もぐら伝 ~蛇~第二回
第1章
1
「竜星(りゅうせい)君、コンテナ出しといてくれる?」
エプロンを付けた女性が言う。
「わかりました」
安達(あだち)竜星は、緑色の煎餅のような塊が入ったボックスコンテナを持ち上げた。
ずっしりとした重みを支える竜星の前腕に筋が立つ。竜星はボックスコンテナを勝手口から店の裏にある屋根付きのスペースに運んだ。
外はとっぷり暮れていた。竜星はコンテナを置いて、店内へ戻った。コンテナはあと四つある。
竜星は岡山県高梁(たかはし)市に来ていた。鎌田希美(かまたのぞみ)の実家に身を置いている。
鎌田希美とはもう五年くらいの付き合いになる。大洗(おおあらい)海岸の海の家でアルバイトをしている時に知り合った。
もう一人、共通の友人で根本里香(ねもとりか)という女の子がいた。里香と希美は海外留学を夢見てバイトに精を出し、金を貯めていた。
しかし、一足先に旅立った里香は、悪徳エージェントに騙(だま)され、現地で身を売らされ、それを苦に自殺した。
激怒した竜星は、悪徳エージェントを次々と潰していった。
その過程で、希美と彼女の母・君枝(きみえ)を巻き込むことにもなってしまった。
竜星は執行猶予判決を受けた後、謝罪をするため、君枝の下を訪れた。
君枝は神戸の団地を引き払い、希美と共に高梁市に戻っていた。
君枝の義母で希美の祖母である鎌田ヨシが二人に戻って来いと声をかけた。
希美は沖縄での暮らしが気に入り、今も竜星の母である安達紗由美(さゆみ)が勤めている<ゆいまーる>で働いている。住まいは、紗由美の紹介で安達家の近くのアパートを借りられた。
君枝は、高梁市では小学校の教師をしていたが、夫である信彦との別居を機に離職、市内からも姿を消した経緯がある。
帰郷を知り、かつて勤めていた学校の校長から復職の打診を受けたが、君枝は断わった。
街にいられなくなったのは、夫の浮気が原因ではあるが、それでも途中で子供たちを投げ出した負い目は拭えなかった。
ただ、先の事件を経て、ヨシを一人にしておくのが心配になり、君枝は高梁市に戻ることにした。
ヨシは高齢の友人が営んでいたフラワーショップを紹介し、君枝は手伝いをすることになった。が、ほどなくして、ヨシの友人は膝を壊して店に立てなくなり、君枝が切り盛りすることになった。
竜星が君枝への謝罪のため、希美と高梁の家を訪れたのは、君枝が店を一人で回すことになって一カ月が経った八月下旬頃だった。
高梁市は芍薬(しゃくやく)の生産で有名な土地だが、普段は地元の人がちょこちょこ訪れる程度。
ただ、墓参りや祭りの増える七月から八月、また芍薬の株分け時期である九月から十月にかけてはそこそこ忙しくなる。
一年のうちの半分以上の稼ぎは、そうしたイベント時期に集中していた。
その話を聞いて、竜星は一人、高梁に残って、君枝を手伝うことにした。
花屋の仕事は知らなかった。切り花を売ったり、枝葉を掃除したりする程度にしか考えていなかったが、実務に就いてみると、思いのほか、重労働だった。
バケツに入れた水を何度も運ばなければならないし、肥料や土の袋は竜星をもってしても重い。中でも、オアシスと呼ばれる吸水スポンジの残骸を処理するのは一苦労だ。
オアシスはフェノール樹脂を主原料とした資材で、たっぷりと水を含ませた上で花器にセットして使う。剣山の代わりと考えるとわかりやすい。
加工のしやすさや価格の安さから、フラワーアレンジメントには欠かせない人気の資材となっているが、花屋ではこのオアシスの残骸が大量に出る。
オアシスの処分で最も厄介なのは、スポンジに含んだ水分を出し切らなければならない点だ。
水を含んだままのスポンジを可燃ごみで出すと、大量の水分が焼却炉を冷やしてしまう。
一般家庭で使われる程度の小さなものなら、固く絞って、二週間ほど天日干しして乾かせば問題なく捨てられる。
だが花屋では、生花を長持ちさせるためにも使われるため、切り花を差したバケツの数だけオアシスの残骸が出る。
専用の圧縮機を使って水を絞り出しても、一人でやれば二時間、三時間とかかり、それをボックスコンテナに入れて運び出す作業は、なかなか過酷な肉体労働だった。
君枝は、竜星が手伝うようになるまで、その作業を一人で行なっていたのだ。
だからか、少々腰を痛め、今も辛そうだった。
竜星は二箱、三箱と、廃棄されたオアシスを入れたコンテナを運び出し、屋根付きスペースに並べて置いた。
ここでさらに一週間ほど乾燥させ、廃棄物処理業者に引き取ってもらう。
最後の一箱を運び出し、店内に戻る。中では君枝が、余った切り花や切った枝葉を集めてゴミ袋に入れていた。
竜星は駆け寄って、袋の口を持って広げた。
「ありがとう」
君枝はほうきとちり取りで小さなゴミまで綺麗に集め、袋に入れた。すべて集めたことを確認し、竜星は袋を閉じた。
「ふう、終わった」
君枝は腰に手を当て、伸びをした。
「これはいつものポリバケツでいいんですよね」
「うん、お願い。私は戸締りするから、そのまま表で待ってて」
「わかりました」
竜星はゴミ袋を三つつかんで、勝手口へ向かった。枝葉のゴミもまた重い。前腕の血管が浮き出る。
袋を置いてドアを開け、一つずつ外へ出す。そして、ドアを閉めてまた三袋を持ち、可燃物用のポリ容器のある屋根付きスペースへ行こうとした。
その時、カチッカチッという音が聞こえた。薄暗がりに目を凝らす。
人の頭がボックスコンテナの脇から見え隠れしている。
竜星はゴミ袋を置いて、そろそろと屋根付きスペースに近づいた。
オレンジ色の明かりが灯った。男の顔を照らし出す。若げな男だった。前髪は目の下まで伸びている。
男はライターを手にしていた。炎が灯っている。それをコンテナ内のオアシスの残骸に近づけた。
炎が触れると、オアシスが煙を立ち昇らせた。しかし、火は点(つ)かない。
