君と歩いた青春 駐在日記日曜日の幽霊は、放浪者(後編)

      *

 三本松のかつての蒲原(かんばら)さんのお家は、立派な茅葺(かやぶ)き屋根の家でした。これは確かに人が住まなくなっても、きちんと風を通して掃除をしておけば長い間持つと言われてもそんな気がします。
「やっぱりこういう家は、最近の家より長持ちするんでしょうかね」
 私が言うと、昭憲(しょうけん)さんが頷きます。
「使っているもんが結局は天然自然のもんばかりじゃからな。下手に今の何とか材とか塗料とか、そんなもんより雨風に馴染むんじゃろうな。うちの寺だって、もう百年二百年経って何にも手入れはしとらんが、あの通り立派に建っとるでな」
「そうなんでしょうね」
 それでも、木だけでできている玄関の引き戸はさすがに古く、開けるのに苦労しました。
「まず、雨戸を全部開けましょう」
 余計な足跡を付けないように、光を入れます。周平(しゅうへい)さんが入るのを待ってください、と手で示します。
 じっくりと、観察しています。いくら風を通してたまに掃除をしているとはいっても、埃はあちこちにけっこう積もっています。足跡がうっすらと残っているのは私にもわかります。
「最近入ったのは昭憲さんと丹波(たんば)さんだけですね?」
「そうだな」
「読経(どきょう)はどこで」
「ほれ、その居間の奥の仏間だ。仏間と言ってももう仏壇も何もないが、入れるところだけは残っとる」
 成程、と、周平さん頷きます。
「玄関と、居間と、仏間。その他にお二人が見て回ったところはありますか?」
「いや、そんだけだな。何も変わったところはなかったんでな」
「じゃあ、ちょっと待っててください。終わったら呼びますから。花さん、家の周りをぐるっと回って、足跡とかそういうものを確認してくれるかな」
「わかりました」
 周平さんが家の中に入っていって、私は腰をかがめながら家の周りを見ていきます。昭憲さんも私の後ろをついてきました。
「ここんところは雨も降っとらんし、足跡もつかんだろう」
「そうでしょうね」
 そもそも家の周りも草がたくさん生えていて、足跡どころではありません。でも、周平さんにちゃんと教えてもらっています。
 草は、何かが通れば倒れるのです。一度倒れた草は、そう簡単には通常の状態には戻りません。そこを、見ていきます。
(あった)
 裏口のところです。草が倒れています。
 しかも、続いています。
(これは)
 確かに人が通った跡です。動物じゃありません。
「昭憲さん、こっちの裏口は通りましたか?」
「いいや、来とらんな」
「じゃあ、最近誰かが通ったんですね」
「跡があったか?」
「草が踏まれています」
 昭憲さんも見て、頷きました。
「確かにな」
 一人のようです。少なくとも複数の人間が歩き回った感じではありません。
 またじっくりと見て回りましたが、それ以外におかしなものはありませんでした。縁側に回って声を掛けます。
「周平さん」
「入ってきていいよ」
 台所の方で声がしました。土間に竃がある本当に古い造りの家ですけれど、その横に板間の台所がありました。
 周平さんが流し場を見ています。
「何かあった?」
「足跡があったわ。草を踏んだ跡があるの。明らかに大人一人のものだと思う。子供ではないわ」
「山の方に向かっていた?」
「だろうな。あるいは来たか、じゃな」
 昭憲さんが言うと、周平さんが首を捻りました。
「子供の分はなかった?」
「なかったわね。少なくとも見つけられなかった。たくさんの人数ってわけでもないわ。どう見ても一人分」
「そうか」
 そこで、匂いに気づきました。
「何か、匂う?」
「うん」
 ほら、と周平さんが示すので流し場を覗き込むと、魚の骨がありました。
「お魚」
「明らかに、焼き魚を食べた跡だね。きれいに食べている。狐(きつね)や猫がこんなふうに食べたらテレビに出て稼げるかもしれない」
「イワナ、か?」
 昭憲さんも見て言います。
「でしょうかね。僕は詳しくないのでわかりませんけれど、匂いからしてつい最近、ほんの一日二日の間でしょう。この暑さだとすぐに腐ってしまいますけど、まだ腐臭もしていないし、完全に乾いてもいない部分もあります」
「じゃあ、誰かがここで魚を焼いて食べたってこと? どうやって? ガスも何もないのに」
「そこに」
 周平さんが指差すところに、七輪がありました。
「炭があったんだろうね。いつからあった炭なのかわからないけれど、炭は腐らないし湿らない限りは火は点く。燃え草は枯れ草や枯れ枝で何とかなるし、ひょっとしたら襖(ふすま)の紙を破っても作れる」
「他にも焼いたもんがあるようじゃな。キノコかな? 後は、なんだ芋かなんかか」
 確かに、七輪に置かれた網には魚以外の何かを焼いた跡が残っています。
「案外、山芋とかかもしれませんね」
 全部がこの辺りで獲れるものばかりです。しかも、勝手に採っても誰にも怒られません。
「少なくとも、目撃証言のあった髪の長い男がここで食事をしていったという可能性はありますね」
「そういうこったか」
 昭憲さんが、頭をぴしゃりと叩きます。
「蒲原の身内はまったくおらんと聞いているし、いたとしてもここに入るんじゃったら儂んとこに挨拶はあるはず。ってことは、こりゃあ、なんかの犯罪になるんかな?」
 どうでしょうね、と、周平さんが答えます。
「確かに不法侵入にはなりますけれど、既に何十年もの間無人の家に入ったところで誰にも迷惑を掛けていません。破壊行動もしていません。ちょっと汚したぐらいじゃ猫や狐が入り込んだのとそうは変わらないでしょう。仮に見つかったとしても、厳重注意で帰すでしょうね」
 確かにそうかもしれません。
「ただ、その男がどういう人間か、ですね」
「犯罪者、ってことかしら」
 言うと、周平さんは唇を歪めました。
「逃亡者、犯罪者、放浪者。いずれにしても社会の枠組みからはみ出してしまった人間の可能性が高くて、そうなると警察としては動かなきゃならないね」
「子供は、無関係かしら」
「そこがわからない。でも、その髪の長い男と同時に、不可思議な雰囲気ではあるけれど目撃証言があるのだから、一応関連付けて考えなきゃね。そうなると誘拐(ゆうかい)とか、未成年略取の可能性も出てくるから」
「その男がどこかの子供を連れている、かい?」
 昭憲さんが驚きます。
「そういうことですね。その可能性も考えなきゃなりませんね。そうなると、重大事件ともなってくるけれど」
「どうするの? 山狩りでもするの?」
「いや」
 少し困った顔をします。
「今の段階では、そこまでできないな。何せ目撃証言が少な過ぎるし、犯罪が行なわれている証拠は何もない。状況証拠と言えるものすらないからね。とりあえず、近隣の市町村に子供の行方不明や家出なんかの届け出はないかどうか確認してみるよ。後は」
 外を見ました。
「山を回ってみたいけれど日が暮れてしまうし、雲が出てきているね」
「あら」
 本当です。いい天気だと思っていたんですが、山の方から雨雲が迫っているみたいです。雨が降ってからの山歩きは大変です。大変どころか遭難の危険性も高まります。
「とりあえずは帰りましょう。昭憲さんのところにまた何か目撃情報やおかしな話を聞いたりしたらすぐに電話ください」
「わかった。そうしよう」

