君と歩いた青春 駐在日記月曜日の訪問者は、スキャンダル(後編)


 小学校へ向かう子供たちの朝の登校を見守ってから、早稲(わせ)ちゃんと圭吾(けいご)くんと三人で、やってくる小説家と秘書さん二人分の食器や炊事道具などを抱えてログハウスまで歩いていきました。
 テレビのニュースでも一斉に芸能界マリファナ汚染のことを取り上げていたので、もう日本中でこの話題で持ち切りのはずです。
 途中、農村風景とでもいうべき長閑(のどか)な景色が見えますけれど、きっとあの家々でもその話題でもちきりなんだろうなぁと話していました。人口密度がほとんどないこの雉子宮(きじみや)ですが、遠くに見える、作業の合間に立ち話をしている人たちもその話をしているような気がします。
「子供たちが訊いてきたら親はどうやって説明するんだろうね。『あの人たちどうしたの?』って」
 圭吾くんが言います。
「難しいね。役者さんのことを知ってる子供たちもたくさんいるだろうしね。ひょっとしたらファンの子もいるだろうし」
 早稲ちゃんが顔を顰(しか)めながら頷(うなず)きました。
「素直に教えるしかないと思う」
「素直に」
「ただ、事実を教えるの。マリファナとはこういうもの、法律で禁止されているもの、それを使ってしまったのだから警察に逮捕された。悪いことをしたから、捕まった。そういうふうにね。そして、わからないことも素直に言うの。お父さんお母さんもわからないって」
「わからないというのは」
「たとえば、どうしてマリファナなんて悪いことってわかっているのに使うの? って訊かれたらね。わからないでしょう? だからそれも素直に言う。わからないって」
「それは、病院での経験から?」
 頷きました。
「もちろん、子供だからこそ隠しておいた方がいいと判断するようなこともあるんだけど、でも、子供って本当に大人のそういうものを敏感に感じ取るのよね」
 何度も経験があります。今でも思い出すとそのときの辛さや苦しさがよみがえり胸が痛むようなことも、ありました。
「死んじゃったらどうなるの? なんて問いには答えられない。だから、お医者さんもわからないんだって言うしかない。わからないけれど、私たちは一生懸命誰も死なないように頑張るんだよって。だから、一緒に頑張ろうって」
 いつか二人も、私もですけれど、子供を持つ親になるかもしれません。
「そのときには、そうしようってずっと考えているの」
「そうだね」
 圭吾くんが頷きました。
「あれかしら、さっき周平(しゅうへい)さん言ってたけど、昔マリファナを吸っていた程度のものだったら警察も放っておくのかなぁ」
 早稲ちゃんです。
「そもそも周平さんは管轄(かんかつ)が違っていたからね。ひとくくりにはできないけれど、横浜は外国人の方も多いし、アメリカの軍関係者も多いし。マリファナとかその辺の話は確かによく聞いていたわ。病院に担ぎ込まれた人もいたわね」
「いたんだ」
 いましたね。
「ミュージシャンとか、芸術関係の人たちとかの話は聞くね」
「昔はヒッピーとかそういう人たちはよく吸っていたんでしょう?」
「そうなのかな」
 私も聞いたことがある程度の昔の話です。
「麻薬とかもそうだろうけど、周平さんってさ、横浜の刑事時代はもっと想像もつかないような悲惨だったりひどかったりする殺人事件なんかも担当していたんだよね」
 圭吾くんが言います。
「そうね」
 そのはずです。事件の話など聞かせてもらったことはほとんどありませんけれど、拳銃を持った犯人と銃撃戦をしたこともあったはずです。その中で、犯人を撃ったことも。人を殺して平気でいるような犯人と相対したことも。
「でも優しいよね周平さん。そういうのを知っているからなのかな。知っているからこそ、優しくなれるのかな」
 早稲ちゃんも頷きながら言いました。
「そうかな」
 そうなのかもしれません。
「そういう意味では私は優しくないかも」
「えっ、何で」
「花さんはお医者さんで、人の命を救ってきたのに優しくないの?」
 ちょっと笑ってしまいました。
「優しくないっていうのは、まぁ冗談だけど、でもね、医者って確かに人の命を救ったり病気を治す仕事をしているんだけれど、善悪の判断なんかしないから」
「善悪」
「たとえば今にも死にそうな重傷を負った患者さんがいたら、私は必死でその怪我(けが)を治そうとする。生かそうとする。たとえその人が、何十人もの人間を殺した極悪非道な犯人であっても」
 そこに、救える命がある限り、それを救う。それが、医者の仕事。使命。
「ただ、そこにある命を救うだけ。救ったなら生きていてほしい。ただそれだけのことで、優しいとかじゃないの」
「そうか」
「私ね」
 ここに来る前の話です。
「入院していたでしょう? この傷で」
 右手を上げました。知っている早稲ちゃんも圭吾くんも頷きます。
「その事件で二人は知り合ったんでしょ?」
「そうなの。その頃にね、周平さんとそんな話をしたことがあるの。周平さんがもしも凶悪な殺人犯を銃撃戦の末に撃ってしまってとして、まだその人が生きていたらもちろん病院に運んで命を救おうとする。でも、その犯人の命を助けようとするのは、救うためじゃなくて逮捕するためだって」
 うん、って二人が頷きました。
「優しさとかじゃなくて、逮捕してそいつに罪を認めさせるためだけに、その命を救うんだね」
 そういうことです。
「周平さんが言ってた。もしもの話だけれど、その犯人がたとえ命が助かって逮捕できたとしても、絶対に罪に問われないことがわかっている場合があったとしたらね」
「うん」
「周平さんは、僕ならそのままそいつを殺すかもしれないって言ってた」
「殺すって」
「放っておけば死ぬんだったら、そのまま放っておくかもってことね。助けようと病院に運ぶことなんかしないような気がするって。それは正しいことか、正しくないことか。刑事としてどうか、人としてどうなのか。なんて、そういう話をしたわ」
 うーん、って圭吾くんが唸(うな)ります。
「ものすごいヘビーな話だね」
「私の事件が、そういう重たい事件だったせいね。親しくなるにつれてそんな話をよくしていた。医者であり被害者である私と、刑事である周平さんと」
 私を傷つけた犯人は、ある意味では被害者でもあったのだから。
「それは違うでしょう? 確かに花さんが手術した人は死んでしまったんだろうけど、それは花さんのせいではないんだから」
「でも、その人にとっては、私は自分の家族を殺した人間としか思えなかったというのは、わかるから」
 人の命とは、正義とは、被害者とは、犯罪者とは、罪とは、罰とは。
 そんな話を、あの頃に病院のベッドで、お見舞いに来てくれていた周平さんとよくしていました。