男は焦り、必死に着火しようとしていた。
竜星は不意に声をかけた。
「それは燃えないよ」
男はびくっとして、身を固めた。
「ポリウレタン製のオアシスなら火は点くんだけど、残念ながらそれはフェノール樹脂製。断熱材にも使われるものだから、百円ライター程度の火力じゃ、どうにもならない」
竜星が言うと、男はいきなり立ち上がった。
ライターを投げつけ、背を向け、駆け出す。
竜星はライターをひょいっと避け、ボックスコンテナを飛び越えた。すぐさま、男に追いつき、襟首をつかむ。
男はいきなり勢いを止められ、後ろに仰(の)け反った。両脚が跳ね上がり、尻から地面に落ちる。
男は顔をしかめつつ、ポケットに右手を入れた。何かを握り、取り出そうとした。右手を引き抜く。
凶器の存在を察知した竜星は右前腕を踏みつけた。カランと音が鳴る。手からこぼれたのは案の定十徳ナイフだった。
竜星は爪先でナイフを蹴った。回転しながら地面を這い、壁に当たる。
「そんなもの出しても、君は僕にかなわないよ」
余裕の笑みを浮かべ、襟首をねじって絞った。男は喉を押さえて苦しそうに呻(うめ)き、上半身を反転させた。
竜星は下を向いた男の襟首を引っ張り、体が伸びたところを見計らって、背中を踏みつけた。
男は潰れ、地面に顔を打ちつけた。竜星は背中に右膝を乗せ、もう一度、襟を締め上げた。
「放火未遂に銃刀法違反。誰だか知らないけど、一緒に警察に行ってもらうよ」
襟を緩める。
と、男が声を上げた。
「ごめんなさい。ごめんなさい!」
少し涙声だ。
「ダメだよ。自分のしたことには責任を持たないと」
右手首をつかんで、腕を背後にねじ上げる。
「どうしたの!」
君枝が裏手に駆け込んできた。
「こいつがオアシスに火を点けようとしていたんです」
「えっ!」
君枝の顔が強ばる。
「おまけにナイフまで持ってた。とんでもない輩(やから)ですよ。ほら、立って」
膝を下ろしてしゃがみ、右腕をねじ上げたまま、腰のベルトを握る。そして、スクワットの要領で立ち上がった。
男の体も浮き上がる。男は思わず両脚をついて、立った。
その時、前髪が割れて、顔が覗いた。
「伸司(しんじ)君?」
君枝が言う。
男は顔を伏せた。
「三宅(みやけ)伸司君でしょ?」
君枝は顔を覗き込んだ。男は首をねじり、深くうつむいた。
「知り合いですか?」
竜星が訊(き)いた。
「私のかつての教え子。伸司君、なぜ放火なんてしようとしたの?」
君枝は両肩を握り、詰め寄る。
しかし、男はうつむいたまま返事をせず、顔を上げようともしない。
「まあ、教え子だろうとなんだろうと、放火未遂は放っておけません。警察に行きましょう」
竜星が連れて行こうとする。
「待って!」
「ダメです」
竜星は伸司を歩かせる。伸司は抵抗するが、踵(かかと)が浮いて自分の歩みを止められない。
伸司は涙目で振り返り、君枝を見やった。
君枝は竜星の肩に手を置いて止めた。
「待って。とりあえず、事情を聴いてみましょう。私も教育者の端くれです。理由もわからず、教え子を警察に突き出すようなことはできません」
竜星を見つめる。
竜星はふうっと大きく息をついた。
「そういうことなら、今すぐ警察に突き出すのはやめておきます」
そう言い、ベルトを握っていた手の力を緩めた。伸司の踵が地面に着く。
「けど、理由は納得のいくまで話してもらいます」
腰元の手を離した。伸司の上体が起き上がった。
竜星は左手で伸司の左肩を握り、反転させた。
「これはお仕置きな」
伸司の鳩尾(みぞおち)に拳を叩き込んだ。
伸司は目を剥いて、息を詰めた。腰を引いた姿勢で竜星の方へ倒れてくる。
竜星は伸司を抱き留めた。
「竜星君!」
「気絶しただけです。彼を家に連れて帰ってもいいですか?」
君枝に訊く。
君枝は突然のことで驚いたが、すぐにうなずいた。
竜星は男の左脇に肩を通して支え、君枝の車に連れて行き、後部シートに寝かせた。
2
伸司は、広い鎌田邸の一番奥にある応接間に連れて行かれていた。
帰る途中で目を覚まし、何度か逃げようとしたが、その都度、竜星が腕を強く握って睨(にら)みつけ、引き留めた。
鎌田邸が見える頃には、伸司も観念しておとなしくなった。
応接間の奥に伸司を座らせた。テーブルを挟んで向かいに竜星があぐらをかき、伸司を見張っている。
伸司は正座し、うなだれていた。
お互い、口を開かない。ぴりぴりとした空気が部屋に漂っている。
廊下側のふすまが開き、君枝が顔を出した。麦茶の入ったコップを二つ載せた盆を片手に入ってくる。
君枝は竜星の右手に両膝をついた。伸司と竜星の前に麦茶のコップを差し出して盆を脇に置き、そのまま正座する。
「飲みなさい」
君枝は伸司に声をかけた。伸司はうつむいたままだ。
竜星は麦茶を一口飲んで、大きく息をついた。そして、伸司を見やる。
「顔を上げろ」
竜星が言う。
伸司はなかなか顔を起こさない。
「顔を上げろと言っているんだ」
語気が強くなる。
伸司はびくっとし、ますます背を丸めて小さくなった。
「伸司君。竜星君は怒っているわけじゃないのよ。あなたの話を聞きたいだけ。そうよね?」
君枝が取りなそうとする。
「いえ、怒っています。今すぐにでも警察に突き出したいくらいです」
伸司を見つめたまま言う。
「竜星君......」
君枝は困ったように眉尻を下げた。
「伸司君。君がどういうつもりで火を点けようとしたのかは知らないが、放火は無期や死刑まである重罪なんだ。江戸時代なら、市中引き回しか島流しだよ。それほどの罪だという意識はあったのか?」
竜星が言った。
伸司は深くうなだれた。
「......すみませんでした」
震える声でぼそりと言う。
「謝って済む問題じゃないんだって」
竜星が天板を平手でバンと叩いた。
