もぐら伝 ~蛇~最終回

「もぐら伝 ~蛇~」連載最終回

第3章

     1

 吉岡は飛び込むとすぐに対岸の河川敷まで必死に泳いで渡った。岸に上がると、護岸壁沿いを一キロ強北上し、方谷(ほうこく)橋の下にたどり着いた。
 この橋は、高梁大橋から見ると上流の位置にあたる。
 後ろ手に手錠をされて飛び込んだことは伝わっているだろうから、救助に来た警察や消防は河川敷より下流域を探すだろう。
 高梁川は流れが速いところがあり、水深も深い箇所がある。流れに任せて下流に向かって泳ぐと、その深みや水流に飲み込まれてしまう。
 本来、水流に巻き込まれた場合、足を下流に向け、仰向けに浮いてそのまま流され、体力を温存しつつ、流れの弱くなったあたりに岸があればそこに上がって救助を待つというのが鉄則だ。
 が、吉岡は小さい頃からこのあたりの川で泳いでいて、流れが速くなるところと遅くなるところを熟知していた。緩やかな場所を狙って飛び込んだので、両手を拘束されていても、なんとか対岸までたどり着くことができたのだ。
 あとから自分を追って飛び込んだスーツの男は、途中で流されているだろう。
 対岸にたどり着いた後、上流域へ向かったのも、地元を知る者ならではの逃走経路だった。
 吉岡は橋の陰に身を隠し、ズボンの後ろポケットに入れたスマホを取り出した。尻を覗き込むように首を後ろにねじって手元を見る。スマホはずぶ濡れになっていたが、パネルに触れると起動した。
 電話番号を表示し、コールボタンをタップする。小さい声が聞こえてきた。
「もしもし、わしじゃ。今、方谷橋の下におる。誰にも見つかっとりゃあせん。早う拾いに来い。サツが来たらおえんけんの。待っとるで」
 吉岡はそう言って電話を切り、一つ息をついて座り込み、高梁大橋あたりで瞬く赤い光を見つめた。

