君と歩いた青春 駐在日記プロローグ

プロローグ 一年と八ヶ月前

〈昭和五十年四月五日土曜日。
神奈川県松宮(まつみや)警察署雉子宮(きじみや)駐在所。私と周平(しゅうへい)さんの新しい住居と職場です。初めてやってきたその日に、これから過ごす毎日のことを、こうしてきちんと日記に残していこうと二人で決めました。周平さんは業務として〈日報〉と呼ばれる日誌を毎晩書くそうです。それで、私も一緒に日記を書くことにしたのです。〉

 右手の指は、細かい動きや作業が不自由なほどに動きません。それでもこうして鉛筆を子供のように握って、ゆっくりと字を書くぐらいはできます。本当にまるで園児の頃の字のようになってしまうのがとても歯痒(はがゆ)いですけれど、頑張って毎日書いていくうちに指が動くようになれば、字がきれいになっていけば、励みになるのではないかと思います。
 怪我(けが)や欠損などで失われた身体機能を回復させるために、医療従事者が患者に推進する運動やその活動が【リハビリテーション】という言葉で普及してきたのは、ここ十年ぐらいのことです。私も、まだ外科の研修医として働いていた頃から理解はしていましたけれど、まさか自分の身体でそれを実践することになろうとは思ってもいませんでした。

〈今日の夜、ザ・ピーナッツが引退公演をしたそうです。さっきラジオでアナウンサーが伝えていました。私もザ・ピーナッツは大好きでした。あの二人をもうテレビで観られなくなるというのは、日本の歌謡界にとっても大きな損失ではないかと思います。〉

 もっとも、山に囲まれた雉子宮は電波の状態が悪くて、テレビの映りがかなり悪いんだそうです。それはちょっと残念だなぁと思いますけど、しょうがないですね。ラジオも雑音混じりで聴き難いそうので、周平さんは少し余裕ができたら性能のいいラジオを買おうかと言ってました。
 でも、その代わりに、雉子宮では楽しい音がたくさん響くことに、やってきてすぐに気づきました。駐在所のすぐ向かい側にある川音川(かわねがわ)からは、その名前の通りに美しいせせらぎが絶え間なく静かに響いてきます。すぐ裏手にある雨山(あめやま)の方からは、野鳥の鳴き声もたくさん聴こえてきます。風が山を渡り庭の木々を揺らし、さやさやと葉擦れの音がずっと流れてきます。
 荷物の片づけをしているときに気づいて、どれだけの種類の野鳥の鳴き声が聴こえてくるんだろうと数えてみたんですけど、少なくともそのときには五種類の鳥の声が聴こえてきました。きっと、もっともっとたくさんいると思います。野鳥にまったく詳しくないのがちょっと悔しくて、後で鳥の図鑑で調べてみようと思いました。これから夏になり秋になると、虫の声もたくさん聴こえてくるんでしょう。田圃(たんぼ)があるから蛙(かえる)の声だって響いてくるはず。きっとものすごく賑(にぎ)やかになると思います。
 今までずっと暮らしてきた横浜では、そんなにたくさん聴こえてきたことはありません。あったのかもしれないけれど、忙しい毎日に鳥の声や虫の声に心を寄せることなんかなかったのだなぁって感じています。

〈明日は日曜日で休日です。駐在所というぐらいだから、一年三百六十五日お休みなどないのかなぁと思っていましたけれど、警察官は公務員。ちゃんとお休みがあって、駐在所も一応は日曜はお休みなんだとか。〉

 たとえカレンダーでは休日でも、駐在所はいつでもいかなるときでも開いているものだそうです。誰かがやってきて何かを頼んできたら、警察官としてきちんと対応しなければならない。仮にまったく業務外のことであったとしても、地域の交番ではどんなことにも応対しなければならないそうです。
 それは、全然平気です。私の仕事であった医者だって休みなどはあってないようなものでした。緊急の手術で夜中に起こされたことだって何度もありました。それに、駐在所勤務の夫の妻として、一緒に忙しく働いていた方が気が紛れていいと思います。
 皆さん、笑顔で迎えてくれました。この駐在所に周平さんのような若いお巡りさんがやってくるのは本当に久しぶりだと神主の清澄(せいちょう)さんが仰(おっしゃ)っていました。
 ごらんの通りの小さな村落で、悪い人なんかいないし、大きな事件なんかもまるでない。でも、村の行事はたくさんあって、それにはぜひ参加してもらいたいし、駐在所のすぐ裏の学校からは子供たちもたくさん押しかけるそうです。子供たちとも仲良くやってくださいよ、と、清澄さんが言っていました。
 皆柄下郡(みながらしもぐん)雉子宮は、皆柄下郡田平町(たひらちょう)から山に入ったところの一地区です。
 その昔は〈雉子宮村〉と呼ばれていて、今も住人の皆さんは自分たちのところを村と呼ぶことが多いそうです。今は田平町の管轄であり町役場もそこにありますが、かつては村役場もあって今は公民館となっています。正式な役職ではありませんが村長さんも毎年雉子宮の住民の中から選ばれて、お祭りなどの村の行事を取りまとめています。とはいえ、もう二十年も村長さんは高田与次郎(たかだよじろう)さんのままだそうです。
 全戸数は百二十一戸。住民は昨年の記録では五百十六名。そのほとんどが農家や林業関係の仕事をやっていて、見渡せば茶畑やみかんの木、様々な畑や田圃が並んでいます。もちろん住民の中には田平町まで出勤する会社員の方も僅(わず)かですがいるそうです。
 山に囲まれていますから西沢(にしざわ)山系登山の入口にもなっていて、〈雉子宮山小屋〉という登山者向けの簡易宿泊施設がひとつだけあります。村の中を流れる川音川や中瀬川(なかせがわ)、木根川(きねがわ)という三本の川には、鮎(あゆ)や山女魚(やまめ)や虹鱒(にじます)などの魚もとてもたくさんいて、知る人ぞ知る釣り場になっていて、鍛えられた釣り人たちの集まる場所でもあるそうです。

