もぐら伝 ~蛇~第三回
第2章
1
竜星は真昌と共に益尾家を訪れていた。
リビングのソファーに並んで座っている。益尾の妻、愛理(あいり)がアイランドキッチンで淹れた紅茶をトレーに載せて運んできた。
「久しぶりね。最後に会ったのは何年前かしら?」
愛理は話しかけながら、カップを二人の前に置いた。
「あれは高校卒業前だったので、十年近く経っているかもしれないですね」
竜星が答える。
「そんなに! なんだか、真昌君とはよく会ってるから、そこまで昔のことだったとは思えないね。ちょっとは大人びたけど、あんまり変わらないし」
愛理は対面に座った。
「紗由美さんたちは元気?」
「元気にやってるみたいです。今は岡山にいるので、電話かSMSで話すくらいですけど」
「そう。岡山の暮らしはどう?」
「楽しいです。島とはまた違う、のんびりとした空気感があって」
竜星は笑みを覗(のぞ)かせた。
と、玄関の方でガチャガチャと音がした。
「ただいまー!」
元気な声が聞こえてきて、ドスドスと廊下を足早に歩く音が近づいてきた。
「竜星君、来てるんだって?」
リビングのドアが豪快に開いた。
益尾の一人娘、木乃花だ。長かった髪はショートボブにカットしていた。スレンダーな姿態をセットアップのパンツスーツに包んでいる。
木乃花は竜星を認めると、瞳を大きく開いた。
「あー、竜星君、久しぶり! なんか、大人っぽくなったね」
木乃花がソファーにカバンを放り投げ、愛理の隣に座った。
「木乃花ちゃんもずいぶん大人っぽくなった。お母さんにそっくりだな」
「ヤダ。お母さんよりずっといい女よ」
木乃花は肘を立てて頬杖を突き、首を傾けた。
それを見て、真昌が目を見開いた。竜星が真昌の様子に気づいた。
「真昌、何赤くなってんだよ」
竜星の声で、真昌がハッとする。
「赤くなんかなってねえよ」
真昌はどぎまぎしながら、木乃花から目を逸(そ)らした。
「あれあれー、真昌君、私に惚(ほ)れちゃった?」
木乃花がからかうように真昌の顔を覗き込もうとする。
「ちょっと、大人をからかうのはやめなさい」
「だって、真昌君、かわいいんだもん」
「かわいいとか言わないの!」
愛理が木乃花の背中を叩いた。木乃花が背筋を反らす。真昌は耳まで真っ赤になり、顔を伏せていた。
竜星は真昌の素振りを見て微笑(ほほえ)み、助け舟を出した。
「木乃花ちゃん、もう二年生だっけ? 大学はどう?」
話題を切り替える。
「楽しいけど、そろそろどの方向に行くか考えないと厳しくなってきた」
木乃花は肩を竦(すく)ませた。
「学部は?」
「リベラル・アーツなんだ、私が通ってるとこ。だから、何でもできるんだけど、かえって何をしたいのかわからなくなっちゃって」
「興味のあるところは?」
「心理学に社会学。障害学も気になってて、そっちに行くとユニバーサルデザインも気になるから、デザイン学もありかな、とかね」
「リベラル・アーツって、何?」
真昌が顔を上げた。
「理系文系関係なく、いろんな学科の勉強ができて、徐々に専門を絞っていくのもあり、そのまま幅広く学んでいくのもありっていう、自由なカリキュラムのこと。一般教養と言われることも多いんだけど、うちの大学はもっと柔軟で、自分用にカスタマイズできるの。でも、自由すぎて、興味のあるところを一つに絞るのが難しいんだ」
木乃花がため息をつく。
「なんか、すごいことやってんだな」
真昌は目を丸くした。
「すごくないよ。真昌君が警察内で様々な部署を経験しているのと同じ。まあ、二年生のうちに決めればいいから、焦ることないんだけどね」
「そっか。なら、ゆっくり考えりゃいいな」
「いざそう言われると、のんびりしちゃいそう」
木乃花が笑う。
「僕も焦ることはないと思うけど、ヒントは出てるね。心理、社会、障害。木乃花ちゃんは社会の困っている人たちのために何かしたいのかもしれないな。そのへんを詰めてみると、見えてくるかもしれない」
竜星が言う。
「ほんとだ。竜星君に言われると、なんだか安心する」
木乃花が言うと、真昌ががっくりと肩を落とした。
「あ、真昌君もありがとうだよ。ゆっくり考えることも大事だから」
木乃花は真昌の落ち込みにフォローを入れる。真昌は小さく微笑んだが、またうなだれた。
愛理と竜星が笑う。
「そういえば、障害学の授業でデイケア施設に行ってね。そこで仲良くなったおじいちゃんがいたの。西脇(にしわき)さんっていう人で、右足を骨折した後、一所懸命にリハビリしてたんだけど、こないだ火事で亡くなっちゃって」
「火事?」
竜星と真昌が同時に木乃花に顔を向けた。
「うん。なんか、放火じゃないかって話もあって」
「放火!」
二人の眼差(まなざ)しが鋭くなる。
その圧に、木乃花が少したじろいだ。
「何......?」
「あ、いや......」
真昌は笑顔を作った。竜星も微笑む。
「今、放火が増えてるからでしょ? 徹さんが言ってた」
愛理が真昌を見やる。
「放火、増えてるの?」
木乃花が目を丸くした。
「うん。都内だけでなく、全国的に増加傾向にあるんだ」
真昌が真顔で話す。
「なんで、放火なんてするんだろう」
木乃花は怒ったように眉尻を上げた。
「放火犯の心理は習ってない?」
竜星が訊ねる。
「犯罪心理はやってない」
「放火癖は精神疾患に分類されているね。火を点けることに強い快感を覚えてやめられなくなるという病態で、高まった緊張感が解放されるのに興奮するらしい」
