君と歩いた青春 駐在日記水曜日の雪解けは、勘当者(後編)


 早稲(わせ)ちゃんと顔を見合わせましたが、早稲ちゃんも驚いた顔をしています。
 そんなことは何も知らないのでしょう。いくら何事にも村の中心になる神社の娘とはいっても、貴子(たかこ)さんがいた頃には早稲ちゃんはまだ小学生の子供だったのですから。
「それは、こちらに、家族と一緒に住んでいた頃のお話ということですか」
 周平(しゅうへい)さんが訊くと、貴子さん頷きました。
「そうです。正確には私や姉が物心つく頃から、ですけれど」
「暴力的というのは、躾(しつ)けのつもりで手を出したりですか?」
 訊いてしまいました。一人の女として、元医師としても聞き過ごすことはできません。貴子さん、顔を顰(しか)めて頷きます。
「躾けと言うなら、本人たちはそうだったのでしょう。私や姉や、叩かれたり蹴られたり、時には水を張った洗面器に顔を押さえつけられるというようなこともありました」
「そんなことを」
 早稲ちゃんも驚きます。周平さんも唇を歪めています。
「何か悪いことをして叱るときにそういうふうに暴力的なことをされていたと」
「そうなのでしょうね。私たちにしてみればただただ痛かったり怖かったりしたのですが」
 溜息とともに、貴子さんは言います。
「それが、勘当されたことにも繋がっているということですか?」
 私が言うと、少し首を捻りました。
「直接というわけではありませんが、同じですね」
 溜息をつきます。
「身内の恥を晒すようですけど、村の人たちはよくは知らないと思います。父も兄も、外面(そとづら)はいい人ですから」
 私が知っている村長さん、与次郎(よじろう)さんは身体も声も大きく豪放磊落(ごうほうらいらく)といった感じの人です。もうここは村ではなく、村長さんというのも単に昔ながらのものを通り名として皆が使っているだけですが、リーダーシップにも溢れた人です。
「でも、これは昔のことです。家を出てしまえばいくら家族でも手は届かないのですから、どうか騒ぎ立てたりはしないでください」
 貴子さんが言い、それで、と、白幡(しらはた)さんが続けました。
「妻が、家に帰る前に駐在所や神社に寄って挨拶をしてきたということを言えば、ただ様子を見て帰るという家族をないがしろにするようなことをしても、無体なことはしないと安心できると言うのでお邪魔したのです。お忙しいところ申し訳ないです」
 白幡さんがそう言って、頭を下げます。貴子さんも一緒にです。周平さんと顔を見合わせてしまいました。
 確かに、神主である清澄(せいちょう)さんや私たちが、貴子さんが帰ってきたことを知っているんだぞと言えば、何か揉め事があったとしても暴力的なことはできないでしょう。
 そもそも与次郎さんはもう動けないのですから、お兄さんだけの話でしょうけれど。
 けれども、そこまで考えなければならないほどだったとは。
「もしも本当にそのようなことが心配であるのなら、僕も一緒にお伺いしましょうか? 玄関先まででも」
 周平さんが言うと、いえいえとんでもない、と貴子さんは手を振ります。
「夫もいます。兄も、父親の最期に会いに来た妹に対して手を上げたりはしないと思います。私の心持ちの整理のためにお時間を取らせてしまって申し訳ないのにそこまでご迷惑を掛けられません。ありがとうございます」
 そう言ってから、早稲ちゃんを見ました。
「早稲ちゃん、お父さんはいるのよね?」
「います」
「ご挨拶だけしてくるわね」
「あ、じゃあ私も一緒に行きます」
 どうもすみませんでした、と、また二人で頭を下げます。ミルや猫たちと遊んでいた薫(かおる)ちゃんも戻ってきます。
「会って、すぐに今日帰られるんですか?」
 周平さんが訊くと、貴子さんがちょっと首を捻りました。
「そのつもりですが、ひょっとしたら泊まることになるかもしれません。一応その準備はしてきましたので」
「わかりました。もしも何かありましたら、すぐにお電話ください。いつでもいますので」
「ありがとうございます」
 早稲ちゃんも一緒に、四人で駐在所を出て神社に向かっていきました。高田(たかだ)家は駐在所の向こう側なので、家に行くときにはまた駐在所の前を通るでしょう。
 後ろ姿を見送って、二人で小さく溜息をついてしまいました。
「まさか、そんなふうにして実家に帰らなきゃならないなんて」
 言うと、周平さんが小さく頷きます。
「ちょっと可哀相だね。でも、剛(つよし)さんに関しては何となくわかるかな」
「そうなの? 私は全然お話ししたことないからわからないんだけど」
 周平さんが事務机の椅子に座りながらまた頷きました。
「何かを見たわけじゃないけれどね。ああやって身内の人から暴力的な部分があったと聞かされたら、あぁなるほどと思う」
「そういう雰囲気を感じ取っていたのね? 周平さんは」
「わかってしまうものだよ。僕ら警察官、特に凶悪犯罪を扱ってきた連中は、そういう匂いに敏感になる」
 確かにそうなのかもしれません。
「どうなんでしょう。周平さん、村長さんの家に顔を出してきたらいいんじゃないの? 貴子さん帰ってきたんですね、って周平さんが剛さんに直接言うだけで、なんだろう、剛さんがまた暴力を振るったりすることの抑止力みたいなものになるんじゃあないかしら」
 煙草(たばこ)を一本取り出して、火を点けながら頷きました。
「確かにそうだろうけれど、貴子さんも言っていたけどあの旦那さんがいるんだからそこまでしなくてもいいような気もするけど」
「そう?」
 周平さんにしては、少しばかり冷たい言い方だと思いましたけど、確かに白幡さん、ハンサムではありましたけれど、強そうな雰囲気はありました。
「何も訊かなかったけど、どんなお仕事の方かしらね」
 白幡さん、格好こそどこか自由業のような感じもありましたけれど、態度も様子もとてもきちんとしていましたから、その雰囲気だけでは何もわかりませんでした。
 でも、およそ普通の会社員のようには思えませんでしたけど。周平さんも首を傾げます。
「ちょっと僕もわからないかな」
「刑事の眼で見ても?」
 周平さんの人を見抜く眼はとても鋭いはずなのに。ちょっと首を傾げて見せます。
「でもまぁ、そうだな」
 そう言って壁の柱時計を見ました。
「まだお昼には時間があるし、神社で少し話もするだろうから、村長さんの様子を見てくるついでに言ってこようか。剛さんに、貴子さんたちが派出所にも寄ったって」
「うん、そうしてあげて」
「行ってくる」
 ジープのキーを持って周平さんが出て行きます。無駄になったとしても何事もなければ、それがいちばんなんですから。