     2

 竜星は伸司と高梁中央病院へ来ていた。
 病院はロマンチック街道を渡り、東へ進んだところにあった。伸司が暴行を受けた場所からは百五十メートルほどだ。
 ここは地域災害医療センターにも指定されていて、多種の診療科を有し、近隣地域の医療を担う基幹病院である。
 整形外科で治療を終えた伸司は、竜星と共にロビーで医師の診断書を待っていた。
 幸い、鼻の奥が打撲により損傷していた程度で全治二週間の裂傷という診断を受けた。
 診断書さえあれば、吉岡を傷害罪で起訴することができる。
 伸司はうつむいていた。
「痛むのか?」
 隣にいた竜星が声をかける。
「......大丈夫でしょうか?」
「何がだ?」
「吉岡さん、逮捕されて実刑判決が出ても、何年後かには出てくるでしょう? 当然、僕は恨まれます。仕返しされるんじゃないかと思って......」
「このままにしておいていいわけじゃないだろ?」
「そうなんですけど、もし、家にまで嫌がらせしに来るようなことがあれば、母さんが......」
「もし、そういうことがあれば、警察にすぐ通報することだ」
 後ろから声がかかる。
 竜星と伸司が振り向いた。
 真昌がスウェットの上下を着て、濡れた髪の毛をタオルで拭いていた。
「大丈夫ですか?」
 伸司は、くたびれ果てた真昌に心配そうな目を向けた。
「いやあ、まいったよ。飛び込んですぐ、急流に体を持っていかれた。海とは違うねー」
 真昌が笑う。
「笑い事じゃないですよ! もしものことがあったら......」
 伸司は太腿に置いた拳を握る。
「軽率だった。すまん」
 真昌は真顔で伸司に頭を下げた。
「いや、そんな......。謝ってもらわなくても」
 あまりに深い真昌の詫びに、伸司が戸惑う。
 真昌は顔を上げて笑った。
「悪いと思ったら、謝る。それだけのことさー」
「あ......」
 伸司は目を見開いた。
 確かに、それだけのこと。それだけのことなのに、それを素直に口にできる人は自分も含めてあまりいない。
 伸司は急に恥ずかしくなり、うつむいた。
「伸司君は素直に謝れない方か?」
「はい......」
 声が小さい。
 と、真昌が笑った。
「おまえ、頭がいいんだな」
「えっ?」
 顔を上げる。
「悪いと思った時にすぐ謝れないのは、いろいろ考えちまうからだ。こうだからこうなったとか、ああだから自分に非はあるものの百パーセント自分が悪いわけじゃないとか。あるいは、ここで謝ったら他の連中に迷惑がかかるから、自分で何とかする手立てはないかとか。賢いからつい言い訳を考えられちまう。隣のバカにそっくりだ」
 真昌は竜星を見た。
「バカはないだろ」
 竜星が苦笑する。
「賢いバカ。俺は本当のバカだから、何も考えずに謝っちまう。簡単な話だ。腹が立てば怒るし、哀(かな)しけりゃ泣くし、楽しい時は笑う。自分の感情に素直に生きてる。楽だぞ、こういう生き方は」
 真昌は歯を見せて笑い、伸司の隣に座った。
「だからな。困ったら、困ったと言えばいい。助けてくれる大人はたくさんいる。十人のうち、九人が助けてくれなくても、必ず一人はなんとかしようとしてくれる。なんたって、俺もいるし、竜星もいる。竜星は俺の百倍強い。クソどもが束になってかかってきても、一瞬でしまいだ。なあ、竜星」
 伸司越しに竜星を見やる。
「百倍は言い過ぎだけどな」
 竜星は苦笑し、続けた。
「真昌の言う通り。僕はまだしばらくここにいるから、いつでも頼ってくれればいい」
「......ありがとうございます」
 伸司はうつむいたまま、礼を言う。
 真昌は伸司の肩を抱いた。
「それでいいんだ、それで」
 真昌は回した手で肩をバンバンと叩いた。伸司は少し困ったような表情を覗かせる。けれど、強(こわ)ばっていた顔は少し緩んでいた。
「それはうれしいんですけど......。安里さんも安達さんもいない時にトラブルが起こったら、どうすればいいんでしょうか」
「そういう時は警察に通報。そして、逃げる。喧嘩の必勝法は逃げることだよ」
 竜星が言う。
「そうなんでしょうけど、とっさで逃げられないこともあると思うんです。家だと、母さんもいるし。そういう時は......」
 伸司が深くうつむく。
 と、真昌は伸司の背中を叩いた。伸司が顔をしかめて背を反らす。
「よし。こっちにいる間、ちょっと鍛えてやる」
「安里さんがですか?」
 伸司は驚いて顔を上げた。
「俺と竜星で鍛えてやるよ。なあ、竜星」
 真昌がニヤッと笑う。
「そうだね。何もしないよりはいい。ただし、これだけは守ってくれ」
 竜星は伸司をまっすぐ見つめた。
「格闘するのはあくまでも逃げるため。相手をやっつけようと思わないこと。真昌は強く見えただろうが、ここにたどり着くまで、血の滲(にじ)むような鍛錬を積んでいる。付け焼刃で勝てる相手はどこにもいない」
 竜星の話の後を受けて、真昌が続けた。
「竜星みたいに元から強いヤツもいるんだけどな。おまえはそうじゃない。竜星の言うように、逃げる術(すべ)だけ知っていれば、ほとんどの場面において事足りる。普通に生きている限り、それ以上踏み込まなければならない場面に遭遇することはめったにない。ただ、それでも強くなりたいのなら、毎日少しずつ鍛えればいい。いつか強くなれる。どうする? やってみるか?」
 真昌が訊いた。
 伸司は再び顔をうつむけた。そして、太腿の上で拳を握り、強くうなずき顔を上げた。その眼差しは力強い。
「お願いします」
 深く頭を下げる。
 話していると、白髪交じりの頭髪を整えた黒縁眼鏡の警察官が近づいてきた。所轄署である備中高梁署生活安全部少年課の難波浩之(なんばひろゆき)だ。
 真昌は立ち上がって敬礼をした。
「ご迷惑をおかけしました」
 直立して、頭を下げる。
「いやいや、逃亡犯を追いかけようとしての行動ですから。大事に至らずよかった」
 柔和な笑顔を浮かべる。
「すぐ拾い上げてもらったので助かりました。水には慣れてるはずなんですが」
 真昌は自嘲して続けた。
「吉岡は見つかりましたか?」
「まだ捜索中です。対岸に渡って、逃げたのかもしれんですね」
 難波は真昌に状況を伝えると、伸司の前に立った。
「伸司君、やっと出てきたか」
 笑みを向ける。伸司はうつむいた。
「ご存じなんですか?」
 竜星が訊ねる。
「ここの少年課勤務は長いですからね。地元の子供たちのことはよく知っています」
 微笑んで、伸司に語りかける。
「母ちゃんの具合はどうじゃ?」
「まだ働きには出られませんが、落ち着いてはいます」
「ほうか。今度はおまえが母ちゃんを支えてやらにゃあおえんで」
 岡山弁で優しく語りかける。
「ところで、そちらは?」
 難波が竜星を見やる。竜星は立ち上がって一礼した。
「安達竜星と申します。鎌田さんのお宅でお世話になってまして、君枝さんの花屋を手伝っています」
「ああ、君が安達君か。君枝さんから聞いているよ。ものすごく強いそうだね」
「いえ、そんなことはありませんが......」
「希美ちゃんは元気かな? 沖縄の君の実家にいると聞いているが」
「母からは元気にやっていると聞いています」
 返事をしながら、すべて筒抜けか......と苦笑する。
「伸司君、今日はもうええよ。また明日、話を聴かせてもらうけえ。安達君、悪いが、伸司君を家まで送ってくれるかな」
「わかりました」
「安里君はちょっと残ってくれ。警察官として話がある」
 難波が言う。
 真昌はうなずいて、伸司を見た。伸司が不安げな顔をしている。
「今日のことを報告しなきゃならないだけだ。すぐ戻るから」
 真昌は伸司が気にかけていることを察し、そう声をかけた。そして、竜星を見て小さく目でうなずく。
 竜星は返し、伸司を立たせた。
「行こう」
 伸司と共に頭を下げて、玄関を出る。
「安里さん、あのことを話すんでしょうか......」
「大丈夫。うまくやってくれるよ。今日は帰ってぐっすり寝るといい。警察官がうろついているから、今夜、連中がどうこうすることもないだろう」
「ありがとうございます」
 伸司が頭を下げた。
 竜星は微笑んで、伸司と並んで家路についた。