「病的放火犯が増えているということ?」
「それはどうかわからないけど、怨恨や権威・権力への反発もあれば、自己承認欲求のために火を点けることもある。世の中の閉塞感が強まっているのは間違いないかな」
「竜星君、詳しいね。どこかで勉強したの?」
「興味があったんで、そういう本を読んだだけだよ」
竜星が言う。
「いや、すごいや。竜星、沖縄に戻ってきて、県警の分析官にならないか?」
真昌が竜星を見た。
「おまえの後輩は嫌だな」
そう返すと、愛理と木乃花が笑った。
「笑うことないでしょうよ」
真昌がふてくされたように頬を膨らましていると、スマホが鳴った。
「ちょっとすみません」
すぐに真顔に戻り、部屋の隅に移動し、電話に出る。
「もしもし、安里です。はい、はい──」
話している姿を見つつ、木乃花が身を乗り出し、竜星に小声で話しかけた。
「真昌君、仕事の話している時の顔、けっこうイケてるよね」
「へえ、そうなのか」
「へえって何よ、へえって!」
「直接言ってやれよ。喜ぶぞ」
「ハズいじゃん」
木乃花は少し頬を染めた。
東京研修でちょくちょく会っているうちに、少しずつ木乃花の気持ちが真昌に傾いているようだった。
真昌を見やる。幼い頃から見知った仲。ヤンチャなガキだった真昌も、今はスーツの似合うまっすぐな目を持った青年に成長している。
それもこれも、真昌が努力を続けてきたからだ。その歩みを、木乃花はしっかりと感じ取っている。
真昌の成長と木乃花の変容を垣間見(かいまみ)て、穏やかな心地よさを覚える。
一方で、足踏みしているような自身の現状も思い知らされ、胸の奥がじくっとするような苦しさも感じた。
「──はい、わかりました」
真昌が電話を切って、戻ってきた。
「すみません。本庁に戻らなくてはいけなくなって」
「もう行っちゃうの?」
木乃花が淋し気に真昌を見やる。
「ごめんな。こっちにいる間に、また来るから」
真昌は笑顔を向け、竜星に目をやった。
「竜星、おまえも電車の時間があるだろう」
言われ、壁にかかった時計を見る。が、新幹線の時間まではまだ二時間ほどある。
真昌を見返す。真昌はかすかにうなずいた。
「ああ、そうだな」
竜星は立ち上がった。
「竜星君も? もう少しゆっくりしていけばいいのに」
「ごめんごめん。今日中に帰らなくちゃいけないからさ」
そう言い、愛理に顔を向けた。
「お邪魔しました。また、ゆっくり来ます」
「うん。沖縄に戻ることがあったら、紗由美さんと楢山さんによろしく伝えてね。あ、楢山さんは安達さんか」
「今でも楢さんと呼んでいるので、平気ですよ」
真昌が笑う。
「ここで大丈夫ですから。失礼します」
真昌は言い、一礼して部屋を出た。竜星も頭を下げ、真昌に続く。
二人して家を出て、駅に向かって歩きだした。
「竜星、わっさいびーん」
真昌は〝ごめん〟と声をかけた。
「いいよ。ちゃーさん?」
竜星も島言葉で〝どうした?〟と返した。
「益尾さんからの電話で、俺も岡山へ行くことになった」
「何かわかったのか?」
竜星の表情が締まる。
「おまえが持ってきたスマホ、まだ解析中なんだが、どうやらスメルトが仕込まれていたらしい」
「スメルト? なんだ、それ?」
「最近、一部の犯罪者の間で使われているメッセージアプリさ。ロシア語で〝死神〟という意味らしい」
「物騒な名前だな」
「基本的にはテレグラムのオープンソースを使っているみたいなんだが、遠隔操作でスマホを乗っ取ることもできるし、インストールした痕跡をほぼ完全に削除することもできる。それでも危ないと判断すると、スマホ自体がクラッシュさせられる厄介なアプリだ」
真昌は重い口調で話した。
「何を訊きに行くんだ?」
竜星が訊いた。
「今、サイバー班とトクリュウ対策本部がスメルトの入手経路を追っているんだが、これがまたよくわからなくてさ。ともかく、アプリで指示された人らに話を聞いて、情報を集めているところなんだ」
「そうか。警察でもつかめないアプリなら、僕がわかるはずもなかったな」
「いや、俺も詳しいことはわからないんだけどさ。なんか、おまえがいじった時、すぐに通信を遮断して、中身を保存か何かしたんだろ?」
「ただ通信は止めた方がよさそうだなと思って、遮断措置を取っただけだよ。SDカードには触れてない」
「それがよかったみたいでな。わずかに痕跡が残っていたそうなんだ」
「遠隔操作中だったのかもな。でも、その手のアプリなら、通信が遮断されると同時にアプリ自体が消去されるプログラムも仕込まれていると思うんだけどなあ。ソース改変した時に仕様をいじったのかな」
「よくわからんけど、この線からアプリの利用者を追跡したいみたいだな。一度、俺んちに戻って用意するんで、付き合え」
真昌が言う。
竜星はうなずいた。
2
黒塗りのミニバンが四谷三丁目の路地に入ってきた。
緩やかな下り坂に沿った白い土塀の途中に古びて煤けた木戸がある。その脇でミニバンは停まった。
助手席に乗っていた早崎が運転手に声をかけた。
「終わったら連絡するから、近くで待機してくれ」
そう言って車を降り、木戸へ駆け寄り扉を押し開ける。解錠されていたらしく、扉はすんなり開いた。
「先生」
早崎は後部のスライドドアを開け、二列目シートに座っていた岡本を見やった。