 圭吾くんが一人で建てたログハウスに入るのはこれで二度目。前に来たときにはまだ未完成のところもあったんですけれど、すっかりできあがっていました。
「きれいね!」
 木の香りが素晴らしく心地良いです。
「それこそ小説家ならここでずっと書いていられるかも」
 なったことないからわからないですけれど、環境としてはとてもいいと思います。机はないですけれど、真ん中に置いてあるテーブルが大きいのでここで書けるのではないでしょうか。
「コンロは点(つ)くし、鍋も一式あるし、茶碗や皿に箸(はし)にコップもある」
「お米や調味料も一通り揃った。後は必要なものは買ってきてもらう、と」
 ひとつひとつ指差しながら圭吾くんと早稲ちゃんが確認していきます。
「冷蔵庫、持ってきておいてちょうどよかった」
 圭吾くんが以前の自宅で使っていたものですよね。うちで早稲ちゃんと暮らすようになって不要になったものを取っておいてここに運んだものです。
「本当にないのはお風呂だけね。十分暮らせる」
 お部屋がひとつしかないのはどうしようもないですけど、ロフト、と言うんだそうですけれど、梯子(はしご)で昇った先に壁のない屋根裏部屋のようなものが造ってあって、そこにベッドが置いてあります。
「二人でしばらく泊まるのには十分よね」
 早稲ちゃんが言います。
「そう思う」
 圭吾くんはそのまま山小屋、早稲ちゃんは神社、私は駐在所に戻って周平さんがジープに乗ってパトロールに出掛けるのを見送ります。今日は山の方も昇って廻ってくるので、ジープで行ったんですね。
 晴れていて、村の中を廻るだけだったらオートバイや自転車を使うことが多いです。特に近頃周平さんは自転車を使うことが多くなりました。何でも、身体がなまってきているのがわかるとか。それと、少し太ったことも。
 大きな署にいるときには訓練で柔道とかもできたので身体がなまるということもなかったんですけど、こちらに来てからはとにかく何も身体を鍛(きた)えることができません。それで、自転車で走り回って体力をつけた方がいいと思ったみたいです。
 留守番の私は、家の掃除も終わってお昼ご飯をどうするか決めると、しなければならないことがない時間があります。
 犬のミルや猫のヨネ、クロ、チビと遊んだりすることもちょこちょこあるのですが、腕や指の運動機能回復、リハビリテーションにあてることもあります。
 知人の医師に頼んでやり方を教えてもらったり専門の本を取り寄せてやっていたりもするのですが、正直なところ、もう完全に元には戻らないとあきらめている部分もあります。
 手術から二年が過ぎて、ようやく人に見せても恥ずかしくない程度の字が、それでも子供の書いたような字ですけれど書けるようになったり、お箸を不自然じゃないように持てるぐらいには回復しましたけれども、自分の体なのでよくわかります。
 メスを持つことは、まだできません。とても精密な動きをさせることは無理です。ようやく包丁で自分の手を切らない程度になったぐらいです。それでも、動かないわけではないのです。日々たとえ一ミリでも進んでいるのだと信じて、やり続けるだけです。
「ただいま」
「お帰りなさい」
 いつものように、お昼前に周平さんがパトロールから戻ってきます。
「特に何もなし、かな」
「はい」
 壁には、周平さんが作った雉子宮の地図が張ってあります。人が通る山の道なども記入されていて、圭吾くんにも手伝ってもらって崩れたり危ない兆候があった箇所にはきちんとメモを貼っておくようにしてあります。
 後から圭吾くんにも確認しますけれど、今日は今のところ何もなし、ですね。
「お昼ご飯はスパゲティにします」
「うん。ナポリタン?」
「そう。ベーコンとソーセージを入れて」
「いいね」
「もう少ししたら早稲ちゃん戻ってくるから、それから麺を茹(ゆ)でるね」
 圭吾くんは早稲ちゃんが作ったお弁当を持って山に入っているので、もしも謎の小説家と秘書さんがやってきたら、早稲ちゃんか私が対応することになっています。
「早稲ちゃん、来たよ」
 窓のところにいた周平さんが言いました。そこから神社の長い階段が見えるので、降りてきたらわかるんですよね。
「あ、来た?」
 じゃあ、と台所へ行こうとしたときに、車の音が聞こえてきました。周平さんも私も正面の方の、道路が見える窓の方を見ます。滅多に車が通らないところですから、バス以外のエンジン音が聞こえると反射的に確かめてしまいます。
「クラウンだね」
「クラウン?」
 車の名前ですね。山吹色の大きな車が走ってくるのがわかりました。
「前の型だね。十年ぐらい前のものじゃないかな」
「そうなんだ」
 仕事柄、周平さんは車にも詳しいです。ただし、名前や形だけで、エンジンがどう、とかはわからないそうです。昔の仲間の刑事さんの中には、エンジン音を聞くだけで車種を当てる人もいるそうですけれど。
 かなりゆっくり走っています。そのままゆっくりと駐在所の前を通り過ぎたと思ったら、急に停まってUターンして戻ってきました。
 まったく車通りのない道路ですから許されますけれど、本当は危険な運転です。ちょうど巫女(みこ)さん姿の早稲ちゃんもやってきて、駐在所の前でその様子を見ています。
「ひょっとして」
「謎の作家かもね」
 周平さんと二人で顔を見合わせ頷きました。ゆっくりと走って、山吹色のクラウンが駐在所の前に停まりました。助手席の窓が開けられて眼鏡をかけた女性が顔を出して早稲ちゃんに何か訊いています。
「どうぞー!」
 早稲ちゃんの大きな声が聞こえました。やっぱりそうなんでしょう。謎の作家さんと秘書さん。
 エンジンが止まって中から降りてきた運転していた男性は、濃紺のスーツを着てサングラスをかけています。髪の毛は短めで、身長の高い方ですね。周平さんはかなり大きいのですけど、ひょっとしたら同じぐらいかもしれません。
 女性も、比較的背の高い方です。髪の毛が長く、ゆったりとしたワンピースを着ていて少しふくよかな方かもしれません。
「どうぞ!」
 早稲ちゃんが駐在所の扉を開けました。
「失礼しますー」
「お邪魔します」
 男性がサングラスを取って、ぺこりと頭を下げました。女性の方もその横でにっこりと微笑(ほほえ)みます。
「こちらのお寺の住職に聞いてきたのですが」
「はい、伺っています」
