君と歩いた青春 駐在日記日曜日の幽霊は、放浪者(前編)

〈昭和五十二年八月七日 日曜日。
 生きることの意味などという哲学的なあるいは文学的なことは、医師である私はあまり考えたことはありません。
 生命は、生き物だからそこにあるものです。その精密でまさしく神の仕業(しわざ)のようなものを理解し、修理修復するために医者はいるのです。身も蓋(ふた)もない言い方ですけれど、多くの医師はそうだと思います。
 命はそこにある。生きていくために、存在している。その存在を守り治すために医師という職業があり、自分たちはそれを選んだのだと。
 だから、私自身は自らその命を絶つという思いに囚われたことなどありません。どうしてこの素晴らしい生命というものを、自分の命を消そうなどと思うのか理解に苦しむところがあります。
 生きたくても、病に倒れ医学の力も及ばず死んでいってしまう人がいます。突然の事故で人生を消されてしまった人もいます。そういう人たちを私たちはたくさん見てきました。どんなにか無念だったろうと。そこに至る前に命の輝きを取り戻すことができなかった自分たちの知識のなさ、技術の未熟さ、医療の限界にそれこそ無念さに唇を噛みしめることなど、大袈裟に言えば日常茶飯事(にちじょうさはんじ)でした。
 医師は、そこに囚われては前に進めません。少しでも生命の輝きを取り戻すために、人間の身体を学び、治療の技術を高め磨き続けるのです。
 ですから、自殺をしようとする人の気持ちなど、正直理解したくもありません。
 でも、医師として、そして患者だった人間として、生きるのが苦しくなること、死んだ方がましと思ってしまうことが世の中にたくさんあることは、わかります。
 でも、生きてさえいれば、何とかなるのです。〉

 梅雨(つゆ)が明けたと思ったらとんでもない暑さの日が続いています。天気予報では例年にないほどの暑い夏になっていくのだとか。
 毎晩のように寝苦しい夜が続いていて、ミルやヨネやクロ、チビたち犬猫もそうとう寝苦しいみたいで、涼しいところ涼しいところを探して夜中もうろうろしているみたいです。
 それで夜中に眼が覚めてしまって、それとなく観察していると、どうも犬より猫の方がうろうろすることが多いみたいですね。
 ご遺体よりも寝相がいいと以前の同僚の皆さんに言われている周平(しゅうへい)さんも、さすがにこの寝苦しさに寝相は乱れているかと思いきや、お腹の辺りにタオルケットを掛けただけの寝姿は、朝になってもまったく乱れていません。さすがにちょっと大丈夫かしらこの人と、息をしているかどうか確かめちゃったりします。
 でも、夏の朝は気持ち良いです。
 寝汗で身体がねとねとしていても、水道ではなく、夏でも冷たい井戸水を汲み上げて顔を洗って濡れタオルで身体を拭くと、スッキリします。
 この駐在所の辺りは山から川へ風が通り抜けるところでもあるので、昼日中はともかくも朝の通り過ぎる風は爽やかで、それだけで夏の朝が好きになります。圭吾(けいご)くんが全室網戸を作ってくれて本当に良かったなぁと思います。
 これで網戸がなかったら、夏の虫たちも入り放題になってしまいますからね。網戸のなかった大昔はいったいどうやって過ごしていたんだろうと不安になってしまいます。
「おはよう」
「おはよう早稲(わせ)ちゃん」
 私とほとんど同じ時間に起きてくる早稲ちゃん。今日の朝ご飯もトーストです。夏の朝にご飯を炊いてしまうと残ったご飯は冷蔵庫に入れても美味しくなくなってしまいますから、涼しくなるまでトーストやサンドイッチと決めてしまいました。
 その代わりに、早稲ちゃんと二人でたくさんのジャムを作りました。無花果(いちじく)ジャムに林檎(りんご)ジャム、オレンジのマーマレードも作り方を本で読んで作ってみました。ちょうど駐在所の〈図書室〉には子供向けのお料理の本も置いてあったのです。子供向けといってもちゃんとした料理の本なので、しっかりお勉強できました。
「おはよう」
「おはよう」
 朝ご飯の準備が出来上がる頃には、圭吾くんと周平さんも顔を洗ってさっぱりしてから、台所のテーブルにやってきます。
 トーストと、中にキノコを入れたオムレツ。厚切りのハムは焼いただけ。いただいていたキャベツとピーマンに人参を加えベーコンと一緒に炒めた野菜炒め。レタスを洗って千切っただけのサラダには大根の千切りと一緒にマヨネーズをかけて。それから牛乳とコーヒー。早稲ちゃんは冷たい牛乳を飲むとお腹がゴロゴロいうので、温めたホットミルクで。
「ここに来た頃には、床に座って箱膳で食べていたよなぁ」
「そうよね」
「箱膳もたまにはいいけど、やっぱり椅子に座らないとね」
 圭吾くんが言います。
「あれでしょう? 日本人の体格が変わってきて足が長くなってきたのも、昔の床に座る風習から椅子に座るようになったからって話なんでしょう?」
「あ、そうかもね」
 頷いてしまいました。
「花(はな)さんお医者様なのに」
「いくら医者でもそういうのは遺伝学とかそっちの研究の方なので。でも、間違いなく頷ける話ね」
 日本人が椅子に座るようになったのは明治の頃からでしょうか。
「でも、その前から背の高い足の長い人はいたわけでしょ? 周平さんみたいにさ」
「周平さんは本当に大きいものね」
 周平さんの身長は警察に入った当時で一八三センチ。今はもう少し伸びたんじゃないかって言われています。
「大きいのは遺伝だね。親父も大きかったし」
「私が小さいのも遺伝よ。うちは父も母も小さいの」
 そればっかりはどうしようもありません。
「二人に子供ができたら、どっちに似るんだろうね」
 圭吾くんが少し笑いながら言います。
「どっちだろうね。それを言うなら圭吾くんと早稲ちゃんの子はどっちに似ても可愛くなるね」
「そうよ。アイドルとか目指せるかも」
 何言ってるのと恥ずかしそうに笑います。でも本当にです。圭吾くんも早稲ちゃんも身長こそ二人とも普通ですけれど、顔はとっても可愛らしいのです。
「言われるでしょう? 花さんも周平さんも」
「そうだね」
 言われることがあります。親たちに。孫の顔はまだかしらと。
「いずれはって思ってるけれどね。こればっかりは授かり物だし」
「出来た途端にどこかへ移るっていうのも困るしね」
 悩むというほどでもないですけれど、小学校の子供たちの登校を見守っているときなんかに、ふと考えたりもします。