       *

 駐在所に戻って、周平さんはすぐに松宮(まつみや)署に電話を掛けていました。子供の家出や行方不明などを確認するためでしょう。
 あれこれと話しながらメモを取っていって電話を切りました。
「どうだったの?」
「うん」
 そう言って何かを考えています。
「とりあえず、何も情報はないんだ。だから、動けないね。ちょっと辺りを回ってくるから」
「辺り?」
 ジープのキーを手に取って、頷きます。
「あの家に住んでいた蒲原さんのことを知ってる人たちに確認したいことがあるんだ。清澄(せいちょう)さんとか他の人たちにも訊いて回ってくる。晩ご飯までには戻ってくるから留守を頼む」
「わかりました。気をつけて」
 すぐに出ていってジープに乗り込んで走っていきます。ミルがそれを見送って、早稲(わせ)ちゃんがミルのその背中を撫でるとじゃれついていきます。
「駐在さんって、楽なようでいて実は大変な仕事だよね」
 ミルを撫でながら、早稲ちゃんが言います。
「そう?」
「だって、いくら勤務時間が決まっているとはいってもそれは建前で、二十四時間いつでも駐在さんでしょう? 横浜で刑事やっていた頃は、いくら大変でも何にもしなくていい休みはあったわけでしょ。花さんとデートだってしていたんだし」
 確かにそうです。私も、忙しい総合病院の外科医ではありましたけれど、確かに何もしなくていい休みはありました。
「でも、刑事さんも医者もそういう人じゃないと勤まらない職業だから」
 人には向き不向きというものがあって、その職業を長く勤められるのは元々そういう資質を持っている人だからだと思います。
「圭吾(けいご)くんの仕事だって、山とか自然とかが相手でいつ何時どうなるかわからないから二十四時間お仕事みたいなものだしね」
「まぁ、そうだね」
 警察官も医者も相手は人間です。ある程度はわかりあえる仲間同士です。でも、山は自然天然。話も通じない相手と対峙する山の仕事は、本当に大変だなぁとは思います。