 早稲ちゃんが何故か家の奥に飛ぶようにして引っ込んでしまったので、私が応えました。トイレだったんでしょうか。それともログハウスに案内するために着替えに行ったのでしょうか。
「良かった。何でも山の中のログハウスをお借りできるということで、ありがとうございます」
 女性の方が言います。顔つきは可愛らしいのですが、少しハスキーな声です。眼鏡の下のそばかすがとてもチャーミングに思えます。
「すみませんが、案内を頼めますでしょうか」
 女性が私を見て言います。お顔も少しふくよかですけれど。
「あ、すみませんが」
 周平さんが右手をちょっと上げて言います。
「雉子宮駐在所の蓑島(みのしま)といいます。ログハウスに行く前に、お手数ですがお名前と年齢と、どこか連絡先を教えていただけますか?」
「連絡先」
 女性が少しだけ眼を細めました。
「いや、大袈裟(おおげさ)なものじゃありません。しばらく滞在されるということであれば、駐在所としては何かあったときのために確認できるものは残したいのです」
 言葉を切って、にこりと微笑みました。
「縁起でもないですが、山の中です。突然地滑りが発生してお二人が口もきけないような状況になってしまったとき、お名前や連絡先がわからないと、私たち警察やあるいは消防は何もできなくなってしまいます。そのためにです」
 こくん、と女性は頷きます。男性と顔を見合わせ、男性が口を開きました。
「僕は、新倉寿和(にいくらとしかず)と言います。新しいに倉敷の倉です。ことぶきに平和の和ですね。三十七歳です。彼女は僕の秘書で、鹿島(かしま)みのりです。鹿の島にひらがなでみのりです。年は同じです。連絡先は、僕の実家が千葉にあります」
 千葉のご出身なんですね。電話番号を言って、それを周平さんがメモをしています。
「しばらくご滞在と住職の昭憲(しょうけん)さんから聞いていますが、どれぐらいになるとかは決まっていますか?」
 メモをしながら訊くと、新倉さんが少し首を傾(かし)げました。
「どれぐらいですかね。特に決めているわけではないので、まぁ一ヶ月とか二ヶ月とかになっていくと思いますけど」
 かなり長くですね。周平さんが頷いて、戻ってきた早稲ちゃんの方を見ました。やっぱり早稲ちゃん着替えていたんですね。
「では、僕からはそれだけです。後は、ログハウスの持ち主の奥さんであるこちらの坂巻(さかまき)さんが案内しますので。細かい話は彼女と、山にいる旦那さんに聞いてください。それから」
 私を見ました。
「僕の妻の花です。お風呂はログハウスにはないので、入りたいときにはここのを利用してもらうことになりますし、その他緊急時など、たとえば何かが起こってログハウスに入れなくなったときなどは避難場所としてこの駐在所を使ってもらいますので妻も同行しますから話をしてください」
「わかりました。何から何までありがとうございます」
 みのりさんが言って、二人で頭を下げました。
「じゃあ、ご案内します。と言っても、この道をこのまままっすぐ山に向かうだけです。車の後ろに乗せてもらっていいですか?」
 早稲ちゃんが言います。
「どうぞどうぞ。お願いします」
「あ、荷物をちょっとどかしますね」
 言いながらみのりさんと新倉さんが玄関から出ていって、周平さんが受話器を持って私を見ました。
「山小屋に電話しておくよ。これから向かいますって」
「お願いします」
 駐在所から山小屋までは、車ではほんの一分か二分ぐらいです。初めて乗るクラウンは、何だか良い匂いがしました。みのりさんの香水の香りかもしれません。話をする間もなく、山小屋に着きます。早稲ちゃんが手を伸ばして言います。
「そこを右に曲って、そのまま山小屋の奥まで進んでください。はい、そうです。見えましたよね」
「あぁ、きれいですね!」
「横につけていいです」
 ログハウスから圭吾くんが出てきました。
「ようこそ」
「どうも、お世話になります。新倉です。こちらは秘書の鹿島です」
「坂巻です。どうぞ中へ。ご説明します」
 トランクから二人の荷物を出して、ログハウスの中へ入ります。せまいので私と早稲ちゃんは玄関のところで控えていました。
「説明と言っても、もう見ただけでわかりますよね。この通り狭い小屋です」
「いや、素晴らしいです」
 新倉さんが笑顔で言いました。あれは本心ですね。顔が輝いています。
「こんなに本格的なログハウスは初めて見ました。凄いですね」
「ありがとうございます。台所は奥です。あの通りコンロが二つだけです。洗面所はないので手洗いも洗顔も全部あそこで済ませてください。ロフトにベッドがあります。座卓もあるので、何か二人で別々に作業をするなら上と下に別れてすることはできると思います。トイレは、あそこに見えますね。山小屋のトイレを二十四時間いつでも使えます。でも夜は真っ暗になるので、ほんの数メートルですけど懐中電灯持参で行った方がいいでしょうね」
「なるほど。まさかトイレの中も電気が」
「トイレの電気はスイッチで点きます。でも、雨が降ると傘も差して行かなきゃならないですけど」
「いや、十分ですよ」
「冷蔵庫はそこにありますし、布団も上のロフトに置いときました。電話は、山小屋のが使えますけど、夜は閉めてしまうのであのトイレの横に見えますよね? 裏玄関の合い鍵をお渡ししますので使ってください。ただし、裏玄関のそこしか入れません。他は鍵を掛けますから。電話だけ使えるように僕が山小屋を出るときには裏玄関のところに置いておきますから。後は」
 圭吾くんが、玄関に控えていた私と早稲ちゃんを見ました。
「台所用品、一通り揃えておきましたけど、足りないものがあれば言ってください。まだ予備とかが駐在所の方にあります。それと、先程も言いましたけど、お風呂は駐在所に来てもらうか、車で三十分ほどの銭湯に行くかしかありません。うちは毎日お風呂を沸かしますので、夕食後、七時過ぎであればいつでも来てもらえれば入れます。電話ください」
 ありがとうございます、と、みのりさんが頭を下げました。
「後は、買い物ですけれど」
「あ、来る途中でお店は確認してきました。隣町のも。それで大丈夫ですよね?」
 みのりさんが言うので頷きました。
「じゃあ、後は何かあれば訊いてください。僕は、山小屋にいますし、駐在所にはいつも誰かがいますから」

