君と歩いた青春 駐在日記水曜日の雪解けは、勘当者(前編)

水曜日の雪解けは、勘当者

〈昭和五十二年二月二十四日 木曜日。 
 家族の形というのは、家族の分だけあるのだと思います。
 それは他人が勝手に干渉していいものではないでしょうが、そうした場合がいいときもあるとは思います。
 医師として働いているときも、多くの家族の方と関わってきました。医師が手術をした患者さんと出術後も向き合うのはもちろんですが、その家族の皆さんとも、他人が思っているよりも医師として深く関わるものなんです。
 でも、果たして、それがいいものかどうか、答えが出ない問いをいつも抱えていました。医師は患者を治すだけ。その患者の家族がどういう形であろうが、関係ありません。でも、医師が家族に関わることで、患者がより良い方向で回復に向かうのであれば、それも医師の仕事ではないのかと。
 今日の出来事も、家族の問題でした。市民の平穏な暮らしを守るのも警察官の仕事ですが、果たしてそれはどこまで市民の暮らしに関わっていいものか。民事不介入という言葉があって、警察官は家族の問題にまでは介入しないというのがあるのですが、それで果たして平穏な暮らしを守っていることになるのか。
 周平さんも、警察官になってからずっと考え続けていることだそうです。〉


 一月に入ってからこの辺りでは例年になく暖かい日々が続いて、山の雪融けが随分と進んでしまったそうです。
 私たちはここに来て二度目の冬なので、その辺のことはまだわからないのですが、こんなに早く農家の人たちが畑の春蒔(はるま)き支度を始めるのも珍しいんだそうです。
 周平さんと私が雉子宮(きじみや)駐在所にやってきた最初の冬だった去年は、十年かそこらに一度というほどの大雪でした。それはもう、横浜育ちの私たち二人も見たことがなかったほどたくさん雪が積もって、雪だるまを作ったり雪かきしたりと私としてはけっこう嬉しかったりしたのですが、大変なことは間違いありませんでした。
 そして二度目の冬の今年は、雪こそ平野部にはほとんど積もらない例年並みのものでしたけど、山は異例の雪融けの早さになってしまいそうです。
 冬に限らないのですが、雪融けが早かったりしていちばん困るのは、我が駐在所の番犬ミルの散歩ですね。この辺りはまだ土の道路がたくさんありますし山の中などはもちろん土です。ミルは白い犬なので、霜(しも)が溶けた泥の汚れがいちだんと目立ちます。散歩から帰ってきて、ミルのお腹や脚を拭(ふ)いてきれいにするのがけっこう一苦労なのですよね。
 住み着いている猫たち、ヨネにクロにチビたちも普通に外を出回ったりしますが、猫は脚や身体が濡れるのを嫌がりますから、冬とかはほとんど外には出ません。出ていっても身体が汚れるようなことはしないんですよね。そういう意味では、犬は人間と一緒に行動する分、手間もかかりますね。
 今日も朝からきれいに晴れて、昨夜降りたらしい霜が融けて軒下からぽたぽたと滴(しずく)が落ちています。
 天気予報ではまた暖かい一日になりそうで、ひょっとしたら少し残っている雪も全部融けてしまうかもしれません。
 圭吾(けいご)くんと早稲ちゃん夫婦が二階に一緒に暮らすようになってから半年近くが過ぎて、もうすっかり四人の暮らしがあたりまえになっています。
 山小屋と神社の仕事をしている二人も朝が早いですから、七時にはもう朝ご飯の支度ができて、圭吾くんが作った木製のダイニングテーブルについて、いただきますをします。
 今日の朝ご飯はタラのみりん漬けに、ほうれん草の胡麻和(ごまあ)え、お味噌汁には大根とお揚げ、それに目玉焼き。梅干しと焼き海苔(のり)はいつでも食卓に上がります。
「何だか僕たちが来てから冬の天気は珍しいことばかりだな」
 雪解けが早い話をすると、周平さんが頷(うなず)きながら言います。
「本当にね」