       *

 早稲ちゃんが神社に行って、圭吾くんは山小屋へ。そして周平さんは自転車でパトロールに出掛けます。
 圭吾くんと山小屋へ一緒に行ってそして自分で帰ってくるようになったミルは、近頃は自転車のときには周平さんと一緒にパトロールするようになりました。村のほとんど全部を廻りますから、自分で勝手に帰ってくるよりは楽しいみたいで、ここのところはずっとそうしています。
 周平さんがバイクやジープで出掛けるときにはとても不満そうにしています。さすがに犬とはいえ、ずっとバイクや車の後を追って走るのは無理ですからね。
 最近知って意外だったのは、雉子宮(きじみや)で犬を飼っている家はけっこう少なかったことです。周平さんも犬の調査まではきちんとしていなかったので、ミルを飼うようになってから気づいたそうです。ほとんどが農家なので猫が住み着いているところはとても多いのですが、犬はそんなにもいないとか。他の農村がどうなのかはわかりませんけれど。
「朝から暑いわー」
 今日も気温が上がりそうです。お掃除をしているだけで汗が噴き出してきます。夏は暑いからいいのですけれど、外回りが多い周平さんや圭吾くんの夏バテが心配ですね。お昼ご飯もそうめんとかで済ませないで、しっかりと栄養取れるものにしないと。
 電話が鳴りました。
「はい、雉子宮駐在所です」
(花さん、圭吾です)
「あら、どうしたの?」
(周平さんがパトロールから帰ってきたら電話ください。ちょっと話があるので、駐在所に戻りますから)
 何かあったんでしょうか。
「無線で呼ぶ?」
(いや、そんなことしないで大丈夫です)
「はい、わかりました。きっとあと十五分かそこらで帰ってくると思うから、戻ったらすぐ電話するわね」
(お願いします)
 きっと山の中で何かあったんですね。急ぎではないですけど、周平さんと一緒に出掛けたいってことだと思います。
 山の中で起こることは、ほとんど〈雉子宮山小屋〉を管理している富田(とだ)さんと圭吾くんが立ち会ったり、調べたりします。夏の間は登山客もそれなりにいるので、毎日忙しくしていますよね。