岡本はうなずき、車から降りると小走りで戸口の向こうへ消えた。
スライドドアを閉めた早崎はボディーをコンコンと叩くと、自分も木戸をくぐり扉を閉めた。
それを確認し、運転手はミニバンをゆっくりと発進させた。
木戸の向こうには、日本庭園が広がっていた。岡本たちが入った戸口からは行灯(あんどん)が置かれた石畳が続き、木立を抜けた先に料亭がある。
ゆるやかな勾配の切妻屋根の平屋で、表玄関から続く灯籠(とうろう)の明かりに照らされた佇(たたず)まいは趣がある。
広々とした玄関の脇に、<ひろ乃>と記された行灯ふうの壁面看板がかけられていて、ほんのり琥珀(こはく)色の明かりが灯(とも)っている。
早崎が引き戸を開ける。岡本が広々とした玄関に入ると、着物姿の女将が正座をして、三つ指をついた。
「お待ちしておりました」
頭を下げる。
岡本は靴を脱いで、取次に置かれたスリッパに足を通した。すぐに早崎が続く。
女将が立ち上がり、二人を先導する。
旧家の屋敷を改装した室内には、昭和の香りが漂っている。庭に面した廊下側の窓には大正ガラスが使われていて、手延べガラスならではの歪みが行灯の明かりを天の川のように揺らしている。
天井の電球傘も昔ながらの編み笠ふうの丸い形をしている。中の電球はLEDに替えてあるようだが、雰囲気を壊さないよう、少し暗めの杏子(あんず)色に調整されていた。
静かな廊下を進み、最奥の部屋の前で女将が立ち止まり、膝をついた。
「岡本様がお見えになりました」
「どうぞ」
少し掠(かす)れた声が聞こえた。
女将が両手で障子戸を開ける。総黒檀の大きな座卓の奥に園部の姿があった。
園部は髪を短く刈り込み、肌は灼(や)けた小麦色で、歯は白く、目と鼻が大きい中年男性だ。
サーフィンやテニスに勤(いそ)しむスポーツマンでもあり、爽やかで精力的な印象を与える。
ただ、対峙するとそのポジティブな雰囲気は相手を怯(ひる)ませるほどの圧を放つ。
「お迎えする立場で上座に座っていることはお許しください」
園部が笑顔で言う。
「いえ、こちらこそ、お忙しいところ時間を割いていただき、ありがとうございます」
岡本は一礼して、園部の対面に正座をした。
「まあ、膝を崩してください」
園部は言い、女将に目を向けた。
「少し話があるので、食事はその後で」
「承知しました。お話がお済みになりましたらお声がけくださいませ」
女将は頭を下げ、障子戸を閉めた。
園部は立っている早崎にも顔を向けた。
「早崎さん、申し訳ない。岡本先生と二人で話をしたいので、席を外していただけるかな」
「はい......」
早崎は岡本を見やった。岡本がうなずく。早崎は深く腰を折り、部屋の外へ出た。女性従業員が待っていて、障子戸を閉めた後、「こちらへ」と早崎を促す声が聞こえた。
足音が遠ざかり、静かになる。
「だらだらと話しても仕方ないので、さっそく本題に入りますが」
園部が改めて笑顔を作るが、目からは笑みが消えた。
圧が迫り、岡本の頬が硬くなる。
「私と共闘したいと、秘書から聞いているのですが、どのような意図でしょうか?」
園部がストレートに訊ねる。
岡本は一度深呼吸をし、園部を見やった。
「共に地方創生審議会の再開発地区開拓でしのぎを削っている間柄ではありますが、今のままでは梅沢翠の後塵(こうじん)を拝し、我々は二番手、三番手に甘んじることとなるでしょう。お互い、外様でもありますし、ここで梅沢にいいところを持っていかれれば、私たちが上に立つ芽はほとんどなくなる。なので、ここは一つ、私と園部先生が手を組んで、現在梅沢有利の再開発地区を奪えればと考えまして」
「なるほど。梅沢先生に出し抜かれるのは困るという点は私も同じです」
園部が同調する。
「では、私と共に──」
岡本は身を乗り出した。が、園部は小さく右手のひらを上げて、前のめりになる岡本を制した。
「申し訳ないのですが、私は岡本先生と手を組まなくても、梅沢先生には負けないと思っています」
笑みの奥に自信を覗かせる。
「何か策でもあるのですか?」
「ええ、まあ」
園部が言葉を濁す。
「何か秘策があるのなら、ぜひご教授いただきたい。今はとにかく、梅沢を独走させないことが肝要なので。お願いします」
岡本は座卓に両手をついて、頭を下げた。
「岡本先生、頭を上げてください」
園部が言う。
岡本はゆっくり上体を起こした。
「秘策でもなんでもないので、お教えすることはできるのですが」
園部は一旦言葉を切って、両指を組んだ手を卓に置いた。少しうつむいた後、上体を前に倒し、岡本を睨(ね)め上げる。
「聞けば戻れなくなりますが、よろしいですか?」
園部の双眸(そうぼう)が黒く光る。
岡本の背筋に冷たいものが走った。頬が引きつり、思わず生唾を呑む。
園部は笑顔を作り直し、上体を起こした。
「私としては、なるべくなら岡本先生を巻き込みたくはないので、今日のところはネタを明かさないことにしましょう。ところで、私からも一つご相談があるのですが」
「なんでしょう?」
岡本も笑みを作る。
「岡本先生が手に入れた再開発地区、最終的に私に譲っていただけませんか?」
「どういうことでしょう?」
岡本が気色ばむ。
「私個人でも梅沢先生に勝つ自信はあるのですが、さらに盤石にしておきたいんです。岡本先生の協力が得られれば、鬼に金棒。非主流派、なおかつ出戻りの外様議員である我々の時代を共に作りませんか?」