伸司は跳ね上がるほどびくついて、顔を起こした。君枝が伸司に寄ろうとする。
竜星は右手を上げて君枝を制し、伸司を見据えた。
「簡単に考えていたんだよな?」
ストレートに訊く。
伸司はうなずいた。
「なぜ、火を点けようとした?」
竜星が訊くと、また伸司はうつむきかけた。
「答えなければ、警察に連れて行くだけだ」
冷たく言い放つ。
伸司は君枝にすがるような目を向けた。
「逃げるな」
竜星がびしっと言った。
伸司が背を伸ばして、竜星を見つめる。
「本当は僕も君に偉そうなことを言える人間じゃない。今、執行猶予中の身だからね」
「えっ」
伸司の口から思わず声が漏れた。
と、君枝が口を開いた。
「竜星君は、うちの希美を助けてくれたの。希美だけじゃなく、他の女の子たちもね」
「希美姉ちゃんを......」
「悪い人たちに騙されそうになっていた人たちを、体を張って助けたの。そのせいで、罪に問われることになっただけ」
君枝が言う。竜星が受けた。
「僕は正しいことをしたのかもしれない。でも、その手法はあきらかに法を逸脱していた。だから、その報いは受けるべきだ」
「その......いろんな人たちを助けている時から、そう思っていたんですか?」
伸司が訊(たず)ねた。
「もちろん。すべきことが終わったら、自分から出頭するつもりだった。どんな理由があれ、法を犯した事実とは向き合って、償わなければならないと思っていたからね。君はどうなんだ?」
竜星が訊き返した。
「火を点けた後、その結果について責任を取ろうと思っていたのかな」
問うと、伸司はうなだれた。
「僕としては、警察へ連れて行くことが君のためにもなると思っている。中途半端に許されると、また次も許してもらえると思って、同じ過ちを繰り返すから。でも、君枝さんは教育者として君を助けたいと思っている。僕はその気持ちに応えただけだ。だから君も、君枝さんの気持ちには応えなきゃいけない」
そう言い、テーブルに両腕を置いて身を乗り出した。
「なぜ、放火なんてしようとしたんだ?」
じっと、伸司を見つめた。
伸司は上目遣いにちらっと君枝を見た。君枝はまっすぐ伸司を見つめている。
伸司は観念したように大きなため息をつき、肩を落とすと、もう一度、ゆっくりと息を吸い込み、声を出した。
「お金が必要だったんです」
「なぜ?」
竜星が訊く。
伸司はちらちらと竜星と君枝を見て、また目を伏せ、話し始めた。
「僕の家は母子家庭なんですけど、僕は高校に入ってすぐ引きこもりになってしまって、その間、母は僕の世話と仕事に追われっ放しでした」
伸司が訥々(とつとつ)と話す。
竜星は君枝を見た。君枝が小さくうなずいた。
「けど、一カ月前、母が倒れてしまいました。心労だそうです」
「奈美子(なみこ)さんが? 具合はどうなの?」
君枝が訊く。伸司は君枝を見やった。
「家に戻ってきていますが、まだ仕事には行けず、一日の半分以上は寝ています」
伸司は太腿(ふともも)に置いた拳を握った。
「僕がいらない苦労をかけてしまったせいで......」
伸司が唇を噛み締めた様子がわかった。
「今、生活費はどうしてるの?」
君枝は伸司の顔を覗き込んだ。
「母の貯金を少しずつ取り崩して、なんとかやりくりしていたんですけど、それももう底を尽きそうで......。僕が働かなきゃいけないのはわかっています。でも、長い間、表に出ていなかったし、高校を辞めて学歴もないので、何をしていいのかわからなくて......」
「それでなんで放火することになるんだ?」
竜星が訊くと、伸司が続ける。
「なんとか、自分でもできる仕事はないかと思って、ネットで探していたら、〝簡単高収入〟という求人を見つけて。そういう煽(あお)り文句が危ないのはわかっていたんだけど、とりあえず、どんな仕事なのか聞いてみようと思って」
伸司は一度麦茶を飲んで、息を継いだ。額には脂汗が滲(にじ)んでいる。
ずっと引きこもっていたのだ。ここまで話すのも相当の緊張を強いられただろう。身体の反応がそれを物語っている。
それでも竜星は、質問を続けた。
「どんな形でコンタクトを取ったんだ?」
「初めはメッセージで。身元が証明できるものを送れと言われたんですけど、僕は運転免許も持っていないし、マイナンバーもないし。そう話したら、URLを送ってきて、アクセスしろと言われました。リンクを開くと通話アプリが出てきたので、それをダウンロードして、送られてきた番号にかけました。すると、すぐにビデオ通話にされて写真を撮られ、指示に従わなければ写真をバラまくと脅されました。でも、仕事を受ければ、すぐに百万円を現金で渡すとも言われて」
「信じたのか?」
「信じられませんでしたけど、写真も音声データも相手方に残ってしまっています。家にこもっている時、加工されたフェイク動画などを観たことがあったので、そうされるんだろうなと思ったら怖くなって......」
「その通話アプリと通話記録は保存してる?」
「それが......記録や保存はできなくて、アプリも知らない間に消えていました」
伸司が答えた。
「そんなことって、あるの?」
君枝が伸司に怪訝(けげん)そうな目を向けた。
「本当なんです、先生!」
伸司は必死の形相で訴えた。
「あり得る話ですね」
竜星が言った。
「テレグラムのような秘匿性の高い通信アプリはいくらでもあります。アプリをダウンロードした時に遠隔操作プログラムを仕込まれていれば、勝手に消えているということもあるでしょう。伸司君、スマホを預からせてもらえるかな」
「警察に渡すんですか?」
「ちょっと僕が解析してみるよ」
「そんなことできるんですか!」
「少しは知識があるから。ダメなら、警視庁のサイバー班に知り合いがいるので頼んでみる。もちろん、君のことは話さない。君が逮捕されれば、お母さんが困んるだろう? 僕の母もシングルマザーだったから、君の心配や焦りはわかる」
