十字路の蛇第五回

 薄曇りの休日であった。
 人気の無い神奈川の静かな住宅街に、ウエスタン老人が、いたのである。革パンにウエスタンブーツ、ウエスタンハット、ミラーサングラス。道の先にこちらを向いて立っていた。
 私は目を細め、睨み、それから思案した。
 私があの町にいってから三年が過ぎており、
 私は三十二歳になっていた。
 ふっと老人の姿は消えた。角を曲がったのか、
 あるいは――。
 私は額ににじみ出た汗を拭いた。
 ちょうど一年前に私は職場の同僚だった女性と結婚した。私の勤めている会社は、ちょっと体質が古いというか、「結婚した女性は退職する慣習」というものがあり、総合職の妻は結婚式の翌月には退職し、現在は、妊娠七ヶ月で家にいた。
 ちょうど、彼女のぶんも含めて自転車で買物に出かけようとしたらパンクしていたので、歩いてスーパーにいこうとしていたところだった。
 今見たものはなんだ?
 この町にウエスタン老人がいる。いや、服装の趣味というか、格好が同じだけの別人なのか。
 急に買物にいく意欲をなくし、マンションの部屋に戻った。
 居間のソファで妻がTVをみていた。そこで固定電話がなった。
 私は受話器をとった。
「もしもし上郷です」
 いきなり嗄れた声がいった。
「あんたなあ、俺を蛇だと思っている」
「はい」
 と思わず返した。それは私のだしたかったニュアンスとしては「はい?」であり、「はあ、あなたは誰でしょうか?」であるのだが、あまりにも唐突すぎて、小さな、はい、で萎んでしまった。
 妻が私を見た。妻は視線で〈電話はあなたあてで、私ではないよね?〉ときいており、私は頷いた。妻は会社の人間か誰かからだと思ったのだろう。居間のTVを消すと、別室に去っていった。
「俺に何が起ったか知っているか?」受話器の向こうの声はいった。
「どちら様ですか?」
 ナンバーディスプレイは非通知になっていた。
 どちら様ですか? の答えのつもりか、声は続けた。
「俺は十字路でギターを弾いていた、そうだったろう? それだけだった」
 私は唾をのんだ。暗い闇のようなものが背筋を這い上がってきた。
「俺はな、ずっと前に心を病んで普通の仕事ができなくなった。何が起ったのかというと娘が轢き殺されたからだ。横断歩道に突っ込んできたワゴン車にな。その事故現場がまさにあの場所だ。俺は毎日あそこにいって、娘の霊によりそい、鎮魂の曲を捧げていたんだ」
「娘を轢いて殺したのは、クリーニング屋を経営している男だった。業務上過失致死だったが執行猶予がついた。つまり、娘を殺したが、刑務所には入らずに、普通に過ごしているってわけだ。で、俺が娘の追悼にギターを弾きにいくと、ちょうどな」
 そこで声はへへっと笑った。
「そこがクリーニング屋のオヤジの通勤ルートになっているわけだ。事故を起こしたクリーニング屋は歩いて通勤してくる。クリーニング屋のオヤジは毎日ギターをひいている俺の前を通らないとならないわけだ。最初は通るたびに、申し訳なさそうに頭をさげていた。まあそうだよな。自分が殺した娘の父親がギターをひいているんだから。形だけ反省していた。だが、俺は翌日も、その翌日もずっとそこに現れる。ずっとだ。奴さんは次第に頭を下げることもしなくなり、俺を無視するようになった。もちろん俺は通い続けた 俺を見るたびに自分のしたことを思い出せ、と思った。犯人だけじゃない。俺は町中の人間に思い出してほしかった。ここで俺の娘が死んだんだ。俺が現れてギターを弾くのを見るたびに娘のことを思い出してくれよ、と」
