赤星鉄馬という人物をご存じでしょうか?

「武器商人」として莫大な資産を築いた赤星弥之助の長男として、明治15年東京に生まれた鉄馬に関するエピソードをいくつか挙げると――

・約20億円の資金を提供し、日本初の学術団体「啓明会」を設立、柳田國男らの研究を助成

・ブラックバスをアメリカから芦ノ湖へ移入

・弟の四郎や六郎らとともに日本ゴルフ界の草創期を牽引

・朝鮮半島で広大な牧場を経営、馬生産事業を興す

・吉田茂、樺山愛輔らと深い親交を結ぶ

 これだけの人物が、なぜ何も書き残さず、静かに姿を消したのか。
 ノンフィクション作家の与那原恵氏が、その実像を6年がかりで追った力作。
「プロローグ」をご紹介します。


------〈プロローグ〉------

 昭和二十六年(一九五一)秋。サンフランシスコ講和条約に署名した日本は、苦しい戦後がようやく終わろうとする解放感に満たされていた。

 そのころ、赤星鉄馬は神奈川県大磯の海辺で釣り糸を垂らす毎日だった。

 ととのえられた白髪、きちんとした身なり、かたわらにはよく手入れされた釣り道具がある。彼の釣り好きは少年のときからで、その始まりも大磯の海だった。

 秋の訪れを告げる風が吹いている。鉄馬の大きな瞳は、寄せては返す波を静かに見つめていた。そのうしろ姿は、おだやかな隠居生活を送る人そのものだっただろう。

 この年十一月、鉄馬は体調を崩し、一週間ほど床に伏せたのち死去した。新聞の訃報欄が短く伝えている。

赤星鉄馬氏(元千代田火災監査役)八日午前八時神奈川県大磯町の自宅で仮性尿毒症で死亡。六十九歳。
                                          (『毎日新聞』昭和二十六年十一月九日付)

 簡潔な訃報記事は、故人が名の知れた企業の監査役を務めていたことを紹介するのみで、波乱に満ちた生涯をうかがい知ることはできない。けれどもそれは致し方ないことだった。

 明治十五年(一八八二)に東京で生まれ、激動の時代を生きた鉄馬は、自身の人生、彼の周囲を彩った人物たちとの交友や、歴史的な場面に立ち会ったときのエピソードについて、書くことも、インタビューに応じることもなかった。

 ただ、釣りに関してのみ、原稿を執筆し、雑誌の座談会にも登場している。鉄馬は大正十四年(一九二五)、ブラックバスを日本に移入したことでルアーフィッシングの世界では名をのこしているのだ。

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釣り好きの鉄馬はブラックバスを芦ノ湖に移入した

 また、日本のゴルフ草創期にも顔をのぞかせる彼は、スマートな趣味人として語り継がれ、時の流れの中に姿を消していった。おそらく、それが彼の望んだことだった。

 私が赤星鉄馬の名を最初に知ったのは、釣りやゴルフとはまったく異なるアプローチだった。日本初の本格的学術財団といわれる「啓明会」の創設資金を提供した当時三十六歳の実業家として、印象的なその名を目にしたのだ。

 大正七年に創設された啓明会の特色は、「特殊ノ研究、調査、著作ヲ助成」(啓明会総則)することにあった。ほかの研究機関ではなかなか取り上げられないテーマであっても、「独創的特異的」研究を積極的に支援していく、という方針をとり、とりわけ基礎的な文献や資料の収集、編纂、出版に力を注いだ。

 助成事業の研究テーマは幅広く、人文系・社会系・自然系と多岐にわたっており、多額の研究助成は二百八十件に達している。啓明会は、近代日本の学術研究の基礎を築いたといってよく、設立当時は国内の全研究助成費の五分の一を占めるほどの大きな存在感を示した。だが、いまではその存在は忘れ去られている。

 私は、ある人物の評伝を執筆していたおりに啓明会を知り、会が刊行した冊子や記念誌、関係者による記録を探し出したのだが、啓明会は鉄馬個人が百万円(現在の貨幣価値にして二十億円)を提供して設立されたという事実に驚いた。

 そのうえ、財団に「赤星」の名を冠することを固辞し、鉄馬本人ばかりでなく、赤星家関係者も会の運営にはまったく関わらない方針を貫いていた。

 鉄馬はパトロンとしての立場に徹し、設立十年、二十年といった節目の式典においては列席するものの、挨拶を述べることもなかった。資金提供者からこれほどまでに独立した学術財団は世界的に見ても珍しいといわれる。