竜星が笑みを覗かせる。
伸司は驚いたように竜星を見やった。緊張で強ばっていた頬が少し緩む。
「けど、君を陥れようとした者の実態は知っておきたいし、警察が知っておくべき情報だ。君のような加害者を生まないためにも」
竜星は諭した。
伸司は深くうなずいた。そして、ポケットに入れていたスマホを取り出し、テーブルに置いて、竜星に差し出した。
「確かに預かるよ」
竜星はスマホを手に取り、自分の脇に置いた。
君枝が時計を見た。
「もう九時になるわね。お母さんが心配する。今日は帰りなさい」
君枝が促した。
「いいわね、竜星君」
「はい。伸司君」
竜星は伸司を正視した。
伸司は正座し直して背筋を伸ばし、まっすぐ竜星に目を向けた。
「くどいようだけど、僕は君を許したわけじゃない。店の方でいいから一日一回は顔を出して。事情があって来れない時は電話をして。連絡が途切れたら、君のことは警察に連れて行く。それを守ってほしい。どうかな?」
「わかりました。必ず、守ります」
力強く竜星を見つめる。
が、竜星はその目を半分ほどしか信じていない。
追い詰められた者は、その場から離れられるとわかった途端、安堵(あんど)の表情を覗かせる。場当たり的で、今この瞬間をしのげればいいと考える者も多い。
短絡的なその思考がトラブルを招いているという自覚を持てないと、この癖はなかなか治らない。
伸司が真摯に反省していることを願うが、そうでなければ、宣言通り、警察に連れて行くつもりだ。
三人は立ち上がった。君枝と共に玄関まで伸司を見送る。
伸司が靴をつっかけていると、台所からヨシが出てきた。
「お義母(かあ)さん、寝てらしたんじゃないんですか」
「これを、奈美子さんに」
レジ袋に入れたブドウを差し出す。
「わしの畑で穫れたピオーネじゃ。奈美子さんに食べさせちゃれ」
「ありがとうございます」
伸司が受け取る。
「伸司。今度はおまえが奈美子さんを支えちゃらな、おえんで」
「......はい」
伸司は返事をし、深々と頭を下げて、玄関を出た。ドアが閉まる。
「お義母さん、ありがとうございます」
君枝が頭を下げた。
「食い物を持たせりゃ、家に帰らんわけにはいけんじゃろ」
ヨシは笑みを覗かせて、曲がった腰を叩きながら自室へ引っ込んだ。
竜星と君枝は顔を見合わせ、微笑(ほほえ)んだ。
3
安里真昌(あさとしんしょう)は、東急東横線多摩川(たまがわ)駅から西へ三百メートルほどのところにある一軒家の近くにいた。
坂道の上部は多摩川台公園、下部は宝来(ほうらい)公園通りに接している。百メートルほどの上り坂だ。
道路の左側は家が売りに出され、解体され更地となっている。右側には塀に囲まれた大きな一軒家がある。築五十年の二階建ての家だが、全容は庭木に囲まれて外からは窺(うかが)えない。
道路に面して駐車場があるが、シャッターが閉じていた。
真昌はジーンズにポロシャツ、リュックといったラフな格好で、公園を訪れた一般人を気取りつつ、建物の周辺を調べていた。
耳にはワイヤレスイヤホンを付けている。右手に持ったスマホに目を落とし、楽曲を選んでいるふりをして立ち止まる。
「こちら、安里。南側駐車場に動きはありません」
小声で伝えた。
──そのまま公園近くで待機。
返ってきたのは、益尾徹(ますおとおる)の声だった。
「了解」
真昌はゆっくりと坂道を上り、公園の車止めをまたいで、すぐ右手にある階段の一段目に上がり、立て看板と草むらに身を寄せ、隠れた。
少し顔を出して、先ほど確認した駐車場の方を見やる。
坂道を上りきったところは三十センチくらいの塀になっていて、木々が植えられている。その奥に低い柵があり、そこから標的の家の敷地内に侵入できる。
ただ、そこには離れとみられる建物があり、人々が蠢(うごめ)いている様子が見て取れた。
おそらく、監視要員だろう。真昌はその者たちに警戒されないよう、しっかりと身を隠し、つぶさに建物周りの様子を注視していた。
真昌が刑事研修で警視庁に派遣されて、八カ月が経っていた。
この仕事が終われば、沖縄県警に戻る予定だった。
今、真昌が監視している家は、特殊詐欺グループの拠点と目されている場所だった。
益尾たち組織犯罪対策部は、警視庁特殊詐欺対策本部と連携を取り、拠点を特定し、摘発に踏み切ろうとしている。
その先発隊として、真昌も駆り出されていた。
真昌が抜擢(ばってき)されたのは、彼が沖縄県警所属だということもある。
特殊詐欺グループの間で、捜査員の情報がやり取りされている可能性があるのだ。対策本部は時折、人員や配置を入れ替え、特定されないように気をつけてはいるが、百パーセント大丈夫とは言えない。
その点、真昌は外部の人間で、研修中も特殊詐欺対策本部に属しているわけではない。
先鋒(せんぽう)として現場へ派遣するにはうってつけの人材だった。
対策本部のメンバーは、すぐ踏み込める場所に散らばって待機している。
真昌が家の様子を窺っていると、ガラガラと音がした。駐車場のシャッターが開いたようだ。
「こちら、安里。南側駐車場のシャッターが開きました」
すぐさま、益尾に連絡を入れる。
──了解。全員、目標に集合。態勢整い次第、踏み込む。各班、配置に付き次第、連絡を。真昌はその場に待機。
「了解し──」
返そうとした時、ボンと音がした。
家の方を見る。
「安里です! 家から火の手が上がりました!」
すぐに伝える。
駐車場からは二台のバンが出てきた。車内に複数の人の頭が見え隠れしていた。
一台は坂を下り、宝来公園通りへ。もう一台は、坂を上り、そのまま多摩堤(たまつづみ)通りへ抜けようとしている。
「二台逃走! 一台は坂を下る。一台は上ってきます! 制止します!」
──真昌、待て!