「やがて定期的に、よく知らない野郎が現れて、俺に、あそこでギターを弾かないように忠告するようになった。俺はいつだってこうきいた。〈俺は絶対にここをどかない。頼みがあるなら金をもってこい。そして、あんたの名前は?〉たいがい答えずに去っていく。まあ、クリーニング屋が差し向けたやつだと思うよ。あるとき子分を連れた強面のオヤジが現れていった。〈おいおい、娘さんのことは、たんまり保険金をもらったんだろうが! 俺はなあ、あんたのためを思ってんだぜえ、もうやめなよ、みんな忘れてえんだよ、娘さんはな、もう、ここにはいねえよお。こんなところで人様の迷惑になるようなことを父親がやってるってのを天国の娘さんは知ったら悲しむんじゃないかな。だいたい、いろんな奴があんたにむかつきはじめている。そのうち何が起ったって知らねえよ〉
 俺の肩をばんばん叩きやがって、ギターのケースを蹴りやがった。
 嬉しかったね、俺も退屈していたところだから。その強面は、その筋のもんかと思ったら市役所の職員だった。子分のほうはそいつの年下の従兄弟だったね。調べたら、クリーニング屋とは同級生でな。
 俺は嫌がらせを受けたら百倍にして返す。何年かかっても何十年かかっても報復する。だが何年もは、かからなかった。そいつを張ったら「すぐ」だったよ。その市役所の職員は、国道沿いの居酒屋で仕事帰りに友人だか同僚だかなんだかと週に一度、酒を呑んで、飲酒運転で帰宅することがわかった。店から少し離れた空き地に車をとめて、居酒屋にいっていた。家から店までのたった数キロ、田んぼと畑が両脇に広がる交通量のほとんどない帰り道で、検問なんかやっていることはまずないし、ちょっとの距離で運転代行だのタクシーを呼ぶだのするのは金がもったいないというわけだ。俺は店に入って別席から、強面が酒を呑んでいる姿をビデオカメラにおさめ、車を隠しているところも撮影、そいつが呑んだあと、車に乗り込んで運転していく姿も動画に撮り、証拠を全部まとめて、警察署に送った。ついでに市役所にも匿名でクレームを送った。同じ映像を同封した。それで終わりにはしなかった。二ヶ月後には、そいつが平日の外回りの最中に公用車をコンビニの駐車場の目につかないところにとめて、隣のパチンコ屋で打っているのを目撃。小躍りしたね。それも写真をとって、あちこちに送った。それ以来、そいつは路上の俺の前には現れない。わかっているんだ。誰に喧嘩を売ったからこうなったんだとな。俺は許せねえんだ。自分がお偉いと勘違いしているやつ、ルール違反の生き方を自分はしながら、他人のマナーは注意するといったような傲慢な奴が一番許せない」
 私は〈蛇〉の話を聞きながら、なぜ〈蛇〉が十数年の時を経て、電話をかけてきたのか考えた。だが、全くわからなかった。唯一その答えの手がかりがあるのだとすれば、あの三年前の一度だけの帰郷だろう。洋食屋の店主と〈蛇〉の話をしたこと。あれだ。この世界は、私には把握できない見えない糸が蜘蛛の巣のようにはりめぐらされている。絶対に相手に伝わらないと思った悪口が、どこかを巡り巡って相手に伝わった、そして異常な男はその異常さ故に、私の居場所をつきとめ、数年を経て現れたということか。いや直接本人に確かめればいいではないか。

十字路の蛇

Synopsisあらすじ

七歳の時に、農地に浮かぶ島のような町に引っ越した私。
その町では、ウエスタンスタイルをした謎のギター男が十字路で目撃されていた。
そこを通る私にじっと冷たい目を向けてくる、彼の正体は――。

Profile著者紹介

恒川光太郎(つねかわ こうたろう)
1973年東京都生まれ。
2005年「夜市」で日本ホラー小説大賞を受賞。同作単行本はデビュー作にして直木賞候補になる。2014年『金色機械』で日本推理作家協会賞を受賞。
その他の著書に『無貌の神』『滅びの園』『白昼夢の森の少女』などがある。

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