兎神の島第一回
1
魔右衛門が旅をしているときのこと。
箱根の峠道で、しゃがみこんで動けなくなっている旅装束の男がいた。
歳の頃は四十かあるいはもう少しいっているか。
魔右衛門は男に、もしもし、大丈夫ですか、と声をかけた。
編み笠の下の男の顔には汗が浮かび、弱弱しい声で「ああ、なんだか、頭がぼやぼやして、ダル(ひだる神)に憑かれたんじゃないか」といった。
魔右衛門はこの男に水をやり、背負って山をおりて、ふもとにあった宿に寝かせた。一日するとすっかり回復し、男は魔右衛門に礼をいった。
「すっかり元気になったよ。あんたみてえに若かった時なら大丈夫だったんだが」
魔右衛門は男の言う通り、この男よりもいくらか若く、二十七であった。
「いえいえ、困ったときはお互いさまってもんで。あっしも江戸から一人旅の最中で、いつなんどき、ダルに憑かれてああなっちまうかわかりません」
助けた中年男の名を吉六といった。
互いに一人旅の身であったからか、魔右衛門と吉六は意気投合し、そこから連れだって旅をするようになった。
二人の旅道中はひと月ほど続いたが、ひと月一緒にいて特に喧嘩にもならない。笑ってばかりであった。その後、吉六は家に帰ると言い、もしも予定がないのなら、自分の家に寄っていけと誘ってきた。一人暮らしの身で、誰がどれだけ長居しても文句をいうものがいないという。
そりゃ是非に、と後をついていき、そうして到着したのが、人気のない浜であった。
遠浅に見える長い浜がずっと続いている。波が寄せてはひいている。海には島がぽつぽつと浮かんでいる。
吉六の家は、浜に面した林の中にあった。
小舟がいくつか家の前にあった。細長い船である。聞けば、吉六は、若い頃に船大工のところで奉公をしており、いくらかの技術をそこで手に入れたのだという。もっとも現在、船大工の仕事をすることはなく、家の前の小舟は道楽であった。天気のよい日に浜からだして、魚を釣ったりするらしい。
魔右衛門は、最初のうち吉六と一緒に彼の小舟に乗り込み、操船を教わったり、釣りをしたりしていたが、何日か吉六の家にいるうちに、吉六が風邪をひいたので、断ったうえで船を借りて、一人で海に漕ぎ出してみた。吉六のために魚の一匹、二匹釣ってきてやろうと思った。そして大きな赤い魚が一匹釣れたところで船が流され始めた。
――海が荒れ始めたらすぐ戻れ。波に白いものが混じりはじめたら気をつけろ。船は沈まなくても、放り出されるからな。
吉六の出発前の助言であった。混じり始めたらも何も、気が付いたときには明確に白い三角波がたっていた。
――ちょっと待ってくれ。死ぬのか?
魔右衛門の全身に汗が滲んだ。
――沖でまずくなったら、いったん近くの島で、波風が収まるのを待て。
これも吉六の助言であった。
魔右衛門の乗る小舟は、岸から半里ほど沖合で波に揺られていた。沖に島影が見えていた。島までの距離はもといた浜に戻るのとあまり変わらないが、島のほうにどんどん流されていく。魔右衛門は流れに逆らわずに島へと櫂を漕いだ。そうして最後には島の砂浜についた。
浜に船を引き上げて、海を見る。三角の波が無数に立っている。空は晴れているが、風が強い。はあ、肝が冷えた、と魔右衛門は息をついた。
魔右衛門は浜辺から島を歩いてみることにした。
浜辺の奥には森があった。森のなかには土器の破片や、竈のあとのようなものがあった。
奥のほうから水が流れている。小川になっていた。飲んでみると真水であった。
小高い丘があり、その部分に上がることができた。草が一面に生えた野原にシロツメクサが白や薄紅色の花を咲かせ、岩がごろごろと転がっていた。
この高台から本土がよく見える。大丈夫だ。閉じ込められているのは一時的なことだと魔右衛門は己にいいきかせた。海さえ凪いでいれば、そして逆風でないのなら、戻ることはできる。
その日の夕方には風雨が収まった。だがまだ海は荒れている。魔右衛門は夜半まで島にいたが、夜明け少し前に海が穏やかになったのを見て出発し、朝日が昇るころに戻ることができた。
Synopsisあらすじ
旅をしていた魔右衛門が偶然助けた男・吉六。その吉六の家の近には《神の住む島》
があり、魔右衛門はその島で兎を飼いながら暮らすことになるが――。
Profile著者紹介
恒川光太郎(つねかわ こうたろう)
1973年東京都生まれ。
2005年「夜市」で日本ホラー小説大賞を受賞。同作単行本はデビュー作にして直木賞候補になる。2014年『金色機械』で日本推理作家協会賞を受賞。
その他の著書に『無貌の神』『真夜中のたずねびと』などがある。
Newest issue最新話
- 第六回2020.11.27