 午後六時を過ぎて、辺りが夕闇に包まれようとしています。晩ご飯の支度で早稲ちゃんと台所に立っていたのですが、そろそろ出来上がるのにな、と窓から外を見ました。そろそろ圭吾くんは帰ってくると思うのですが。
「周平さん、遅くない?」
「遅いわね」
 晩ご飯までには帰ってくると言っていたので、もう戻ってくるとは思うのですけどまだジープの音は聞こえてきません。
「あっ!」
 早稲ちゃんと二人で同時に声を上げてしまいました。
 さっきから急に雲が増えて暗くなってきたと思っていたんですけど、光りました。まるで一瞬スポットライトが当たったんじゃないかと思うぐらいの、稲光。
 そして雷鳴です。
「わーお!」
 早稲ちゃんが思わずそんな声を出してしまったぐらいに、強く大きな雷鳴。
「これは、来るね」
 そう言って何秒も経たないうちに、また大きな稲光。そして、地面も震えているんじゃないかと思うほどの、雷鳴。
 私も早稲ちゃんもそれほど雷は怖くなくてむしろどことなくワクワクしてしまう方ですけれど、雷が死ぬほど怖い人の気持ちはわかります。大昔の人が、神の怒りとおもったのだって理解できるほどの迫力。
「天気予報当たったわね」
 周平さんが出て行く前に電話で確認したら、この辺では天気が荒れると言っていたんです。
「ただいまー」
 圭吾くんの声がしました。基本、山の仕事は雨が降り出すと何もできなくなってしまいます。ましてや、雨が降ると危険なこともたくさん出てきますし、雷まで来てるとなると余計に危ないです。
 滅多にないことですけど、山の木に雷が落ちて倒れることだってあるのです。
「お帰りなさい。あ、周平さんも帰ってきたよ」
 早稲ちゃんの声に外を見ると、ジープが走ってくるのがわかりました。
「ナイスタイミングかもね」
 その通りでした。周平さんが駐在所に入ってきてこちらは何事もなかったと報告しているうちに、急にどしゃぶりの雨が降ってきました。
 大きな雨粒が屋根に当たって音を立てます。
「すごいな。久しぶりの雨だね」
 周平さんが何か封筒のようなものをポケットから出して、引き出しの中にしまいながら外を見て言います。あっという間に窓から見える景色が、雨に煙ってしまいました。
「ミルの散歩は?」
「大丈夫。もう行ってきたから」
 雨でも雪でも犬は散歩に行かなきゃならないですからね。
「もうすぐご飯できるから、着替えてきてね」
 支度もできて、二人が戻ってきたときです。
 バタン! と突然玄関で大きな音がして、駐在所の扉が開くと同時に何かが転がるように飛び込んできました。
 もう装備は片付けたのに、周平さんが思わず腰に手をやったぐらいに、本当に危険を感じるほどの勢いで。私は熊かイノシシでも飛び込んできたのかと一瞬思いましたが、すぐに違うとわかりました。
 人です。
 泥だらけでびしょ濡れの男の人が転がるように入り込んできたのです。
「どうしました!」
 周平さんも私も、慌てて近寄ります。
 まるで池から上がってきたかのような男の人は、こっちを見ます。まったく見知らぬ人です。周平さんも圭吾くんも早稲ちゃんも、誰も名前を呼ばなかったので村の人ではないのでしょう。
「大丈夫ですか?!」
 私は、すぐに顔色を見ます。
 全身を見ます。
 出血は見られません。服は泥だらけで何もかもずぶ濡れですが、どこかが裂けたり破れているわけでもないです。怪我はないようです。
「早稲ちゃん、タオルを取ってきて!」
「はい!」
 息が荒いですが、しっかりと呼吸はしています。走ってきたのでしょう。
 長髪で、そして細身。明らかに農作業をするような格好はしていません。シャツにスラックスに革靴。街で暮らす人の姿です。
「話せますか?」
 訊くと、男の人が、こくこくと頷きます。
「ここは、ちゅう、ざいしょ?」
「そうですよ」
 周平さんが優しく言います。
「雉子宮(きじみや)駐在所です。何がありましたか? どこか怪我はしていませんか?」
 男の人は、首を小さく横に振ります。早稲ちゃんがタオルを持ってきてくれました。渡すと自分で顔を拭きます。でも、土間に座り込んだまま動けないみたいです。
 脈は速いですが、しっかりしています。大丈夫なのでしょう。顔を拭き終わるとようやく立ち上がろうとしてくれました。
「大丈夫ですか?」
 うん、と頷きます。ひどく濡れているので、上がり框(がまち)にタオルを敷いてそこに座ってと周平さんが言います。
 座りながら、男の人は周平さんの腕を掴みました。
「駐在さんか?」
「そうです」
「助けて、捜してくれないか。子供が」
「子供?」
 男の人が、息を整えながら、外を見ました。
「子供が、いるはずなんだ。山の中に。でも、見つからないんだ。どこを捜してもいないんだ」