〈本当に偶然で驚いたのですけど、神主の清澄さんの従兄弟(いとこ)さんが、横浜の、私が勤務していた病院の事務の方だったんです。名前は知らなかったのですけど、写真を見せてもらうとすぐにわかりました。世の中は狭いねぇとお互いに笑っていたのですが、その後に、清澄さんは静かに微笑んで、事件のことは知っていますよと言っていました。大変でしたね、と優しく励ましてもくれました。〉

 右手の指がほとんど動かないことを、医者でありながら直接的な医療行為ができないことをお伝えするのにどうしようかと思っていた部分もあったのですが、清澄さんは私が医者であったことは特に皆に教えないでもいいだろうし、怪我で右手が不自由であることだけはそれとなく皆に伝えておきますよと言ってくれました。
 荷物を整理するのも大変でしょうと、娘さんである早稲(わせ)ちゃんを手伝いに寄越してくれました。早稲ちゃんは普段は神社のお手伝いをしているそうです。とても明るくて元気で可愛い女の子で、駐在所にも生まれた頃から出入りしているので勝手知ったる他人の家で、どんどん荷物を片づけたり、慣れない台所での作業の仕方も教えてくれてとても助かりました。
 駐在所になっている建物が、実は江戸時代に建てられた問屋家というものの一部であって、古くて大きいのには本当に驚きました。
 大きな瓦屋根の二階建てで横に長くて、時代劇で観るような建物です。玄関入ってすぐが、以前は畳敷きの問屋の荷受け所だったのでしょうけど、そこが駐在所で土間に事務机が二つ並んでいます。上がり口から上がると黒い板の間になっていて、四畳半ほどの広さはあります。その脇の部屋が庭に面した縁側のある和室で、学校の子供たちのための図書室になっているんです。
 壁に設(しつら)えられた本棚にはたくさんの本が並んでいて、学校の図書室の分室の役目も果たしています。和室なのでごろごろしながら本を読めるのが素敵だと思います。医者になるときに小児科を選ぼうかと思っていたぐらいですから、子供は大好きです。今から村の子供たちと遊べるのが楽しみです。
 そして、猫たちです。この駐在所には三匹の猫が寝泊まりしています。たぶん、十歳ぐらいの茶色のヨネと黒猫のクロ、まだ三歳ぐらいの縞模様のチビ。農家ではネズミ取りのためにごく普通に猫がいるという話は聞いていましたけど、ここでもやっぱりそうで、この古い家に住み着こうとするネズミ退治のために昔から猫を飼っているそうなんです。
 たくさんの人が出入りする駐在所暮らしのせいか、三匹とも人懐こくて、やってきてすぐに私と周平さんに慣れてくれました。今も、チビが私の横で座布団の上に寝ています。猫は小さい頃に実家で飼っていて大好きなので本当に嬉しいです。
 駐在さん、と呼ばれるお巡りさんのお仕事は、今まで横浜で周平さんがやってきた刑事さんとはまるで違うと聞きました。同じお巡りさんなのにこんなにも違うものかと驚くぞと、先輩の方にいろいろ聞いてきたそうです。

〈私も、駐在の妻として、電話番や駐在所の管理などの仕事があるそうです。それも、今までやってきた医者の仕事とはまるで違うのでしょう。でも、結局は人のため、を考えることだよ、と周平さんが言ってました。私もそう思います。この雉子宮に住む人たちの暮らしを、安全を守ることを考えて、毎日を過ごしていく。そういう暮らしが、今日から始まったのです。〉

君と歩いた青春 駐在日記

画・新目惠

Synopsisあらすじ

時代は1977年。神奈川県の山奥にある雉子宮駐在所に赴任した、元刑事の簑島周平と、元医者の花夫妻。優しくて元気な人ばかりのこの村だが、事件の種は尽きないようで……。
「東京バンドワゴン」の著者が贈る、レトロで心温まる連作短篇ミステリー。

Profile著者紹介

小路幸也
一九六一年、北海道生まれ。二〇〇三年、『空を見上げる古い歌を口ずさむ pulp-town fiction』でメフィスト賞を受賞しデビュー。代表作「東京バンドワゴン」シリーズをはじめ著作多数。魅力的な登場人物と温かな筆致で、読者からの熱い支持を得ている。

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