東京大学で認知科学や発達心理学の研究に従事する針生悦子先生。先生は生後6~18ヶ月くらいの赤ちゃんの「驚き反応」に着目することで、人がどのようにことばを聞き取り、理解していくかという言語習得のプロセスを明らかにしてきました。

 それら研究成果を踏まえ、これまでに判明した驚くべき知見を紹介しているのが新刊『赤ちゃんはことばをどう学ぶのか』です。

 何も知らない赤ちゃんは、生まれて初めて耳にした「音」をどのように「ことば」として認識していくのでしょうか? 子どもは本当に「あっ」という間にことばを覚えることができている? 生まれた時から外国語に触れてさえいれば、ラクラクとバイリンガル?

 無垢な笑顔に隠れた絶大なる努力に驚かされる一冊から「はじめに」をご紹介。この本を読めば、あらためて目の前の赤ちゃんへ敬意を抱くこと間違いなし!

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<はじめに>

――ぐいぐいとさまざまなことができるようになっていく赤ちゃん――

 私はここ10年ほど、2歳くらいまでの子どもたちに研究室に来てもらって、言語やその周辺の発達について調べています。

 これだけ小さな子どもたちにどんなことをしてもらい、それで何がわかるのか、といえば、たとえば、同じ画像や音を何度も繰り返し見たり聞いたりしてもらいます。そうすると、だんだん飽きてきて、あまりそれに注意が向かなくなります。そこで、呈示する画像や音を先ほどまでとは少し違うものに変えてみるのです。

 この変化に気づけば、飽き飽きしていた赤ちゃんも、再びその新しい画像や音に注意を向けるはず。このように赤ちゃんの注意が回復すれば、赤ちゃんがその違いを「わかった」と見なせる。これが基本のロジックです。

「なんだ、それだけ?」と言われそうですが、赤ちゃんに呈示する画像や音(「刺激」と呼びます)、また、それをどういう順番で出すか、などを工夫すると、結構いろいろなことが調べられるのです。たとえば、赤ちゃんはLとRを聞き分けられるのか、とか、初めて聞いた単語でも名詞かそうでないかがわかるのか、などなど。

 このようなことをしていると、卒業生も、興味津々で自分の子どもを連れてきてくれ、私のことを"褒めて"くれたりします。

「子ども(赤ちゃん)って、何を考えているのかわからないし、大人には何の不思議もない当然のことが何もできないし、でもそこからどんどんいろいろなことができるようになっていくし、かわいいし、すごく面白い! 私は自分が子どもを持つまで知らなかったのに、先生はどうして赤ちゃんが面白いってわかったんですか! ?」

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 それにしても、家に赤ちゃんがやってくると、そのあまりの"何もできなさ"に多くの人は驚き、衝撃を受けます。また、そこからぐいぐいとさまざまなことができるようになっていく子どもの姿を見て感動します。

 確かに私も子どもはすごいと思います。そもそも生まれたばかりの赤ちゃんは、海から上がったばかりの何かの生き物よろしく、自分で自分の頭どころか手も持ち上げられません。

 そこから、何の文句も言わずにひたすら筋トレに励み、ゼロ歳後半になれば、あらゆる手段を使って自分の行きたい方向に移動するようになります。

 寝返りの連続だったり、座った姿勢でお尻を擦っての移動だったり、ハイハイだったり、そこは個性豊かに―。

 そして、生まれて約1年後には、二本足で立ち上がって歩くようになるのです。

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 次に②。中学から高校まで6年間(あるいはそれ以上?)やってきたのに使いものにならない英語! というのは、よく耳にする英語教育批判ではあります。それに比べて、母語なら子どもは3歳くらいになれば、まずまず話せるようになって︙︙いますか?

 3歳児と会話するのは確かに楽しいかもしれません。しかし、そのために大人は、子どもの気持ちを汲み取り、子どもの答えやすそうな質問をし、よくわかっていなさそうであれば別の言い方を探し、とずいぶん努力しているのも事実です。その意味では、3歳どころか小学校にあがる頃になっても、子どもはまだまだ一人前の話し手とは言えないかもしれません。

 仕事の都合などで家族が海外に移り住んだところ、子どもはあっという間に現地の言語を覚えた、という話をよく耳にします。しかし、その子どもが、母親の勤務先に一緒に行って、通訳をしてくれて助かった、という話はさすがに聞きません。つまり、子どもが現地の言語を素早く身につけているように見えても、それは大人が欲しがっているレベルではないということです。

 最後に③。確かに、子どもは母語の獲得で苦労しているようには見えません。少なくとも、0歳や3歳の子どもが、母語の学習について「どうしてこれをやらなくちゃいけないの?」と言って抗議してくることはありません。では、母語以外の新しい言語はどうでしょう?

 これまたよく聞くのが、海外赴任中、現地の言語を覚えて友だちと楽しく過ごせるようになった子どもは、今度は、家のなかでも現地の言語を使い始めた(それまでの母語で話したがらなくなった)という話です。あるいは、大人から見ると、海外赴任中は現地の言語をかなり流暢に話していた子どもが、帰国したらあっという間にその言語を忘れてしまったという話。

 こういう話を聞くと、やはり言語を複数維持していくことは、子どもにとってもラクではないのだと思わされます。ラクではないので、よほどの必要がない限り、子どもだって、そういう負担からは逃げたいということなのではないでしょうか。

 この本で紹介したいのは、子どもはどのように言語を身につけているか、ということです。

 子どもが最初の単語を話すのは1歳の誕生日前後です。そういうわけで、以前は、子どもが話したことばを記録して、そこから子どもはどのように言語を学習しているかを推測してきました。しかし、ここ30~40年のあいだに、まだことばを話すことのできない赤ちゃんの反応を調べる方法や装置は飛躍的に進歩してきました。そのおかげで、ことばを話す前から始まっている言語の学習がどのようなものかもわかってきました。

 それがどのようなものかを知った上であらためて考えてみてください。子どもは本当に、ラクラクと、素早く、完璧に言語を身につけているのか、を。

 『赤ちゃんはことばをどう学ぶのか』

針生悦子:宮城県生まれ。東京大学大学院教育学研究科教授。専門は発達心理学、認知科学。88年お茶の水女子大学文教育学部卒業、90年東京大学大学院教育学研究科修士課程修了、95年同博士課程修了。博士(教育学)。95年青山学院大学文学部専任講師、助教授を経て、03年東京大学大学院教育学研究科助教授、2015年より現職。著書に『幼児期における事物名解釈方略の変化――相互排他性制約をめぐって』(風間書房)、『言語心理学』(編著、朝倉書店)、共著として『レキシコンの構築』(岩波書店)、『言葉をおぼえるしくみ』(ちくま学芸文庫)など。