 小一時間もした頃に、神社から白幡さんと貴子さん、薫ちゃんと早稲ちゃんが歩いてくるのが見えました。貴子さんたちは私に気づくと軽く頭を下げてそのまま村長さんの家の方に歩いていき、早稲ちゃんは玄関先で立ち止まって手を振りました。
 ちょうど周平さんのジープも帰ってきて、道路脇に停まって白幡さんと貴子さんに声を掛け、戻ってきました。
「お帰りなさい」
「ただいま」
「村長さんの家に行ってきたの?」
 一緒に入ってきた早稲ちゃんが訊きます。
「そう。様子を見がてらね。村長さんは相変わらずだったよ。正直、いつどうなるかわからないまま」
 早稲ちゃん、頷きながらちょっと眉間に皺(しわ)を寄せました。何でしょう。
「お昼ちょうどできたから、食べましょう」
 お昼はいつも駐在所のテーブルで食べます。ちょっと慌ただしい感じもしますけれど、周平さんも私も以前の職場ではこんな感じでお昼ご飯を済ませることが多かったですから、何ともありません。むしろ、横浜時代はゆっくりお昼ご飯を済ませるとすごく贅沢をしたかのような気持ちになったものです。
「うん、美味しい。やっぱりこのお出汁(だし)は美味しいね」
「本当にね。習って良かった」
 キノコの煮出し汁を入れた醤油のお出汁なんです。ここら辺りはよくやるそうなんですけど、教えてもらったら本当に美味しかったのです。
「あのね」
 うどんを啜(すす)った後に、早稲ちゃんが言います。何だかちょっと顔を顰めています。
「あ、出汁がまだ薄かった?」
「違う違う。美味しい。さっきの貴子さんの子供の薫ちゃんなんだけどね」
「薫ちゃん」
「可愛い子だよね」
 うんうん、って皆で頷きました。
「違うの」
「違うって?」
「あの子、薫ちゃん、女の子じゃなくて男の子よ」
「男の子?」
 周平さんと同時に繰り返してしまいました。
 そう、と、早稲ちゃん強く頷きました。
「え、でも娘の薫って言ってたよ?」
「スカートだって」
 明らかに女の子の格好をしていました。
 薫という名前自体は、確かに男性でもいないこともありません。私の昔の同僚にもそういえばいましたけれど。
「え、早稲ちゃんどうしてそう思ったの? 男の子だって」
「だって、神社に来たときに、おしっこしたいって言うからトイレまで案内したのね。うちのトイレ」
 わかるでしょ? と早稲ちゃんが言います。わかります。あの長い廊下の先にあるトイレですね。
「迷うといけないから連れて行って、『あそこよ』って指差して、そして帰りも迷ったら困るから廊下の途中で待っていたのよ。そうしたら」
「そうか、男性用のトイレを使ったのね?」
 あそこのおトイレは広くて、男性用の小便器は二つ並んでいて、そして廊下からガラス戸の向こうに見えるのです。
「そうなの」
 早稲ちゃん、強く頷きます。
「見るつもりはなかったけれど、女性用のトイレに入ったはずなのに、何かがひょこっ、て動いたから視線を向けたらそこにあの子の頭が見えて、朝顔でおしっこしていたのよ」
「それは」
 周平さんも顔を顰めました。間違いないようですね。
「まさか、女の子が男性用の小便器で用は足さないよね」
「しません」
 そもそも足せません。したことはもちろんありませんけれど、身体の構造上、無理です。
「え、早稲ちゃん、薫ちゃんに訊いたの? 男の子でしょ? とか」
 ううん、と早稲ちゃん首を横に振ります。
「そんなこと訊けないわよ。見た眼はおかっぱだしスカートも穿くいているしまるっきり女の子なんだし。でも、そう思ってみれば、とっても可愛い男の子にも見えてくるし」
「そうね」
 確か五歳と言っていました。幼稚園か保育園に通っている年齢でしょう。
 あれぐらいの子供なら、まるで女の子としか思えない可愛らしい顔をした男の子だってたくさんいるでしょう。
「何か複雑な事情でもあったら困るしな、と思って、そのときは私も何も訊けなかったんだけどね」
「他にも何か?」
「ちょうど川音川(かわねがわ)向こうからお参りに来ていた人がいたの。花さんも周平さんも知らない人だわきっと」