 思わず周平さんと顔を見合わせてしまいました。周平さんの眼が細くなります。
「子供というのは、あなたの子供ですか?」
 訊くと、首を横に振ります。
「違うんだ。そこの山の中で会った子供なんだ。信じられないだろうが本当なんだ。山の中にいて、俺を、助けてくれたんだ。助けてくれたのに、どこかへ行っちまって見当たらないんだ。この雨じゃ、いくら夏でも遭難しちまうかもしれない」
「どこですか。山のどの辺で見当たらなくなったのですか」
 周平さんが訊くと、わからない、と、困惑したような表情を見せます。
「俺は、この辺のことはまったくわからないんだ」
「どこから来たんですか」
「山に入ったんだ。日置町(ひおきちょう)からだ」
 日置町。
 それは、山向こうの反対側の町の名前です。
「すると、三沢山(みさわやま)ですか」
「わからない。山の名前もわからないんだ」
 周平さんが、眼を細めました。
「お名前は? 言えますか?」
「山本(やまもと)だ。山本徹(とおる)」
「子供の名前は」
 済まなさそうな、苦しそうな顔をします。
「わからないんだ。ただ、みっちゃん、とだけ自分で自分を呼んだ」
 みっちゃん。
「女の子ですか?」
「男の子だ。まだ小学校の低学年ぐらい」
 それは、ひょっとして。
 私が訊こうとしたのですが、周平さんがそっと手のひらを私に向けて広げたので、待て、ということかと思い、口を閉じます。
 何か、あったのでしょうか。
「山本さん。ひょっとしてその子はこの子じゃないですか?」
 周平さんは机の引き出しを開けて封筒を取り出します。さっき帰ってきたときに入れたものでしょう。
 封筒から出したのは写真です。
 男の子や女の子が数人写っています。お祭りの写真でしょうか。皆が法被(はっぴ)などを着ていますけど。
 周平さんが指差した一人の男の子を見て、山本さんの眼が大きくなります。勢い込んで、言います。
「この子だ! 間違いない!」
 この子。
 写真の子はまったく知りません。見たことありません。そもそも最近撮ったのではなく、とても古い写真に見えますけれど。
 周平さんが、山本さんの肩をそっと叩きました。
「それなら、安心してください。この子は、無事です」
「無事?」
 思わず私も、早稲ちゃんも圭吾くんも何が無事なのか、その写真は一体何なのかと声を出すところでした。
 でも、周平さんは山本さんに気づかれないように、眼で私たちを止めました。
 何も言うな、というような顔をしました。早稲ちゃんも圭吾くんも気づいてくれたみたいで、ただ黙って小さく頷きます。
「一昨日(おととい)です」
 そう山本さんに言いながら周平さんは、今度は机の上の本立てから紙挟みを取り出して、何か一枚の書類を自分で見ました。
「山向こうの日置町で子供が行方不明になったそうです。警察や地域の消防団が捜したけれど見つからず、山に入ったのではないかということで捜索していました」
「じゃあ、その子が!」
「そうです。見つかりました。ついさっき、こちらの警察にも、ここにも一報が入りました。みっちゃんと言うのは、道明(みちあき)くんという名前だそうです。もうそろそろ自宅にも戻っているはずですよ」
 山本さんが、大きく息を吐きました。
「良かった」
 本当に良かった、と、顔に手を当て、また大きく息を吐きます。身体から緊張の糸が解(ほど)けるように、肩が下がります。
「じゃあ、いなくなった後にやっぱりまた山に入っていったんだな。そこで捜索隊が見つけたんだな」
「詳細は、こちらには伝わっていないのでわかりません。でも」
 周平さんはそう言って、安心してくださいと続けました。
「多少衰弱はしていましたけど、どこにも怪我はなく、無事だということです。お父さんお母さんにも会えたと思いますよ」
 良かった、良かった、と山本さん繰り返します。
「山本さん」
 周平さんに呼ばれ顔を上げます。
「一応、もう少し詳しいお話をお聞かせ願えますか? そのみっちゃんと会った経緯など、です。こちらとしても、そういう事情のあなたをこうして保護した以上は、詳細を向こうの警察に報告を上げなければなりませんので」
「あぁ」
 少し不安そうな顔をします。
「いえ、別に事情聴取とか尋問とかそういうのではないですよ。安心してください。あなたはただ山の中で子供と会って、少し行動を共にしただけですよね?」
「そうなんだ」
「その辺の話をまとめて報告するだけです。他には何もありません。その前に、お風呂に入って食事でもして落ち着きましょうか? その様子じゃあ落ち着いて話もできないでしょう。ちょうど僕らもこれから夕飯なんですよ」
 そうです。ちょうど食べようと思っていたところなんです。