「案外、二人で晴れ男と晴れ女だったりして」
 いただきますをした後に、圭吾くんがご飯を一口放り込んで言います。
「あ」
 思わず周平さんと顔を見合わせてしまいました。
「あ、ってそうなの?」
 早稲ちゃんが目玉焼きに醤油(しょうゆ)をかけながら私を見ました。そういえばそうでした。
「周平さんは、晴れ男なんですって。それも何かあるときには必ず雲ひとつない晴天になるって」
「何かあるって、ひょっとしたら刑事時代の事件のときにとか?!」
 早稲ちゃんが眼を輝かせます。実は早稲ちゃん、テレビドラマが好きなんですよね。刑事ドラマも大好きで、この辺は入るチャンネルが少ないのですが、観られるものは全部観ています。
「そうなんですって。ね?」
 周平さんが苦笑いしました。
「張り込みのときとかね。真っ昼間のしかも外での張り込みで日本晴れはきついんだ」
「それはきついよね」
「それこそドラマじゃないけど、犯人を追い掛けて走ったこともあったけど、そのときも真夏の晴天だったよ」
「捕まえたの?!」
 周平さんが頷きます。
「捕まえたときにはもうシャツを絞ったら汗が出るぐらいだった」
 周平さんは普段はそういう刑事時代の話をしたりはしません。でも、早稲ちゃんや圭吾くん、それに康一(こういち)さんなどにはすることもあります。信頼しているんですよね。興味本位で言いふらしたりはしないって。
「花(はな)さんも晴れ女なの?」
「実は私は、雨女っぽいの」
「ぽいって?」
「自分にはあまり関係ないんだけど、横浜にいた頃には大きな手術の日には必ず雨が降っていたみたい」
 へー、と圭吾くんが感心します。
「雨女だけど、手術中だから花さんには何の関係もないんだ」
「そうなの。それも、看護婦さんから聞いて自分でも気づいたの。『渡辺(わたなべ)先生の執刀のときはいつも雨ですね』って言われて」
「わたなべ、って旧姓? 花さんの」
「あ、知らなかった?」
 そうですよね。自分の旧姓を人に言うことはあまりありません。
「渡辺花。わたなべのなべはいちばん簡単な辺の字ね」
「旧姓とかって、慣れた?」
 早稲ちゃんがちょっと笑みを浮かべながら言います。まだ一年経っていない新婚さんの二人。
「私はもう慣れたかな。名前を書くときにも素直に蓑島(みのしま)花、って出てくるから」
「名前を言ったり書いたりすることがほとんどないから、まだ自分で〈坂巻(さかまき)早稲〉ってしっくり来なくて」
「確かにね」
 周平さんが頷きます。
「何か契約や書類をたくさん書くような仕事でもなければ、自分の名前を書くことは日常生活でほとんどないからなぁ」
「そう!」
 早稲ちゃんが箸(はし)を持ったまま大きく頷きます。
「神社の仕事で自分を名乗る機会なんかないのよ」
 結婚しても神社で巫女(みこ)さんの仕事をしている早稲ちゃん。
「誰かに〈坂巻早稲です〉って言いたいんでしょ」
 えへへ、って笑います。その気持ちはとてもよくわかります。
「あれだよ。圭吾くんがログハウスの仕事を始めて、それを早稲ちゃんが手伝うようになれば事務的な仕事が出てくるからさ。それで名前を書くことも増えるんじゃないのか」
「そうかもしれないけど、まだ何年も先になるかもしれないし、その頃にはもう慣れちゃってどうでもよくなってるかも」
 笑いました。今は叔父(おじ)さんである富田(とみた)さんとやっている山小屋の仕事が忙しい圭吾くん。でも山にある木を利用してログハウスや木製家具などの製作販売をやりたいと、今は下準備中。そうなったのなら、妻である早稲ちゃんも手伝う予定です。
 神社の神主を継ぐ準備も早稲ちゃんはしてきましたが、現神主である清澄さんはまだまだお元気ですし、神主は世襲制でもありませんから。自分たちの人生をどうやって生きていくかは、ゆっくりと考えていくそうです。
「周平さんは、まだまだここにいてくれるんですよね?」
