兎神の島第三回

  3

 秋の晩、魔右衛門が、川にほど近いススキの揺れる道をひたひたと歩いていると、男の怒鳴り声が聞こえてきた。近くの家からだ。どうも誰かを叱りつけているらしい。聞いているだけで胸糞が悪くなるような罵詈雑言だ。おそらく家主なのだろう。
 家から一人の女が飛び出してきた。
 さきほどのやり取りの様子から、追い出された――に違いなかった。
 思わず魔右衛門は女を追った。
 女は川のそばにくると土手を歩き、渡し船の小屋の前にいった。もちろん渡し船は夜間の営業はしていない。無人の小屋が静まっていた。
 川のほとりにじっと俯いて立っている。
 入水自殺でもするのではないか。魔右衛門はそう思い、声をかけた。
「もしもし、大丈夫かい」
 はっと女は顔をあげた。
「何が、あ、あんた、誰」警戒に滲んだ声だ。
「なあに散歩中の酔っぱらいだよ。別嬪じゃないか」
「見ればわかることをいちいち口にだして言うんじゃありませんよ」
 女はぷいと顔を背け、歩き始めた。
「さっきふらふら歩いていたらね、あんたが走って家から出てきたのを見てね。あれは何を揉めたんだい」
「あの家は」女はいいかけて、きっと魔右衛門をにらんだ。「見知らぬ者に話すようなことではありますまい」
「いや、知りたいね」
「ならいいますが、あの家の者はひどい!」

 女の名前はミヨといった。
 聞けば、あの家には主人が一人、その妻と子供たちがいて、ミヨは下女として雇用されていたという。
 その主人が「飼い猫が仔を産んだが、家が猫屋敷になるのは困る。ご近所にも迷惑になるから殺して埋めてこい」とミヨに命じた。
 ミヨは「殺したくない」といったが家の主人が「下女の分際で、口答えをするな」という。そこで、ミヨは一計を案じ、仔猫を一里ほど離れた寺の境内へ連れていき、そこに放した。殺すより捨てるほうがましだ。ところが、誰かに見られて家主に告げられたらしく、捨て猫が露見して折檻された。とにかくその寺にいって、勝手に捨てたことを住職に詫び、もう一度殺してこいという。そこで家の主人と大げんかになり、こんな家にはいられない、といって飛び出してきたのだという。
「それで私はいってやったんです。私は何のために生きているのか、仔猫を殺すために生まれてきたのかって。あんたはなんなんだ、猫がせっかく苦労して産んだ命を殺して、地獄に落ちるぞって。そうしたら、顔を真っ赤にして出ていけというので」
 魔右衛門はため息をついた。傍から聞いていれば滑稽なやり取りにすら思えるが、本人の苦悩はわかる。
「で、行く当てがあるのか」
「ありませんけど、通りすがりのあなたには関係のないことです」ミヨはいった。
「夜盗にでもなるか」
「はあ? 私がそんなものになるはずがない」
 そこで少し間が置かれた。それから女は毅然としていった。「私はね、頑固なんだそうだ。自分の望まぬ生き方を我慢してやるということがなかなかできない」ミヨはため息をついた。「夜盗なんかになるぐらいなら死にます」
「仔猫はかわいいものなあ」魔右衛門はいった。
「そうですよ」ミヨはいった。
「捨てる神あれば拾う神ありともいうが」魔右衛門は呟いた。「もしも、その家に戻らないというなら、あんた、俺についてきな。一日、二日の宿ぐらいは世話してやるよ」
 ミヨは疑い深そうな目で魔右衛門をみた。
 魔右衛門は歩き出した。大きな街道まで一里もない。ミヨは魔右衛門の後ろをついて歩きながらいった。
「何故、親切になさるのですか? 失礼ですが怪しい方に見えます。私をどこかに連れていって売ろうとでもお考えなら、全く当てが外れることになりますよ」
「おいおい、そんなんじゃねえよ」
 夜の道を話しながら歩き、やがて街道沿いの宿場町にたどりついた。まだしんと道は静まっている。一里塚の榎(えのき)――街道には一里ごとに松や榎が立った丘があり旅人の道標となっていた――の下にある岩に腰かけ、夜明けを待った。
 二人が話していると、まだ暗いうちに飛脚らしき者が馬に乗って駆け抜けていき、じきに空が白んで夜が明けた。
 魔右衛門は、ミヨを木賃宿に案内すると、三日分の宿泊費を払ってやった。ミヨは「そんなわけにはいきません、まずは、そのへんで寝ますから」と必死に遠慮したが「いいんだよ、あんた銭ないんだろ」と魔右衛門はいった。「いい恰好させてくれよ、俺もあんたも一度きりの人生なんだから」
 魔右衛門は同じ宿に泊まると、翌日から宿場町のあちこちに顔をだし、女の働き先がないか聞いた。宿の女将が、宿場町の外れの茶店で下働きを募っていたことを教えてくれた。翌日、ミヨを連れていって紹介すると、その日のうちに仕事が決まった。

 それから一年間、ミヨと魔右衛門は一緒に過ごすことが多くなった。
 ミヨは自分の過去をあまり話したがらなかった。ただ遠い地から、苦労を重ねてきた天涯孤独の女であることは、明らかだった。
 あるとき、魔右衛門はミヨに例の島のことを話した。
 陸からさほど遠くはない無人島に小屋を作っていて、一年に何度か船で向う。栄螺なんかの漁場でもあり、ここのところ行っていないが、そろそろ行きたい――という話である。
 ミヨはこの話にいたく関心をそそられたようで「自分も行きたいから連れていってくれ」とせがんだ。
「何にもねえつまらないところだよ」
「いいじゃないか、見てみたい」

兎神の島

Synopsisあらすじ

旅をしていた魔右衛門が偶然助けた男・吉六。その吉六の家の近には《神の住む島》
があり、魔右衛門はその島で兎を飼いながら暮らすことになるが――。

Profile著者紹介

恒川光太郎(つねかわ こうたろう)
1973年東京都生まれ。
2005年「夜市」で日本ホラー小説大賞を受賞。同作単行本はデビュー作にして直木賞候補になる。2014年『金色機械』で日本推理作家協会賞を受賞。
その他の著書に『無貌の神』『真夜中のたずねびと』などがある。

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