     3

「吉岡さん、吉岡さん」
 囁(ささや)くような声が聞こえた。
 橋の陰で座って身を隠していた吉岡はそろりと声のした方を覗いた。
 刈り上げた側頭部が遠くの明かりにうっすらと浮かぶ。そこには模様のようなものがある。
「山形」
 小声で呼びかけた。
 男の動きが止まった。吉岡の方を見やる。
「こっちだ」
 呼ぶと、男が近づいてきた。暗がりの中、男の顔がはっきりと見えた。
 山形だった。吉岡は立ち上がった。
「よかった。見つかっとらんかったですか」
 山形は吉岡に駆け寄った。
「遅えぞ」
「すみません。ガキどもに捜させよったんですが、吉岡さんから連絡があったんでバレんように全員撤収させるのに時間がかかってしもて」
 話しながら吉岡の手元を見る。
「それ、どうしたんです?」
「ワッパかけられてしもたんじゃ」
「そりゃあ、おえんかったですねえ」
「ほんまじゃ。早う外されえよ、こいつを」
 吉岡が後ろを向く。
 山形は手錠を覗き込んだ。
「こりゃ、本物じゃ。どないもできんです」
「外せるじゃろうが」
「昔の手錠ならピン一本でいけるんですけど、最近のは精巧なんで厳しいんですよ」
「やってみい! 早う」
 吉岡が両腕を後ろに伸ばす。
「できゃせんと思いますがの。ちょっと前に行ってください。よう見えんので」
 そう言い、吉岡を前に押し出す。吉岡は陰から出た。
「もうちょっと前に」
 山形はさらに押し出し、吉岡を川べりに立たせた。
 吉岡は川べりの少し大きな石に爪先をかけ、川に落ちないように踏ん張った。
 山形が手錠の鎖を握って、手元を見る。
「どうじゃ?」
「ちょっと待ってください。今、やりますんで」
「早うしてくれ。ここにおったら捕まる」
「そうですね。捕まったら、えらいことになりますね」
 山形は言うと、手錠から手を離した。
 そしていきなり、両腕を吉岡の脛(すね)に巻き、手前に引いた。
 吉岡は顔から水面に落ちた。
「何するんじゃ!」
 吉岡は背を反らせて顔を上げた。川底の石に額をぶつけ、血が出ている。
「早う起こせ!」
 首をねじって、怒鳴る。
 が、山形は吉岡の両脚を腕に挟んで持ち上げた。吉岡の体が斜めになり、また顔が水の中に沈む。
 吉岡は背を反らせてもがいた。しかし、顔は水面に上がってはすぐ沈む。
 顔を上げるたび、怒鳴ろうとするが、水を吐き出すだけだ。山形は自分の両脚を開いて踏ん張り、吉岡の両脚を腕で挟み込んだ。
 吉岡は飛び跳ねる魚のように何度も何度も背を反らしたが、しだいに動きが鈍くなってきた。顔が沈んだまま上がらなくなってくる。
 やがて、吉岡は動かなくなった。水面を見つめる。ごぼっと大きい空気の玉が水面を揺らし、完全に動きが止まった。
 山形は脚を抱えたまましばらく立っていたが、頃合いを見てゆっくりと脚を下ろした。吉岡は水に顔を突っ込んだまま、動かない。上体は川の流れに揺らいでいた。
 山形は吉岡を見下ろし、息をついた。
 周囲を見やる。人の気配がないことを確認し、その場から走り去る。
 うつぶせになって息絶えた吉岡の体は、川の流れに押され、ゆっくりと岸辺を離れた。