 圭吾くんが訊くと、周平さんは梅干しを口に入れてすっぱい、という表情をしながら頷きました。
「そのつもりだよ。もちろん異動の辞令が出てしまったらどうしようもないけれども、基本的には上の方の人には当分の間はここで働けるようにお願いしてあるから」
 そのときです。
 その音に、私の身体中が自然に反応してしまいました。思わず、箸を置いて立ち上がってしまって、その後に皆が顔を外に向けて、
「救急車か?」
 周平さんが言って、大きく頷きました。
「救急車よ」
 自分でもびっくりしました。もう医師ではないのに、こんなにも反応する必要もないのに。
「救急車?」
「珍しいな」
 早稲ちゃんと圭吾くんが口々に言います。
 そういえば、初めてです。ここに来てから救急車のサイレンの音を聴いたのは。ミルも何の音かと立ち上がって外を眺めています。チビが跳びはねるように窓のところまで行って何事かと外を見ています。
「どこの家だろう」
 周平さんが言います。村にほとんど車の通りはありませんから、交通事故はちょっと考えられません。すると、どこかの家で誰かが怪我したか倒れたかということでしょう。
 周平さんがコートを取り、ジープの鍵を持って長靴を履こうとしたときに、電話が鳴りました。いちばん近くにいた私が受話器を取ります。
「はい、雉子宮駐在所です」
(あぁ、花さんか)
「清澄さん」
 早稲ちゃんと顔を見合わせました。
(聞こえたかい。救急車の音)
「聞こえます。今どこに向かっているのかを確かめようと」
 皆がその場で動きを止めて、私を見ています。
(今、電話があった。村長が倒れたとな)
「村長さんですか?」
 村長さん、高田与次郎さんが自宅の玄関先で倒れて意識がなく、救急車を呼んだそうです。それならば搬送先は、田平町の町立病院でしょう。そこしかありません。
(誰かが駐在所に電話してくるかもしれんからな。そう言っておいてくれ。病院についたらまた連絡くれる言うとったから)
「わかりました。そうします」
 受話器を置きます。
「村長さんが玄関先で倒れたんですって。清澄さんのところに電話があったって。また後から電話来るだろうから、誰かに訊かれたらそう言っておいてって」
 そうか、と、周平さんが頷いて、コートや鍵を片づけます。それがわかったのなら、周平さんが確認しに出て行く必要はありません。もう現役ではない私が病院に駆けつけても何もできませんし、駐在所の警察官も、後からどうなったかを確認すればいいだけです。
 まだ途中だった朝食を片づけようと、四人でまたテーブルに戻りました。
「心配ね」
 早稲ちゃんです。
「村長、何歳ぐらいだっけ」
「確か、七十五とか六とか」
「それぐらいだったね」
 皆で言い合い、頷きます。
「倒れたっていうなら、考えられるのは何? 花さん」
 圭吾くんが訊くので、少し考えます。
「普通に考えるのなら、心臓か、脳疾患(のうしっかん)。心筋梗塞(しんきんこうそく)とか脳卒中ね。もちろん、たとえば膝(ひざ)が痛んで倒れてしまって頭を打った、なんてことも考えられるけれど」
 今の段階では想像するだけです。高田さんの家には、与次郎さんとその長男である剛(つよし)さん。そして与次郎さんの従兄妹(いとこ)である加根子(かねこ)さんが住んでいるはず。清澄さんに電話してきたのはそのどちらかでしょう。
「村長さんの息子の剛さんって、私はほとんど会ったことないけど、ご結婚はしていないの?」
 訊くと、早稲ちゃんと圭吾くんが、うん、と頷きました。
「一度結婚してるけど、奥さんは亡くなったんだよな」
「何年前だったかな。十二、三年ぐらい前かな。私もまだ小学校に通っていた頃だった」
「お子さんもいないんだよね」
 いない、と、二人して頷きます。
「前は里美(さとみ)さんや貴子(たかこ)さんもいたけどね。村長の娘たち」
 娘さんがいたんですか。
