ゴカイ、ユムシ、ブンブクウニ、シャコ――。海底にひそみ、「巣穴」を掘って生活する彼らは「底生生物」と呼ばれます。

 陸上で生活しているうえではあまり接点がないかもしれませんが、そもそも「海」は地球の地表、その7割を占めています。そのほぼすべてに海底があり、彼らが巣穴を掘って潜んでいる、と聞けばどうでしょう? 地球の支配者は人間ではなく、彼ら底生生物なのでは......などと感じてしまうのは私だけでしょうか?

 近年まで謎につつまれてきた彼らの生態を「巣穴」を解析することで明らかにしてきたのが『海底の支配者 底生生物』の著者、清家先生です。今回はその著書から「はじめに」をご紹介。さあ一緒に、秘密だらけの巣穴を覗いてみましょう!

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<はじめに>

―水深3500メートルを超える深海底で見たもの―

 2019年11月、私はこの文章を、太平洋を航行中の学術研究船「白鳳丸(はくほうまる)」の上で書いています。
 
 白鳳丸は就役30周年記念ということで、日本から東へと進みながら、太平洋、南大洋、インド洋と各地の大洋を観測し、出港から約半年後に日本に戻ってくるという世界一周航海の途上にあります。

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 10月に東京を出港した白鳳丸は、11月中旬には南米から2000キロメートル以上沖に位置していました。

 私が今回、世界一周航海に参加している目的は、太平洋のど真ん中の数地点、そして南極周辺の海底にひそむ生き物を調べることであり、この場所での研究の狙いは、海面から約3500メートル下の「深海底」にひそむ生き物の巣穴を調べることにありました。

 太平洋の中でも南米沖は詳細な海洋調査があまり行われておらず、いわば「フロンティア」とも呼べる海域です。そのフロンティアにあるはずの深海の巣穴を調べるには、船の上から採泥器という機器を数千メートル以上の深さまで投下し、海底の泥をそのまま採集することになります。そして採集したサンプルをX線CTスキャンによって詳細に観察することで、その中に存在する巣穴構造を明らかにできるのです。

 なおサンプルの採集後には、すぐにでも解析作業を行い、海の謎を解明したいところです。しかし、私が実際にそれを解析できるのは、白鳳丸が世界一周航海を終えて日本に帰港した後、つまり2020年の3月以降になってしまいます。でもその前に、今すぐにでも海底の様子が知りたい。そのため、私は深海の水圧にも耐えることができるカメラを採泥器に装着することで、海底の様子を撮影することにしました。

 海面から海底までの水深約3500メートルを往復、つまり7000メートルの垂直な旅を終えたばかりの採泥器からカメラを取り外し、はやる気持ちを抑えながらパソコンに接続し、映像をチェックします。

 どのような海底が広がっているのだろうか? 私の胸は期待で一杯です。まもなくスクリーン上には、真っ白な泥の海底に、たくさんの巣穴やマウンド、這い痕が存在している様子がくっきりと映し出されました。

 太平洋ど真ん中の深海も、やはり「穴」だらけだったんだ―。

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―海底は「穴」だらけ、そして底生生物は「謎」だらけ―

 昨今、海水浴客の減少などを背景に「海離れ」というキーワードが話題となっています。しかし現代社会においても、海と私たちの間に密接な繋がりがあることは疑いようがありません。

 スーパーマーケットに並んでいる魚、イカ、貝、カニ、エビ―。

 これらはもちろん海の生物です。そして週末ともなれば、水族館はとても多くの人々で賑わっています。

 しかしそうした海洋生物たちの暮らしぶりについて、どれくらいわかっているのでしょうか。実は、これまで判明した事実は意外なほど「少ない」と言えます。つまり、私たちは「ほとんど何も知らない」ということでしょう。実際、地球のおよそ7割が海で占められているにもかかわらず、21世紀を迎えた今現在においても、海には多くの謎や、知的好奇心をかきたてる多くの自然現象が存在しています。

 そしてその海には必ず〝底〟が、つまり海底があるのです。

 その海底には、たくさんの数の生き物たちが暮らしています。それは私たちがよく知る貝などはもちろん、ゴカイやユムシなど、本当に多種多様です。海底に生息するそれら生き物は総称して「底生生物(ていせいせいぶつ))」と呼ばれます。なかなか馴染みのない表現ですが、それらの中には水産上での重要種である二枚貝、巻き貝、ウニ、カニ、エビなどが含まれます。

 われわれ人間が非常に恥ずかしく身を隠したいときに「穴があったら入りたい」という表現を用います。底生生物たちは、別に恥ずかしいことがあるわけでもないのに、生涯のほとんどの時間、穴の中に隠れています。一体何のために?