 ちょっとお昼が遅くなってしまいましたけど、無事に二人を迎えられてホッとしました。これで昭憲さんも安心するでしょう。私たちのいない間に周平さんが電話しておいたそうです。
「くれぐれも、内緒にって。村の人にも誰にも言わないように」
「うん」
 早稲ちゃんと二人で頷きました。
「新倉さんにも念を押されたわ。誰にも言わないでくださいって」
「あのね」
 早稲ちゃん、唇にケチャップがたっぷり付いています。
「まさかだけどね、周平さんも花さんも気づかなかった?」
「何に?」
「あのみのりさん? 鹿島みのりさんって秘書の人、どことなくだけど、女優の篠崎詠美(しのざきえいみ)に似てるって思ったんだけど!」
 少し鼻息を荒くして、早稲ちゃん言います。篠崎詠美さんですか。周平さんが首をちょっと傾げました。
「マリファナ疑惑の?」
「そう! ほら前に話したよね? 篠崎詠美が実はここの生まれじゃないかって」
 言っていましたね。どういう事情かはわかりませんけれど、ここの出身であることを隠すために口止めされた人がいるって話を。
「篠崎詠美って、新聞にマリファナ疑惑で名前が出ていたけれど逮捕されたわけじゃないんでしょう?」
「新聞の記事によると、だね。それならどうして名前が出たのかが疑問なんだけれど」
「それで、逃げてきたんじゃないの? 誰にも内緒っていうのがすっごく気になるし」
「え、じゃあ、新倉さんが小説家っていうのも嘘ってことになっちゃうけど」
「マネージャーさんとか!」
 フォークをぐん! と力強く振って早稲ちゃんが言います。
「でも、彼女申し訳ないけどちょっと太めちゃんなんだよね。だから違うとは思うんだけど、どうしても顔立ちが似てるような気がして」
 篠崎詠美さんですか。ファンである早稲ちゃんが言うんだから、やっぱりそうなのでしょうか。
「早稲ちゃん、案外そうなのかもしれない」
「え?」
「どういうこと?」
 周平さんも顔を顰めました。
「彼女、変装していると思う」
「変装?」
「そう」
「え、どうしてそう思うの? 花さんわかったの?」
 頷きます。
「みのりさん、ふくよかなお顔をしていたけれど、肌の様子からして頬を膨らませていたんだと思う」
「膨らませていた」
「たぶん、頬に脱脂綿か何かを詰めていたんじゃないかな。お芝居ではよくそういうのを使うって聞いたことある。そのせいで声も少し通らなくてハスキーになっていたんじゃないかな。それに、彼女、そばかすがたくさんあったけれども、あれも描いたものだったわ」
 そばかす、って周平さんが呟(つぶや)きます。
「そう言うのって、わかるの?」
「多少はね」
 これでも、女医です。美容は専門外ですけれど、肌の様子やそういうものには男性の医師よりも見る眼はあるつもりです。
「たぶん、間違いない。脱脂綿も、そばかすも。体形もきっとお腹にタオルか何かを巻いていたんじゃないかな。そうやって変装をする理由というと」
 周平さんが頷きました。
「早稲ちゃんの言うように、女優の篠崎詠美だとしたら、それを隠すためか。髪の毛が長くて顔を隠していたのも、黒縁(くろぶち)の大きな眼鏡を掛けていたのも、変装か」
「そういうことになるわね。実際、遠めには絶対篠崎詠美だとはわからなかったし、近づいても確信は持てないかも」
 じゃあ! って早稲ちゃんが手を打ちました。
「一緒にお風呂入ったらわかるんじゃないの?!」
「私たちに素性を隠すつもりなら、絶対に一緒に入らないでしょうね。きちんと用意するんじゃないのかしら」
「彼女が、篠崎詠美の変装か」
 周平さんが首を傾げました。
「周平さんも気づいた?」
「いや、それは全然わからなかった」
「それは?」
 何か他にあったんでしょうか。
「何か気になることがあったの?」
 うーん、と唸ります。
「気になることだらけだけど、ただ小説家という人種に会ったことがないのでね。そして小説家とひとくくりに言っても、その人によっていろいろなんだろうけど」
「そうね」
「新倉さんの立ち居振る舞いが、どうも小説家らしくない。いや、小説家らしい立ち居振る舞いなんてものはないんだろうけれども、何か気になる」
「何だろうね」
 早稲ちゃんが言います。
「とても、いい人に思えたけれど」
「そうだね。それはそうだ」
「でも、周平さんはあの人の何かが気になるのね?」
 うん、と、頷きます。周平さんの警察官としての勘みたいなものは凄いんだと、元の同僚の皆さんたちは口を揃えて言っていました。
 だから、新倉さんは何かを隠しているのかもしれません。
「本当に篠崎詠美のマネージャーで、だからそれを隠しているってことじゃないの?」
「そんなことぐらいなら、こんなに気になるとは思えないんだけどな」
「まさか、犯罪者ってことは」
「まぁ、それはわからない。頭の良い犯罪者っていうのには会ったことないしね」
「ないの?」
 ないだろうね、って周平さんが笑います。
「警察官に捕まるような奴らは全員いろんな意味で頭の悪い連中だよ」
「あ、そうか」
 納得して早稲ちゃんも頷きました。
「頭のいい犯罪者は、そもそも犯罪も発覚しないんだ」
 その通り、と周平さんが頷きます。
「そして、ひょっとしたら犯罪にさえならない方法で何か悪いことをやっているかもしれない。そういう連中は、わからないだろうね。だから、新倉さんがそういう男だとしたら本当にわからない。ただ、そういうんじゃないとは思うんだけど」
 何にしても、本人たちに確認しても言わないでしょう。
「そもそもここで何も悪いことはしていないんだから、問い詰めることなんかできないでしょうしね」
「その通りだね」
「そうね」
 早稲ちゃんも唇を曲げながらも頷きました。
「でも、気になるなぁ」
「圭吾くんにさ、言っておくといいよ。山小屋からログハウスの様子は少しは見えるだろう?」
「見える。カーテンの掛かっていない昼間は」
「それとなく、様子を窺っておいてって。執筆活動しているかとか、二人でどんなことをしてるかとか」
 周平さんが言います。
「いいの? そんなことを警察官が言って」
 小さく頷きました。
「もちろん、褒められたことではないけれども、警察官としての職務規定で言えば、彼らは共同体の中に突然やってきた〈不審な人物〉としての要件は満たしている。観察をするのは問題のある行動ではないよ。ただ、僕が出向いてするのはやりすぎかな。でも、圭吾くんは家主なわけだから、家主が間借り人の様子を見るのはごく普通のことだよ」
 確かに、そうかもしれません。