 川音川向こうは今は地名としては雉子宮(きじみや)ではなく鉤崎(かぎさき)となっています。その昔はここら辺りよりも小さな集落だったそうですが、二十年以上前に新しい道路が通って雉子宮よりも住宅の数も少し多いのです。
「小学生の女の子が三人いてね。親たちが神主と少し話し込んでいる間、女の子たちが薫ちゃんとちょっと境内で遊んでいたの。もう三人とも薫ちゃんのことを、可愛い可愛いって皆で」
 微笑ましい様子だったと思います。小学生ぐらいの女の子は、自分より小さい子供の面倒をよく見ますよね。
「ちょっと離れていたから、たぶん、貴子さんも白幡さんも子供たちの会話を聞いていなかったと思うんだけど、私には聞こえてきたのよ」
「何を話していたの?」
「薫ちゃんが、『お父さんじゃない』って言ったの」
 お父さんじゃない。
「それは」
 そうなの、と早稲ちゃん頷きます。
「前後はよく聞こえなかったけど、間違いなく、白幡さんのことを言ってたと思う。軽く指も差していたし」
「あれじゃないかな? 『お父さんじゃなくてパパだよ』なんて言っていたとか」
 周平さんです。
「あれぐらいの子供ってそうだろう。普段〈父ちゃん〉とか呼んでいたら『パパはどこ?』 って訊かれたら『パパじゃない』とか言うんじゃないかな。捜査していてもそんなことはあったよ」
「うん、あるかもね」
 私も病院にいた頃に、小さな子供にそんなふうに言われたことあります。〈ママ〉じゃなくて〈お母さん〉だよ、とか。
「そう思ったけどね。違うわ。だって間違いなく『お父さんじゃない』って言った後に、『あ、違ったお父さん』って慌てたように言い直していたから。女の子たちはきっと小さい子だから間違っちゃったんだねー、って思ったらしくて笑っていたけれど」
 早稲ちゃんは、神主の跡取りを目指すほどです。あわてん坊でも、おっちょこちょいでもありません。むしろ、冷静で機智にも富んだ女の子です。早稲ちゃんが違和感を覚えたのなら、そうなのだとは思いますけど。
「お父さんじゃない、の件はもう確認しようもないけれど、薫ちゃんが男の子であることは間違いないのよね?」
「間違いないわ」
 早稲ちゃん、強く頷きます。
「食事中にあれですけど、音も聞こえてきたから」
 小さい方を立ってしたときの音ですね。
「それは、間違いないわけか」
 周平さんが顎に手を当てます。こうやって顔を触るのは、周平さんが何かを真剣に考えているときです。
「男の子なのに、女の子の格好をさせている。まさか子供にカツラまでは使わないだろうからあの髪形もずっとそうなんだろう」
「昔の話だけど、跡取りの男の子を女の子として育てる、という風習はあったわよね。小さい頃は女の子の方が男の子より丈夫だから、大きくなるまでちゃんと生きて育つようにとか」
「あったみたいだね」
 何か本かなんかで読んだような気がします。
「でも、今そんなことはしないわよね。ましてや薫ちゃん、本当に女の子みたいな感じだった。子供にそういう演技をさせるのなんて相当難しいわよね」
 言うと、周平さんも頷きます。
「演技に対して天性の才能があるか、あるいは子供にまでそうさせる余程の理由があるか、か」
 少し心配げな表情を早稲ちゃんはします。
「まさかね、何だろう、詐欺(さぎ)とか脅迫とか誘拐(ゆうかい)とか、とんでもない事件が起こってるわけじゃないですよね」
「それは、ないんじゃないかな」
 周平さんが首を少し捻りました。
「貴子さんと薫ちゃんの間に漂っていた雰囲気は明らかに親子のものだよ。それは間違いない。誘拐なんかとかじゃないよ。薫ちゃんの件は、わからないけれど、家族の間のことだからね」
 事件が起こってるわけではありませんし、親が自分の子供に女の子の格好をさせても、それは育て方や家族の問題ですから、何もわからないのに警察がおいそれと介入していいものでもないでしょう。
 早稲ちゃんがちらりと外を見ました。
「もう、三人とも村長さんの家に着いた頃よね」
「そうね」
 何事もなければいいのですけれど。