 それにしても普通、財団設立といえば功成り名遂げた人物がその資産を社会に還元すべく思い立つものだろう。さらにいえば、自身の名を後世に残したいという思惑もあるはずだ。けれど鉄馬はそうした名誉欲を持たない人だった。

 三十六歳というのも、財団設立者としては珍しいほどの若さである。しかも、啓明会への貢献を本人は一切語らず、書かず、ただ趣味人として知られるばかりなのだ。私にはそれが謎だった。

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鉄馬が設立した学術財団「啓明会」に柳田國男が提出した助成金申請書

 赤星鉄馬その人に興味がわいた。
 財団設立に百万円を提供した彼は、ありあまるほどの財力を持つ鷹揚な若き富豪だったのだろうか。

 実際、彼の資産は目を見張るものだった。

「大日本百万長者一覧表」(明治四十三年)に赤星鉄馬の名がある。当時二十八歳の彼の資産は三百万円。同額の資産で名を連ねるのは、錚々たる実業家たちである。

 鉄馬は多くの土地も所有しており、東京市の「地籍台帳」(明治四十年)によれば、洋館の自邸がある麻布鳥居坂のほか、東京の一等地に複数の土地を所有し、さらに大磯にはイギリス人建築家ジョサイア・コンドル設計の別荘をかまえていた。

 この若さでこれほどの資産を持ったのは、なぜなのだろう。

 莫大な資産は鉄馬が築いたものではなかった。明治三十七年に他界した父弥之助の資産を鉄馬は受け継いだのである。

 幕末、動乱期の薩摩で生まれた弥之助は、薩摩の人脈を背景にして明治という時代を一気に駆け上り、主に海軍関係の事業によって巨万の資産を得たといわれる。だが、その事業内容や経緯はよくわかっていない。

 それでも存命中に富豪として名をとどろかせていたのは確かなことで、明治三十四年の「日本全国長者番付」(五十万円以上の資産家四百四十一名)にその名が登場している。ただし肩書欄は空白である。『人事興信録』(明治三十六年)での弥之助の職業は「金貸業」とされている。

 明治期に多数出版された富豪列伝にも弥之助は一切描かれておらず、彼が取材に応えたものも見当たらない。ゴシップがしばしば掲載された当時の新聞に、わずかに登場するものの、彼に対する評価は芳しいものではない。

 やり手の人物に悪評はつきまとうものだが、弥之助はそれをものともせず、資産を蓄え、多くの土地を手に入れていった。また弥之助は美術品蒐集でも名を馳せた。その豪快な買い漁りは、まるで鰐が大口を開けているようだともささやかれた。

 弥之助は明治期の立身出世物語の典型的人物であったが、その人生は五十歳の絶頂期にあっけなく終わってしまった。

 父の資産を継いだ鉄馬は米国留学中のぼんぼんだった。ペンシルベニア大学在学中はアメリカの財閥子弟と親しくし、富裕層ならではの華麗なエピソードも伝えられている。通算八年におよんだ米国留学だが、父の死により家督を継ぐために帰国することになる。

 こうして若き資産家となった鉄馬に対する世間の風当たりは厳しく、「富士山が一夜で出来た様な不可思議な富豪」と新聞で揶揄されたりもした。弥之助・鉄馬父子が新聞にしきりに取り上げられたのは、大正三年に起きた日本海軍高官への贈賄事件「シーメンス事件」の際である。

 薩摩閥と海軍との密接な関係が大問題となった事件だが、鉄馬は関与していない。にもかかわらず、この事件の先例として、すでに他界して十年を経ていた弥之助と海軍の関係が取り沙汰されたのだった。弥之助が日清戦争などに乗じて「濡れ手で粟」のように得た資産を鉄馬がそっくり引き継いでいることを批難する論調である。

 シーメンス事件から三年後の大正六年、鉄馬は弥之助がのこした膨大な美術品を売却した。「空前絶後」といわれた「赤星家売立て」である。その美術品の中には現在国宝となっている名品もあり、売上げの総額は五百十万円(現在の貨幣価値にして百億円以上)に達する。
 その五分の一を翌年の啓明会創設資金として提供したのは、鉄馬、そして弥之助に対する厳しい世評と無関係ではなかったのだろう。