「台帳では見たけれども、娘さん二人は他所(よそ)で結婚しているのかな?」
 周平さんが訊くと、早稲ちゃんが微妙な表情を浮かべます。圭吾くんも、軽く頷きながら何か言い難そうな顔をしました。
「お姉さんの里美さんはね、北海道の函館(はこだて)だったかな? そっちの方にお嫁にいっているはず」
 圭吾くんが言って、早稲ちゃんが頷きます。
「あそこの兄妹は年が離れているんだよね。剛さんはもう四十何歳だけど、次女の貴子さんはまだ三十そこそこだったと思うんだけど」
「けど? 何かあったの?」
 うん、と、唇を歪めました。
「勘当されたんだって、貴子さん。だから、ここを出て行ってから一回も帰ってきていないの。どこでどうしているのか、村長さんも剛さんもわからないはず。里美さんは、そもそも北海道だから滅多に帰ってこないのはあたりまえなんだけど」
 勘当ですか。なかなかに古くさいものですけれど、地方の田舎ではまだそういうのもあるのでしょうか。
「何があったの、って訊くのは失礼かな」
 いや、と、圭吾くんが軽く首を横に振りました。
「僕らもわからないですよ。早稲ちゃんも知らないだろ?」
「わからない。お父さんも随分前に何があったもんだか、って言っていたから、知らないと思うけど、たぶん跡取り云々(うんぬん)のことだろうなぁって」
「跡取り」
 そう、と頷きます。
「今はただの町民だけど、そもそも高田家は雉子宮村だった頃からの庄屋さんだったから。地主さんよね。もうそんな土地もないけれどまだいちばん広い土地持ちだし、あそこの裏山なんかも全部そうなの。高田家の持ち物」
「相続関係のごたごたってこと?」
「でも、普通は長男である剛さんが相続するんじゃないかな? 娘二人はどのみち家を出て行くんだから」
「それがね」
 早稲ちゃんが顔を顰(しか)めました。
「確かめたわけじゃないけれど、剛さんは結婚したけれど子供もできないうちに奥さん亡くなっちゃってそれっきりでね。結局剛さんには、もう子供ができないだろうってことで」
 子供ができない。周平さんがちょっと唇を歪めました。
「子種がないってことかな。それで、長女とか次女が産むであろう男の子を跡継ぎにもらうもらわない、なんていう口論があったり喧嘩(けんか)があったり、とか、かな」
「たぶん、そういうことかなぁ、ってお父さんは言っていた」
「他の村の連中もそんな感じで話していたね。何せ村長さんだから、あそこがもしもゴタゴタしちゃったらいろいろ影響はあるみたいだからね。皆それぞれに気にはしていたみたいだよ」
 そういう話ですか。今の時代に家の跡継ぎ云々の話はもう少なくなっているとは思いますけれど、土地が絡んでくるといろいろと厄介な話にはきっとなりますよね。
 そうか、と、周平さんが心配げな表情をします。
「与次郎さん、無事だといいんだけどな」
 それを願うしかありません。
「こんな田舎の村を嫌がったり、家族のゴタゴタがあって出ていってもさ、いろいろあるよね。これでもし村長さんが亡くなっちゃったら、貴子さんだって一度は帰ってこなきゃならないだろうし、帰ってきたら来たでいろいろ言われるだろうしね」
「そうよねぇ」
 早稲ちゃんも頷きます。
「私は神社の娘で、まぁ恵まれたっていうか、この村も好きだし一生ここで暮らしたっていいとは思ってるけど。あ! そういえば!」
「なに」
「圭吾くんは知ってた? あの女優の篠崎詠美(しのざきえいみ)」
 篠崎詠美さんですか。あんまりテレビドラマを観ない私でも知ってます。
「すごい美人の女優さんよね。今はもう中堅というか、人気女優さん」
「僕でも知ってるよ。ちょっとオードリー・ヘップバーンみたいな雰囲気あるよね」
「あぁあるある! 可愛いよね。その女優さんがどうかしたの?」
 早稲ちゃん、眼を真ん丸くさせて言います。
「彼女がここの出だっていう話を聞いたんだけれども!」
「え?」
「雉子宮の?」