       ☆

 周平さんは晩ご飯を食べた後は私服に着替え、装備を外した制服の上だけをジャンパーの様に羽織ります。そうして寝るまでその格好でいます。それであれば何かあってもすぐに制服に着替えられますし、一日の仕事が終わった、とくつろげますから。
 ここに来た頃には、周平さんも初めての駐在所勤務なので勝手がわからず、寝るまで制服を着ていましたけれど、今はそうしています。
 勤務中と私生活の区別がほぼない駐在所勤務は、自分でそうやって区切りを付けていかなければならないのですよね。
 早稲ちゃんと圭吾(けいご)くんも、自分たちの部屋は二階にありますけれど、テレビが下にありますからいつも下にいます。駐在所と言ってもそれらしきものは事務机と鍵の掛かるロッカーぐらいです。後はソファもあるし座敷には座卓も座布団もあります。ミルもいるし、猫たちもだいたいはここでくつろいでいますから、ほとんど茶の間になっています。
「あれ、雨の音がする」
「え? 本当?」
 見ると、確かに窓に雨の粒がありました。
「表を閉めなきゃ」
 派出所の玄関のところには戸が二枚あります。表の引き戸と中の引き戸ですね。その間にはちょうど学校の玄関みたいに靴箱が置いてあって、その他にもスコップや箒(ほうき)やいろんなものを壁に吊るしてあります。
 いつもは表の引き戸は開けっ放しですが、寝る前や雨が降ってきたときには閉めるんです。
 急いで閉めようと玄関に出たときに、すぐそこに小走りで来る人影が見えました。誰かが駐在所に来たのかと待っていると。
「あら」
 白幡さんです。
「今晩は」
「どうも」
 他には誰もいません。貴子さんも薫ちゃんも家にいるのでしょうか。
「どうしました?」
「ご主人、蓑島(みのしま)さんいますよね?」
「もちろんです」
 どうぞどうぞ、と招き入れます。途中で雨に降られたので走ってきたのですね。少し息が弾んでいます。
 ソファに座って圭吾くんと将棋をやろうとしていた周平さんが、おや、という顔をして立ち上がります。
「白幡さん、どうしました?」
「ちょっといいか? 蓑島刑事」
 え?
 思わず白幡さんを見てしまいました。
 今、周平さんを、刑事、と呼びましたか? 
 周平さんが、ちょっと驚いた顔をした後に、眉を顰(しか)めました。
「じゃあ、小野寺(おのでら)さん、と呼んでいいのかな」
 小野寺さん?
「皆には部屋に行ってもらおうか?」
「いや、蓑島さんの奥さんと、一緒に住んでいるお二人だろう。信頼できるんだろうから、かまわん。むしろいてほしい」
「そうか」
 二人が何を言ってるのかさっぱりわかりません。早稲ちゃんも圭吾くんも眼をぱちくりとさせています。
 周平さんが、小さく息を吐きました。
「たぶん、他言無用の話になると思うんだけど、こちらは白幡さんではなく、小野寺さんだ。職業は、探偵」
「探偵?!」
 早稲ちゃんが思わず大声で言ってしまい、口を自分の手で塞ぎました。
「小野寺研一(けんいち)です。白幡などと嘘を名乗ってすみませんね」
 白幡さんではなく、小野寺研一さん。
「周平さんのお知り合いってことなの?」
 訊いたら、周平さんが、小さく頷きます。
「彼は東京で探偵をやっているんだけど、生まれは横浜なんだ。幼馴染みとか同じ学校とかじゃあないけれど、お互いに学生の頃にも会っている、まぁ顔馴染みだ」
「そうなの?」
 そんなに以前からのお知り合い。
 白幡さん、いえ、探偵の小野寺さんが私に向き合います。
「改めて、奥さん。以前からご主人にいろいろお世話になっていた探偵の小野寺です。遅まきながらご結婚おめでとうございます」
「あ、ありがとうございます」
「世話なんか何もしていないよ」
「いやいや、こういうのは、きちんとしておかないと。えーと、神主さんの娘さんで早稲さんと、旦那さんの圭吾さん」
 そうです、と二人揃って頷きます。
「俺が蓑島刑事、じゃないか、今は蓑島巡査か。知り合いだったというのは今の間は誰にも内緒にしておいてくださいね」
「わかりました」
 いろいろお世話になっていた、というのは、きっと公(おおやけ)には言えないことも多々あるんでしょう。そんな気がします。
「まぁ座ろう。皆で突っ立っていても落ち着かない」
 すみませんね、と言いながら小野寺さんがソファに座りました。向い側に周平さん、早稲ちゃんがお茶を淹れるねと言ってくれたので、私が周平さんの隣に座りました。
「俺たちもここにいていいんですね?」
 圭吾さんが言って、椅子に座ります。
「良かったらいてほしい。君たちのように信頼できる村の人間にも話を聞いてもらえると助かる」
 どんな話になるのでしょうか。早稲ちゃんがお茶のお盆を持って戻ってきました。
「それじゃあ、小野寺さん。ここに夫がいるというのは知っていたんですか?」
