もぐら伝 ~蛇~第一回
プロローグ
市川保(いちかわたもつ)はフードを深く被り、背を丸め、バックパックのストラップを強く握りしめて歩いていた。
午後十時を回った頃。時折、帰宅する人とすれ違う。その際は少し体をねじり、顔を隠した。
歩いていたのは、池袋本町(いけぶくろほんちょう)の一角だ。近年、この地区にも開発の波が押し寄せているものの、まだまだ昔ながらの家屋が残っている場所も多い。
市川が歩いている付近は、真新しいビルやマンションの合間に古い家が点在する開発途上の区画だった。
空き地はあるが、十分な広さがなく、マンションやビルは建てられない。仕方なく駐車場にしているところも多く、繁華街が近い場所なのに店もなく、物寂し気な空気を醸し出す街になっている。
「なるほどなあ。ほんと、古い家は開発のジャマをしてるなあ」
市川はある人物の話を思い返しながら、時折周囲を見て、一人うなずいていた。
住民も早く引っ越せばいいのにと思う。
日照の問題などもあり、近隣にビルが増えてくると、その合間にある家の主は土地建物を業者に売り渡すことが多い。多少ごねる者も、相場に何割か増せば、渋々でも手放す。
だが、中には頑固な者もいる。住み慣れた街を離れたくない独居老人もいれば、引っ越し先を探すのが面倒、または探せないという人もいる。
高齢者が新しい住まいを探すのは骨の折れる作業だ。
賃貸はほとんどの場合、断わられる。まとまった金が入り、即金でマンションの一室を買える人でも、よほどの余裕がない限り、すんなり契約というわけにはいかない。入居後すぐ死なれても困るからだ。
家を建て替えるにしても、かかる年月を待っていられないし、高層マンションに建て替えて一部の権利を有するという一時期流行った策も、銀行が融資を渋るようになり、難しくなった。
消去法で行くと、持ち家であれば、どんなに古くてもその場に留まっておくのが最善の選択となる。
とはいえ、開発者側としては、地権者が死ぬまで待っているわけにもいかない。再開発は総合的かつ迅速に進めなければ、その有効性を十分に活かせなくなり、無駄なコストがかかることになる。
だから、あの手この手でなんとか土地建物を明け渡してもらえるよう交渉するが、どうあっても首を縦に振らない人がいる。
地上げの全盛期であれば、四六時中周りの敷地で騒いだり、トラックを突っ込ませたりして、強引に接収していたが、今の時代、それもままならない。
しかし、簡単に住民を追い出し、更地にする方法が一つだけある。
火事を起こすことだ。
火が出れば、建物は灰となってなくなり、住民は住むところを失う。焼け跡の瓦礫(がれき)を片づければ、更地ができあがる。
上物(うわもの)がない分、土地代だけで買い取ることができ、コストカットにもなる。
だが、立ち退いてほしい家が燃えるなどという都合のいい話はめったにない。
たまたまそういうことがあっても、それは偶然のたまものでしかない。
経済活動に不確定要素はいらない。それをできるだけ少なくすることが成功のカギだ。
ならば、〝偶然〟を〝必然〟にすればいい──と、市川はこの〝仕事〟を請ける際、説明された。
依頼主の顔はわからない。SNSの音声通信で話したが、ボイスチェンジャーで声を変えられていて、先方が男か女かも判然としなかった。
それでもこの仕事を引き受けたのは、単純に困窮していたからだ。
別に遊び歩いて散財したわけではない。毎日毎日、朝から晩までアルバイトを掛け持ちして働いているのに、稼ぎは日々の生活に溶けていく。
日経平均株価は史上最高値と言って騒いでいるが、投資に回す金などなく、その日その日の食べ物にも窮するありさまだ。
人手不足とやらで、人材の囲い込みが始まっているというニュースもよく耳にする。しかし、アルバイトしか職歴のない五十手前の男を正社員にしてくれる会社などない。
たまに見つけたと思っても、とんでもないブラック企業だったり、募集要項に偽りがあったり。ひたすら、虫のように扱われる。
真面目に働いているのに安い給料で扱(こ)き使われ、日々の暮らしもままならない現状を十数年も続けていれば、誰だって嫌になる。
その時、SNSで見つけたのが、この仕事だった。
「簡単なお仕事で報酬百万円」。まともな仕事でないのは一目瞭然だ。