「つまり、園部先生が一番手で、私が二番手ということですか?」
「一番も二番もありません。同志です。私は表に立たなくてもいいので、ゆくゆくは岡本先生を総理大臣に推したいとも考えていますが、どうですか?」
園部が甘言で誘う。
岡本は園部の真意を測りかねた。本気で外様の下克上を狙っているのか、はたまた、自分を利用しようとしているだけなのか。
いずれにしても、園部と共闘しなければ梅沢勢の足元に埋没する。
岡本は腕組みをし、目を閉じた。この判断次第で、岡本の立ち位置が決する気がする。政治家としての勘を働かせる。
ゆっくりと腕を解(ほど)いて、目を開いた。
「わかりました。では、園部先生の戦略をお聞かせいただきたい」
腹を決めた。
「先ほども申しましたが、後戻りはできなくなりますよ。よろしいのですか?」
園部の目が鋭さを増した。
「共に戦いましょう」
まっすぐ見返す。
「では──」
園部が話し始めた。
冒頭の言葉を聞いた途端、岡本の両眼が見開いた。太腿に置いた両拳を握りしめ、全身の震えを抑え込む。
聞かなければよかった......。
後悔で頭の中が埋まり、そこから先の話は耳に入ってこなかった。
3
竜星と真昌が備中高梁(びっちゅうたかはし)駅に到着したのは、午後五時を回った頃だった。
里山に囲まれた街は暮れなずみ、茜色に染まっていた。
二人は駅を出て、ゆっくりと鎌田家に向かって歩いていた。
「のんびりしていいところだけど、南側は相変わらず寂れてるなあ」
真昌はスポーツバッグを肩に担ぎ、周りを見回しながら歩いている。
「確かに寂れているけど、僕はこれはこれで悪くないと思うんだよな。いろんなところを旅して回ったけど、再開発された街はどこも同じような造りになっていて味気ない。そういう意味では、ここは昔ながらの商店街や家並みが残っていて魅力的だ。これを維持していくほうが、後々には財産になると思うんだけどね」
「昭和レトロってやつか? けど、それじゃあ、ここで暮らす人たちは不便だろうし、ブームが去ればただの廃れた街になってしまうだろ」
「それはそうなんだけどな。ただ、なんでもかんでも開発ってのもなあ......。その土地ごとの歴史を消してまで都会風にすることはないと思うんだ」
竜星が渋い顔を覗かせる。
「まあ、おまえが言ってることはわからなくもない。島も内地や外国からいろんなのが入ってきていじりまくったせいで、すっかり変わってしまった。国際通りにあったオジーやオバーの店もなくなったし、ゆいレールの駅周りには背の高いビルばっか建つし。島を感じられるのは、スコールの時に傘もささずに歩いているときくらいさ」
真昌もため息をついた。
県道196号線を西へ進む。真昌もかつて訪れたことがある懐かしい商店街の風景が続く。
「なんか、空き地が増えたなあ」
真昌がぽつりとつぶやいた。
以前訪れた時は、シャッター通りではあったものの、まだ店舗や建物は残っていた。が、今はところどころが歯抜け状態で更地になっている。
「このあたりの土地は売られているのか?」
真昌が訊く。
「そうみたいだな。近頃、不動産屋みたいな人らがこの近辺をうろうろしてる。それと、ぽつぽつ起こる放火未遂のせいで、空いたままにしておくのを嫌がる人たちも出てきてる」
「なるほどな......」
真昌の目が鋭くなる。
竜星は真昌の表情を見て、ふっと微笑んだ。
「なんだよ」
真昌が竜星を睨む。
「いやいや、ほんと、おまえも刑事らしくなったなあと思ってさ」
「らしいってのはなんだ。刑事だっつうの、俺は」
「そうだな。わっさいびーん」
島言葉でごめんと言い、笑う。
歩いていると、竜星が働いている店の間口から鎌田君枝が出てきた。
「君枝さん、ただいま帰りました」
竜星が声をかける。
君枝が顔を上げた。
「おかえり。そちらは?」
真昌に目を向ける。
「沖縄県警の安里真昌です。希美さんのお母さんのことは、益尾からも伺っています」
「ああ、希美がお世話になった竜星君の友達の若い刑事さんか。その節はいろいろとご面倒をおかけしました」
君枝が頭を下げる。
「いえ、みなさん無事で事件が片付いてよかったです」
真昌は笑みを向けた。
「君枝さん、真昌はちょっと例の件を調べに来ているんです」
竜星が言うと、君枝の表情が硬くなった。それに気づき、真昌が笑顔で言う。
「心配しないでください。逮捕しに来たわけではないので。当人に少し詳しい話を聞きたいと思いまして」
「竜星君、話したの?」
君枝が竜星にきつい眼差しを向けた。
「益尾さんと真昌だけに話しました。協力してもらわなければならなかったので」
竜星はまっすぐ見返した。
真昌が口を添える。
「鎌田さん、竜星が持ってきたスマホに仕込まれていたアプリなんですが、実に悪質な代物で、全国の都道府県警が連携して解析を進めていたものでした。三宅君でしたか。鎌田さんの教え子さんに、アプリの入手ルートや相手からの指示など、詳しい話を聞いてきてほしいと益尾から指示があり、寄らせてもらった次第です」
真昌が丁寧に話す。
「そう。だったらいいけど......」
君枝はまだ不安そうに目を伏せる。
「君枝さん。やっぱり伸司君も警察官にきちんと話すことで罪を償うことになると思うんです。まだ若い彼にはそうした禊(みそぎ)も必要じゃないですか?」
竜星が言った。
「......そうね。何もなかったことにはできないものね」