「いや、奥さん。実は知らなかったんですよ」
 周平さんも頷きました。
「教えていなかったな」
「刑事じゃなくて制服警官になってどこかの田舎の駐在所に赴任していった、というのは知っていたんですが、まさかね。昼間に会ったときには心の中で『ここかよ!』って叫んでいましたよ」
「え、じゃあ」
 早稲ちゃんです。
「小野寺さんが現れて、白幡って名乗ったから、周平さんは何かを察して話を合わせたってことですか」
 二人が顔を見合わせて、周平さんが頷きます。
「眼が合った瞬間にわかったからね。演技をしているというのが。それに、彼は探偵の中でもちょっと変なことをしている」
「変なこと?」
「言ってみれば、そこにいない人の代理人だ。今回のように誰かに成り代わって、その人の役を演じるというようなね。昔は役者もやっていたんだ」
「役者さん」
 道理で、ハンサムなわけです。それでですか、どうも小野寺さんに対する周平さんの様子がどことなくはっきりしなかったんですね。
 偽名を使っているのではなくて、誰かに成り代わって演技をしているんだとすぐにわかったからなんですね。それで、私にもはっきり言わなかった。
「まぁすぐにわかってくれてこっちは助かったわけで。それで、蓑島巡査」
「うん」
「こうやって話をしに来たのは、種明かしもあるんだが、頼みもあって来たんだ」
「頼み」
 小野寺さんが真剣な顔つきになりました。
「もちろん、あの貴子さんの依頼で俺は白幡を名乗って夫としてここに来たんだが、白幡というのは、単なる偽名じゃない。本当に、貴子さんの旦那さんだった人の名前だ。白幡俊夫(としお)という」
 白幡俊夫さん。
「だから、今でも貴子さんは白幡貴子だ」
「今でも、ということは、その俊夫さんとは離婚したわけじゃなくて、亡くなった、死別したということか」
 そうだ、と小野寺さん頷きます。
「相変わらずあんたは話が早くていい。奥さん、俺は職業柄たくさんの刑事に会っているけど、こいつほど凄い奴はいませんよ本当に」
「おだてるのはいいよ。それで?」
「貴子さんが白幡俊夫と結婚したのは六年前だ。結婚してすぐに薫ちゃんが生まれている。そして、白幡俊夫さんは三年前に事故で亡くなってしまった。念のために言うとその事故に関しては俺も調べたが事件性はまったくない。ただの事故だ」
 小野寺さんが頷くと、周平さんも同時に頷きました。その辺は二人の仕事上、大事なところなんでしょうね。
「それから貴子さんは一人で薫ちゃんを働いて育てている。本当に、一人でだ」
「一人というのは、旦那さんのお身内もいないのか」
「ほぼいない。白幡俊夫さんは孤児だった。両親の身元ははっきりしているが二人とも既に故人だ。親戚関係にも縁が薄くてな。幸いにも俊夫さんの職場である、これは鉄工所なんだが、家族経営でしかも情に篤い社長さんでな。きちんと面倒を見てくれて今までやってきた」
「すると、職場結婚だったのでしょうか」
 言うと、そういうことです、と、小野寺さんが頷きます。
「貴子さんもそこの事務員だったんですよ。俺は、たまたまそこの社長と仕事をしたことがある。もちろん、これは合法的な仕事だ。その付き合いで以前から白幡俊夫さんのことも貴子さんのことも知っていた。まぁ、知ってたと言ってもその頃から仕事上の知人といった程度だが」
 なるほど、と、皆が頷きました。そういうお付き合いだったのですね。
「それで、だ」
 一度、お茶を飲みます。
「貴子さんのところに、父親が倒れたという連絡が姉から入った。だが、貴子さんは勘当された身。そもそも自分からも縁を切ったのだから二度とここに戻る気はなかった。だが、いよいよ危ない。もう話すこともできないという状態になっている。一度だけ、顔だけでも見てくればいいのではないかと姉から言われた。後になって後悔するよりいいのではないか、とな。この辺の兄弟姉妹の関係性は知ってるか?」
「わからないな。貴子さんが勘当された身。お姉さんの里美(さとみ)さんは北海道に嫁いでいる、というだけだ」
 うん、と、小野寺さん頷きます。
「要は跡継ぎの問題だ。高田家の長男剛さんにはもう子供はできない。すると、姉妹のどちらかの子供に継いでほしい。しかし里美さんの方は女の子しかいないしもう四十代でほぼ縁を切っている状態だ。北海道だからな。その辺の事情には大らかで二度と実家に帰る気はない、というのを向こうの家も納得しているそうだ。お姉さんも自分一人でやってきて顔だけ見て戻ったそうだが」
「そうだったんですね」
 早稲ちゃんです。まったく知りませんでしたから、雉子宮の人に誰にも言わずに来て帰っていったのでしょう。
