったような感じです。
 この辺では晴れた日にはよくあることなのですが、陽が少し沈んできて山に陽射しが強く当たるようになると、跳ね返りの陽光が村全体に射していって気温が上がるように感じるのだそうです。周平さん曰く、横浜でいうとビルの窓に陽が当たって暑いのと同じだね、と。なるほど、と私も納得したものです。
 周平さんは今日の日報を書いていて、神社の周囲の森の木の伐採について神主の清澄(せいちょう)さんと打ち合わせをしてきた圭吾くんは、仕事が終わった早稲ちゃんと一緒に神社から戻ってきていました。
「ミルの散歩に行ってくるよ」
「あ、お願いします」
 圭吾くんが言って、ミルを呼ぼうとしたそのときです。バイクの音がしてきて、その音がだんだん近づいて駐在所の前で停まるのがわかりました。
「昭憲(しょうけん)さんかな?」
 圭吾くんが言います。
 皆でたぶんそうだね、と頷きながら外を見ると、野良着姿の昭憲さんが五十CCのバイクから降りる姿が見えました。住職としての用事ではないようで、袈裟(けさ)は着ていません。
「珍しいね、ここまで来るの」
 周平さんが言って、書類書きをしていた手を止めました。
「やれ、どうもどうも」
 扉を開けて、昭憲さんが笑みを浮かべながら入ってきました。
 昭憲さんのいる長瀬寺(ながせでら)にも畑があって、自分で食べる分だけの野菜などを作っているので、檀家を回るとき以外は野良着姿でいることが多い昭憲さんです。
「お久しぶりです昭憲さん」
 周平さんが立ち上がって迎えました。
「いやこちらこそ」
 昭憲さんが手を合わせて私たちに言います。
 あの事件があったのは私たちがここに来てすぐの頃でした。あれから少しの間、どうにも気まずい空気が周平さんと昭憲さんの間には漂っていたのですが、もう時間も経った今はごく普通になっています。
「蓑島(みのしま)さんではなくてね。山小屋に行ったら、圭吾くんがこちらに戻っていると聞いてね」
「あ、僕にですか」
 圭吾くんに用事があったのですか。どうぞどうぞと早稲ちゃんがソファを勧めます。私は台所から麦茶を入れて持ってきました。
「今日は何だか急に暑くなってきたね」
「そうですね。ここのところ急に夕方の陽射しが熱くなってきましたね」
「何か毎年のように気温って上がってるような気がしませんか? 山に入っているとよく思うんですよね」
 圭吾くんが言います。
「そうだね。私が小さい頃はこの辺も冬はもっと雪が積もっていたしね。夏は涼しかったような気もするが」
「たぶんですけど、地球全体がそうなんだと思いますよ」
 周平さんが言います。
「地球の歴史では、氷河期があって暖かくなったわけで。それが続いてどんどん気温が高くなるそうです」
「そんな話していたわね」
 この間も、NHKのテレビ番組でやっていました。
「まぁ少なくとも私が生きているうちにはそんなに変わらんだろうけどね。それで、圭吾くんね」
「はい」
「今、〈雉子宮山小屋〉の近くに小さな山小屋を作っているだろう。何だかログハウスだったか」
 そうですね、と、圭吾くん頷きます。
「あれは、もう完成していて、人も泊まれるって聞いたんだが」
「泊まれますよ。まだ営業開始はしていませんけれど」
 将来はログハウスを造ったり販売したりする仕事をやりたいと思っている圭吾くん。その下準備で、〈雉子宮山小屋〉の近くの土地を切り開いて、ログハウスを自分一人で造り上げました。
 とても美しい立派な建物で、あれがお手頃なお値段で手に入るのなら、私たちも欲しいぐらいだねと周平さんとも話していました。
「まだ二人で泊まるのが精一杯ですけどね」
「炊事もできるのかい」
「水道は通ってるし、ガスはプロパンです。コンロも置いてあります。ただトイレはまだ準備中で、山小屋のを使わなきゃならないですけど」
「〈雉子宮山小屋〉のトイレには、外からも入れるようにしたものね」
 早稲ちゃんが言って、圭吾くんも頷きました。
「じゃあ、とりあえず生活はできるんだね? そのログハウスで」
「できますね。多少不便ですけれど」