 周平さんがミルと一緒に戻ってきました。
 もう汗だくです。それはわかっていたので、着替えのシャツは用意してあります。一緒に散歩していたミルはお水の皿に直行ですね。美味しそうにたくさん飲んでいます。
「圭吾くんが話があるんですって」
「圭吾くんが?」
「戻ったら電話ほしいって。すぐに帰ってくるって言っていたから、電話するね。汗拭いてきて」
「わかった」
 戻りましたよ、と圭吾くんに電話すると、本当にすぐに帰ってきました。早稲ちゃんも一緒でしたけど、それはたまたまでした。
 早稲ちゃんは特に仕事がないときにはすぐに帰ってくるんですよね。神社にいるよりも駐在所にいることの方が多いです。
「お帰り」
 周平さんがそう言って、頭をタオルで拭きながら戻ってきました。頭から水を浴びたんですね。
「山で何かあった?」
 訊くと、圭吾くん上がり框(がまち)に座りながら頷きます。
「昨日の夜に、狐火(きつねび)を見たっていう連絡が入ったんですよ」
「狐火?」
「狐火?」
 思わず周平さんも私も早稲ちゃんも同時に繰り返してしまいました。
「うん」
 圭吾くんが少し顔を顰(しか)めながら頷きます。
「狐火、ってあれかしら。小さな炎のようなものがたくさん並んで歩いていくような」
 日本に古くから伝わる妖怪とか、怪異とかそういう話ですよね。狐が人間を騙すとかそういう類いの話です。
「そうだよね。それが狐火だよね」
「山の中に、そういう炎が見えたってこと?」
 周平さんが言います。
「そうらしいんだ。昨日の夜なんだ。菅沢(すがさわ)さんとか田村(たむら)さんとか、伏古(ふしふる)の方の人たちがさ。集まって飲んでいて、その帰りに田圃(たんぼ)の畦道(あぜみち)を歩いていたら、三沢山(みさわやま)の方角で見えたんだって」
「三沢山ですか」
 伏古というのはあの辺りの古い呼び名ですね。三沢山はちょうどその正面です。
「あぁ」
 早稲ちゃんがポンと手を叩きます。
「三沢山の百合(ゆり)が原辺りには昔から狐の話が残ってるわ。父さんから聞いてる」
「へぇ」
 狐の話ですか。
「その昔だけれどもね。山の中だからタヌキに化かされたの狐に騙されたとかっていう日本の民話的な話はこの辺りにもよくあって、その中でも百合が原って呼ばれていたあの辺には狐が多くて、狐の嫁入りがあったとか、それこそ狐火だとか、狐が山を降りてきて農家に上がり込んで家族に化けたとか、そういう話は伝わってる」
「そうか、神社だからね。狐とは縁が深いのか」
 周平さんが言うと、早稲ちゃんが頷きます。
「縁があるのは確かだけれど、うちは全然狐とは関係なくてね。単純にこの辺にはそういう話が残っていて、それを代々の神職が残していったって話ね」
 それは知りませんでしたけど、楽しそうな話です。
「そういうのって、本とかになっているの?」
 うん、って早稲ちゃん頷きます。
「代々の神主が書き連ねてきたものがね。とても私には読めないんだけど。あ、今はそんなことしないけれども、父さんは日記を書いているから、その中にいろいろ残しているかも、神社にまつわるそういう話を」
 神社とかお寺にはそういうものがよく残っていますよね。
「だから、お年寄りの皆さんはそういうのをよく知っているし、狐火を見たって言うのもそんなに違和感はないかも」
「なるほどね」
 周平さんも頷きます。
「菅沢さんと田村さんか。おかしなことを言って騒ぐ人じゃないよね」
「そうだと思う」
 圭吾くんが頷きます。私はお二人のことはよくは知りませんが、圭吾くんは消防団でも一緒の人たちだったと思います。
「酒も強いしね。ちょっとやそっとじゃ酔わないから、確かに山の中に灯った火を見たんだと思うんだ。狐火だったかどうかはともかく」
「そうだね」
「狐火じゃないとしたら、火って」
 言うと、そうだね、って周平さんが頷きます。