「そこで、貴子さんだ。貴子さんは早くから家を出たくて学生の頃には家出までしたそうだな。そういうのもあって勘当されたらしい。だが、勘当はしたものの、いちばん若い。風の噂で結婚して子供もできていると家の方では聞いていた。それを、貴子さんは姉から聞いて知っていた。兄貴も知っているぞ、と」
「お姉さんが、言ったんじゃないですか? それ」
 圭吾くんが言います。
「たぶん、そういうことだろうな。姉妹仲もそんなにいいわけじゃあないみたいだ。貴子さんも帰る気はなかったが、確かに実の父親の顔を見ないまま亡くなってしまって後から後悔するのも嫌だと。しかし」
「自分には、跡継ぎにもできる男の子ができていた、か」
「そうだ」
「しかも夫は事故死してしまった。実家に帰ってこいと言われるに決まっている。ひょっとしたら無理やり子供を奪われるかもしれない。夫やその子のことを隠したとしても後々何か言われて問題になっても、お世話になっている会社の社長さんに迷惑が掛かっても困る、だな?」
 周平さんが言って、小野寺さんが頷きました。
「貴子さんが出した結論は、夫も子供も連れていく。そして、はっきりとこの家を継ぐことはない。もう二度と会うこともないと言うこと。そのために、子供の薫ちゃんを女の子みたいに仕立て、そして俺を雇った」
 立派な旦那さんと女の子を連れて帰る。
 その上で、もう二度と、この先、実家に何があろうとも自分は関係ないと告げるために。実家に納得させるために。
「そういうことだったのか」
 なるほどね、と、周平さんも早稲ちゃんも圭吾くんも、私も頷きました。
「薫ちゃんは、演技をしていたのかしら? 嫌がらなかったんですか? 女の子の格好することを」
 早稲ちゃんが訊きます。
「生まれたときから実家との問題を見越して、名前も男女どちらでもいい名前の薫にした。そして、髪の毛も伸ばしていた。無理強いはしなかったが、女の子の服も着させたりして遊んでいたそうだ。本人もまだ男も女もない年齢だからね。気にしていないよ。気にしていたのは俺との関係だね」
 苦笑いし、そして小さく頷きます。
「本当のお父さんが死んでしまったのをはっきりとは理解していない。いつの間にかお父さんがいない暮らしになってしまって、淋しがっていた。そこに、俺が現れてしばらく一緒に過ごしていた」
「過ごしたのか」
「二週間ほどな。家族らしい雰囲気を作り上げるために。もうすっかり懐いてくれたよ」
 確かに、三人の間には変な雰囲気はありませんでした。どう見ても、家族でした。小野寺さんは、ふぅ、と息をつきました。
「これが、種明かしだ。済まなかったな。話を合わせてもらって」
「それは、別に何でもない。仕事の邪魔をしたくなかったし、貴子さんがお兄さんに自分の現状を隠して結果的に騙したとしても、それは犯罪じゃない。実家と関わりたくないから隠しただけのことだ。家族の問題だ」
 そうなるのでしょう。
 これが金銭絡みで、貴子さんが剛さんを騙してお金を取ったとかであればいくら兄妹の間でも犯罪になってしまうでしょうけど。
「それで、剛さんは納得したんですか? もう話はしたんですよね?」
 早稲ちゃんが聞きました。小野寺さんは、頷きます。
「高田の与次郎さん、お父さんはもうほとんど何も反応しない。医者の話ではいつ逝ってもおかしくないようだな。剛さんも、俺はいざというときには強行手段も考えていたんだが、静かに話をしていたよ。兄妹でね」
「そうか。納得したのか? 剛さんは」
 小野寺さんは、一度眼を伏せました。
「種明かしと、お願いをしに来たと言ったな」
 そういえばそうでした。
「お願いってのは、蓑島巡査。一緒に高田家に行ってくれないか?」
「一緒に?」
 小野寺さんと周平さんがですか。
「剛さんと俺も話をした。一応、立場上は義理の兄弟になるわけだ。事情も全部自分の妻から聞いている。高田家とは縁を切る。二度と会うこともないでしょうがそれでいいですね、と。かなり強く話をしたよ。俺としてもそれが仕事だったからだ。完璧な強い夫を演じて剛さんを圧倒的にへこませて、貴子さんと薫を無事に東京まで連れて帰る。そのつもりだったんだがな」
「何かがあったのか?」
 溜息をつきました。
「剛さんは、悔いている」
「悔いている?」
「兄妹の絆を自らの過ちで壊したことを。しかし、それを伝えられないでいる」
「そうなのか?」
 間違いない、と、小野寺さんが言います。
「しかし、俺からそれを貴子さんには言えない。一応、貴子さんに金で雇われている身だからな」
「僕が、君の正体を暴けばいいってことか。見過ごすわけにはいかない、と。そしてもう一度皆できちんと向き合って話してもらって、家族の絆を直す方向に君は持っていきたいのか」
 ゆっくりと、小野寺さんは頷きます。
「そういうことだ。あんたには会えば面倒掛けてばっかりで申し訳ないが、ここで会ったのも縁だろう。頼む」