 何の話になるんだろう、という顔を圭吾くんがします。私も周平さんも早稲ちゃんもです。
「いや、実はな。私の直接の知り合いではないんだが、ある人に頼まれて、この辺で部屋を貸してくれんかとな」
「部屋、ですか」
 雉子宮にはアパートなどはありません。川音川(かわねがわ)向こうの鉤崎(かぎさき)に行けば少しはありますけれど。
「うちの寺のどこでもいいからしばらくの間、人を置いてくれないかとね。寺なら静かな環境だからいいんだが、と言われてな」
 お寺にですか。
「静かな環境というと、そういうものが必要な人なのでしょうか」
 周平さんが訊くと、昭憲さん、小さく頷きました。
「どうもそうらしい。これもな、村の皆には内緒にしてほしいそうなんだが、小説家らしいんだ」
「小説家!?」
 早稲ちゃんと二人で同時に繰り返してしまいました。
 横浜時代にはいろんな人の手術をしましたが、そんな職業の人には会ったことがありません。
「小説家の方が、雉子宮に来て何かを書くんですか?」
 早稲ちゃんです。
「そうなんじゃないかと思うんだが、何せすべてを内緒にしてほしいとの話でな。ここでこの話をするのも、この五人の中での秘密にしてほしいんだよ。他の誰にも、まぁ清澄と山小屋の哲夫(てつお)はしょうがないとしてね」
 すべてが内緒ですか。
 周平さんが唇を少し歪ませました。
「何か、その作家さんは特別なものを書くためなのでしょうかね。誰にも邪魔されずに、知られずにすむ環境を手に入れたいと」
「そういうことなのかな、と私も思ったんだが、寺には確かに部屋はあるが、何せ私一人で暮らしている。世話など何もできないしそもそも寺には人が集まるんでね」
「そうですよね」
 檀家の皆さんがよく集まっています。
「縁起でもないですけど、お葬式とかね」
「法事とかね」
 いろいろお寺にはあります。
「そうなんだよ。かといって、空き家になっている農家を貸したところで修繕やら何やらで大変だ。そうすると〈雉子宮山小屋〉のログハウスのことを思い出してね。あそこなら、それこそ本当に誰一人来ない」
 圭吾くんが頷きます。
「その通りですね。近くにいるのは僕と叔父さんだけですし、それも夜にはいなくなります」
 私も行ったことはありますが、聞こえるのは鳥や虫の声だけです。静かといえばあれ以上静かな環境はありません。
「むろん、お金は払うそうなのだが、どうかな。あそこをそういう人に貸せるかな」
 圭吾くんと早稲ちゃんが顔を見合わせました。
「特に使ってはいないので、貸すことは簡単ですけど。でも、本当に何もありませんよ。ベッドは作ってありますけど布団もないし、茶碗ひとつないですけど」
「布団ぐらいは寺にあるからね。それでいい」
「いや、布団はここから持っていけばいいよ。その方が近いし」
「家財道具というか、炊事道具もここにはたくさん余っているから持っていってもいいですよ」
 茶碗もお皿もたくさんあります。
「お風呂とかは、ここかしら」
 早稲ちゃんが言うと、昭憲さんもちょっと渋い顔をしました。
「そうだな。その辺は、ここがいちばん近いといえば近いし、駐在所だから安全だろうしな」
 ふぅむ、と皆で首を捻ってしまいました。
「昭憲さんも何ひとつわからないけど、その頼まれた人にはちょっとした義理があって、その頼みを聞いて、貸してあげなきゃならないんですね?」
 周平さんです。
「そういうことなんだよ。とにかく、誰にも知られずにということでな。どうかね、頼まれてくれないかな圭吾くん」
「そういうことなら、いいですよ。料金も格安にしておきます」
「いや良かった。何でもすぐにでも来るということだから、明日にでも準備しておいてくれると助かる」
「炊事は、自分でやられるんですか?」
 早稲ちゃんが訊きます。
「その小説家さんとな、あとは秘書みたいな女性と二人で来るそうだ。車もあるそうだから買い出しは自分たちでできるし、準備さえしてくれたら後は何も構わんでいいと」
 男女なのですか。
 謎の小説家が、やってくるんですね。