「誰かが山の中で火を焚(た)いたって可能性もあるし、あるいはライトで照らしていたってこともある。三沢山の方なら途中まで車で行けるね。一応、パトロールしてみようか」
「そうしてもらえるかな。僕も行くから」
「よし、すぐ行ってみよう」
 田圃で藁(わら)を焼いたりすることはありますし、河原で焚き火をしたりすることはあります。でも、山の中での焚き火は山火事になるおそれがありますので、基本的には許可を取らなければ禁止事項になっています。
〈雉子宮山小屋〉を通じて登山に向かう人たちはそんなことはしないとは思いますが、山の中にはどこからでも入っていけます。山向こうの日置町(ひおきちょう)からこっちに入ってくる登山道だってあります。
 山の管理というのは本当に大変な仕事だなぁと思うことは、ここに来てよく思います。
 ジープに乗り込んで走っていく二人を早稲ちゃんと見送りました。
「狐火かぁ」
 早稲ちゃんが山の方を見て、呟きます。
「以前もそんな話は出たことある?」
 少し考えて、うん、と頷きます。
「まだ私が小学生の頃だけどね。圭吾くんも知ってると思う。夏になるとね、そこの中瀬川でよく子供たちは水遊びしてるでしょう?」
「うん」
 浅い川です。少し上流は石でダムみたいに組んであって、子供が遊ぶのにいい深さになっていて、飛び込んだりもしています。水は川底が見えるほどに透き通っていて、本当に気持ち良さそうで、思わず一緒に飛び込みたくなるぐらいです。
「時々ね、全然知らない子が一緒に遊んでいたりするの。それは、たとえば遠くの親戚の子が遊びに来ていたり、大人が山登りに連れてきた子供だったりするからよくあることなんだけどね」
「子供。じゃあ、その子はいつの間にかいなくなっていたり?」
「そう。ふっと見ると川沿いの道に狐火みたいな炎が、すーっと山の方に走っていったりね。そういうのは、毎年ってほどでもないけれど、たまに聞く話」
 お盆も近いしね、って早稲ちゃんが続けます。
「ずっと昔には、山や川で子供が亡くなったって話も多かったって言うし、貧しくなって一家で死んでしまった話もあったって言うからね」
「神社の巫女さんだけど、そういうのは信じる?」
「まぁ、何となくね」
 私もです。医師ですから人間の魂とか、幽霊とか、霊魂とか、医学的に検証されていないものを信じることはありませんし、仏教徒でもないですけれど。
 お盆にはお墓参りも行きます。先祖の皆さんに手を合わせることもします。
 お昼前にはジープが戻ってきました。ミルが必ず出迎えます。猫たちは基本的には何かが来たな、と顔を向けるぐらいで何もしません。
 早稲ちゃんと二人でお昼ご飯の親子丼の準備をしていました。
「ただいま」
「お帰りなさい。どうでしたか?」
 うん、と、少し疲れた様子で周平さんも圭吾くんも頷きます。
「特に何もなかった」
「そうですか」
「とはいってもね。山の中全部を回れるわけでもないからね」
 確かにそうです。たくさんの人を集めて山狩りの態勢でも取らなければ、広範囲を調べることはできませんし、そうやってもとても全部は調べられません。
「まぁ、登山道や、狐火を見た辺りにはこれといって異常もなかったし、焚き火の跡もなかったよ」
「煙が上がっている様子もないしね」
 圭吾くんも言います。
「とりあえずは、これ以上は何もできないかな」
 近隣の町や村からも、山に不審者や犯罪者が逃げ込んだという連絡もありません。
「ただ、記録はしておかないとね。念のために菅沢さんと田村さんに話を聞いてきたけれど、少なくとも山の中に火を見たというのは事実だろうから」
「やっぱりそうなのね」
 人がやったものではなく、自然現象で炎のように見える何かはきっとあるのでしょう。そうでなければ、その大昔から伝承される狐火とか、人魂(ひとだま)とか、灯のようなものの話が伝承されては来ないでしょうから。