     4

 真昌が鎌田家に戻ってきた。
「すみません、遅くなりました」
 迎えに出た君枝に声をかける。
「お疲れ様。大変だったわね。どうぞ」
「ありがとうございます」
 真昌は家に上がり、君枝と共に居間に入った。
 竜星が待っていた。
「お帰り。何の話だった?」
「吉岡のことだよ」
 真昌は竜星の左斜め前に座った。手に持っていたビニール袋を置く。中には乾かしたスーツが入っていた。
「これ、かけておきましょうね」
「あ、自分でやります」
「いいから。竜星君、お茶を淹れてあげて」
 君枝は袋を持って、隣の部屋に行った。真昌のために用意した部屋だ。
 竜星は座卓に置いてあった急須に電気ポットのお湯を注いだ。湯飲みを出し、茶を注ぐ。慣れた手つきだ。
「おばあは?」
「もう寝たよ。早いんだ、毎日」
「そっか」
 竜星が真昌の前に湯飲みを置く。真昌はお茶を飲んだ。冷えた体に熱いお茶が染みる。
「不思議だな」
 真昌が湯飲みを見て微笑む。
「何が?」
 竜星は自分と君枝の分も用意して、座り直した。
「ほら、おまえといる時、出てくるのはさんぴん茶ばっかだったろ。二人で内地にいて、緑茶を飲んでるって、想像したことなかったもんなあ」
「さんぴん茶って、何?」
 君枝が戻ってきた。
 竜星の右隣に座って、湯飲みを手で包む。
 竜星が答えた。
「ジャスミン茶のことです。沖縄じゃ、普段飲んでいるお茶がジャスミン茶なんです」
「大きいペットボトルもありますよ」
 真昌が笑う。
「すごいね。一度、行ってみたいなあ、沖縄」
「娘さんもいることだし、いつでも来てください。俺が案内させてもらいますから」
 真昌が言った。
「ありがとう。必ず、行くわ」
 君枝は微笑んだ。
「ところで、少年課の人は何の話だったんだ?」
 竜星が訊く。君枝が立ち上がろうとした。
「あ、鎌田さんもちょっと聞いてくれますか?」
 真昌が呼び止めた。
「私が聞いてもいい話なの?」
「知っておいてもらった方がよさそうなので」
 真昌が言うと、君枝は座り直した。
 真昌は咳ばらいをし、君枝を見つめた。
「まず、伸司君の放火の件については黙っておきました」
 そう言うと、君枝が安堵の表情を覗かせた。
「ただ、闇バイトの募集に応募した件は話しました。どうしても、メッセージアプリの話をしなければならなかったもので」
「伸司君がそのことで事情を訊かれることはあるのかしら......」
「明日、吉岡の件で話をしなければなりません。その時に訊かれるかもしれませんね。一応、俺も同席するので伸司君に嫌疑が向かないよう運びたいとは思っていますが、伸司君の口から放火未遂の事実が出た場合は、お二人にも話していただくことになるかもしれません」
 そう言い、竜星にも顔を向ける。
「その時は正直にあったことを話すよ。その方がいい」
「そうだな。鎌田さんも、そこは承知しておいてください」
 真昌の言葉に、君枝はうなずくしかなかった。
「というのもですね。備中高梁署の方でも、伸司君が使っていた通信アプリの存在を把握していまして、県警本部のサイバー班と連携しながら調べているようなんです」
「スメルトのことか?」
 竜星に訊かれ、真昌がうなずく。
「ここ最近、岡山県内で起こった窃盗、強盗、放火など複数の事案で、スメルトの存在が確認されているらしい」
「スメルトというのは?」
 君枝が訊いた。
「先日お話しした、伸司君が闇バイトに応募する際使っていた通信アプリです。他に違法薬物売買などでも使われているものなんですが、これがなかなか厄介で、警察でもその正体をつかむのに苦労しているんです」
「そうなの......。便利になりすぎるのも困ったものね」
「いや、ほんとに。どんどん新たな手口が出てきて、俺らもついていくのが大変です」
 真昌はため息をつく。
「まあでも、最終的に犯罪に手を染めるのは生身の人間なので、俺らはそれを追うだけです」
 真昌が続けると、君枝は微笑みうなずいた。
「県警のスメルトの解析はどこまで進んでいるんだ?」
 竜星が訊ねる。
「警視庁と同じぐらいだな。テレグラムのオープンソースを使っているというところまではわかっているが、発信元がわかっていない。ただ、県警から益尾さんに連絡を入れたら、伸司君が使っていたスメルトは、どうも国内向けに調整されたものらしいということがわかってきたみたいだ」
「国内で発信しているということか?」
「可能性もある」
 真昌が言う。
「ずいぶん大胆だな。海外のサーバーを経由していないなら、いずれたどり着かれるだろうに」
「そこなんだけどさ。益尾さんの見立てなんだが、国内で短期的に使用するためにオープンソースを改ざんして使っている者がいるんじゃないかって話なんだよ」
 真昌が聞いたことを伝える。
「目的ごとに別々のプログラムが作られているのか」
「伸司君のスメルトと他の通信で使われているスメルトのプログラムが若干違うそうなんだ。俺は詳しくねえから、そのあたりはよくわからないんだけどさー。ほら、伸司君が言ってただろ。吉岡が〝ルートがある〟と話していたって。益尾さんはそこに注目してる」
「吉岡君か......」
 君枝がため息をついた。
「知ってるんですか?」
 竜星が君枝に顔を向けた。
「吉岡君も私の教え子。彼の家も複雑でね。なんとかしてあげたかったけど、裏の道に堕(お)ちていくのを止められなかった」
 そう話し、またため息をついた。真昌が続けた。
「吉岡の父親は、ヤツが三歳の時に出て行ったそうだ。その後、母親は何人もの男と付き合って、そのたびに吉岡は放置されていたんだと。小学生の頃、母親が三カ月も帰ってこなかったこともあると話してた」
「その頃から、吉岡君は子供たちを集めて悪さをするようになったのよ。私たちも児童福祉課と協力して、彼を施設に入れて保護しようとしたり、母親に何度も会って話をしたりしたんだけどね。今みたいに強制的に親から引き離して保護できる時代でもなかったし、都会と違って、強引な真似をすると、吉岡君たちがこの街で生きづらくなってしまう。でも、あの頃、私も含めた周りの大人がもっと深く関わってあげていたら、少しは違ったのかしらと......」
「君枝さんたちはできることをしたんでしょう? そこから先は吉岡と親の問題です」
 竜星が言う。真昌も強くうなずいた。
「そうそう。周りができることなんて限られてます。俺も竜星も、あまり恵まれた家庭環境じゃなかったけど、周りの大人の声は届いてました。一方で、やっぱりそうした大人たちの声が届かなかったヤツもいる。こればっかは、そいつの性質によるとしか言えないと思いますよ」
「そうね......」
 君枝は力ない笑みを作った。
「鎌田さん。ついでと言っちゃなんですけど、吉岡とつるんでいた......もとい、いつも行動を共にしていたヤツの名前とかわかりませんか?」
 真昌が訊いた。
 君枝は少し考えて、真昌を見やった。
「山形君、野代(のしろ)君、結城(ゆうき)君......。小学生の頃から一緒にいた子はそんなところかしら。みんな、吉岡君よりは一つ下で、伸司君の同級生。私がここを出た後の吉岡君の交友関係はわからないわ」
「ありがとうございます」
「調べるの?」
「吉岡の関係者が、スメルトについて何か知っている可能性もあるので、少年課の難波さんと一緒に少しだけ調べてみます」
「そう......」
 君枝が浮かない顔をする。
 話している最中に、真昌のスマホが鳴った。画面を見る。
「ちょっと失礼します」
 真昌はスッと立ち上がると、隣の部屋で電話に出た。
「もしもし、安里です──」
 真昌を見ながら、竜星が君枝に話しかける。
「君枝さん。この際、伸司君の因縁を取り払ってあげましょう。ああ見えても、真昌は優秀な警察官ですから」
 君枝に顔を向ける。
 君枝は静かに微笑み、小さくうなずいた。
「えっ! 吉岡が!」
 突然、大声が響き、君枝と竜星が真昌に顔を向けた。
「わかりました。すぐ向かいます!」
 通話を切ると、竜星を見た。
「上流で吉岡の遺体が上がった」
 その言葉に竜星と君枝の顔が強ばる。
「俺は署に行ってくる。竜星、伸司君のところに行け。家に入ることはないが、アパートの周りを見張っててくれ」
「何があったの?」
 君枝が腰を浮かせる。
「吉岡の水死体が発見されました。事故か事件かわからないので、念のため、竜星に伸司君の警護を頼みました。こちらに迷惑がかかることはないと思いますが、俺から連絡があるまで、誰が来ても出ないでください」
 真昌の言いつけに、君枝が強く首を縦に振った。
 竜星が立ち上がる。
「気をつけて、二人とも」
 二人は君枝にうなずいて見せ、家を飛び出た。