 着替えを貸してあげました。
 山本さんはそれほど背が高くなかったので、周平さんではなく圭吾くんの服がちょうど良かったのです。着替えて、ご飯も一緒に食べました。余程お腹が空いていたのかたくさん食べてくれて、そうしてお風呂にも入ってもらいました。
 山本さんはさかんに恐縮していましたが、拠(よ)ん所(どころ)ない事情で困っている人を助けることだって駐在所の職務のひとつです。もしも山本さんが一文無しであれば、最寄りの目的地までの交通費を渡すことだってします。
 お茶を出して、ソファに座ってもらい、周平さんがその向かいに座りました。煙草を勧めると、すまないね、と山本さん箱から一本取り出し、深く吸います。
「改めて、ここの駐在の蓑島(みのしま)です。隣りは妻の花(はな)。後ろの二人は山の管理をしている坂巻(さかまき)夫妻です。この辺りではいろいろ山で起こりますので、坂巻さんも捜索隊に加わることも多いのです。事情や情報をいつも共有するので、一緒に聞いてもらいます。いいですね?」
 山本さん、小さく頷いてから、圭吾くんと早稲ちゃんに向かっても頭を下げました。
「山ん中に入って、バタバタさせちまいました」
「いいんですよ。無事だったんですから」
 圭吾くんが優しく言います。
 ひとつ、息を吐いて山本さんが続けます。
「死のうと思っていたんだ」
 死ぬ。
「自殺、ですか?」
 周平さんが確認すると、頷きました。
「死のうとしたほどの何かがあったということですか。山本さん、フルネームと年齢などは教えてもらっていいですか?」
「あぁ、山本徹、です。三十三歳、です。本籍とかも全部教えた方がいいのかな」
「いえ、そこまではいいですよ。現住所、もしくは直近で住んでいた町でも教えてもらえると話が早いですね」
「蜷川(にながわ)市にいたんだ。そこの鉄工所で働いていた。独身です。だから、心配してる人間とかもいないし、連絡しなきゃならないところもない」
 黙って、頷きます。
 蜷川市ならお隣りのお隣りですから、そんなに遠くの人というわけではないですね。同じ県内です。
「ご両親とかも、蜷川市ですか?」
「いや、いない。俺は孤児でさ。施設で育ったんだ。二人とももう死んでいるよ。親戚とかもたぶんいないんだろう。わかんないけどな」
 そういう境遇の方でしたか。
「まぁ、そんなのを理由にはしないけど、俺はろくでもない男でさ。唯一の趣味は競馬や競輪のギャンブルでさ。一生懸命働いては、その金で一獲千金狙ったりしていた。本当にどうしようもない奴でさ」
 そんなこともないでしょう。一生懸命働いていたのなら、立派なことです。
 山本さん、確かに長髪であまり人相もよろしくないけれど、こうして話をするときにはきちんと姿勢をよくしています。ご飯を食べたりお風呂に入ったりするときにも、本当に恐縮して迷惑を掛けて申し訳ないと、心の底から言っていました。
 それに、あれほど子供のことを心配していたんです。優しい、ちゃんとした人だと思います。
「借金、ですか?」
 周平さんが言うと、山本さん、頭をかくんと下げてから、小さく振りました。
「情けねぇ話だ。ヤバいところから借りちまって、それが膨らんでいってにっちもさっちもいかなくなってさ。迷惑掛ける前に鉄工所辞めて逃げ出してさ。何とか日雇いとかしながら逃げ回っていたんだけどさ。もうダメだなって」
 諦めたように、笑います。
「こんな人生、もう止めちまった方がいい。強盗とかそんなことやらかしちまう前に死んだ方がいい。そう思って、山ん中で首でも吊ったら誰にも迷惑掛けないだろうって思ってさ」
「それが、山に入っていった理由」
 そう、と、頷きます。
「最初は、体力もあるからさ。どの辺がいいかなって歩き回っていたのさ。夜中になって寝込んで熊とかに襲われるのはちょいと痛そうで嫌だからって夜もさ。そうしたらさ、子供がいたんだよ」
「それが、みっちゃん」
「驚いたよ。何でこんなところに子供が! ってさ。慌てて声を掛けて何してるんだって訊くいたら、家を出てきたって言ってさ。びっくりさ。とにかく、何があったかわからんが帰ろうってな。一緒に行ってやるからって山を下りたんだ。訊いたら、こっち、雉子宮だって言うからまぁ知った人間もいないから大丈夫だろうって」
 みっちゃんと名乗った子供は、家にいっても誰もいないかもって言ったそうです。お腹も空いたと。