が、市川のような者にとって、人生を変えるためには、多少でも手を汚して、まとまった金を得るしかない。
自分が悪いわけじゃない。真面目に働く者をこれほどまでに追い込む社会が悪いんだ。
市川は歩きながら、何度も何度もそう自身に言い聞かせていた。
目指している場所が見えてきた。少し立ち止まる。
古い木造の一軒家だ。真新しいビルとマンションの間に挟まれ、街灯の明かりも届いていない。
路面からは少し奥まったところにあるせいか、巨人に挟まれた子供のようだった。
ゆっくりと近づく。玄関ドアは傾いていた。壁がところどころ剥げ、風が通りそうだ。その隙間を絡まる蔦(つた)が埋めている。
人は住んでいないと聞いている。見た感じ、とても人間が生活できそうな建物ではなかった。
市川は周りを見ながら、敷地に入った。ビル壁に身を寄せてしゃがみ、薄暗がりに隠れ、様子をうかがう。
人通りはない。
今しかない。
市川はリュックを下ろした。中から、五リットルのガソリン携行缶を取り出す。足元に置き、大きく息をつく。
蓋に手を伸ばすが、少し躊躇(ちゅうちょ)した。
これを開ければ、二度と今までの暮らしには戻れなくなる。
まだ、このタイミングなら引き返せる。
一軒家に人はいない。両サイドのビルやマンションに飛び火しても、どちらも火災保険に入っているそうなので、実害はない。
街の発展のために、倒壊の危険がある建物を処分するだけ。行政代執行と変わらない。
みんなのためにいいことをするんだ。そのために自分が一肌脱ぐんだ。自分は社会に役立つことをするのだ!
市川は携行缶の蓋を開けた。ガソリン独特の鼻を衝(つ)く臭気が立ち上る。
缶を持って、玄関にガソリンをまく。臭気が広がった。
あとは火を点けるだけ。携行缶を玄関に投げ、オイルライターを取り出した。少し離れて、火の点いたライターを投げ込めば、仕事は終わる。
キャップを開け、フリントホイールに親指をかける。指先まで震えていた。呼吸が荒くなる。早く火を、と思うが、ここまで来て再び決心が揺らぐ。
どうするか迷っているうちに、臭気が体にまとわりつき始めた。もたもたしていると、周囲に気づかれてしまう。
やれ、やるんだ!
心の中で自分を鼓舞した時だった。
いきなり、玄関で音がした。ドアがガタガタと揺れている。そして、開くはずのないドアが開いた。
「誰だ!」
中から伸び切った下着とシャツを着た、痩せ細った小柄な老人が出てきた。
人はいないはずじゃ──。
驚いた市川の指に思わず力が入った。
ヤスリが発火石をこすった。火花が飛び、火が灯る。
瞬間、気化したガソリンに引火した。
丸く膨らんだ炎は、瞬く間に玄関口にいた老人と市川を飲み込んだ。
市川の衣服も火に包まれた。必死に消そうと頭や服を叩くが、全身が燻され、目を開けることすらできない。
無意識にその場から駆け出す。しかし、方向がわからず、玄関に頭から突っ込んだ。そのままうつぶせに倒れ込む。
皮膚が熱い。溶けているのがわかる。神経が燃え尽き、痛みはすぐになくなる。焦げた臭いを鼻の奥に感じたと思ったら、すぐに喉元から食道の奥にまで熱波が入ってきた。とたんに呼吸ができなくなる。
目をこじ開ける。老人の上に折り重なっていた。老人ももう息をしていないようだ。
涙が出てきた。いや、そう感じただけか。
ごめんなさい......ごめんなさい......。
市川は焼けて丸まっていく手で、老人の手を握った。溶けた皮膚が老人の皮膚に張り付く。
ごめんなさ......。
まもなく、建物が焼け落ち、市川と老人は下敷きになった。
Synopsisあらすじ
各地で相次ぐ放火事件。
伝説のトラブルシューター「もぐら」こと影野竜司の血を引く竜星は、
違法売春組織摘発の過程で法を逸し、懲役三年執行猶予五年の判決を受けた。
事件で知り合った鎌田希美の実家に身を寄せた竜星は、
そこで奇妙な共通点をもつ放火事件のひとつに出くわす――。
Profile著者紹介
1964年兵庫県生まれ。文芸誌編集などを経て、小説家へ転向。「もぐら」シリーズ(小社刊)は130万部を突破した。他の著書に「リンクス」シリーズ、「D1」シリーズ、「ACT」シリーズ、「警視庁公安0課 カミカゼ」シリーズ、『紅い塔』『桜虎の道』『SAT‐light 警視庁特殊班』などがある。
Newest issue最新話
- 第一回2025.09.30