君枝はふっと微笑んで、顔を上げた。
「教え子を守ろうとして、つい甘くなる。いけないことだとはわかっているんだけど。竜星君の言う通りね」
そう言い、真昌に目を向けた。
「今日はうちに泊まっていってください。伸司君も呼ぶので、ゆっくり話してくださいな」
「ありがとうございます。お言葉に甘えて、そうさせてもらいます」
真昌が頭を下げる。顔を上げて、竜星と目を合わせ、うなずいた。
4
伸司は君枝からの連絡を受け、出かける準備をしていた。
君枝の話では、東京から刑事が来ているという。逮捕はされないと言っているが、正直、気が重い。
自分の知っていることのほとんどは竜星に話した。それをもう一度、刑事の前で話せというのは、伸司の罪状を確定させようとしているのではないかとも疑ってしまう。
といって、このまま逃げれば、それこそ逮捕され、罪も重くなりかねない。
「行くしかないな......」
伸司はため息をついて、薄手のダウンジャケットに袖を通した。
部屋を出て、居間に顔を出す。窓際に敷きっぱなしの布団に母が横たわっていた。
「母さん、ちょっと出かけてくる」
言うと、三宅奈美子はゆっくりと体を傾け、伸司を見た。
「どこに行くの?」
「鎌田先生のところ。夕飯を一緒にどうかって言ってくれたから」
「そう」
奈美子は起き上がろうとした。
「あ、寝てなよ。母さんの食事も作ってくれてるそうだから、もらってくるよ。ちょっと遅くなるかもだけど、帰ってくるまで待ってて」
「わかった。気をつけてね。鎌田先生とヨシさんによろしくね」
「伝えとくよ」
伸司は笑みを作って見せ、背を向けた。すぐに顔から笑みは消える。
スニーカーに足を通し、玄関を出て、鍵をかける。
鎌田家までは歩いて十五分くらい。駅から大橋に向けてまっすぐ延びる県道196号線は車も人通りも少ない。
ポケットに手を突っ込んでうつむきながら暮れてきた街をとぼとぼと歩き、高梁大橋の交差点で信号待ちしていると、後ろから声をかけられた。
「よお、伸司」
声を聞いてすぐ、相手が誰だかわかった。
吉岡哲樹(よしおかてつき)だ。
吉岡は一年先輩で家も近い。物心ついた時から見知った間柄で、保育園から高校まで、ずっと同じ学校に通った。
だが、家が近かったというだけで、吉岡のことは先輩だとも幼なじみだとも思っていない。
それどころか、伸司の引きこもりの一因でもあった。
吉岡も貧しい家の子供だった。
貧しい者同士、助け合う......なんていう話はよくあるが、現実は違う。
貧しい者たちの中でもヒエラルキーが存在し、より貧しく、より弱い者をいじめ、奴隷のように扱(こ)き使おうとする。
吉岡は近所の貧しい子供たちを集め、リーダーを気取っていた。お山の大将でしかないが、狭い街のこと、特に子供の頃は、それが絶対的な力関係となる。
伸司もなんとなくその集まりの中にいた。誰かと親しくなりたかったわけではない。だが、何もなくても時々顔を出しておかないと、顔見知りすらいなくなる。
子供にとって、誰にも相手にされず孤独でいることは、これもまた耐え難い。
複雑な気持ちを抱えたまま、付かず離れずで歳を重ねていった。
中学生、高校生になると、知り合いの幅が広がる。その分、お山も大きくなり、近隣の強いボス猿と接触する機会も多くなる。
小さな小さなお山の大将でしかなかった吉岡は、中学に上がるとあっさりその鼻をへし折られ、他の地域から来たボス猿の軍門に降った。
吉岡と共によそのボス猿の手下となった者も多かったが、彼の情けない様を見て、離れていく者もいた。
伸司は別に吉岡に失望したわけではないものの、いい機会だったので、吉岡やその一派から距離を置いた。
コミュニケーションを取るのはうまくない。なかなか友達はできなかったが、独りでいる時間は穏やかで、意外に悪くなかった。
なにより、吉岡の理不尽な要求に従わずに済む日々は、心に安寧をもたらした。
しかし、そんな平和も長くは続かなかった。
中学一年の夏休み、本屋で本を見ていた時、吉岡と仲間が万引きしようとしているところに出くわした。
伸司は本棚に身を隠して、様子を見ていた。注意すべき、もしくは店主に言うべきなのはわかっていたが、怖くて勇気が出ない。
どうしようかと迷っているうち、吉岡の仲間と目が合ってしまった。
そいつが吉岡に声をかけると、他の仲間も顔を上げ、伸司を睨みつけてきた。
伸司は目の前の本を取って、カウンターに向かった。大人と接触すれば、逃げられると思ったからだ。
はたして吉岡たちは、伸司がカウンターへ行ったのを見ると、何も盗らず出ていった。
もちろん、伸司は店主に何も言わなかった。とりあえず、万引きを止められただけでも良かったと思った。
だが、吉岡たちは伸司が店主に自分たちのことを伝えようとしたと思ったようだ。
翌日、登校するとすぐ、吉岡たちに呼び出された。お決まりの体育館裏だ。散々腹を殴られ、万引きのことは絶対に口外しないよう、言い含められた。
その日から、登校するたびに嫌がらせを受けた。殴る蹴るは毎度のこと。教科書や筆箱を隠されたり、カバンにゴミを入れられたり。帰り道も待ち伏せされ、河原に連れて行かれて、暴行を受け──。
地獄の日々とはまさにこのことだった。
それでも学校に通い続けたのは、母親を心配させたくなかったからだ。幸い、吉岡たちは大人に暴行を気づかれないよう、顔だけは傷つけなかった。