 そうなの! と、箸を握ったまま力を込めました。
「え、そんなの聞いたことない」
「私だって初めて聞いたもの。杉沢(すぎさわ)の松子(まつこ)さんが言っていたんだけどね。彼女は生まれたのはここで、でもまだ小学校に上がる前に一家で町を出ていったんだって。野真崎(のまざき)さんっていう家だったって」
「彼女って、三十半ばぐらいだよね?」
「そうかな?」
「雉子宮で三十半ばってことは、高橋の玲子(れいこ)さんとか、乙川(おとがわ)の久司(ひさし)さんぐらいか」
 どの名前も聞いたことはありますけれど、私はよく知らない人ばかりです。いくら雉子宮が田舎といえども百二十戸の家があって、五百人以上の人がいるんです。とても全部は覚え切れません。
「でも」
 周平さんです。
「その頃に野真崎さんっていう家があったかどうかは古い台帳を見ればわかるだろうし、何よりも野真崎さんを覚えてる人はたくさんいるんじゃないのかな。いくら女優さんが芸名だったとしてもほとんど誰も知らないっていうのは」
「それがね」
 早稲ちゃん、お味噌汁を飲み干します。
「杉沢(すぎさわ)の松子(まつこ)さんが言うには、彼女が有名になった頃、野真崎さんのことをよく知ってる人のところを回って口止めしたんだって。お金を払って。ここの出身だってことを絶対に他所に漏らさないでほしいって」
「ええ?」
 口止めですか。
「そんなことを?」
 周平さんが嫌そうに顔を顰めました。
「本当かどうかは知らないけれど、少なくとも杉沢の松子さんはそう聞いたことがあるって」
 女優さんやタレントさんはイメージが大事ですから、確かにこんな田舎町出身では、篠崎詠美さんのイメージには合わないかもしれませんが、それにしたってそんなことをしてまで出身地を隠してもしょうがないと思うんですけれど。
 皆がご飯を食べ終って片付けものを始めたときに、電話がまた鳴りました。周平さんがすぐに出ます。
「はい、雉子宮駐在所です」
 はい、と、周平さんが繰り返しました。頷きながら私たちを見ますので、たぶん清澄さんからでしょう。
 与次郎さんについての電話が入ったに違いありません。
「そうですか」
 そう言った周平さんの顔が歪みました。
「わかりました。とりあえず僕が出張(でば)ることはありませんので。はい、はい、ありがとうございました」
 受話器を置きます。
「まだ運び込まれて治療中だけれどね。たぶん、脳卒中か何かだろうって話だ。急にろれつが回らなくなって崩れるように倒れたって話だから。どう?」
「そうね、その様子ならおそらくは」
 脳卒中でしょう。
「ってことは? 花さん」
 早稲ちゃんが訊きます。
「運良く命が助かったとしても、何かしらの身体的な障害は残るかもしれないわね」
 思わず自分の右手を見てしまいました。もちろん私の場合は単なる怪我によるものですけど。
「リハビリテーションというもので、治ればいいんだけれどね」

 二月になっても暖かい日は続いて、あちこちの冬枯れの景色に緑色が早くも交ざるようになっていました。
「この様子だと本当に春は早いかもね」
 パトロールで、雪融けで水かさが増えている川をあちこち回ってきた周平さんが、戻ってから言いました。
「山でも緑が増えてきたよ」
「じゃあ、山菜が採れ出すのも早いかもね」
 この辺りの山はほとんどは国有地だったり県のものだったりしますけれど、雉子宮の住民が山菜を取りに入ることは基本的には許されています。毎年あちこちで山菜取りに出掛けた人たちの中に、事故にあったり行方不明になったりする人が出ていますけれど、ここら辺りではもう何十年もそんな事故はないそうです。
 それもこれも、登山口を管理してきた〈雉子宮山小屋〉の富田さんと圭吾くんの普段の啓蒙活動のたまものだと思います。
 いくら家のすぐ裏が山で、気軽に山菜を取りに入れるとはいえ、どこの山に入るときにも住民の皆さんは〈雉子宮山小屋〉に一言連絡を入れます。帰ってきても、電話を入れます。