「どんな人が来るんだろうね」
「うん」
 夜になって台所で早稲ちゃんと、ログハウスに運ぶ食器などを選んで段ボールに詰めながら話していました。
「不思議なお話よね。小説家がわざわざこういうところまで小説を書きに来るなんて」
「そうよね。そんなことってあるのかしら?」
「わからないわねー」
 小説家に知り合いはいません。そもそも小説家がどういうふうに小説を書くかなんて、私たちにはまったくわかりません。
「秘書って言っていたけど、きっと恋人か何かよね」
 早稲ちゃんが言いますけど、それもわからないですね。
「よくホテルに缶詰めになる、なんて話は聞くけれどね」
 それならばわかりますけど、こういう不便な田舎にやってきてまで書くものっていったい何でしょうか。
 駐在所の電話が鳴りました。
「あ、ごめんね」
「うん」
 すぐに駐在所に行きます。周平さんがいるので電話応対はしますけれど、妻である私も電話の内容は常に知っておかなきゃならないからです。
「はい、雉子宮駐在所」
 周平さんが電話に出ます。
「あぁ。お疲れ様です」
 すぐに笑顔になって私をちらりと見て軽く頷きました。ということは、事件や事故などの電話ではないということです。
「はい、元気です。もうすっかりこちらの人間ですよ」
 きっと松宮(まつみや)警察署の坂下(さかした)警部か、あるいは横浜時代の先輩、都筑(つづき)署の田畑(たばた)さんでしょう。ああいう笑顔で話すのはそのどちらかです。
「え?」
 少し驚いた顔になりました。
「本当ですか。そりゃすごい」
 すごいんですか。でも喜んだふうではありません。顔を顰めています。
「それ、メモしておく必要はありませんね。はい、はい。そんなにですか。いや芸能界始まって以来じゃないですか?」
 芸能界。何でしょう。
「ええ、あぁそうですね。はい。なるほど」
 何かメモを取り出しました。
「あくまでも、そちら側の配慮ってことですね。わかりました。いやそれにしても驚きですね。まさかこれ、バタさん」
 やっぱり田畑刑事ですね。
「大騒ぎにするためのものじゃないでしょうね? 考えられますよね」
 首を捻っています。
 周平さんの様子からすると相当な出来事があったようですけれど。
「わかりました。連絡ありがとうございます。そうですね、僕らがそんなふうに考えてもどうしようもないですね。そのときが来るまで保留事項にしておきます。ありがとうございます」
 それから少し雑談めいた話をして、電話を切りました。
「バタさんからだった」
「お元気でしたか?」
「いつも通りだったよ」
「何か、共有しなきゃならない情報は」
 周平さんが一度首を横に振りました。
「今は、ない」
「今は?」
「詳しいことは明日の朝刊を見たら、わかると思う。とんでもないことが起きたよ。ひょっとしたらこの後のテレビのニュースでもやるかな? きっと今は新聞社もテレビ局も大騒ぎしていると思う」
「大事件、ですか」
「大事件だけど、実は僕らからするとそうでもない」
 大事件なのに、そうでもないんですか。