       *

 一昨日、昨日に続いて今日も雲ひとつないお天気で、そして暑いです。洗濯物が増える夏にお天気なのは、主婦にとっては洗濯物がよく乾くし嬉しいことですが、農家の皆さんにとっては梅雨が明けたからといって雨がひとつも降らないのはちょっと心配ですよね。
 いつもほどほどに雨が降ってほどほどに晴れてくれれば皆が安心して暮らしていけるんですけれど。
 夕方四時過ぎになって、少し陽射しも柔らかくなってきて、そろそろ晩ご飯の支度を考えなきゃと思っていた頃に、ふと窓の外を見ると、神社の階段を早稲ちゃんと清澄(せいちょう)さん、それに昭憲(しょうけん)さんが連れ立って降りているのが見えました。
「三人揃っているわね」
「うん?」
 机で書類仕事をしていた周平さんも振り返って窓の外を見ます。
「昭憲さんもか。何かの打ち合わせでもあったのかな」
「夏祭りとかかしら」
「どうだろうね」
 お盆の時期に夏祭りがあるのです。虫祓いとも言うそうですが、神社で篝火(かがりび)を焚いて松明(たいまつ)に灯し、それを子供たちが持って練り歩いたりします。他にも山車(だし)が出たり、出店もあります。
 昔は神社の境内(けいだい)を使ってやっていたそうですが、近頃はあの階段を登り降りするのも大変だということで、地域の活性化も狙って小学校の校庭を使って山車の準備をしたりもします。確かに、いくら農業で鍛えた男性陣でも、あの階段を山車を担いで登り降りするのは大変です。
 三人が何かを話しながら、駐在所まで来ました。
「邪魔するよ」
 清澄さん、昭憲さんが入ってきました。
「花さん、西瓜(すいか)貰ってきた。冷やしておくね」
「あら」
 立派な西瓜です。
「今、切りましょうか?」
「いやいや、儂(わし)らはもういただいた。後で皆で食べなさい」
 晩ご飯のときにいただきましょうか。昭憲さん、清澄さんが、周平さんに話があるみたいで、ソファによっこらしょ、と腰掛けます。
「忙しいときにすまんけどな」
「いえいえ、暇ですよ。暇という言葉は悪いですけれど」
 皆で笑います。
「村の駐在所が暇なのは、いいことだ。何だったら日がな一日駐在さんが釣りをしているのがいちばん良い」
「確かにな。坊主だってそうだ。何にもすることないというのは皆が長生きしとるいうことでな」
「そうですね」
 そうだったら本当にいいんですけれど。冷蔵庫で冷やしておいた麦茶を皆に出します。
「済まんね。それでな、周平くんな」
「はい」
 清澄さんが昭憲さんを見ます。
「昨日の夜にな、昭憲はちょいと妙なことを頼まれてな」
「妙なこと」
 昭憲さんが軽く手を上げました。
「いや、経を上げに行ってな。それは坊主としてはなぁんも妙ではないんだがね」
 そう言って、窓の向こうを指差しました。
「少し遠いが、うちの寺の奥に三本松があるだろうに。わからんかな、ほとんど山裾のところだ」
「三本松ですか」
 少し考えて周平さんが頷きます。
 三本松というのは昔の呼び方ですね。雉子宮と名前が決まる前、それこそ江戸時代の頃の地名みたいなものはこの辺には多く残っています。住所としてはどこもかしも〈雉子宮〉なのですが、昔から住んでいる人たちは、自分たちの住んでいるところをそういう昔の呼び名で言いあうことも多いのです。
「お寺の向こうの三本松なら、溜池のある付近ですね」
 そうじゃそうじゃ、と、昭憲さんが頷きます。
「昨日の話でな。寺に電話が掛かってきてな。丹波(たんば)のじいさんからだ。あそこに蒲原(かんばら)ゆう家があってな。もう二十年近く誰も住んどらんでそのままになっておる。まぁ寺が預かっているところなんだが、その家の中に火が灯ったのを見たゆうてな」
「火、ですか」
 思わず周平さんと顔を見合わせてしまいました。西瓜を冷やしてきて戻ってきた早稲ちゃんも私を見ました。一緒に来たけど、まだ話は聞いていなかったのですね。
「それは、火事とかではなく、ですね」
 昭憲さん頷きます。
「家の中で誰かが灯を点けたんじゃないか、とな。しかしその蒲原んちは電気も通っとらん。そりゃおかしな話じゃな、と儂(わし)も身体が空いとったんでな。丹波のじいさんと待ち合わせて、家ん中に入ってみたんがさ」
「その家は定期的に掃除をしたりとかは」
 ぶんぶん、と、昭憲さんは右手を振ります。
「なぁんにもしとらん。それこそいちばん近くの丹波のじいさんばあさんが、気づいたときに風を通したり、掃除をしたりはしとるがな」
「じゃあ、廃屋(はいおく)というふうにはなっていないんですね?」
「そうさな。荒れてはいるがまだまだ人が住める家だ。昔の造りのままの家だから、風さえ通しときゃあそうそう荒れ果てたりはせん。それでな」