     5

 岡本は遅くに自宅へ戻った。
「おかえりなさい」
 妻の景子(けいこ)が迎える。
「起きてたのか」
「和則(かずのり)がまだ勉強してたから、お夜食でもと思って。あなた、何か食べます?」
「いや、いい」
 岡本は靴を脱いで上がった。少しふらつき、壁に手をつく。
 景子が岡本を支えるように手を伸ばした。
「大丈夫? このところ、お疲れ気味のようだけど」
「ちょっと飲みすぎた。もう少し仕事をするから」
 岡本は笑顔を作り、気だるそうに廊下を歩いた。
 一人息子の和則の部屋の前を過ぎ、隣の書斎に入る。上着を脱いでソファーに投げ、ネクタイを緩めて、ワイシャツの第一ボタンを外す。
 椅子に腰を下ろすと、体が沈んでしまいそうな疲労感がずしりとのしかかった。
 ドアがノックされ、景子が白湯(さゆ)の入ったコップを持って入ってきた。机に置く。
「ありがとう」
 岡本は温(ぬる)めの白湯を飲んだ。胸元から腹にスッと温かさが落ちる。ふっとひと息つくと少しだけ気分も落ち着いた。
「あなた、お疲れのところ申し訳ないんだけど、和則のことで少し相談が」
「どうした?」
「今日、三者面談があったんだけど、今のままの成績じゃ、希望する学部への進学は難しいと言われたの」
「そんなに悪いのか」
 岡本は景子を見上げた。
「正直、いいとは言えないかな。全科目ちょっとずつ下がってる」
 景子は胸下で腕を抱き、ため息をついた。
 和則は高校二年生。名門私立大学付属の中高一貫校に入学していた。そのまま同大学の政治経済学部に進学させ、ゆくゆくは自分の地盤を継がせるつもりなのだが......。
 和則は正直、出来のいい子ではなかった。
 中学受験も本来なら落ちているはずの点数だったが、岡本は人脈を使い、なんとかねじ込んだ。
 入学後も毎年ギリギリの成績で進級し、高校へ上がる時も岡本はひそかに手を回していた。
 そういう有様なので、付属校の生徒とはいえ、希望の学部に入るのが難しいことは理解している。
 ただ、なるべく希望通りの大学と学部に入れたい。
 世の中、〝脱学歴〟のようなことを吹聴する者は多いが、現実は違う。末席でも、それなりの大学に進学し、それなりの学部に入れれば、将来につながる人脈ができる。
 そうして得た人脈は長い人生を歩む時、大きな武器となる。
 これは岡本のコンプレックスでもある。
 岡本の家は貧しかった。また、岡本自身、それほど頭がよかったわけでもない。しかし、努力を重ねて国立大学を卒業し、働きながら政党の勉強会に参加して、ようやく政治家としての道を歩み始めた。
 自分の力で掴み取った夢に闘志を燃やしていたが、実際、政党に入ってみると、やはり学閥は存在し、何かと袖にされることも多かった。
 一流の学歴を持つ同僚議員は党内での地位もトントンと上がっていき、経済界と結びつくのも容易だった。
 岡本は現実に打ちのめされそうになりながらも、有望若手政治家に張り付き、ベテラン議員に取り入り、メディア露出も増やし、次期リーダーと呼ばれるまでに上り詰めた。
 しかしまだ、盤石ではない。ここからさらに上へゆくためには、もう一勝負して、勝たなければならない。
 自分の立場を揺るぎないものとして、そのすべてを一人息子である和則に遺してやりたい。
 だから和則にも、自分が血の滲むような思いで築いた財産を最大限に活用できるよう、努力してもらいたい。
「政経が難しいなら、法学部でもいいが」
 岡本が言う。
「法学部も難しいかも。このままだと、文学部すら危ないわ」
 景子が言う。
 景子は岡本と違い、良家の出だ。小学生の頃から名門私立大学の付属校に通い、そのままエスカレーターで大学を卒業し、CAとして働いていた。
 そのわりには庶民的なところもあり、女性として、妻として、申し分ない。
 ただ、自分自身が優秀だったからか、和則がなぜ勉強ができないのか、理解できないところもあるようだ。
 岡本は、和則が伸び悩んでいる理由は薄々感じている。
 本人にやる気がないのだ。
 口には出さないが、政治家にはなりたくないのだろう。といって、将来したいこともないようで、ただただ流されるだけ。
 そんな自分に苛立つ気持ちもあるのだと思う。岡本自身にもそういう時期はあった。
 ただ、岡本の場合は、何もせずにいられる場所がなかったせいだ。働いて自立しなければ、明日がなかった。
 和則にはそれもない。大学さえ出れば、景子の実家のコネをたどってそこそこの企業に就職できるし、働かずに実家にいても経済的には問題ない。
 情けなく思うが、今は自分にとっても大事な時期。息子にかまっている暇はない。
「でも、勉強はしているんだな?」
「ええ。毎晩、学校の宿題と塾の課題だけはしっかりとやってるみたい」
「そうか。では少し見守ってやろう」
「そんなに悠長なことを言っていて大丈夫かしら......」
「自分で思い悩む時間も必要だよ。そこから本当に自分のやりたいことが見つかる。和則は今、真剣に自分と向き合っているんだ。こういう時に親が口を出してはいけない。和則を信じて待ってあげよう」
「......そうね」
「景子、風呂には入った?」
「いえ、まだ」
「じゃあ、温まって寝なさい。親が自分たちのリズムで暮らしていないと、和則も気にしてしまうだろうから。僕も、君の後に入るよ」
「わかった。そうするわ。あなた、やっぱり思いやりのある人ね。一緒になったのがあなたで本当によかった」
 景子は微笑み、書斎を出た。
 岡本は笑みを返した。ドアが閉まる。途端に、顔から笑みが消えた。
 景子には常に優しく接するようにしている。もちろん、愛情はある。だが、それ以上に、政治家を続けていくには、後ろ盾となる妻の縁戚が必要だ。
 景子の父は大手商社の社長を務めた人物で、政財界に顔が利く。義父の機嫌を損ねれば、たちまち岡本の議員としての立ち位置は危うくなる。
 なので、何があろうと、景子が話したい時は少しでも聞くことにしていて、返す言葉も努めて優しくしている。
 正直、家でも気をつかうのは疲れるが、これも持たざる者の処世術と割り切っている。
 一人になると、園部から聞かされた話が思い出された。
 まさか、放火とは......。
 頭を掻きむしる。
 園部から聞かされたのは、ごねる地主の家には火を点けて燃やしてしまい、黙らせるという強引な手法だった。
 本当にそんなことをしているのかと思い、調べてみると、園部が手に入れた再開発地区のいくつかで放火事案が確認された。
 中には一度に五軒の家が燃やされ、近隣住宅にも飛び火して大事になった案件もある。
 その後、園部やその関係団体がそれらの土地を購入していることから、当局が関連を調べているが、はっきりとした証拠は上がっていないようだった。
 園部は放火の件を岡本に語ったが、どういう手法を使っているのかはついぞ教えてくれなかった。
 逆に、聞かされなくてよかったとも思っている。
 手口まで知ってしまえば、共謀罪は免れない。警察に告発することもできるが、園部が単独で行なっているのかどうかも現時点では判断できない。
 もし、なんらかの強力なバックがついているなら、政治生命を絶たれるのはもちろん、告発した時点で自分や家族の身が危うくなる。
 民家を平気で燃やす連中だ。殺されてもおかしくない。
 園部は、岡本のやり方で土地を取得し、それを自分に渡してくれればいいと言った。
 それだけなら共闘しただけと言い張れるが、もう一つ付け加えた。
 困ったことがあれば、いつでもおっしゃってください。私の方で手を打ちますので......と。
 つまり、交渉で落とせない場所は、園部の強硬策を用いることも可能だということ。
 そして、一度これを使ってしまえば、今度こそ二度と元には戻れないという意味でもある。
 政治家として伸(の)していくためには、時に手を汚すことも必要だ。魑魅魍魎(ちみもうりょう)が跋扈(ばっこ)する世界。きれいごとだけでは到底渡れない。
 だが、あきらかな犯罪に手を染めてしまうのはまた別の話だ。
 今ならまだ手を打てる。しかし、どう回避すれば、すべてが丸く収まるのか、まったく見えてこない。
 岡本はスマホを取った。秘書の早崎の番号を表示する。
 早崎は家まで送ってくれた。しかし、その道中、園部と交わした会話の内容は一切話していなかった。
 運転手がいたこともあるが、誰にどこまで漏らしていい話なのかも判断がつかなかった。
 とはいえ、独りで抱えるにはあまりに重い話だった。
 画面を見つめたまま、しばし逡巡(しゅんじゅん)したが、岡本はコールボタンを押した。
 呼び出し音が鳴る。二回で早崎が出た。
 ──先生、どうかしましたか?
「早崎君。園部先生のバックにいる議員、団体、個人を洗い出してくれないか?」
 ──わかりました。ですが、園部先生と、何かあったのですか?
「それはまた明日話す。ともかく、データだけでも構わないので、明日の正午くらいまでに集めるだけ集めてくれ。落ち合う場所はまた連絡をする」
 ──議員会館じゃないんですか?
「懸念のない場所で話したいんでね。来るときは公用車や事務所の車は使わず、電車かタクシーで来てほしい」
 ──わかりました。連絡をお待ちしております。
「頼む」
 岡本は電話を切って、大きく息をついた。