 死ぬつもりだった山本さんも食料などは持っていませんから、仕方なくみっちゃんに言われるままに、魚がすぐ獲れる川で魚を獲り、キノコを見つけ、山芋を掘ったそうです。
「地元の子だってすぐにわかったよ。何せ詳しかったからな。それで、家に戻ってみたら本当に誰もいなくてさ」
 私も、早稲ちゃんも圭吾くんも、もちろん周平さんも何も言わずに黙って聞いていました。
 山本さんが入った家というのは、おそらくは。
「こんな奴だけどさ。いろいろ話したよ。貧乏で嫌だとか言うから、俺の話もしてやった。こんなろくでもない男にならないために、頑張るんだって言ってさ。そしたら、おじさんも頑張んなよって逆に励まされてさ」
 山本さんが、苦笑いします。その眼が潤んでいます。
「俺に家族はいないけど、同じ施設で育った俺より小さい奴はたくさんいてさ。そいつらの顔を思い出しちまってさ。あいつらにお土産とか買って会いに行ってやってねぇなぁとかさ。このみっちゃんも元気になってくれないとなぁってさ」
 そんな話をしていたらいつの間にか寝てしまって、気づいたらみっちゃんの姿が消えていたそうです。
「慌てたよ。また山の中に入っていったんじゃないかってな。走って捜し回ったけど見つからない。その内に暗くなっちまって、雨も降り出して、これはもう警察とかに言うしかないと思って山を下りて走っていたら、ここが見えてさ」
 駆け込んできたというわけですね。
 なるほど、と、周平さんが頷きます。
「良かったですね。子供は無事で」
 うん、と、山本さんは微笑んで大きく頷きます。
「よくわかりました。こちらとしては、お話を伺っただけで後は特に今後この件について山本さんに何か確認したりすることはありません。お引き取りくださって結構です。と、なるところですが」
 周平さんが、山本さんの眼を覗き込むようにします。
「まだ自殺する気持ちが残っていますか?」
 山本さん、唇を歪めました。少し首を捻ります。
「あの坊主の心配をしているうちにそんなのは吹っ飛んじまったが、さぁ、どうなるかなってのが正直なところで」
「ヤクザなところからの借金はどれぐらいあるかは訊きませんけれど、それをどうにかしないことには、またそんな気持ちになっちゃうかもしれませんね」
「まぁ」
 苦笑いします。周平さんが、少し首を捻りながら、机の引き出しを開けました。
「警察では、たとえばうっかり財布を落として一文無しになってしまった人に、家に帰るぐらいの交通費程度を融通することはあるんです。そのための予算もあります。実は、ここにもあるんです」
 封筒を取り出します。その通りです。まだここに赴任してきてから一度も使ったことはありませんけれど。
「東京までの交通費をお貸ししましょうか」
「東京?」
 山本さんが眼を丸くします。
「東京に知り合いなんかいないが」
「警察としては、たとえヤクザなところからだろうと借りた金は金。法外な利子とかその辺の問題はあるにしても、そこをクリアして借りたものはきちんと返して、また真っ当な人生を歩んでください、と言いたいんです」
 わかりますよね? と、周平さんは山本さんを見ます。
「まぁ、そりゃそうだな」
「東京に、探偵の知人がいます」
「探偵?」
「その辺のヤクザな金の問題にも詳しく、弁護士などの仲間もいます。彼のところを訪ねてみてください。確か、鉄工所にお勤めだったんですね?」
「そうだが」
「つい何ヶ月か前に会ったとき、彼は鉄工所にも知り合いがいるみたいなことを言ってました。手紙を書いておきますから、その辺も相談してみてください。そして、人生をやりなおしてください」
 山本さん、口を少し開け眼をぱちくりとさせました。
「いや、そんな」
 慌てるようにして、私たちの方も見ます。探偵とは冬にやってきた小野寺さんのことですね。
「どうして、そんなことを俺に。赤の他人なのに」
 周平さんが、微笑みます。
「みっちゃんが、あなたを助けたんですよね。あなたはみっちゃんを助けようとして、逆に助けられたようなものでしょう。だから、みっちゃんのために真っ当な暮らしを手に入れて、みっちゃんにお土産でも買って会いに来てはどうでしょうか。私も、そうしてほしいからです」
「みっちゃんに」
 山本さんは、小さく呟いて、外を見ました。それから、両手を握り、小さく頷きました。頷きながら、私たちに向かって何度も頭を下げます。
 もう雨は止んでいました。