 小野寺さんと周平さんと一緒に、私も高田家へ向かいました。
 もう薫ちゃんは寝ていましたけれど、もちろん剛さんも貴子さんも起きていました。私と周平さんが来たことに少し驚いていました。
 周平さんは、小野寺さんと昔から知り合いであったことを貴子さんにも剛さんに告げて、その上で、小野寺さんが貴子さんに雇われた探偵であること。最初は話を合わせたけれども、やはり騙すような形で何かを終わらすことを、ここに住む駐在、警察官として見過ごすわけにはいかないと、周平さんは諭すように言いました。
 ただ、薫ちゃんのことだけは言いませんでした。
「剛さん」
 静かに、周平さんは言います。
「小野寺は、あなたがこれまでの自分の妹に対する行いを悔いている、と言っていました」
 剛さんが下を向き、貴子さんが驚いたように顔を上げ、剛さんを見ます。
「僕はこの小野寺の探偵としての資質を認めています。人の心情を見抜く眼を持っています。その眼は、このままこの兄妹をいがみ合ったまま、騙し騙されたまま、気持ちを言えぬまま別れさせてはいけないと思ったそうです」
 剛さんは、唇を結びます。貴子さんの眼が少し細くなりました。
「小野寺さん、それは、本当ですか?」
 貴子さんが小野寺さんに訊き、小野寺さんはゆっくり頷きました。それを見て、剛さんは息を吐きました。
「貴子」
 静かに、呼びかけました。
「はい」
「親父もそうだが、貴子。俺もたぶんだがな、そう長くない」
 剛さんが言います。
「長くないって」
「親父に余計な心配させたくなかったんでな。ずっと、隠していたんだが、ここのところ血を吐いてる」
 吐血。
「すぐに病院に行ってください。重篤な症状の場合が多いです」
 思わず言いました。
 肺(はい)なのか胃なのか、もちろんその量とか質にも因(よ)りますが、いずれにしても血が混じるというのはいけない兆候です。
 剛さんが、唇を曲げました。
「何せ親父が弱っていたんでね。俺が入院するわけにはいかんかったし。まぁこれで親父も長いことないから、逝っちまった後で逝こうと思っとるがね。花さん、あんたは心配せんでええよ。自分の体のこたぁわかっちゃる」
 確かに、剛さんの血色はそう悪くはありません。
 内臓に重篤な症状がある場合はよく表にも現れますが、手の皮膚の張り、顔艶、眼の様子など、特段にどこかが悪いような様子は見られません。
 軽い胃炎や喉の炎症などでたまたま血が混じって出てしまったということも確かにありますが。
「いずれにしても、病院へ行ってください」
 うんうん、と、剛さんは頷きます。
「貴子」
「はい」
「改めて、頼む。俺が死んだら、お前がここを継いでくれ」
 貴子さんの眼がきつくなりました。
「それは」
「別に農家をやれとは言わねぇ。そこは継がなくてもええさ。帰ってこないで畑は誰かに貸してもいいしそのまま放って休耕地で置いてもいい。お前の好きにしてくれ。だけどもな、ここを売るな」
 売らないでくれ、と、剛さん繰り返します。
「お前が俺のことや親父を恨んでいるんなら、いや、恨んでるんだろ。だから、このまま二度と会わんでもいい。俺が死んでも葬式なんかも挙げんでいい。冷たくて嫌でしょうがない兄貴だったと思ってくれとってもええ。だけどな、ここを継ぐことだけは、お前がやってくれ。ここは、ご先祖様からの高田家のものだ。高田の魂だ。それは雉子宮の、ここを守ってきた地の魂でもあるんだ」
 剛さんの眼が潤んでいます。
 貴子さんは、じっと剛さんを見つめています。
「土下座して頼めというのならそうする。殴らせろというなら殴れ。でも、ここを継いで、何があってもどこにも誰にも売らんでくれ。高田の土地を守ってくれ。お前の子供にも伝えてくれ。それだけは、頼む。頼まれてくれんか」
 剛さんが、畳に手をつき、頭を下げました。
 貴子さんは、そっと眼を閉じ、静かに静かに息を吐きました。
「わかりました」
 兄さん、と、呼びかけます。剛さんが顔を上げました。
「私も、高田の人間です。どのみち、兄さんが亡くなれば法的にも私のものになります。姉さんとも話し合わなきゃなりませんけど、ここを継ぎます。そして、決して売りません。守っていきます。約束します」
「そうか!」
「ただ」
 貴子さん、少しだけ、頬を緩ませて剛さんを見ました。
「私は、できるだけ帰ってきたくありません。だから、兄さんが長生きしてください」
 微笑んで、小さく頷きました。
「病院に行って、検査して、悪いところがあったら治して長生きして、ここを守ってください」