     6

 真昌は遺体が発見された川岸に来ていた。隣には少年課の難波がいる。他に、捜査一課の刑事や鑑識官、制服警官が周りにいて、サーチライトで照らされた現場で忙(せわ)しなく動いていた。
 真昌は難波と共に吉岡の遺体の横にいた。しゃがんで、吉岡の遺体の様子をつぶさに見回す。
 遺体はビニールシートの上にうつぶせで寝かされていた。
「鑑識の話では、死因は溺死。争ったような跡はなく、川から上がって逃走している時に足を滑らせて頭を打ち、うつぶせになったまま朦朧(もうろう)として起き上がれず、水を飲んでしまったのだろうとの見立てです」
 難波は額の傷を指しながら言った。
「これがなければ、死なずに済んだんですかね」
 真昌は自分が嵌(は)めた手錠を見つめた。
「結果論です。安里さんの行動は警察官として正しいものですから、そこは気になさらずに」
 難波が慰める。
「ありがとうございます」
 礼を言うが、真昌は気が沈み、うなだれた。
 その時、めくれたズボンから覗いていた足首が目に飛び込んできた。一文字の赤黒い痣(あざ)がくるぶしあたりに付いている。
「これ、なんですかね?」
 真昌が右足首を指し示す。
「生活反応があるな。打ち身か何かですか」
 難波も覗き込んだ。
 真昌は左足首も見てみた。同じような痣がある。
「こっちにもありますね。何かに挟まれたような痕(あと)だ......」
 真昌は痣の厚みや凹(へこ)みを見て、首をひねる。
「鑑識に調べさせましょう」
 難波は言い、近くにいた鑑識官に声をかけた。用件を伝えると、痣を写真に収め、調べ始めた。
 真昌は一礼して立ち上がった。
「吉岡が落ちたと思われる場所はわかっているんですか?」
「ええ。行ってみますか?」
「お願いします」
 難波はいったん橋の上に上がった。真昌も続く。難波が上流の方へ歩いていく。真昌は暗い川べりを見やった。
「ここを泳いで上流に行ったんですかね?」
「いえ、たぶん対岸にたどり着いて、そこから歩いて上流側に逃げたんでしょう」
「川べりは浅いんですか?」
「狭いところもありますが、雨が少なかったので、岸が露出しているところも多かったために、歩いて行けたんでしょう。といっても、川べりがなくなって急に深くなるところもあるので、川辺を歩くのは危険ですがね」
 話しながら歩いていると、橋のあたりにサーチライトで照らされている場所があった。
 ガードレール越しに下を覗く。刑事や鑑識官が懐中電灯を照らしながら、現場をつぶさに確認していた。
 橋の近くに梯子(はしご)がかかっていた。周りには規制線が張られ、梯子の前に制服警官が立っている。警官は難波を見て敬礼をした。
 難波は敬礼を返し、ガードレールを跨(また)いだ。
「気を付けてください」
 そう声をかけ、先に降りていく。真昌も慎重に梯子を下りた。
 土が露出した箇所はあまりなく、水が堤防付近まで迫っていた。
 足元を濡らしつつ、捜査一課の刑事に近づく。真昌は会釈した。
「溺れたところはどこだ?」
 難波が声をかける。
「そこらあたりですね」
 鑑識官がしゃがんでいるところを目で指した。
「靴底が滑って苔(こけ)が削れた場所がありました。おそらくそこで足を取られて頭を打ったと思われます」
 真昌は刑事が言った方を見た。
 浅瀬だ。深くて流れの速いところまでは五十メートルほどある。
「ここで倒れて、川の中ほどまで流されるということはあるんですか?」
 疑問を口にする。
「川の流れは一定じゃないので、巻いた渦が漂流物を持っていくこともあります」
 刑事が言った。
「なるほど......」
 真昌は現場をきょろきょろと見回した。
「少し歩いてみてもいいですか?」
「気を付けてくださいね」
 難波がうなずいた。
 真昌はさらに上流の方へ歩いてみた。サーチライトの明かりが遠ざかるが、足元はよく見える。
 護岸壁を見上げる。高い。手錠をされたままで上がれるような場所はない。
「ここからどう逃げるつもりだったんだろうか......」
 疑問を口にする。
 歩いていくと、きれいにコンクリートで均(なら)された壁が途切れ、石垣積みの壁が現われた。手足をかけられる箇所はあるが、やはり両手を後ろで拘束されていては上がることは難しい。
 周囲を見回していると、ふと石垣の苔が剥げている箇所に気づいた。顔を近づけてみる。
「これは......」
 靴底を引っかけた跡だ。しかも真新しい。
「難波さん!」
 真昌は大きな声で呼んだ。
 難波が小走りで真昌の下に来た。
「どうしました?」
「これを見てください」
 真昌が指を差した。覗き込んだ難波の眼差しが厳しくなる。
「これ、新しい靴跡ですよね?」
「そのようですな」
 難波は上体を起こすと、捜査一課の刑事と鑑識官を呼んだ。
 二人が走ってくる。
「これを調べてくれ」
 難波が指を差したところに、鑑識官が懐中電灯の明かりを当てた。
 はっきりと靴底の跡が見えた。鑑識官が跡をたどるように明かりを上へと向ける。新しい足跡がジグザグに上へと伸びていた。
 刑事が他の者にも声をかけて呼び寄せる。
 真昌と難波は少し離れて、捜査の様子を見つめた。
「よく見つけましたね」
 難波は状況を見ながら言った。
「偶然です。吉岡がここからどう逃げようとしていたのかが気になりまして、どこか壁が低くなっているところはないかと探していたんです」
「なるほど。我々は地元の人間だから、方谷橋より上流に逃げるわけはないと決めつけてしまっていました。そっちには道路に上がれる場所がありませんから。いかんですな、先入観は」
「俺も沖縄ならそうなっていたと思います」
 真昌が苦笑する。
「しかし、これでわからなくなりましたな。吉岡の死が事故なのか、事件なのか」
 難波はつぶやいた。
「難波さん。他県の捜査に踏み込むようですが、問題なければ、吉岡の背景を教えていただけませんか?」
 真昌が難波を見つめる。
 難波は少し考えたが、首肯した。
 二人は捜査を他の警察官に任せ、現場を離れた。