 でも、何も起こらず、そして何もわからずに、新倉さんが話していた通り二人が姿を見せることはほとんどないままに、二週間が過ぎていきました。
 その間に、芸能界のマリファナ汚染のニュースはだんだん小さくなっていきました。篠崎詠美さんの名前は最初に出ただけで、それからは一切出ませんでした。
 買い物は、やってきた日に二人で車でまた出掛けて、大量に食料品を買い込んで戻ってきていました。それこそ二週間や三週間は出掛けなくてもいいはずじゃないかな、と目撃した圭吾くんが言っていました。
 圭吾くんの話では、窓から真剣に何かを原稿用紙に書いている新倉さんの姿はよく見えるそうです。それから、天気の良い日には二人揃って仲睦まじく山道を散歩する姿も。でも、決して村の中へは歩いてきませんでした。
 お風呂は二日か三日に一回、みのりさんと新倉さんが一緒にやってきて、交代で入っていきます。
 みのりさんが入っている間には、周平さんと圭吾くんが新倉さんといろいろ話をし、新倉さんが入っている間は私と早稲ちゃんがみのりさんとあれこれお話ししました。全部他愛のない話でしたけど、二人とも、いい人です。それは、間違いありません。
 でも、みのりさんが変装をしているのも、間違いありませんでした。お風呂上がりのそばかすの位置がいつも少しずつ違っていたからです。これは、私がこの眼で確認しました。
 問い詰めることはしませんでした。向こうが教えてくれるか、何かが起こるまで何もしない方がいい、と周平さんが言ったからです。間違いなく深い理由があるはずでしょうから。
 新倉さんはペンネームで小説を書いているそうですけど、今やっているのが終わるまでは内緒にさせてくださいと教えてくれませんでした。こちらも無理にとは言えません。でも、著作の一部の内容を話してくれました。それは読んだことなかったですけどとてもおもしろそうな話で、いつかタイトルを教えてほしいと真剣に思ったものです。
 そして、身の上話をしてくれるとは思っていなかったのですが、話してくれました。やってきて、十五日目の土曜日の夜。
 みのりさんがお風呂に入っている間です。
「どうですか。一杯やりませんか」
 周平さんが、ビールを出してきたのです。お酒はログハウスでは飲んでいないことは聞いていました。お酒を飲むと仕事にならないから禁酒中だと。
 新倉さん、ちょっと驚いた顔をしました。
「いいんですか? 箕島さんが飲んでも」
「明日は日曜です。建前上は僕も休みですから、一杯ぐらいなら大丈夫ですよ、一瓶なら三人でコップ一杯」
 圭吾くんがグラスを三つ持ってきました。
「じゃ、一杯だけ」
 三人でビールをグラスに注いで、軽く乾杯の仕草をして、飲みます。美味しそうに笑顔になりますけど、私はどうしてもビールの美味しさがわかりません。
「訊いちゃいけないかなと思って訊かなかったんですけど、お二人の関係って、先生と秘書だけってことないですよね? 一緒に住んでいるんだし」
 お酒の勢いを少し借りて圭吾くんが軽く訊きました。新倉さんが、苦笑します。
「実はね、僕とみのりは幼馴染みなんですよ」
「幼馴染み?」
「小学中学が同じでね」
 それからしばらくは離れていたけれども、大人になってから東京で再会して、今はこういう関係だと。
「夫婦じゃないし、まぁ恋人とおおっぴらには言えないけど、ただ、二人とも独身なので一緒に暮らしても何も問題ないし、仕事上のパートナーでもありますよ」
 周平さんを見て、何かを言おうとしましたけど止めて、また苦笑しました。
「今書いている仕事が終わればね。もう少しはっきり話せますよ。それに、ひょっとしたらこのままここに住むかもしれない」
「住むんですか?」
 ちょっと驚きました。
「いいところですよね。このまま住めればいいなとみのりとも話していたんです。まぁ、仕事がどうなるかでまた東京に戻らなきゃならなくなるかも、ですが」
「そうですか」
「いつ終わりそうなんですか? 仕事は」
 私が訊くと、首を少し傾けました。
「いつになるかな。もうしばらくかかると思うんですけどね。明確な締切りがある仕事でもないので」
 もちろん小説ですから、いつまでに書き終わるなんて決められないんでしょうけれど。