益尾が止める声が聞こえた。
が、その時にはもう、真昌は車止めを飛び越えていた。
道路の真ん中に立ち、両腕を広げる。
車が左にハンドルを切った。スキール音を上げ、車体を傾けながら、後輪を滑らせる。車体の圧が風となり、真昌の前髪を吹き上げた。
左に九十度曲がった車は、そのまま公園の車止めに突っ込んだ。
フロントが潰れ、リアが跳ね上がる。後輪が空回りし、エンジン部からは煙が出ている。
真昌は車に駆け寄った。運転席と助手席に乗っていた男たちは膨らんだエアバッグに顔をうずめていた。
リアが地面に着くと、後輪がけたたましい音を上げて地面を削った。ゴムの焼ける臭いが充満し、車が白い煙に包まれる。
後部のスライドドアが開いた。男たちが一人、また一人と降りてくる。事故の衝撃でふらついている。
真昌はスッと近づき、男の後頭部に蹴りを浴びせた。男が前のめりになって、顔から地面に落ち、突っ伏す。
別の男の鳩尾に強烈な正拳を叩き込む。男は呻いて腹を押さえ、両膝を落とした。
また別の男が出てきた。真昌の姿を見て、とっさに右の拳を振り回す。
真昌は膝を曲げて、スッとダッキングをした。左脚を踏み込んで、男の懐に潜り込む。そして、伸び上がりながらショートアッパーを放った。
拳が男の顎を捕らえた。男の顎が打ち込んだ。後方に飛び、車のボディーに背を打ちつけ、息を詰める。
真昌は足刀蹴りを男の腹に蹴り入れた。男は小さく呻いて目を見開き、その場にずるずると崩れ落ちた。
真昌は息をついた。
「こちら、安里。坂道上方へ逃走したバンを制止。バンは事故で停止。逃走犯を確保。救急車と応援を要請します」
伝えながら、地面に倒れた男たちをうつぶせに倒して上着を脱がせ、後ろ手に両手首を拘束していく。
──真昌、無事か?
「ケガはしていません。俺は、車内を確認後、家の方へ──」
話していると、いきなり後部座席から男が飛び出してきた。
真昌は少し気づくのが遅れた。男は真昌の背中を突き飛ばし、公園内へ逃げた。
前につんのめった真昌は、踏ん張って振り返った。
「一名逃走! 追いかけます!」
真昌は伝え、男の背中を見据えてダッシュした。
男は振り返りながら走った。そのせいで少しスピードが落ちる。真昌との距離は徐々に狭まっていった。
木々に囲まれたうねる遊歩道を二人の男が疾走していた。そして、目の前の視界が開けた。
遊歩道を抜けた先は砂地の広場になっていた。多摩川台公園第一広場だ。
「女性の像がある広場に出ました!」
真昌は目に映るものを伝えた。
広場の南西側には〝平和の像・愛し子〟と名付けられた大田区の平和都市宣言を象徴する女性の像が建てられている。母親が子供を抱いている銅像だった。男の子は左腕を上げている。
男が砂地に足を取られて、転んだ。
真昌は駆け寄った。
男は這うように立ち上がった。その正面に、遊んでいる母親と男の子がいた。
母子は驚いて、身を固めていた。男は彼らに駆け寄り、母親の背後に回った。腕を首に回し、抱き寄せる。
男はポケットからナイフを出した。刃を振り出して、切っ先を母親の首筋に当てた。
「この女、ぶっ殺すぞ!」
男が怒鳴る。母親の顔が引きつっている。真昌は立ち止まり、男を見据えた。
男は四十代後半くらい。薄毛でずり落ちそうな眼鏡をかけていて、小汚い無精ひげを生やしている。着ているワイシャツもよれていて、ズボンも大きすぎるのか、腰からずり落ちそうだった。
真昌を睨みつけるが、目の奥はおどおどと揺れていて、走ったせいか、肩も激しく上下に動いている。
「なあ、おっさん。一ついいか?」
「なんだ!」
「特殊詐欺だけなら詐欺罪で終わる。けど、その人を傷つけたら傷害致傷。うっかり死なせてしまったら傷害致死だ。長く務めることになるぞ。耐えられるかなあ、あんたに」
真昌は話しながら、じりじりと間を詰めていく。
「刑務所に入ったことあるか? 詐欺犯の雑居房とは違って、暴行、傷害、殺人犯の房は怖えぞ。あんたみたいなひょろひょろのおっさんだと、一日ももたねえんじゃねえかなあ」
真昌は笑みを浮かべた。
「お......脅す気か!」
「いやいや、事実を話しているだけだ。刑務所を出る頃にはぼろぼろになっちまってるような連中をいっぱい見てるからさ。心配してんだよ」
「適当なことを言うな!」
男の手が震える。今にも母親を傷つけそうだ。
「わかったわかった。興奮するなって。今、その人を離せば、ナイフを出したことは目をつむってやるからさ。離してやってよ」
真昌は既に、一気に詰め寄れる距離まで迫っていた。
「あんたも特殊詐欺なんてしてたのは、理由があったんだろ? 聞かせてくれよ。若造だけど、力になるよ」
話していると、男の子が男の脚にまとわりついた。そして、太腿を叩きだした。
「ママを離せ!」
何度も何度も叩く。
「うるせえ、ガキ!」
男が膝で男の子の胸を押した。男の子がよろけて、後ろに倒れる。瞬間、大声で泣きだした。
男がその泣き声にうろたえた。
真昌は地を蹴り、距離を詰めた。ナイフを持つ男の右手首をつかみ、そのまま後方へ走る。
男の腕が後ろに伸びた。立ち止まって振り返り、男の腕を背中側に回してひねった。
男が顔をしかめた。右手からナイフが落ち、母親の首に巻いていた左腕が離れた。
母親は男の子に駆け寄り、抱き上げた。背を向けて走り、真昌たちから離れる。
真昌は男の足を引っかけ、うつぶせに倒した。男は地面に顔面を打ちつけた。砂埃が舞う。男は目をしばたかせ、咳(せ)き込んだ。
男の背中に右膝を置き、ホルダーから手錠を出して、右手首にかける。左手もねじ上げ、手錠をかけた。
「おっさん、刑務所で揉まれて来いよ」
腰を握って立たせる。と、捜査員が広場に駆け込んできた。
「安里君!」
対策本部の中年捜査員が走ってきた。
「逃走犯一名、確保しました。よろしくお願いします」
真昌は男を捜査員に預け、公園の隅に座り込んでいた母子に駆け寄った。
真昌は母親の前で正座をした。
「危険な目に遭わせてしまって、申し訳ありませんでした」
手をついて、頭を下げる。
顔を上げると、真昌は男の子に笑顔を向けた。
「君の勇気ある行動でお母さんを助けることができた。ありがとうな」