 二階の空き部屋に布団を敷きました。
 山の中を走り回って捜して相当疲れていたんでしょう。山本さんはぐっすり眠っています。
 明日の朝いちばんのバスで、東京に向かってもらうようにしました。周平さんは小野寺さんにも電話して、頼んでいました。
 早稲ちゃんも圭吾くんも、それを聞いていました。
「あのさ、周平さん。あの迷子の件って」
「うん」
 圭吾くんに、周平さんが頷きました。
「嘘だよ」
 嘘。
 周平さんは、唇を少しだけ歪め何とも言えない表情を浮かべました。
「山向こうの日置町にそんな迷子の情報なんかなかったよ。念のために近隣のそれぞれの町や市の警察に問い合わせたけれど、どこにも子供が迷子になって戻ってきたっていう事実はなかった」
「え」
「じゃあ」
 圭吾くんと早稲ちゃんが、言いながら口を開けっ放しにして、驚きます。周平さんが、息を吐きました。
「子供が山にいた形跡なんかどこにもないんだ。花さんも確かめたよね。蒲原さんの家の周囲には、大人の足跡しかなかった」
「なかったわ」
「家の中にも、大人の足跡しかなかった。どこをどう探しても子供がいた形跡はない。近隣にも、迷子や行方不明の情報はない。じゃあ、山本さんが山の中で出会った子供は、家出して山の中に入っていたという子供はいったい誰だって話になる」
「子供の影が家から出て山に向かって走っていったっていう話も出たんだよね。昭憲さんが読経したっていう」
「それに、さっきの写真は」
 周平さんが、さっきの子供の写真をまた取り出しました。
「ここに写っているのは、間違いなく道明くんだよ。山で死んでしまった蒲原さんの子供だ」
 それから、もう一枚出してきました。
 また写真です。
 セピア色の、古い古い写真。
「蒲原さんがここにいた頃を知っている人たちを訪ね歩いてね、探したんだ。蒲原さんの家族が写っている写真はないかってね。そうしたら、お祭りのときに撮った写真に、蒲原さんたちも一緒に写っているものがあるって、上木(うえき)さんのおじいさんが貸してくれた。見てごらん」
 机の上に置いた写真。
「これは」
 私も、早稲ちゃんも、圭吾くんも思わず顔を近づけて、何度も何度も見直してしまいました。
「周平さん。この人が、蒲原さんなの?」
「そうらしい。その鉢巻きをして山車(だし)の先頭に立っているのが、蒲原さんの、山で死んでしまった道明くんのお父さんだ」
 信じられませんでした。
「山本さんに、瓜二つだ」
 圭吾くんが言って、早稲ちゃんも頷きます。
「たぶん、並んで比べたら別人だっていうのはわかるだろうけど、こうして見る分には本当にそっくりだ。もちろん、親戚とか血縁関係なんかを調べてみなきゃわからない。ひょっとしたらどこかで繋がっているかもしれないけれど、他人の空似ということもある」
「世の中には自分に似ている人は三人いるって言うわよね」
「そういうことだろうと思う」
「じゃあ、周平さん」
 早稲ちゃんが、悲しそうな、辛そうな表情になりました。
「あの山本さんが山で見つけた子供っていうのは、本当に、本当に道明くんだったの? 死んでしまった蒲原さんの子供。その子の魂が、自分のお父さんにそっくりだった山本さんが命を絶つのを救ったっていうことなの?」
 眼を閉じ、大きく息を吐いて周平さんは首を横に振ります。
「わからない。僕にはね。でも、事実として、山に子供なんかいなかった。迷子も行方不明の情報もない」
「でも、山本さんは、山にいた子供に救われた」
 私が言うと、周平さんは頷きます。
「その二つが、事実だってことだけだ」
 周平さんが、写真を見つめ、それから眼を閉じ手を合わせました。私も、早稲ちゃんも、圭吾くんもそうしました。
 皆が眼を開け、手を下ろします。
 開け放った網戸の窓から、虫の声が聞こえてきます。
「お盆が、来るね」
 周平さんが呟くように言いました。

