兎神の島第四回

 小舟が置いてある吉六の住む浜は、ミヨが働いている茶店から徒歩で行くとすると、片道で四日はかかる。行商のような生活で長距離を移動するのが当たり前になっている魔右衛門には「単なる四日間」でしかないが、茶店で働くミヨには、まず仕事の暇をもらうところからはじめなくてはならない。渡し船で川を渡り、山を迂回し、峠を越え――そこまでして連れていくような所であろうか。
 しかし、話しただけでミヨは無人島の小屋に取りつかれてしまい、今すぐにでも暇をもらって旅支度をするという。
「そんなに行きたいなら連れていってやる。どんな想像しているのか知らないが、あんたの思うようなところじゃないと思うね」
 
 文月の終わりころ、魔右衛門はミヨを吉六に紹介した。
「数年前には兎をもってきたかと思ったら、今度は女を連れてきやがった」吉六は嬉しそうに笑った。そしてミヨに顔を向けた。「なんにもねえとこだけれど、ゆっくりしていってくだせえな」
「島にいきてえってんで明日連れていくんだ」
 その晩は吉六の家に泊まった。
 翌朝、波はなかった。魔右衛門はミヨを乗せて船をだした。
「本当によくここまできたよ」
 櫂を漕ぎながらいった。
「私は、決めたら早いんですよ。心のなかの天秤が、がくん、と旅に傾いたんだから」
 水平線が見渡す限りに伸び、白い雲が浮かんでいる。海には他に船もなかった。
「あの島?」
「ああ」
 半刻も漕ぐと目指す島影が迫ってくる。樹木の茂った小高い山と、草が茂った丘のような野原が見える。
 上陸して、家に案内する。柱と屋根、そして床だけで、壁がほとんどない。もちろん戸板もない。だがここでは冬まではそれで特に問題はなかった。
「あらまあ、なんていうことだろう。なんでもあるじゃないですか」ミヨはいった。
 釣竿、斧、釘、鉋、金槌、皿を初めとする食器、壺、たらい。ミヨの言う通り、何度も往復するうちに、蓄えていった生活の品だ。もとは漂着物だったものもある。
 家から少し離れたところに、竈も作っていた。
 ほとんど警戒心のない兎がひょっこり現れた。頬をふくらませてミヨと魔右衛門を見ている。
「あいつらは俺がここに離したんだ」
 可愛い可愛いと喜ぶさまをみて、ふと、初めてあったとき、仔猫を殺せずに家を追い出されたと語っていたことを思い出した。ここの兎を市にもっていって換金していることはしばらく話さないでおこうと思った。
「私は山でも村でも、その場に立ってしばらくすると、そこがいいところか悪いところかわかるんだ。いいところは陽の気があってふわっとしていて心が安らぐ、悪いところは陰の気がたまっている」
「巫女みたいなことをいうね」
「実は私は、巫女だったんです」
「どこで巫女をやってたんだ」
 ふとミヨの顔に陰りがさした。ここ二年ほどの付き合いで、過去の話に触れそうになるとこの顔になる。
「あんたは誰にもいったりしないから、教えてもいいかもしれない」それから水を飲むと小さな声でいった。
「キリシタンの家に生まれたんですよ」
「え」魔右衛門は驚いた。これまでに自分はキリシタンだという人にあったことがない。禁教令がでて久しい。そんなことを公言して役人に知られたら最後、棄教か死罪か迫られるはずだ。もっとも魔右衛門自身には異国の宗教に特別な忌避感はない。
「初耳だ。全くそんなように見えないから、大丈夫かい」
「そりゃそうだよ、そんな風に見られるようなことしたら、えらく面倒くさいことになって殺されちまう。踏み絵だなんだやらされて踏めないと殺されるのだろうし」