 くい、と、麦茶を飲んで昭憲さんが続けます。
「特に何にもおかしなところはなかった。誰かが火を使ったような跡もな。まぁ見間違いか何かかと思って帰ったんだが、その夜にまた電話があってな」
「何かあったんですね?」
 昭憲さんが、むぅ、と唇を歪めました。
「子供の影が家から出て山に向かって走っていった、とな。ぼう、と蛍のように光っていたともな。丹波のじいさんが言いよる」
「子供の影」
 それは、何でしょうか。清澄さんが、小さく頷きました。
「実は、蒲原の家では、子供が死んでいてな」
「いつですか」
 周平さんが訊きました。
「もう大昔だ。三十年も前になるかな。丹波さんはよく覚えているし、私や昭憲もよく知っている。道明(みちあき)っていってな。聡明な可愛らしい男の子だったよ」
 三十年前ですか。それなら、昭憲さんも清澄さんもまだ若者の頃ですね。
「可哀相な子でな。おっ母さんが早くに亡くなってしまって、じいさんばあさんと父親との暮らしだったがな。どうにも皆が病弱で、暮らしはかなり貧しかったと聞いてる」
 昭憲さんも頷きました。
「丹波のじいさんもな。当時はよく野良仕事を助けてやっていたそうだがな。ある日山ん中に、何をしに行ったか、キノコや何かでも取りにいったのか、道明が帰ってこなくてな。探しに行ったら、死んでおった」
「死因は」
 思わず訊いてしまいました。
 清澄さんが、首を横に振ります。
「木から落ちたか、斜面を転げ落ちたか、首の骨を折っていたそうだ」
「葬式は、先代が出したよ。儂も覚えとる」
 昭憲さんが手を合わせました。
「それでな、儂も細かいことは忘れとったが、丹波のじいさんに言われて調べたら、昨日がその道明の命日でな」
 早稲ちゃんが思わず口に手を当てました。
「じゃあ」
 周平さんが言うと、昭憲さん頷きます。
「この時期にそんなものを見たのも、ひょっとしたら何かのあれで帰ってきたのかな、とな。儂も改めて蒲原の家に行って、読経してきた。何も心残さず、帰ってきたんならまたお戻りくださいとな」
 昭憲さんがまた手を合わせて念仏を唱えるので、私も周平さんも思わず手を合わせてしまいました。
 そんな哀しい出来事があったのですね。
「と、まぁここまでは昨日の話だったんだがな」
 清澄さんが続けました。
「実は、私のところにも、その三本松辺りで夜中に走り回っている変な影を見たという話が来てな」
「子供の影ですか」
 私が訊くと、清澄さんが首を横に振りました。
「それが、大人の男だ。しかも髪の長い、この辺の人間ではないんじゃないかと。ここら辺りで髪の毛を伸ばした長髪の男なんぞいないんでな」
 確かに、そうです。
「不審者、ですか」
「かもしれん」
 清澄さんも昭憲さんも頷きます。
「子供の影の話は、まぁ昭憲の読経で済ますとしても、不審な男となると、ひょっとしたら全部繋がっとるんじゃないかと。これは一度周平くんに、蒲原の家を改めて調べてもらった方がいいんじゃないかと思うてな」
 周平さん、頷きました。
「そうしましょう。まだ陽は落ちませんから、今から行ってきます」
「じゃあ、儂が案内しよう。バイクで来とるから、後ろからついてきてくれ」
 周平さんが立ち上がりました。
「花さんも行ってきていいよ。私、留守番してるから」
 早稲ちゃんが言います。
「そうだね。仮に、子供の影が、お盆の話じゃなくて実際の人間の話だったら、怪我とかそういうのもあるかもしれないし、後から確認しなくても済む」
「そうね」
 駐在所で暮らす妻は、常に夫である駐在と情報を一緒にしていなければなりません。そうしないと、いざというときの対処が遅れるからです。
「行きましょう」
 念のために、救急セットも持って。

君と歩いた青春 駐在日記

画・新目惠

Synopsisあらすじ

時代は1977年。神奈川県の山奥にある雉子宮駐在所に赴任した、元刑事の簑島周平と、元医者の花夫妻。優しくて元気な人ばかりのこの村だが、事件の種は尽きないようで……。
「東京バンドワゴン」の著者が贈る、レトロで心温まる連作短篇ミステリー。

Profile著者紹介

小路幸也
一九六一年、北海道生まれ。二〇〇三年、『空を見上げる古い歌を口ずさむ pulp-town fiction』でメフィスト賞を受賞しデビュー。代表作「東京バンドワゴン」シリーズをはじめ著作多数。魅力的な登場人物と温かな筆致で、読者からの熱い支持を得ている。

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