     ☆

 次の日の朝、帰る前に小野寺さんと貴子さん、薫ちゃんは、迷惑を掛けましたと駐在所に寄ってくれました。また来ることになるけれども、そのときにはよろしくお願いしますと貴子さんは言ってました。
 バスに乗るのを見送り、手を振りました。薫ちゃんは笑顔で手を思いっきり振り返えしてくれました。可愛くて可愛くて、今度また会えるのが楽しみです。

〈たぶんですけれども、また小野寺さんがここにやってくる、と周平さんは言っていました。
 仕事としてはこれで終わったのですから、もう来ることはないと本人も帰り際に言っていましたので、遊びにでもくるのかと訊くと、そうではないと、周平さんはにやりと笑っていました。
 きっと、小野寺さんは貴子さんに惚れているんだ、と。ちょっと驚きました。そんなふうには全然見えなかったのですが、深くなくても付き合いの長い周平さんと小野寺さんです。何かそういうのがわかったのかもしれません。
 惚れてしまったからこそ、剛さんを騙したままにするのを嫌がったのさ、とも言っていました。案外そうなのかもしれません。
 縁とは不思議なものと言いますけれど、兄弟姉妹だって縁なんでしょう。その縁が嫌なもののまま終わってしまうのは、それこそ嫌なものだろうと思います。できることなら、良きものにしてあげたい。そう思うのは、人情というもので、それは決して駐在所の警察官の仕事に邪魔にならないと思います〉

君と歩いた青春 駐在日記

画・新目惠

Synopsisあらすじ

時代は1977年。神奈川県の山奥にある雉子宮駐在所に赴任した、元刑事の簑島周平と、元医者の花夫妻。優しくて元気な人ばかりのこの村だが、事件の種は尽きないようで……。
「東京バンドワゴン」の著者が贈る、レトロで心温まる連作短篇ミステリー。

Profile著者紹介

小路幸也
一九六一年、北海道生まれ。二〇〇三年、『空を見上げる古い歌を口ずさむ pulp-town fiction』でメフィスト賞を受賞しデビュー。代表作「東京バンドワゴン」シリーズをはじめ著作多数。魅力的な登場人物と温かな筆致で、読者からの熱い支持を得ている。

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