男の子の頭を撫(な)でる。男の子は照れたように頬を染め、銅像の男の子のように左腕を上げた。
4
「すみませんじゃない!」
益尾の怒鳴り声が室内に響いた。
「君の勝手な行動で一般人の母子を危険に晒(さら)した。君自身も危なかった。何のために摘発の段取りをしていると思っている? 周辺住民はもちろん、何より捜査員自身の身を守るために綿密な計画を立てているんだ! それをわかっているのか!」
厳しい言葉を浴びせられ、真昌は肩をすぼめて小さくなり、うつむいていた。
すると、特殊詐欺対策本部の部長を務める樫原(かしはら)が益尾に近づいた。
「まあまあ、そう厳しく言わんでも。安里君のおかげで、逃走しようとしていた連中の半分は検挙できたわけだし」
「いえ、たとえそうであっても、言っておかなければいけません。でなければ、真昌自身が命を落としてしまいますから」
益尾は真昌を睨んだ。
樫原は短く刈った頭をポリポリと掻(か)いて苦笑し、真昌を見やった。
「いろいろと取り得る方法はあったはずだ。車種とナンバーを報告し、逃げた方角を伝え、待機していた車両班に任せるとか。応援を待つ間、家の方の捜索に行くとか。逃がすまいと思ってとっさに行動したのはわかるが、反射的に動いてばかりでは、いつか大怪我をする。君が一人で被疑者と直面した時は仕方ないが、今回は周囲を捜査員が囲んでいた。現場を離れた君の分、隙が生まれることになるだろう。周りを頼る、任せるということも捜査員としての技能だ。一人で突っ走る癖は、今のうちに直しておかないと──」
益尾が説教を続けていると、電話を取った捜査員から声がかかった。
「益尾主任、受付から電話です」
「ありがとう」
益尾は真昌をひと睨みし、近くのデスクの受話器を取った。内線のボタンを押す。
「はい、益尾です」
益尾が電話に出ているのを見て、樫原が真昌に近づいた。
肩に腕を回す。
「まあ、益尾君も君のことを心配してくどくどと説教しているわけだから、勘弁してやってくれ」
トントンと肩を叩く。
真昌は小さくうなずいた。
益尾が受話器を置いた。真昌に顔を向ける。
「真昌、一緒に来い。樫原さん、検挙した者たちの取り調べをお任せしてもいいですか?」
「かまわんよ」
「ありがとうございます。真昌、行くぞ」
「はい......」
真昌はうなだれた。樫原は気の毒そうに真昌の背中を叩いて押した。
益尾と真昌は部屋を出た。
エレベーターに乗り込む。どこへ連れて行かれるのかわからないが、質問する空気ではなかった。
益尾は一階で降りた。真昌も続く。受付へ歩いていく。
現場へ出るのかな......と思って、顔を上げる。と、真昌の目が大きくなった。
「竜星!」
益尾を追い抜いて駆け寄る。
「よお」
リュックを背負った竜星は右手を上げた。
「よおじゃねえよ。どうしたさー?」
「ちょっと相談したいことがあってね。益尾さんも忙しいだろうけど、来てみたんだ」
竜星は言い、益尾を見た。
「忙しいところ、突然すみません」
頭を下げる。
「ちょうど一件片づいたところだ。なあ、真昌」
「ええ......」
真昌がうつむく。
「何かあったのか?」
「まあな。来てくれて助かったよ」
真昌は渋い顔をして、少し笑みを覗かせた。
「立ち話もなんだ。こっちへ」
益尾は廊下を奥へと進みだした。真昌と竜星が続く。
三人で突き当たりにある応接室へ入った。簡素だが、ソファーとテーブルがあり、その脇にお茶が出せるように緑茶を入れたポットと急須、湯飲みが置かれたサイドボードがある。
「座って」
益尾は言うと、ポットを取りにサイドボードに歩み寄った。
「あ、俺がやります」
真昌が駆け寄る。
益尾はうなずいて、部屋の右奥の二人掛けソファーの右手に腰かけた。竜星は対面に座り、リュックを脇に置いた。
真昌が茶を淹(い)れた湯飲みを三つ、盆に載せてきた。益尾と竜星の前に置き、自分が座る席の前にも置いて、盆をサイドボードに戻した。
「おまえがお茶出しするとはなあ」
竜星が言う。
「社会人だからな。そのくらいはするさ」
真昌は言いながら益尾の隣に座り、茶を啜(すす)った。
「鎌田のおばあさんは元気か?」
益尾が訊く。
「はい。毎日、畑に出て、草刈りしてます」
「おばあは元気だなあ。希美さんのお母さんも元気にやってるのか?」
真昌が訊いた。
「ああ。ぼちぼちだけど、花屋を続けてるよ」
竜星は言い、茶を一口飲んだ。
「まだ、東京にいたんだな」
「もうすぐ、島に戻る」
「そうか。戻ったら、希美さんによろしく伝えておいてくれ。高梁の方は大丈夫だからと」
「希美さんは沖縄にいるのか?」
益尾が訊いた。
「はい。沖縄が気に入ったみたいで、母の会社で働いてます。いずれは正社員になりたいとも言ってました」
「へえ、わからんもんだなあ。だが、島を気に入ってくれるのはうれしいな」
真昌は腕組みをして何度もうなずく。
「紗由美さんたちとは連絡を取ってるのか?」
「はい」
「みんな、元気か?」
益尾が訊く。
「母さんと親父は相変わらずです。母さんは仕事に追われてて、親父はずっと金武(きん)さんの道場に入り浸っているそうです。節子(せつこ)おばあがぼやいていました」
竜星は笑った。
「親父、か」
益尾は小さく漏らして、微笑んだ。
「で、相談事とは?」
顔を上げて、仕切り直す。
「ここだけの話にしておいてほしいんですが」
竜星は真顔になり、リュックを取った。中から一台のスマートフォンを取り出し、テーブルに置く。
「サイバー班で、このスマホを解析してほしいんです」
「これは?」
益尾が目を向けた。
「先日、高梁の花屋に放火しようとした若者がいて、僕が捕まえたんです」
「放火! 大丈夫だったんか!」
真昌が驚いて目を丸くした。
「大丈夫。未遂で終わった」
竜星は笑みを返した。益尾の方に向き直る。
「その若者、君枝さんの元教え子で、高校一年の途中から引きこもっていたそうなんです。家庭にも複雑な事情を抱えているようで、君枝さんが警察は勘弁してあげてほしいと言うもので、そうしたんですけど、なぜ放火なんてしようとしたのかと話を聞いてみると、どうやら闇バイトにひっかかったようなんです」
「放火の闇バイトか?」
真昌が真顔になる。竜星はうなずいた。