母は父が死んでからずっと、朝から晩まで働いて、自分を育ててきてくれた。
だから、我慢して、通い続けた。
高校になれば、吉岡たちからも離れられる。そう信じて、こつこつと勉強をし、嫌がらせにも耐え、その日を待ち続けた。
しかし、高校で離れることはできなかった。県外の高校に合格はしたものの、学費を工面できず、母親を一人にしておくこともできなかったので、あきらめて地元の高校への進学を決めた。
そこに吉岡はいた。その仲間たちまで同じ高校に進学していた。
吉岡たちはすぐ伸司に目を付け、いじめを再開した。
中学時代の悪夢は終わらなかった。
母は高校入学を喜んでいた。その笑顔が忘れられない。だから、今度も我慢した。
我慢して我慢して、ひたすら耐え抜いた。
が、吉岡たちの暴走は止まらず、日に日にエスカレートしていき、ついには金をせびるようになった。
当然、懐に余裕などない。すると、物を盗んで来いと言い出した。
さすがに耐えられず、無視して学校に行こうとした。しかし、玄関を出ところで足が動かなくなった。
翌日には、玄関で靴を履くこともできなくなり、ついには部屋を出られなくなった。
気持ちは外に向いている。しかし、体が動いてくれなかった。
もどかしく、はがゆく、情けなく、どうにもならない感情が爆発し、突然怒鳴ったり、壁を殴って傷つけたりした。
自分が壊れていくようだった。
母に申し訳なくて仕方がなかった。だが、母は何も言わず、いつもドアの外から話しかけてくれ、食事を置いておいてくれた。
死のうとしたこともある。が、母の作った料理を食べるたびに涙があふれ、そのたびに母を悲しませるわけにはいかないと、生きる気力を振り絞った。
なんとかしなければともがいているうちに、ずいぶん長い年月が経ってしまった......。
闇バイトのおかげといってはなんだが、ようやく表に出られたと思ったものの、すぐに竜星に捕まり、こっぴどく説教を喰らったのだ。
けれど、一方でよかったとも思っている。
本当にあのまま、先生が働く花屋を燃やしてしまっていたら、一生後悔しただろう。
バカなことをしたと今は心底反省している。
だから、気は重くても、刑事が待っていると聞いても、勇気を振り絞って出かけてきた。
なのに、よりにもよって、最も会いたくないヤツに出くわしてしまった。
この街にいる限り、吉岡から逃れられないのかと思うと、本当に気が滅入る。といって、引っ越す余裕はない。
肩越しにちらりと後ろを見やる。
吉岡の仲間たちもいた。見慣れた顔もあれば、自分より若い者もいる。
「伸司、引きこもりじゃなかったんか?」
吉岡が伸司の肩に右腕を回した。七分袖から覗く前腕には、シャツ柄のような刺青が覗く。
「表に出てきたんなら、また仲良くしようや。な」
そう言って、伸司の二の腕を握る。伸司は痛みに顔をしかめた。
「ちょっと付き合え」
「僕は行くところが......」
「いいから、付き合えよ」
吉岡はさらに強く二の腕を握った。筋肉がちぎれそうだ。後ろにいる仲間たちもにじり寄ってくる。
従うしかなかった。
信号が変わり、国道313号線を渡って、橋の手前を左に折れて南西方向へ歩く。この道路はロマンチック街道と呼ばれているが、むさくるしい野郎どもに囲まれては、ロマンチックも何もなかった。
歩道が広くなったところから河川敷に降りていく。昨日降った雨のせいで、少し水量が増した川がざわめいていた。
河川敷は薄暗く、護岸壁と雑草で周囲からは見えにくくなる。ここは学生時代に何度も吉岡たちに連れて来られた場所で、嫌な思い出しかない。
吉岡は伸司を突き飛ばすように離した。伸司はよろよろと前に歩き、振り返ると、河川敷へ降りる坂道の口を塞ぐように、吉岡と仲間たちが横並びに立った。
「伸司、おまえ今、何しよるんか?」
吉岡が訊く。
「何もしてないけど......」
「嘘つけ」
吉岡は肩を揺らし、近づいてきた。顔を近づける。
「おまえ、花屋に火を点けようとしとったじゃろうが」
小声で言った。
「なんで......!」
伸司は吉岡を見た。
吉岡はにやりとして、上体を起こし、胸を張った。
「この街で起きとることは、なんでもわしの耳に入ってくるからの。なんで、放火なんかしようとしたんじゃ?」
吉岡が訊いてくる。
伸司は返事をせず、うつむいた。
と、吉岡が言った。
「闇バイトじゃろ?」
その言葉に思わず顔を上げた。
吉岡だけでなく、取り巻きの仲間連中もにやにやしている。
「心配すんな。わしらもやっとる」
「えっ?」
伸司が驚くと、吉岡は右隣の仲間に顎を振った。男は自分のスマホを出し、メッセージを表示して、伸司に見せた。
伸司が受信したメッセージと同じものだった。
「闇バイトは騙しが多いんじゃけど、わしはルートを持っとるけん、わしとおりゃあ、取りっぱぐれはないんじゃ」
吉岡は言い、また伸司の肩に手を回して、顔を近づけた。
「わしらと組んで、燃やさんか? 太い金が入るで」
悪魔の誘いだった。母の寝ている姿がよぎり、一瞬心が揺らぐ。しかしすぐ顔を振った。やんわりと吉岡を押しのける。
「ごめん。僕はもう、そんなことしないから」
「いいのか? サツにチクるで」
吉岡が言う。
心臓がきゅっと締まった。放火しようとしたのは事実だ。警察に通報されれば、逮捕されるだろう。