「びっくりだね。幼馴染みって」
 お二人が帰った後に、圭吾くんが言います。
「そんなの話してくれるなんて思わなかった。でも、幼馴染みってことは、篠崎詠美さんがここを出てからの話かな」
 早稲ちゃんの中ではすっかりみのりさんは篠崎詠美さんってことになっています。
「そういうことでしょうね」
「ここで暮らしたいって言っていたね。あれは本心だったろうなぁ」
 周平さんが言います。私も、そう思いました。
「何かがあって隠れるように暮らしていても、きっと二人は本当はきちんとした夫婦として表に出たいんじゃないのかな。私はそんなふうに思ったけど、あの二人、本当に愛し合ってる気がする。あ、篠崎詠美さんの演技じゃなければ」
 早稲ちゃんが言います。うん、と、皆が頷きました。
 本当に、そう見えるのです。
 二人が幸せな恋人同士に。

       *

 月曜日の朝です。
 黒塗りの大きな車が、駐在所の前を走り抜けていきました。まだ朝食を摂る前です。
「あれは」
 周平さんが慌てたように飛び出して、行った先を見て、すぐに戻ってきました。
「どうしたの?」
「警察関係の車だと思う」
「警察?」
「同僚の皆さん?」
 早稲ちゃんに、いや、と、首を横に振りました。
「どこかはわからない。警視庁かもしれないし、警察庁かもしれない。あるいは、検察庁」
 え? と、早稲ちゃんも圭吾くんも同時に言いました。
「警視庁って、東京の警察の本部でしょ?」
「そうだ」
「警察庁、って何?」
「いちばんわかりやすいのは、公安警察。検察庁はわかるよね。検事総長とかのところだよ」
「ものすごいところだよね。周平さんたちの大ボスも大ボス三大ボスみたいなところ」
 圭吾くんに、周平さんが思わず笑いました。
「正確にはボスではないんだけど、まぁそういう認識でいいと思う。警察官の三大ボスだよ。そのどれかはわからないけど、たぶんその辺の連中だ」
 周平さんが、顎(あご)に手を当てました。何かを考えています。真剣に考え出したときの癖ですよね周平さんの。
「ちょっと待ってね。電話する。圭吾くん、外を見ててくれるかな」
「外?」
「あの車は間違いなくログハウスに行ったから、電話中に戻ってきたら教えて」
「了解」
 ダイヤルを回します。すぐに繋(つな)がったみたいです。
「バタさん。蓑島です」
 バタさん。自宅に掛けたんでしょうか。
「今、どこかのトップの連中がこっちに来ました。そうです。篠崎詠美のところです」
 篠崎詠美さんって。バタさんも知っていたんでしょうか。
「やっぱりですか。決まりですか」
 周平さんの眉間(みけん)に皺(しわ)が寄りました。
「そうなんです。言えなかったけど、こっちに来ていたんですよ」
「周平さん!」
 外から圭吾くんの声が聞こえて、皆でそっちを見ました。さっきの黒い車が帰ってきました。
 圭吾くんが、慌てたように飛び込んできます。
「みのりさんが乗っていたよ! 後ろに! 間違いない。新倉さんはいなかった!」
 周平さんが頷きました。
「今、連行されていきました。はい、また後で」
 電話を切ります。溜息をついて、少し考えるように下を向きました。
「早稲ちゃん、圭吾くん。騒がないでね。ちょっとログハウスに行ってくるから二人で留守番していて。花さんは一緒に行こう」
「私も?」
「後で確認できるように、複数で行く。二人には後で説明するから待ってて」
 早稲ちゃんと圭吾くんが、真剣な面持ちで頷きました。