 こうした生物たちは、普段敵に見つからないように、ときに自然の驚異から身を守るべく、巣穴を掘って海底にひそんでいます。

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 われわれが普段は目にすることのない海底、さらにその下に隠れているため、彼らがどのように暮らしているか、直接観察することは大変に困難です。また体が柔らかい生き物が多いため、化石として残ることも稀(まれ)で、その進化の様子も謎に包まれてきました。

 現実として、海底の下にひそむ生物たちはどのようなものか、そしてどのように生きているか、想像すらしたことがない人のほうが大多数なのではないでしょうか。

 しかし前述の通り、地球の大半は海で占められ、どの場所にも海底があり、そしてそこにはとても多くの生物が生息しています。底生生物は海底の砂や泥を撹拌(かくはん)し、海洋の物質循環に大きな影響を与えることが知られています。

 彼らは人間からすれば確かに目立たない存在です。ただし地球全体から見る限り、彼らは私たちよりむしろ主要な構成員であり、海底生態系を駆動する〝海底の支配者〟ともいえます。

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―「穴」にひそむ彼らが教えてくれること―

 わが国をはじめ、世界各国の海洋生物研究者が海底に生息する底生生物を調べ、その生態が少しずつ明らかになっています。

 たとえば、人差し指くらいしかない大きさの甲殻類が、海底から数メートルの深さまで巣穴を掘っていること。砂浜に生息するゴカイが、嵐の攪乱から逃れるため、一斉に岸向きに移動していたこと。エビが迷路のような巣穴を作る理由。広い海底が、とある生き物によって耕されていたということ。さらに大量の巣穴によって一つの湾の海水、その全てが濾過(ろか)されていた事実。

 観測技術の進歩もあって、興味深い事実が次々とわかってきました。そこで本書では、これまで専門書でしか紹介されることのなかった、知名度の低い生物たちの実態についてもわかりやすく紹介していきます。

 ただし一般的に知られていないからといって、平凡な生態とは限りません。むしろ「マイナー」と思われる生物の方が、想像もつかないような驚くべき生態を有していることが珍しくないことを先に記しておきます。

 また地震・津波によって、沿岸はもちろん、その海洋生態系に大きな影響を及ぼした2011年の東日本大震災。私たちは偶然にも震災の半年前に三陸の海へ潜り、調査をしていたため、大津波によって海底がどのように変化したかを明らかにすることができました。

 さらに地震・津波によって、三陸の海底に生息する底生生物群集が深刻なダメージを受けたことも知りました。その海底生態系が震災によってどのような影響を受けたのか、そして震災のダメージから海底はどのように回復してきているのか、その過程についても紹介したいと思います。

 本書では海の底という、普段の生活とはかけ離れた環境に生息する生物やその巣穴の紹介を中心に展開していきます。海底で人知れずひっそりと存在する生態系はとても多くの謎と魅力に包まれています。彼らの生態を知ることは海洋、そして地球そのものを理解することといっても過言ではないでしょう。

 そして本書の内容には筆者自身の、あるいは筆者が関連した研究の成果が多く含まれています。研究の過程で経験したこと、たとえば研究計画の立案での苦悩、フィールド調査で感じた高揚感、予想外の事実が発覚したときの衝撃、そして自分の手によって科学的事象を初めて明らかにする興奮を、読者のみなさんにもお伝えできれば幸いです。

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 最後に。

 身近な干潟や砂浜にもこうした生物は数多く生息しています。読者のみなさんがこの本をきっかけに実際に海に足を運び、海の生物の躍動や多様性、その不思議さを感じてくだされば筆者として望外の喜びです。

『海底の支配者 底生生物』

清家弘治:1981年生まれ。広島県出身。産業技術総合研究所地質調査総合センター主任研究員。文部科学省平成29年度卓越研究員。潜水士。専門は海底生物学、海洋地質学。2004年愛媛大学理学部生物地球圏科学科卒業、09年東京大学大学院理学系研究科地球惑星科学専攻修了。博士(理学)。日本学術振興会特別研究員PD、東京大学大気海洋研究所助教などを経て現職。受賞歴に科学技術分野の文部科学大臣表彰・若手科学者賞など。