     7

 山形は自宅アパートに戻ると、リュックに着替えや通帳、ノートパソコンなどを急いで詰め込んだ。
 財布の中身を見る。十万円入っている。これでしばらくはしのげるだろう。
 山形は立ち上がってリュックを背負った。
 と、ジャンパーのポケットに入れていたスマホが鳴った。
 画面を見る。メッセージが届いていた。
〝アパートニトドマレ〟
 山形の顔が強ばった。
 スマホをカメラに切り替えて、室内のあちこちに向けてみた。さらに顔が引きつる。
 天井の隅、クーラーの噴き出し口の中、テレビの枠の上部、冷蔵庫の端、飾っていたフィギュアの後ろ──。
 至るところが赤く光る。
「いつの間に......」
 山形はその場に座り込んだ。
 赤く光る場所からは、赤外線が出ている。そこにカメラが仕込まれている証拠だ。すべてがすべて盗撮機器から発せられているものというわけではないだろうが、少なくともどれかは監視用の盗撮カメラに間違いない。
 そう確信できるのは、山形自身も仲間の部屋に侵入して仕掛けたことがあるからだ。
 スメルトから来る指令は絶対だ。その指令に従い、複数の仲間の家に忍び込み、盗撮カメラを設置してきた。
 仕掛けられたのは、ここ数時間のうち。なぜなら、山形は警戒して、毎日帰宅するたびに部屋を調べていたからだ。
 リュックを下ろし、カラーボックスの奥に隠していた小さなスマホサイズの盗聴電波の検出器を出した。スイッチを入れてスタートボタンを押す。
 画面のデジタルカウンターが目まぐるしく変わる。そして、ぴたっと止まり、ピッピッと音を立てた。盗聴器を発見した合図だ。
 あー、と声を出してみた。部屋に響く声がスピーカーから聞こえる。
 山形はスイッチを切り、検出器を床に放った。
「おえんのぉ......誰なん」
 岡山弁でつぶやく。
 山形は、この街では吉岡に次ぐナンバー2として、吉岡が率いるチームを仕切っていた。
 吉岡がいなくなった今、逆らう者はいないはず。
 だが、吉岡を探している間に何者かが侵入して、カメラと盗聴器を仕掛けた。
 つまり、仲間の誰かが指令によって動いているか、まったく知らない誰かが山形を見張っているかだ。
 山形はこめかみを這(は)う蛇の刺青を指で撫(な)でた。
 スメルトで命令してくる何者かは、自らの組織を〝クチナワ〟と名乗っていた。
 何のことかと訊いたら、蛇のことだと言う。組織に忠誠を誓えば、幹部待遇で迎えると言ってきた。
 あまりに得体の知れない話なので初めは無視していたが、二年前、地元の暴力団員とちょっとしたトラブルを起こしてしまった。
 困っているところに、まるで見ていたかのようなメッセージが届いた。
〝オコマリノヨウナラ、ワレワレガオテツダイヲシマスヨ〟
 クチナワからのメッセージはなぜかいつもカタカナだった。
〝タダシ、ワレワレニチュウセイヲチカウイミデ、メダツトコロニヘビノタトゥーヲイレルコト〟
 半信半疑だったが、背に腹は代えられない。
 山形は左の目尻から耳にかけてのこめかみあたりに、くねる蛇の刺青を入れた。シールでもよかったが、ハクを付けたい思いもあり、思い切って彫ってもらった。
 すると、それから二日後、トラブルになっていた暴力団員が忽然(こつぜん)と姿を消し、 組からの脅しもぴたりと止まった。
 その時、何が起こったのか、山形には今もわからない。だが、クチナワは約束通り、トラブルを処理してくれた。
 しかも、たった二日でだ。
 背筋が冷たくなった。ヤクザをも簡単に排除できる力を持つ組織に目を付けられた。蛇の刺青を入れたことで、クチナワに忠誠を誓うことにもなってしまった。
 これから何をさせられるのか......と思うと、気が気でなかった。
 だが、以後、クチナワからの指令はなかった。それどころか、クチナワは山形の力になってくれた。
 蛇の刺青を入れた後、それを見て馬鹿にする者や因縁をつけてきた者が少なからずいた。
 山形はふっかけられた喧嘩を買ったこともあったが、全勝したわけではなく、囲まれてこっぴどくやられたこともあった。
 そこでもクチナワが動いてくれた。
 知らないところで、山形を傷つけた連中に報復していたのだ。
 ある時、山形に因縁をつけてくる者たちがいなくなったことに気づいた。逆に、山形の部下になりたいという若者が近づいてくるようになった。
 どうしたことか聞いてみると、山形に因縁をつけた者が次々とやられ、巷ではあいつに手を出すなという噂が出回っているという。
 蛇の刺青を入れたことで、街における山形の立ち位置は大きく変わった。
 一年前、久しぶりにクチナワからの指令が届いた。
 誰かを頭に据えて、半グレ組織を作れという。その中から使える人間を選んで、自分の配下に置いて監視、管理しろという命令だった。
 山形は吉岡に声をかけて持ち上げて丸め込み、組織を作った。吉岡はお山の大将としてふんぞり返っていたが、その裏で、使える部下を選定し、取りまとめた。