 それで、管理ができてもしも連絡がないときにはすぐに富田さんや圭吾くんが確認をしに走ったり、消防団の皆さんに連絡をして捜索に入ったりするのです。
 ですから、登山者がいなくても〈雉子宮山小屋〉の仕事は山ほどあるのです。それに加えて森林の管理もありますからね。若い人で山小屋で働ける人をいつも募集しているのですが、なかなか成り手はいません。
「川の様子は大丈夫だった?」
「あぁ、とりあえずは大丈夫だよ」
 あれは去年の十月でしたか。周平さんが誤射をしたということにしたちょっとした騒ぎがありましたけど、あれ以来、事件らしい事件は何ひとつ起こっていません。
 普段なら酔っぱらって喧嘩があったり、どこかでトラックや農機具がはまったりしてちょっと怪我をしたりということもあるのですが、そういうのもありません。
 この数ヶ月、周平さんはパトロールしかしていなくて、日報に記載する事項も本当に何もなく、いつも〈記する事案なし〉の一言です。
「今日のお昼は天ぷら蕎麦(そば)でいい? 昨日の天ぷらの残りで」
「いいね」
 ほとんど事件らしい事件の起こらない雉子宮での駐在所勤務とはいえ、何が起こってもすぐに出動できるようにしておくのが警察官です。ですから、勤務中であるお昼ご飯はたいてい、すぐに食べられる麺類になることが多いのですけど、私も周平さんも麺類は大好きです。
 この時間のバスが走ってくるのが見えました。お昼の時間帯は、一時間に一本しかバスは走っていません。降りてくるのはまず村の住民ですし、駐在所近くのバス停で降りる人も決まっています。
 今日は誰もバスに乗って出掛けていないので、このバスで帰ってくる人は誰もいないはずと思っていたのですが、停留所に停まったバスから誰かが降りてくるのが見えました。
 ちょうど同時に、早稲ちゃんが巫女さんの姿のまま、駐在所に帰ってきました。
「ただいま」
「お帰り」
「お昼ご飯、こっちで食べていい?」
「うん、天ぷら蕎麦にしようと思ったけど」
 だと思った、って早稲ちゃんが微笑みます。
「誰か、来たね」
 周平さんが外を見ながら言いました。さっきバスを降りた人でしょうか。男性と、女性と、そしてまだ小さい子供が一人。
 親子でしょうか。
「誰だろう」
「見たことないかも」
 早稲ちゃんが言って、その後にあれ? と小さく言います。三人の親子連れが、バス停からまっすぐに駐在所までやってきて、ドアを開けました。寝ていたミルが起き上がり、少し警戒する様子を見せます。知らない人の匂いを嗅(か)いだからでしょう。
「こんにちは」
 女性が先に入ってきました。隣りにはたぶんまだ就学前の女の子。おかっぱ頭が可愛いです。その後ろには、お父さんでしょうか。
「何かご用ですか?」
 制服姿の周平さんが訊きます。
「あの、私」
「ひょっとして」
 早稲ちゃんです。
「高田の貴子さんですか?」
 貴子さん。どこか緊張していた女の人の頬が緩みました。
「巫女さんってことは、神社の早稲ちゃんかしら?」
「そうです!」
 大きな笑みがこぼれました。
「綺麗なお嬢さんになっちゃって!」
 高田の貴子さんということは、高田与次郎さんの、次女の方でしょうか。
「周平さん、花さん、村長さんの娘さんです。次女の貴子さん」
 早稲ちゃんが言うと、貴子さんが、頭を下げました。
「初めまして。今は白幡(しらはた)
貴子ですが、高田与次郎の娘です」
「ご丁寧にどうも。もう一昨年(おととし)になりますが、ここに赴任してきた蓑島巡査です。そして、妻の花です」
「初めまして」
 貴子さん、子供の頭にそっと手をやりました。
「娘の、薫(かおる)です。そして、夫です」
「どうも、白幡(しらはた)です」
 白幡さん。革ジャンがなかなか渋く精悍(せいかん)な顔つきの方です。身長も高いので、どこかの都会で会ったのならモデルさんと言われても信じたかもしれません。