「なあ、伸司よ。わしらみたいなモンは、手でも汚さんと、ステージには上がれんのよ。元々がマイナスなんじゃけ、まずはゼロにせにゃおえんじゃろうが。この街のモンがわしらを助けてくれたか? 貧乏人の子じゃ言うて、ちょっと悪さすりゃあ、ほら見たことかと石投げられて。わしらが何した言うんじゃ。そねえな連中の家なんか、燃やしちゃりゃあええじゃないの。違うか?」
吉岡が詰めてくる。
それは伸司も感じていたことだ。優しい人、手を差し伸べてくれる人もいる。
だが、ほとんどの人は無関心だ。関われば、とばっちりを食うと考える人もいる。
そうした周囲の目や声に押され、距離を置かれ、いつしか〝いない者〟として扱われるようになる。
正直、吉岡が言っていることも理解できる。
しかし......。
伸司は顔を上げた。
「ごめん、吉岡さん。やっぱ、僕はできない」
そう言い、吉岡をまっすぐ見つめる。
「僕のことは警察には言わないでください。代わりに僕も今聞いたことは忘れます。これでお互いチャラということで勘弁してください」
伸司は言い、吉岡の脇をすり抜けようとした。
吉岡が伸司の腕をつかんだ。伸司が腕を振りほどこうとする。
と、いきなり、頭突きを入れられた。
鼻が折れたかと思った。よろよろと後退し、尻から落ちる。そこに吉岡の蹴りが飛んできた。爪先が腹部にめり込んだ。
伸司は腹を押さえて、唾液を吐き出した。血が混じっている。
吉岡の仲間が半円になって伸司を囲んだ。吉岡が近づいてきてしゃがみ、髪の毛をつかんで伸司の顔を上げさせた。
「伸司のくせにわしに条件出すとは、ええ度胸しとるのお。おまえとわしゃ、対等か? そうじゃねえじゃろ?」
そう言い、頬を平手でひっぱたく。鼻孔から垂れた血が河原の石に飛び散った。
「ほいじゃあの。命令しちゃる。わしの言うとこに火ぃ点けてこい」
「嫌......です」
返すと、また平手が飛んできた。
「命令じゃ言うとろうが。火、点けてこい」
「嫌です」
三度、ビンタされた。
腕っぷしはさほど強くなかったはずの吉岡だが、会わない間に鍛えたようだ。分厚い手のひらの衝撃は頬の奥に響き、奥歯を揺らす。
「火を点けてこい」
吉岡が低い声で命じた。
伸司はうなだれた。地獄の日々を思い出し、体が硬くなり、震える。
怖くて仕方がない。学生時代も怖かったが、刺青を入れ、目つきの悪い仲間を引き連れている吉岡はもっと怖い。
とはいえ、ここで吉岡の言いなりになれば、この先一生、吉岡から逃れられなくなる。そのうち、強盗をさせられ、しまいには人を殺して刑務所暮らしとなるかもしれない。
それでいいのか......。それでいいのか!
心が叫んだ。
伸司は顔を上げた。
「嫌だ! 僕はやらない!」
きっぱりと言い切り、吉岡を睨む。
「おんどれ......。死ねや!」
吉岡が右拳を振り上げた。
伸司は目をつむって、背を丸めた。顔の前で腕をクロスする。殴り倒された後、吉岡の仲間に徹底的な暴行を受けるだろう。
従えばよかったのか。いや、たとえ死ぬことになっても、これでよかった。
よかった!
伸司は覚悟を決め、拳を握った。
と、道路の方から、声が聞こえてきた。
「よく言った、にーにー!」
伸司は目を開いた。道路のガードパイプの先にスーツを着た小柄な男がいた。
吉岡とその仲間も男を見上げていた。
「何見てんだ、おっさん! 殺すぞ!」
吉岡が怒鳴った。伸司はびくっとした。
「殺すだと? 近頃の若者は怖いねえ」
男は言うと、ガードパイプを飛び越え、河川敷に飛び降りてきた。
二メートル近くある高さだったが、男はなんなく着地し、スッと立ち上がる。
「伸司君!」
また別の声が聞こえた。見上げる。竜星が立っていた。
「なんだ、てめえら!」
吉岡の仲間が一斉に怒鳴る。
竜星もガードパイプを飛び越えようとする。と、飛び降りてきた男は竜星を振り返って言った。
「こっちは大丈夫だ」
右手を上げる。
「真昌!」
竜星が叫んだ。
吉岡が迫ってきていた。打ち下ろしの右フックを真昌の左頬に浴びせる。真昌が少し膝を曲げた。
「よそ見してんじゃねえよ、おっさん」
吉岡が真昌を睨む。
吉岡の仲間たちは一瞬色めき立ったが、倒れない男を見て、笑みが消えた。
男はゆっくりと顔を上げた。
「効かねえなあ」
にやりとする。
吉岡は左フックを振り回した。男の右頬に拳がめり込み、顔が振れる。それでも男は脚を踏ん張って、倒れる気配を見せない。
男は笑みを見せたまま、顔を突き出した。
「ほら、もっと殴ってみろ」
「ふざけんな、こら!」
吉岡は右回し蹴りを放った。
男は腰を落として、左腕を顔の横に立てた。前腕一本で吉岡の蹴りを受け止める。
「こらこら、俺は殴れと言ったんだ。蹴れとは言ってねえぞ。それとな」
吉岡の脚を弾(はじ)く。
「蹴りってのは、こうするんだ」
男の右脚がかすかに動いた。
次の瞬間、男の脛(すね)が吉岡の首筋にめり込んでいた。
男が脚を振り抜くと、吉岡が真横に吹っ飛んだ。護岸壁に体を打ちつけ、跳ね返って河川敷に倒れる。横倒しになった吉岡は、白目を剥いて、ひくひくと痙攣(けいれん)していた。
「近頃の若者は弱いなあ」
男は笑って、伸司に歩み寄った。
「伸司君だな? 竜星のダチの真昌だ」
「じゃあ、刑──」
言いかけた時、真昌はシッと口を噤(つぐ)ませた。
「見てろ。おまえが怖がっていた連中なんざ、たいしたことねえから」
伸司の肩をポンと叩いて、前に出る。