 新倉さんが、一人ログハウスにいました。
 テーブルに座って、煙草(たばこ)を吸っています。周平さんと私が入ってきたのを見て、煙草を灰皿に置き立ち上がって、そしてゆっくりと敬礼をしました。
 周平さんにです。
 周平さんも、敬礼を返しました。
「やはり、警察官だったんですね」
 警察官。
 新倉さんが。
 苦笑して、頷きます。
「わかっていたかな。同じ匂いがするよな警察の人間は」
「何となくですけどね。小説家ではないな、と思っていました。偽名ですか?」
 首を横に振ります。
「本名だ。ついでに言うと、小説家は兄だ」
「お兄さん?」
「宮小路琢磨(みやこうじたくま)というペンネームだ。いろいろ話したのは兄の小説だよ。どこかで見かけたら読んでくれ」
 名前は知っていますが読んだことはありませんでした。それで小説家という嘘をついたのですか。
「そして彼女は、みのりは偽名だ。もうわかっているよな?」
「篠崎詠美さんですね?」
 小さく頷き、それから、座って話そうと手で示すので、私も周平さんもテーブルにつきました。
「あなたは、彼女の、姿をくらました篠崎詠美さんの護衛ですか」
「護衛だな。一応は。大して複雑な話じゃない。次期総理とも言われていた政治家の霜貝(しもがい)は知ってるよな」
 もちろん、と周平さんが頷きます。
「霜貝雄二郎(ゆうじろう)。大物ですよね」
「その霜貝が、今回の収賄(しゅうわい)容疑の黒幕として逮捕されるってさ。もう間もなくだろう」
 収賄疑惑。
 あのとんでもなく大きな事件の。
「篠崎詠美は、その霜貝の収賄の証拠を握っていた。取引きの場面の目撃者だ」
「女優である彼女が、どうしてそんなことに」
「愛人だったからだ」
 愛人。
 新倉さんの顔が、歪(ゆが)みます。
「篠崎詠美は、長年霜貝雄二郎の愛人だった。望んだわけじゃなく、芸能界の裏の闇ってやつだ。それで、彼女は目撃者になってしまった」
 周平さんが眼を細めました。
「それじゃあ、マリファナ疑惑で彼女の名前が出たのはおかしいですよね。何か裏で綱引きがあったってことですか」
「そうだろうな。現職の総理か次期総理かの柵だろう。あれだけの大きな汚職事件で誰がケツを拭(ふ)けばダメージを最小限にできるかって話だろう。その中に、彼女が巻き込まれた。霜貝の愛人だったというだけでな」
 綱引きの結果。
 周平さんが唇を歪めました。
「本ボシは、現職の総理、曽田(そだ)だったかもしれないのに、警察や政府筋は霜貝にした、と。昨日の日曜日、どこかから篠崎さんに電話があったそうですけど、その件ですか。彼女が何もかも話せば、マリファナ疑惑もきれいさっぱり消えて、彼女は女優として復帰できるっていう話ですか。取引きをしたんですか」
 煙草を深く吸って、新倉さんが頷きながら、煙を吐きました。
「霜貝の逮捕で何もかも消える。この煙みたいにな。彼女が霜貝の愛人だったことも、収賄の証拠を彼女が持っていたことも、マリファナをやっていたことも何もかもだ。すべてが壁の中に持っていかれて、二度と誰かに知られることもない」
「彼女がそれを選んだんですね? ここに残るのではなく、芸能界へ戻ると」
「そういうことだ」
 別れたということですか。
 篠崎さんは、新倉さんとの暮らしよりも、女優に戻れることを望んであの車に乗って帰っていった。
 新倉さんが、私と周平さんを見ました。
「もちろん、これは俺の妄想だ。何の証拠もない。そもそも篠崎詠美なんていう女がここに居たこともない。もしも、誰かがそれを駐在所のお巡りさんに確認しに来ても、村の平和を守るお巡りさんは言うんだ」
「『馬鹿な。そんな有名な女優さんが、こんな田舎に来ちゃったらすぐにわかりますよ』、と僕は笑って言うんでしょうね。そうして、駐在所でお茶の一杯でも出して、何だったらここの美味しい果物でもお土産に持たせて帰す」