 ミヨの話をまとめると以下のようなことであった。
 ミヨの祖先は肥前国で弾圧され、信仰を捨てきれずに離島に逃れた。島の外れに同志たちと集落を作り、密かにオラショを唱え、観音様とマリア様を融合させたマリア観音を拝むなど、仏教に偽装した信仰を続けていた。キリシタンといっても、日本からは正式の宣教師も追放されて久しく、百年もするうちに、その教えも土俗の信仰と結びついた新興宗教のようなものになったようだ。
 ミヨはそんな離島の閉鎖的な隠れキリシタン集落の代々の信者の家にうまれた。離島といえその信仰は決して他言してはならぬ秘密のものである。ミヨは月に二度ほど、白い服を着て、真夜中から朝まで、海辺で祈るという儀式をさせられていたという。
「デウス如来の巫女だよ」
「デウス如来」
 異教の神、デウスと、如来が融合したのだろう。だが仏道に巫女はない。いろんな宗教が混ざりあっているのだ。
「十年に一度、六歳から八歳ぐらいまでの女子から選ばれるんだ。まあ、そのときは私がたまたまその年齢だったんだよ。選ばれると十年巫女をする」
 ミヨによれば、月に一度、海の果てにいるデウス如来を島に招き寄せ、島中の死者をパライゾへと昇天させるために一人で舞を舞うのだという。
「真夜中に起きて、一人で夜明けまで舞うんだ」
「デウス如来はきたか」
「わからない。目に見えないものだからさ、来たような気もするし来てないような気もする」
「なんだって島をでたんだ」
「十三ぐらいだったかな。なんだかあの島で一生を終えるのが怖くなって。前にも話したけど、天秤だよ。一生島にいる、と、外の見聞を手に入れるを天秤にかけたら迷うことは全くなかった。本土からきた男に頼んでこっそり島をでたんだ。あの頃は本当に何も知らなかった。本土にきていろいろ知ってしまったら、もう戻れねえし、居場所もない」
「その男はどうした」
「大坂に連れていってくれたんだけれど、しばらくしたらだんだん私と仲が悪くなって、他に女もいるようで、喧嘩してそのままお別れとなりました」
 魔右衛門は唸った。隠れキリシタンの島をでてきたとあっさりいってしまうが、並大抵の秘密ではないはずだ。だがそれを話すということは、自分をそれだけ信頼しているということだろう。
 離れたところから兎が見ている。頬をぴくぴくと動かしている。ミヨはふふっと笑った。
「もしかして兎獲って船で運んで売っていやしないでしょうね?」
 鋭い質問である。
「いや、そんなことはねえけどな」
「ここは兎が楽に暮らせる土地にするべきだ。狐もいねえ、鼬もいねえ」
 面白いことをいうな、と魔右衛門は思った。
 
 二人は島で三日を過ごした。釣りをして栄螺をとり、竈で焼いた。小さな芋を食べた。そろそろ帰ろうかというときミヨはいった。
「私はここに残りたい」
「なんだって」
「陸では、妙にしんどいんだよ。眠れない日も多くて。たぶん帰ったらまたしんどくなる。ねえ、本当にもうこれ以上の頼みはないんだ。ここで畑を増やしたりしてみるから、魔右衛門さんは私を置いて戻ってもらっていいかい」
「そりゃ無茶だよ」諭すように魔右衛門はいった。「まあ、家を作ったときはおんなじように考えたものだが」
「私は暮らせるよ。魚をとって焼いて、無い日には貝をとってちびちびやるさ。昆布を干して、塩を作ろうかね。三日いて、どうしたらいいかやり方はわかった」

兎神の島

Synopsisあらすじ

旅をしていた魔右衛門が偶然助けた男・吉六。その吉六の家の近には《神の住む島》
があり、魔右衛門はその島で兎を飼いながら暮らすことになるが――。

Profile著者紹介

恒川光太郎(つねかわ こうたろう)
1973年東京都生まれ。
2005年「夜市」で日本ホラー小説大賞を受賞。同作単行本はデビュー作にして直木賞候補になる。2014年『金色機械』で日本推理作家協会賞を受賞。
その他の著書に『無貌の神』『真夜中のたずねびと』などがある。

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