そして、吉岡の仲間を睥睨(へいげい)した。
「おら、根性あるヤツはかかってこんね!」
声を張る。
若者たちは一様にびくりとした。一人が逃げ出す。と、一人、また一人と真昌に背を向けて走り去った。
上で竜星が身構える。
「ほっとけ、竜星!」
真昌が声をかけた。
竜星は走り去る男たちの後姿を見やり、河川敷に降りてきた。
「無事か、伸司君」
「安達さん、どうしてここへ?」
「君のことを信じていないわけではなかったんだけど、万が一途中で気が変わっちゃいけないと思ってね。迎えに来たんだ」
「逃げると思ったんですか?」
伸司が睨む。
と、真昌が伸司に笑いかけた。
「刑事が一緒って聞いたら、ビビっちまうだろ? 俺がこっちから行った方がいいって言ったんだ。竜星は最後まで躊躇してた。許してやれ」
伸司の背中を叩く。伸司が咳き込んだ。
「おー、悪い悪い。で、こいつはどうする?」
真昌は伸びた吉岡に目を向けた。
「このまま放っておけばいいだろう」
竜星が言う。
「だな。行くか」
伸司の肩に手をかける。
「ちょっと待ってください。さっき、吉岡さんが言ってたんですけど」
「吉岡って、こいつか?」
真昌の問いに、伸司がうなずく。
「放火の件なんですけど、僕だけじゃなくて、吉岡さんやその仲間も関わっていたみたいなんです」
伸司が言う。竜星と真昌の目が鋭くなった。
「さっき逃げたヤツらの一人が、僕と同じ通信アプリで放火の指示を受けていました。ほとんどは〝騙し〟らしいんですが、吉岡さんには〝ルートがある〟らしく、取りはぐれることはないと話していました」
伸司は見聞きしたことを正直に話した。
「そいつは聞き捨てならねえな」
真昌は吉岡の脇に屈(かが)んだ。うつぶせにして両腕を後ろにねじ上げ、手首に手錠をかける。
「逮捕するのか?」
竜星が覗き込む。
「しょっ引いて吐かせるのが一番だろう。竜星、伸司君を病院へ連れて行って、診断書を取って来てくれ。こいつを傷害で引っ張る」
真昌は言い、吉岡を仰向けに起こした。
「ほら、起きろ」
平手で吉岡の頬を軽く叩く。
吉岡は目を開いた。真昌を認め、睨む。起き上がろうとして、自分の両腕が拘束されていることに気づいた。
「何してんだ、おっさん!」
怒鳴る吉岡の前に、真昌は身分証を突き付けた。
「沖縄県警組織犯罪対策課の安里だ。おまえを三宅伸司君への傷害と俺への公務執行妨害の現行犯で逮捕した。今から、所轄署に来てもらうぞ。立て」
吉岡の髪の毛を引っ張る。
吉岡は顔を歪(ゆが)めて、立ち上がった。と、いきなり、頭突きを真昌の胸に当てた。不意を突かれ、真昌が少し後ずさる。
吉岡は踵(きびす)を返すと、川へと走った。
真昌が追いかけ、右手を伸ばす。襟首に指が触れようとした時、吉岡が暗い川に飛び込んだ。
流れが速い。吉岡の体はみるみる下流に流されていく。
「バカやろう!」
真昌は川に飛び込んだ。
「真昌!」
竜星も追おうとする。伸司が腕を握った。
「ダメです! 高梁川は流れが速くて、深い場所もある。釣り人が溺れ死んだりもしているんです!」
伸司が大きな声を出す。
竜星は立ち止まり、警察に連絡を入れた。
「高梁大橋の交差点付近で、二人の男が川に飛び込みました。救助をお願いします!」
暗い川に目を凝らし、竜星は声を張った。
5
真昌たちから逃げた男の一人が、隠れて河川敷の様子を監視していた。両サイドを刈り上げ、頭頂に残った髪をバックに流している。
左の目尻から耳の後ろにかけて、蛇の刺青が入っていた。
男は吉岡が飛び込んだのを視認すると、すぐにスマホを取り出して、ある人物に連絡を入れた。
「もしもし、山形です。吉岡さんが捕まりそうになったところで川に飛び込みました。両手首は後ろで縛られていたみたいです。はい......川は増水してます」
話していると、パトカーや消防車のサイレンが聞こえてきた。
「救助が来ました。どうしますか? はい、はい......わかりました。できる限りのことはしてみます」
山形は電話を切った。
後ろにはまだ幼さの残る顔立ちの少年がいた。
「おい、仲間を集めろ。サツが見つける前に、吉岡さんを川の中から拾う。徹底的に探せ。サツや消防に見つからねえようにな」
「拾えなかったら、どうします?」
「オレが撤収の指示を出す。その時は捕まらねえように個人個人で逃げろ」
「わかりました」
少年はさっそくスマホを片手に川の方へ走り、河川敷に下りていった。
山形は少年を見送った後、河川敷に残っている竜星と伸司を鋭い目で見据えた。
(つづく)
Synopsisあらすじ
各地で相次ぐ放火事件。
伝説のトラブルシューター「もぐら」こと影野竜司の血を引く竜星は、
違法売春組織摘発の過程で法を逸し、懲役三年執行猶予五年の判決を受けた。
事件で知り合った鎌田希美の実家に身を寄せた竜星は、
そこで奇妙な共通点をもつ放火事件のひとつに出くわす――。
Profile著者紹介
1964年兵庫県生まれ。文芸誌編集などを経て、小説家へ転向。「もぐら」シリーズ(小社刊)は130万部を突破した。他の著書に「リンクス」シリーズ、「D1」シリーズ、「ACT」シリーズ、「警視庁公安0課 カミカゼ」シリーズ、『紅い塔』『桜虎の道』『SAT‐light 警視庁特殊班』などがある。
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