「そうだ」
 新倉さんが、小さく頷きました。
「それでこそ、人々の安全を守る正しきお巡りさんだ」
「あの」
 つい、口を出してしまいました。
「お二人が幼馴染みというのも、嘘ですか?」
 少し眼を大きくさせて、新倉さんは私に向かって微笑みました。
「それは、本当ですよ花さん。私と彼女は間違いなく家も近所の幼馴染みでした。再会したのは、五年ほど前です」
 五年前。
「その再会した幼馴染みが、こうしてここで一緒にいたというのは、命令であったはずがないですね? 警察は、事件において私情を挟む可能性は徹底的に排除します。ましてや政治的な事件においては」
 周平さんが言いました。
 新倉さんが、頷きます。
「俺は辞表を提出してある」
 辞表。
「たぶん、もう一般人だよ。いや一日二日の猶予はあるかな」
 辞表を提出して、篠崎さんと一緒にここに隠れていた。
 でも、警察上層部の人はここに来ました。さっきの話では電話連絡もあったのです。
 それはつまり、何もかもを想定しながらも、彼女を自分自身の手で、身体で守るためだけにだったのでしょうか。
 新倉さんは、全てを捨てて、彼女と生きるつもりだった。
 でも、彼女の捨てられないものを守るつもりでもいた。
 そういうことだったのでしょうか。
「これから、どうするんですか」
 周平さんが訊きました。
「どうって」
 新倉さんは、小さく息を吐きます。
「まずは、ここの支払いを済ます。それで出て行って、後はどこかで生きていくだけさ。泥水や煮え湯を飲まされることには慣れてるからな。どこかの、元刑事の駐在所のお巡りさんと同じで」
 それは。
「僕を知っていたんですか?」
「もちろん会ったことはなかったけどな。ハマにいる優秀な刑事の話は聞いていたよ箕島刑事。会えて嬉しかったよ。それも、本当だ」
 新倉さんが、笑いました。

 周平さんは、早稲ちゃんと圭吾くんには、何も言いませんでした。
 ただ、全部が終わったんだよ、と伝えました。約束通り、あの二人のことは誰にも言わないままで、と。
 納得できないだろうけど、いちばん苦しんだのはあの二人なのだから、と。
 わからないことが多すぎます。でも、わかっているのは、再会したあの二人がずっと愛を育んでいたことだと周平さんは言いました。
 その愛を捨ててまで、篠崎さんには戻りたいところがあり、その愛を諦めてまで、新倉さんには守りたい人がいた。
 そういうことなんだろう、と。

〈雉子宮の人は、誰も知らないままにやってきて、去っていった二人がいました。
 とても大きなものを抱えてしまって、それを捨て去って、それでも生きていくと決めた二人です。私たちはその二人の運命に少し巻き込まれてしまっただけで、何かを失ったわけでもありません。
 ただ、二人のこれからの人生に幸あれと祈ることしかできませんでした。〉

君と歩いた青春 駐在日記

画・新目惠

Synopsisあらすじ

時代は1977年。神奈川県の山奥にある雉子宮駐在所に赴任した、元刑事の簑島周平と、元医者の花夫妻。優しくて元気な人ばかりのこの村だが、事件の種は尽きないようで……。
「東京バンドワゴン」の著者が贈る、レトロで心温まる連作短篇ミステリー。

Profile著者紹介

小路幸也
一九六一年、北海道生まれ。二〇〇三年、『空を見上げる古い歌を口ずさむ pulp-town fiction』でメフィスト賞を受賞しデビュー。代表作「東京バンドワゴン」シリーズをはじめ著作多数。魅力的な登場人物と温かな筆致で、読者からの熱い支持を得ている。

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