「秘匿通信アプリで指示されたようなので、そのスマホを預かってちょっと調べてみたんですが、遠隔操作で痕跡はきれいに消されていました」
竜星が益尾に話す。
「益尾さん」
真昌が益尾を見た。益尾が深くうなずく。
竜星はその様子を不思議そうに見ていた。真昌が竜星に顔を向けた。
「竜星、それなあ。ちょっとあちこちで問題になってんだ」
「どういうこと?」
「東京の各地、北海道から沖縄まで、このところ放火事案が頻発しているんだ。死者も出てる。逮捕されたヤツの何人かは、おまえが言ってたようにアプリで指示されたというヤツだった」
真昌の話を、益尾が受けた。
「当初は散発的なものと思われていたんだがね。指示されたという者たちのスマホを解析すると、君が今話していたように、秘匿通信アプリの痕跡が見つかった。それがなかなかの高性能で、遠隔操作で削除する際、高速で十数回上書きできるようになっていて、最後にはプログラム自体がクラッシュされるよう仕込んである。今、専門家に解析を依頼しているところだ。君が解析できないようなら、おそらくは同じものかもしれない」
「誰がそんなことをしているんですか?」
「それも、全国の都道府県警と連携して捜査中だ。テロ事案でないことを願っているがね」
益尾は深く息をついた。
「このスマホ、預からせてもらって大丈夫かな?」
「そのつもりで持ってきました。持ち主の承諾も得ています」
竜星が言うと、益尾がうなずいた。
「あと、その若者に話を聞くこともあると思うが、大丈夫か?」
「はい、協力するよう言い含めていますので」
「わかった。今日はゆっくりできるのか?」
「いえ、明日も仕事があるんで、岡山に戻るつもりです」
「そうか。真昌、今日はもう上がっていいから、竜星を連れて俺の家に寄って行って、駅まで送っていけ」
「僕は一人で──」
竜星が言いかけたところに、真昌が被せた。
「承知しました!」
大きい声で返事をし、立ち上がった。
「では、私はこれで」
敬礼をする。
「竜星、行くぞ!」
真昌は竜星の腕を引っ張った。
「一人でいいって」
「命令だから。行くぞ!」
真昌は強引に竜星を立たせ、そそくさと応接室を出た。
竜星は益尾に会釈をし、真昌に引っ張られるまま部屋から出された。
ドアが閉まると、真昌は大きく息をついた。
「いやあ、助かったさー」
「何がだ?」
「ちょっとやらかして、益尾さんに説教食らってたとこなんだ」
「そういうことか」
竜星は呆(あき)れて笑った。
「益尾さん、厳しいんだよ。本気で怒ると怖えの知ってるしな。まあ、しっかりと鍛えてくれてるのは感謝してるんだけど」
「それだけ期待されているってことだよ。益尾さんも親父に相当鍛えられたもんな」
「おまえ、いつから楢(なら)さんを〝親父〟と呼んでるんだ? こないだまで〝父さん〟だったろ」
真昌が訊く。
「いつからだったかなあ。覚えてないけど、判決を受けた後から、なんとなく自然に親父と呼ぶようになってた」
「そっか。まあ、楢さんは父さんというより、頑固親父って方が向いてるけどな」
真昌はそう言って笑ったが、急にびくっとして笑いを引っ込めた。
「どうした?」
「いや......なんか、楢さんから睨まれてるような気がして」
周りをきょろきょろと見回す。
「ビビりすぎだよ」
竜星は真昌の挙動を見て、笑った。
5
岡本孝光(おかもとたかみつ)は議員会館の自室にこもり、手元の資料に目を通していた。
「うーん、まだこの程度なのか......」
ハイバックチェアーに深くもたれ、ため息をつく。
「申し訳ございません。いろいろと手を尽くしてはいるのですが......」
机の前に両手を添えて立っている早崎大志(はやさきたいし)は肩を寄せて背を丸め、少し頭を下げた。
岡本は滋賀県選出の与党参議院議員だ。現在、五十五歳。三十五歳で初当選し、かつては若手のホープと目され、党内でも重鎮にかわいがられていた。
党広報の推薦でメディアへの露出も多くなり、次期リーダーとしてもてはやされていたが、七年前、時の政権に立てついて離党。その後、新党を立ち上げようとしたが付いてくる者はなく、復党したものの、裏切り者のレッテルを張られ、党内での地位は失墜した。
七年前の判断はあきらかに間違っていた。時代の寵児(ちょうじ)のように扱われ、周りからもけしかけられ、五十歳になる前に大勝負に出た。
新党の代表として、第三勢力となり、いずれは政権を取るつもりだった。
しかし、この挑戦はあまりに無謀すぎた。
顔が売れていたことで、自身の実力を見誤っていた。
新党の政策への賛同の少なさ、資金力のなさ、メディアの盛り上がらなさなど、予想外の体たらくに支援者は離れ、党はあえなく解体。無所属では立ちゆかなくなり、結果、復党せざるを得なくなった。
あのまま与党に残っていればと後悔したが、詮無い話。再び、党内での地位を高めようともがいている。
しばらくは党内でも干されていたが、今回、党内の地方創生審議委員会のメンバーに選ばれた。
末席ながら、ここで頭角を現せば、再浮上の足掛かりにできる。できれば心機一転、衆議院に鞍替えしたい。
そろそろ何か結果を出さなければ、党内での地位だけではなく、有権者にも見限られ、当選すら危うくなりそうだ。
まさに背水の陣だった。
岡本が今、手に持っているのは日本地図だった。全国あらゆる場所に赤丸でマークがついている。地域活性化の拠点にしようと目論んでいる再開発候補地だ。
候補地の地権者や代議士と協議して、土地の取得や業者の選定をスムーズに取りまとめれば、自分の手腕を見せつけることができる。
そう思い動いているのだが、なかなかうまくいかない。
自分も地方出身者なので、地元の利権の強さは知っているつもりだったが、各地で事情は違い、窓口が三つも四つもある地域もあり、一カ所をまとめるだけでも苦労していた。
現在、岡本主導で取りまとめできた場所は三カ所にとどまっていた。
「他の委員の動きは?」
岡本が訊く。
審議委員会の議員の中には、これをチャンスにしようと、岡本同様、各地の取りまとめに動いている者もいる。誰が頭一つリードするかのチキンレースとなっている。
「園部(そのべ)先生は我々と変わらず。梅沢(うめざわ)先生は押尾(おしお)総務副会長の後押しでリードしています。他の委員はまだ一カ所もまとめられていません」