 しかし鉄馬は父の資産をただ蕩尽しただけではなかった。

 自身も薩摩閥の人脈を背景に「泰昌銀行」を開業(大正三年)し、さらに朝鮮で大規模な農場「成歓牧場」(大正四年設立)などの事業を興してもいる。

 なぜ鉄馬は朝鮮で農場を開くことになったのか、そのいきさつや、農場の実態は長くわからないままだったが、やがて私は成歓農場の歴史をひもとく資料に出会い、韓国を訪れ、この農場の敷地が現在は国立の畜産科学院となっていること、また朝鮮伝統様式の鉄馬邸が現存していることを知る。

 赤星家が所有した土地は、大正末期から、鉄馬が親しくした財界人に売却され、さらに時代の荒波の中で資産は減少していった。また、泰昌銀行は昭和の大恐慌で人手にわたり、朝鮮の成歓農場は日本の敗戦によってすべてを失った。けれど、鉄馬はそれを嘆くことさえなかったという。

 父弥之助が時代の機運に乗じて築いた資産は、時代の流れの中で失うこともある、そう達観していた節がある。

 それでも啓明会は、当初の理念どおりに資金提供者から独立した学術財団として、終戦間際まで研究助成事業を続行した。実質的な活動は終戦により終わるのだが、その後も細々ながらも運営され、ひっそりと終止符が打たれるのはじつに平成二十二年(二〇一〇)である。鉄馬の没後、約六十年にわたって存続したが、そのことを本人が知る由もない。

 一代目が築いた事業をさらに拡大していくこと、資産を増やすことは二代目に負わされた宿命であるともいえるが、鉄馬はその宿命におだやかに抗ったのではないだろうか。
弥之助は自らがなし得なかった「赤星財閥」形成の夢を託したにちがいないが、鉄馬がそれに応えることはなかった。

 赤星鉄馬は一代目が築いた財産を放蕩した典型的な「二代目」だったという見方もあるのかもしれない。けれど私には、父弥之助が築いた資産を少しずつ失っていくことが、彼の一生を賭けた「事業」だったように思えてならない。
そうして自分の姿を消していく――、意識的にそれを選んだのではないだろうか。

 東京・青山霊園(青山墓地)に赤星家の墓がある。ひときわ広い墓所で目を引くのは、鉄馬が建立した台座をふくめ高さ四メートルもある弥之助と妻静の墓碑である。

 そのかたわらに、鉄馬の弟姉妹と、その配偶者や子どもたち十三人の名が刻まれた墓碑がある。夭逝した姉弟など、没年の順に名が記され、鉄馬の名は六番目に埋もれている。彼が赤星家の家督を継いだ長男であることは墓碑からはわからない。

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東京・青山霊園の中でもひときわ目をひく、父弥之助と母静の墓碑

 鉄馬の遺言によるという、その墓碑は一メートルにも満たない。墓所内のふたつの墓碑のきわだつ大小が、明治という時代を駆け抜けた弥之助と、その後の時代を生きた鉄馬の人生のちがいを物語っている。

 弥之助が築いた資産はあらかた失われたが、鉄馬は近代学術研究という目には見えない大きな資産を後世にのこしたのである。

 姿を消した富豪、赤星鉄馬を探してみようと思った。

 そうして私は、鉄馬の血脈につながる人々の驚くべきダイナミックな人生や、その交友関係を知っていくことになる。

 鉄馬は評伝に描かれることを注意深く避けるかのように一生を終えたが、それでも私は彼を知りたい。

 富豪の人生という、私にとってはまったく異次元の世界ではあるけれど、彼を通じて日本近代史の一端に触れられる予感がする。鹿児島、アメリカ、韓国。鉄馬を追う私の旅が始まった。

『赤星鉄馬 消えた富豪』

与那原恵:1958年東京都生まれ。96年『諸君!』掲載のルポで編集者が選ぶ雑誌ジャーナリズム賞作品賞を受賞。2014年、『首里城への坂道――鎌倉芳太郎と近代沖縄の群像』で第2回河合隼雄学芸賞、第14回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞を受賞。他の著書に、『美麗島まで』『サウス・トゥ・サウス』『まれびとたちの沖縄』『わたぶんぶん――わたしの「料理沖縄物語」』『帰る家もなく』などがある。