 そして、半年前、本格的な指令が届いた。
 放火の指令だ。
 スメルトで闇バイトを募集し、高梁駅の南側一帯の空き家や選定地の家を焼き払うという。
 山形は蒼ざめた。昔馴染みが暮らす街を焼けという指令。こんなことが表沙汰になれば、街ではおろか、日本中どこにも居場所がなくなる。
 正直、やりたくはなかった。
 だが、クチナワの命令は絶対。実行しなければ、自分がやられる恐れがある。
 クチナワのやり方は狡猾(こうかつ)だった。
 まず、山形の配下にいる部下たちのアドレスに闇バイト募集のメールを流した。
 それをクリックすると、ウイルスに感染し、部下たちが連絡先として保存しているアドレスの端末に、闇バイト募集の広告が流れるよう仕組んでいた。
 これであれば、やみくもに募集をかけることなく、ターゲット地周辺の者を集めることができる。
 当然、部下たちに送られたメールは見た瞬間に痕跡もなく消えた。
 そうしているうちに、一人、また一人と、金欲しさに放火に志願する者たちが集い始めた。
 やがて山形配下でない者の中にも放火に手を染める者が現れ、吉岡はその仲間からメールの件を聞いた。
 さすがの吉岡もビビって、責任を逃れるため、警察に仲間を売ろうとしていた。
 いち早くそれを察知した山形はすぐにクチナワへ緊急事態の報告をした。
 すると、ポストにキャッシュカードが届けられた。
 クチナワから、これで報酬を払えとの指令と暗証番号が送られてきたのだ。
 山形はATMに走り、キャッシュカードが使えるかを確認した。カードは有効で、表示された残高に驚いた。
 口座には一億円が入金されていた。
 山形はそこから百万円を引き出し、放火に関わった仲間に五十万、組織をまとめる吉岡に五十万円を渡した。
 吉岡は山形がどこから金を持ってきたのか訝(いぶか)ったが、山形は詳しくは教えられないが〝ルート〟を持っていると言い、吉岡のポケットに金をねじ込んだ。
 仲間内から巷(ちまた)に、放火バイトで金が入るという噂が広まり、ぽつりぽつりと放火事件が街で起こり始めた。
 仲間が手を出した時は、その都度、吉岡に金を渡した。
 三度目に金を渡した頃から、吉岡は何も言わなくなった。
 山形は吉岡を監視するよう、クチナワから命じられていた。共に行動している時はもちろん、離れている時も警戒しろとのことだった。
 今回、吉岡の件をつかんだのも、そのお陰だった。
 吉岡の身柄が警察に持っていかれるのはまずい。先に捜し出して、隠すしかない。
 部下に捜させている途中、クチナワに現状報告をした。
 そこに吉岡からの連絡が入った。すぐさま、クチナワの意向を仰いだ。
 クチナワの返事は明瞭だった。
〝クチフウジ〟
 殺せということだ。
 山形は指示に従い、一線を超えた──。
〝どうすればいいんだ?〟
 山形はメッセージを返した。
 すぐに返事がきた。
〝イママデドオリ。ヨシオカノコトハシラナイデトオセ〟
〝それは難しい。サツもバカじゃない〟
〝ツッパネロ。ニゲダシタラ、オマエモオナジメニアウ。ツギノシレイヲマテ〟
「ちいと待て! おい!」
 思わず、スマホを睨んで怒鳴る。
 その声をマイクが拾い、文字変換して、メッセージを送信した。
 が、クチナワからは返ってこず、通信も途絶えた。
「おえりゃあせんが!」
 山形はスマホを壁に投げつけた。ガシャッと音がして画面のガラスが割れ、接合部が開く。
「冗談じゃねえわ。こんなところにおられるか」
 山形はリュックをつかんで部屋を出た。
 アパートの駐車場に停めたバイクのヘルメットを取り、被る。跨いで、セルボタンを押した。キュルルルと音が鳴り、エンジンがかかる。
 山形は三度、アクセルを吹かした。
 通帳にはまだ九千万円は残っている。それで逃げ切ろう。
 クラッチを入れて発進し、花水木(はなみずき)通りを西へ向かい、突き当たりの中間町(ちゅうげんまち)交差点を右折した。
 北へ向かって速度を上げる。とにかく逃げ切ることしか考えなかった。
 しかし──。
 山形のバイクの後ろには、黒いSUVが迫っていた。

もぐら伝 ~蛇~

Synopsisあらすじ

各地で相次ぐ放火事件。

伝説のトラブルシューター「もぐら」こと影野竜司の血を引く竜星は、

違法売春組織摘発の過程で法を逸し、懲役三年執行猶予五年の判決を受けた。

事件で知り合った鎌田希美の実家に身を寄せた竜星は、

そこで奇妙な共通点をもつ放火事件のひとつに出くわす――。

Profile著者紹介

1964年兵庫県生まれ。文芸誌編集などを経て、小説家へ転向。「もぐら」シリーズ(小社刊)は130万部を突破した。他の著書に「リンクス」シリーズ、「D1」シリーズ、「ACT」シリーズ、「警視庁公安0課 カミカゼ」シリーズ、『紅い塔』『桜虎の道』『SAT‐light 警視庁特殊班』などがある。

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