〈私も、人間の魂の存在とか、そういうのはわかりません。医学的には考えられないことです。でも、小さい頃から親に連れられてお墓参りをしていました。死んでしまったひいおじいちゃんやひいおばあちゃん、おじいちゃんたちに手を合わせていました。私たちは元気ですよ、どうぞ安らかにね、そして空の上から私たちを見守ってくださいね、と祈っていました。
 祈る心は、医者も持ち合わせています。手術は成功しても、後は患者さんの体力に懸けて祈るしかない、という言葉を言うときもあります。祈りは、人の心のありどころでしょう。
 その祈りが、何らかの奇跡を見せることも、あるのかもしれません。誰かの人生を救うこともあるのかもしれません。不思議としか言い様のない出来事でしたけど、ずっと心に残っていくと思います。周平さんも、圭吾くんも、早稲ちゃんも。私にも。〉

君と歩いた青春 駐在日記

画・新目惠

Synopsisあらすじ

時代は1977年。神奈川県の山奥にある雉子宮駐在所に赴任した、元刑事の簑島周平と、元医者の花夫妻。優しくて元気な人ばかりのこの村だが、事件の種は尽きないようで……。
「東京バンドワゴン」の著者が贈る、レトロで心温まる連作短篇ミステリー。

Profile著者紹介

小路幸也
一九六一年、北海道生まれ。二〇〇三年、『空を見上げる古い歌を口ずさむ pulp-town fiction』でメフィスト賞を受賞しデビュー。代表作「東京バンドワゴン」シリーズをはじめ著作多数。魅力的な登場人物と温かな筆致で、読者からの熱い支持を得ている。

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