早崎がタブレットを手に報告をした。
「やはり、敵は梅沢か......」
岡本は日本地図を机に置き、奥歯を噛んだ。
梅沢翠(みどり)は、ここ数年で顔と名前を売り出してきた当選二回目の若手衆議院議員だ。二十代前半の頃はグラビアアイドルをしながら、YouTubeチャンネルで配信をする普通のインフルエンサーだった。
二十九歳の時、東京都議選の投票を促す選挙管理委員会のポスターのモデルに選ばれたのを機に、グラビアはやめ、自身のチャンネルやSNSで政治的な発言をするようになった。
容姿端麗で、柔らかい物腰ながら時折ジェンダーや経済、社会保障政策など、幅広い政治課題についてズバッと切り込む姿勢は、若者だけでなく、働く女性たちの共感も集めた。
それに目を付けたのが、与党の大物議員、押尾昇(のぼる)だった。
今年八十歳になり、次回の選挙には出馬しないと公言している。
押尾は引退前に、自分の後継者を探していた。党内に何人か候補はいたものの、どれも今一つという評価だったところに、梅沢翠が現われた。
彼女を見た押尾は、すぐにその万人受けするキャラクターに可能性を感じた。面会し、話をした印象は、聡明でなおかつ数多(あまた)の政治課題を突破していくエネルギーを持ち合わせた人物だと評している。
そして、三十五歳の時に東京都第五区から出馬し、圧倒的な得票率でトップ当選を果たした。
押尾の梅沢びいきを面白く思っていない者も多い。しかし、二度目の選挙でもトップ当選を果たしたあたりから風向きが変わった。
絶大な大衆人気にあやかろうとする議員が一人、また一人と支持を表明し始めた。
今回、地方創生審議委員会のメンバーに選ばれたのは、将来の大臣への布石、女性初の総理大臣への道筋だとみる者も多くなった。
政治の世界は、勝ち馬に乗ることがすべて。プライドも理念も、落選してしまえば何の意味も持たない。
押尾の助力もあり、梅沢陣営の土地の取得や地権者、地元業者との交渉に協力する議員が増えている。
このまま土地の獲得率で差をつけられれば、勝ち目はなかった。
「穴はないのか?」
岡本は早崎を見上げた。
穴があれば、そこを突いて追い落とす。それもまた政治の世界の常套(じょうとう)手段だ。
しかし......。
早崎はうつむき気味の顔を横に振った。
「まずいな......」
「先生。この際、梅沢に乗ってしまうというのはどうでしょうか?」
「俺に、あの小娘の軍門に下れというのか?」
岡本は睨んだ。
「一時的に利用するだけです。押尾先生の後ろ盾がなくなれば失速しますよ」
「にしても、印象はよくない。今、梅沢に擦り寄れば、彼女の人気を利用しようとしていると有権者は見るだろう。そうでなくても、そう取られる。今は悪手だな」
岡本はため息をついた。
打開策が見つからない。
腕組みをし、小難しい顔をして唸(うな)っていると、早崎が身を乗り出してきた。
「では、ここだけの話なんですが......」
声を潜める。
岡本は机に両肘をついて、顔を寄せた。
「園部先生は別の方法で再開発地区を開拓しているようなんです」
「別の方法とは?」
岡本が訊くと、早崎はさらに顔を寄せた。
「非合法な手段という噂です」
耳打ちする。岡本は鋭い目で早崎を見た。
驚きの声が漏れそうなのを押さえる。
園部重良(しげよし)は岡本と同い年の参議院議員だ。他党や無所属を転々として、今の党に入ってきたので、外様(とざま)扱いされている点も、岡本と似ている。
園部もまた、今回の審議委員会メンバーへの登用をチャンスと捉えて動いていた。
園部が気合を入れて取り組んでいるのは知っていたが、正直、どのような手で地権者や業者を説得しているのかはわからなかった。
園部は強固な地盤を持っているタイプではなかった。選挙区もころころと替わり、どこかに根を張って地道に票を掘り起こすという話は聞いたことがない。
元々、ITのスタートアップ企業を複数立ち上げ、上場させたところで所有株を売却し、資産を築いたという経歴は知っている。
ただそれも、園部が自己申告した経歴だというだけの話で、本当のところは誰も知らない。
少々、胡散(うさん)臭さが漂う中年男性だったが、SNS戦略がうまく、改選ごとにギリギリ当選を決めてきていた。
「非合法な手段とは?」
「それがよくわからないんです。ウイルスを作って個人情報を盗んで脅しているという話もあれば、株価を操作して資金を稼ぎ、その金で頬を叩いて言うことを聞かせているといった話もあります」
「そのあたり、もう少し調べられんか?」
「かなり調べてみたんですが、なかなか尻尾を出さないというか。その噂も本当かどうなのか確認できない有様です。ただ、このまま時が過ぎていけば、梅沢先生に独走されることはもちろん、園部先生にも後塵(こうじん)を拝することになります。一度、園部先生と話してみませんか? その上で共闘できるようなら、勝算は見えてきます」
早崎が進言する。
岡本は両手の指を組んで握りしめ、額を預けて熟考した。
しばしの沈黙後、岡本はゆっくりと顔を上げた。
「わかった。園部にコンタクトを取ってみてくれ。一両日中に会いたいと」
「承知しました」
早崎は一礼して、部屋を出た。
岡本は眉間に皺(しわ)を立て、赤丸のついた日本地図を見据えた。
Synopsisあらすじ
各地で相次ぐ放火事件。
伝説のトラブルシューター「もぐら」こと影野竜司の血を引く竜星は、
違法売春組織摘発の過程で法を逸し、懲役三年執行猶予五年の判決を受けた。
事件で知り合った鎌田希美の実家に身を寄せた竜星は、
そこで奇妙な共通点をもつ放火事件のひとつに出くわす――。
Profile著者紹介
1964年兵庫県生まれ。文芸誌編集などを経て、小説家へ転向。「もぐら」シリーズ(小社刊)は130万部を突破した。他の著書に「リンクス」シリーズ、「D1」シリーズ、「ACT」シリーズ、「警視庁公安0課 カミカゼ」シリーズ、『紅い塔』『桜虎の道』『SAT‐light 警視庁特殊班』などがある。
Newest issue最新話
- 第二回2025.10.24
Backnumberバックナンバー
- 第一回2025.09.30