「まぁ、どうぞ。お座りください。お茶でも出しますので」
「薫ちゃん、カルピスあるけど飲むかな?」
 優しく言うと、こくん、と、頷いて、ようやく笑顔を見せてくれました。お巡りさんの姿を見たら緊張しちゃいますよね。
「すみません、お仕事中に」
「いえ、住民の方と話すのも駐在の仕事のひとつです。ご遠慮なく。白幡さんもどうぞ」
 旦那様の白幡さん。申し訳ない、と、頭を下げて、ソファに座ります。どんなお仕事をしているのでしょうか。ちょっと雰囲気からはわかりません。
 ただ、周平さんが、いつになくどこか緊張というか、事件の現場にいるみたいというか、神経を研ぎ澄ましているような気がします。
 まさかとは思いますが、白幡さんから何か犯罪の匂いのようなものを感じたのでしょうか。
 周平さんは鼻が利くのです。
 かつての刑事時代の同僚の方たちからは本当に刑事として優秀だったんだと言われました。
 親子三人で並んで座った向い側に、周平さんが座ります。
「すると、貴子さんは、お父様のお見舞いに帰ってきた、ということでしょうか?」
 こくん、と、貴子さんは頷きます。
 父親である与次郎さんは、先月脳溢血(のういっけつ)で倒れました。幸い、一命は取り留めましたが、身体の自由が利かない身体になり、うまく話すこともできません。ずっと入院していたのですが、つい先日家に帰るという本人の希望を汲んで、高田家に戻ってきました。
 正直なところ、いつどうなってもおかしくないと担当医からは聞いています。
「来るつもりはなかったのですが、姉から手紙を貰って、死ぬ前に一度でいいから会ってきなさいと」
 なるほど、と、周平さん頷きます。お茶とカルピスを持ってきた私も聞いていました。薫ちゃんは、ミルや猫たちが気になるようです。
「薫ちゃん、座敷に行くといいよ。猫ちゃんもいるよ」
 早稲ちゃんが言うと、薫ちゃんが嬉しそうに頷き、お母さんの方を見ました。
「いいよ。ちょっとだけお邪魔しなさい」
 跳びはねるように、薫ちゃんが座敷に上がっていきました。うちの猫たちは誰が来ても逃げませんし、チビは子供でも大好きですからきっと遊んでくれます。
「あの、うちの事情は、お聞き及びでしょうか?」
 貴子さんに言われて、周平さんが頷きます。
「勘当された、とだけは、聞いています。何があったのかは何も知りません」
 そうです、と、貴子さん頷きます。
「勘当されていました。もちろん、今もです。それでも父親に、死ぬ前に孫の顔だけでも見せようと思ってきました。でも」
 少し苦しそうな顔をします。
「家に帰る前にここに寄ったのは、お巡りさんに私が帰ってきたことを知っておいてもらって、少しでいいので気にかけておいてもらえないかと」
「気にかける?」
 旦那様、白幡さんが、そこで口を開きました。
「妻は、父親や兄が暴力的であることを気に病んでいるんです。子供も連れてきたので、それで」
 暴力的。
 あの村長さんが。

君と歩いた青春 駐在日記

画・新目惠

Synopsisあらすじ

時代は1977年。神奈川県の山奥にある雉子宮駐在所に赴任した、元刑事の簑島周平と、元医者の花夫妻。優しくて元気な人ばかりのこの村だが、事件の種は尽きないようで……。
「東京バンドワゴン」の著者が贈る、レトロで心温まる連作短篇ミステリー。

Profile著者紹介

小路幸也
一九六一年、北海道生まれ。二〇〇三年、『空を見上げる古い歌を口ずさむ pulp-town fiction』でメフィスト賞を受賞しデビュー。代表作「東京バンドワゴン」シリーズをはじめ著作多数。魅力的な登場人物と温かな筆致で、読者からの熱い支持を得ている。

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