「えええっ!!」
 早稲ちゃんの声が響きました。先に新聞を取って一面を見た私も思わずそういう声を上げそうになったので、早稲ちゃんならきっと叫ぶだろうと思っていました。
「どうした?!」
 一緒に起きてきた圭吾くんもやってきます。
 駐在所のテーブルの上に、新聞を広げました。
「ええっ!」
 トップニュースというものです。
〈芸能界マリファナ汚染摘発〉
 マリファナです。
 麻薬と一般的に呼ばれたりもしますが、正確にはまったく違うものですけれど、大きな意味では麻薬です。
「ちょっと! 大神義男(おおかみよしお)に絹敬子(きぬけいこ)!」
「坂之上単剛(さかのうえたんごう)に賢木(さかき)ジョーって、なんだよこれ!」
「えっ! 篠崎詠美(しのざきえいみ)も?」
 早稲ちゃんと圭吾くんが口々に記事内に書かれていた芸能人の名前を読み上げました。あまり詳しくない私でも知っている人ばかりです。
 そういう人たちが芋づる式に逮捕されたのです。
「あ、でも賢木ジョーと篠崎詠美は逮捕されていないのか。名前が上がっただけ?」
「名前が上がったってことは、使っている仲間だったってことでしょ? わー、すっごいショック」
 周平さんが昨日の夜の電話で知ったのは、これだったのですね。
「マリファナって、とんでもないんでしょう? 花さん」
「うーん」
 確かにとんでもないのですが、ちょっと微妙なところです。
「マリファナって、大麻なのね。確かに麻薬として知られているけれど、その昔は薬としても使われていたものだからね。正直言って毒性という点で言えばもっとヤバい植物はたくさんあるから」
「そうなの?」
「そうよ」
 私は外科医で、薬物に関してのプロではないけれども。
「私もそんなに詳しいわけではないけれども、常習性、止められないという点では普通の煙草、つまりニコチンね、それにアルコール、お酒ね。そっちの中毒の方がよりひどいというのはもう研究がされているみたい」
「そうなの?」
「まぁ普通に吸っている国はあるし、昔っからやっている人はたくさんいるよね」
 周平さんも起きてきました。新聞を読んで大騒ぎするだろうってわかっていたんですね。
「でも、逮捕されますよね」
「される。法的に禁止されているからね。いやそれにしても大きいね、扱いが」
 広げた新聞に目をやって、周平さんが言います。
「昨日の電話は、この件だったのね」
「そう。ちょっとね、これに関してはいろいろあるので、確認の電話が掛かってきて」
「確認って?」
 首を横に振りました。
「言えないんだ。そのときが来ないとね。あとね、早稲ちゃん」
「え? なに?」
「ファンの人たちは嘆き悲しむかもしれないけれど、この摘発はひょっとしたら裏があるかもしれないから」
「裏?」
「裏?」
 周平さんが唇を歪めました。
「確かにマリファナを吸っていたのは困ったことだし、今後は絶対にやってほしくはないけれども、こんなに大騒ぎする必要があるのかどうかってことだよね。これが普通の一般人だったらこんな記事にならないだろう?」
「そうね」
 ならないと思います。
「せいぜいがこんな小さな記事で終わり。芸能人だから大騒ぎする。僕の同僚だった刑事が言っていたんだけど、何か隠したいものがあったのかもしれないなって」
 隠したいもの。
「まさか、あの汚職事件?」
 圭吾くんが言います。
「汚職事件から世間の目を逸らすために、わざわざ芸能人のマリファナ事件を公にしたってこと?」
「そんな」
 周平さんが、肩を竦めました。
「実は以前から僕のいた横浜の署でもこのネタを持っていたんだ」
「持っていた?」
「賢木ジョーは横浜出身だからね。彼が若い頃からそういうものをやっていたっていうのは、正直なところ昔からの仲間だったら皆が知っていたことなんだ」
「そうだったの?」
 周平さんが頷きます。
「それを今頃こんなふうに出すってことは、何かあるってね。でもまぁ騒がないようにって確認の電話をくれたんだ」
 そうだったのですね。
 それにしても、です。

君と歩いた青春 駐在日記

画・新目惠

Synopsisあらすじ

時代は1977年。神奈川県の山奥にある雉子宮駐在所に赴任した、元刑事の簑島周平と、元医者の花夫妻。優しくて元気な人ばかりのこの村だが、事件の種は尽きないようで……。
「東京バンドワゴン」の著者が贈る、レトロで心温まる連作短篇ミステリー。

Profile著者紹介

小路幸也
一九六一年、北海道生まれ。二〇〇三年、『空を見上げる古い歌を口ずさむ pulp-town fiction』でメフィスト賞を受賞しデビュー。代表作「東京バンドワゴン」シリーズをはじめ著作多数。魅力的な登場人物と温かな筆致で、読者からの熱い支持を得ている。

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