古来、農耕民族として生きてきた日本人には、祖先を敬い、互いを尊重し、助け合うという文化が根付いていました。そのあり方は、儒教の思想と深く親和してきたものでした。私たちにお馴染みの、お墓、位牌、仏壇、そしてお盆やお彼岸といった先祖供養も、じつは本来の仏教ではなく、儒教に由来したものです。

 ところが、江戸時代の朱子学が倫理道徳を強く押し出したため、とかく、四角四面、堅苦しいイメージに受けとめられることになりました。今日では、こうした一面的な理解にもとづく、儒教への誤解や批判も多く見られます。

 著者の加地伸行氏は、長年にわたる中国哲学史研究で、儒教についての本質的理解に辿り着きました。本書では、儒教を歴史的に繙きながら、家族のあり方や冠婚葬祭、死の迎え方、祖先との向き合い方、老後の備えなど、具体的事例を挙げて、儒教のほんとうの姿をやさしく説いています。

 本書を通して、儒教こそ日本人に適した、明るく生きがいを与える思想であることを、ご理解いただけることでしょう。

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*以下、本書より抜粋

儒教は正方形?

 儒教――このことばを聞きましたとき、どういうイメージをお持ちになりますか。
 おそらく、なんだか堅苦しい、厳しい、もっともらしい、儀式ばっている、気難しい......といったことばが出てくるのではないでしょうか。

 私は二十代のころ、定時制高校の教諭として、国語の授業を受け持っていました。授業のサービスに大思想についていろいろと教えたあと、或るとき、生徒たちに、儒教、老荘思想、仏教、キリスト教それぞれのイメージを図形に表わさせました。

 キリスト教は、ほとんど百パーセントの生徒が、+と十字架を記しました。
 仏教は○(円形)、儒教は□(正方形)でした。老荘思想につきましては、ばらばらで、決った共通する形はありませんでした。中には、(無)と記し、わざわざ「図で表わせない無」という注をつけているのもありました。
 この図形表現、なかなか的を射ていると思いました。日本人一般がだいたいそういう図形を書くのではないでしょうか。

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 さて儒教は四角形、それも正方形ですね。漢語で表わせば、寡黙、謹厳、厳正、重厚、恭謹、悠然......といった感じです。まちがっても、騒然、喧噪、軽率、粗忽、妄動、狼狽という感じではありませんよね。まして、横目、脇見、欠伸、時には放屁なんてね。
 すると、儒教を学び、身につけた人すなわち儒者はどうなるでしょう。

 中国にこんな話があります。或る儒者、もちろん□形のイメージ通りの人です。儒者の生活として、読書が第一。それも難しげな内容の本です。それを自室、自分の書斎で静かに読んでいますと、台所、居間のあるところ、今風に言えばリビングルームですね。そこから、どっと笑い声が聞こえてきました。夫人や子どもが集まって、おそらくなにか美味しいものを食べながら楽しく。その声が、儒者の書斎に聞こえてきます。儒者は、はじめは無視していましたが、そのうち気になってどれどれと思って、リビングに姿を現わしました。もちろん、いっしょに楽しくと思ってです。

 ところが、儒者が姿を現わしたとたん、笑い声どころかふつうの会話までピタッととまって、シーンとなりました。
 儒者は、なんだか居りづらくなり、静かに書斎に帰り、再び読書を始めましたところ、またどっと笑い声やら楽しげな会話らしい音声が流れてきた、というお話です。

 これが謹厳な儒者の運命というものですか。いやいや、そんな鯱張った儒者のイメージの大半は、作り話です。表向きはともかく、みなふつうの人間です。
 にもかかわらず、儒教、儒者、と言えば、四角四面のイメージがなぜ付いてまわるのでしょうか。それには、次のような大きな理由があるのです。

儒教=倫理道徳なのか?

 儒教が四角四面のイメージとなっているのは、実は、儒教について特別な解釈をした朱子学という或る学問系統、朱子学派と言っていいでしょう、この朱子学派が堅苦しい解釈をしたからなのです。
 
 しかも、江戸中期以降、この朱子学が江戸幕府の中心的正統的学問とされたばっかりに、ますます堅苦しい四角四面の雰囲気を醸し出していったのです。のみならず、漢学(中国学)のその雰囲気は、明治にも受け継がれ、さらにその後も〈倫理・道徳〉の中心といった地位を経て、今日に至っているのです。それは、朱子学から見た或る解釈に由る雰囲気なのです。
 
 一方、儒教をもっと伸びらかに(伸びやかに)解釈する人は多くいました。日本では、京都の伊藤仁斎や江戸の荻生徂徠が有名ですが、その他多くいたのです。
 しかし、日本では官学が威張ってきましたから、幕府直轄の学問所(昌平黌・昌平坂学問所。昌平は孔子の生まれ故郷の地名)が朱子学、全国各藩の藩校も朱子学という態勢が、そのまま明治になっても各学校において継承されていったのです。
 
 これが、儒教について日本人のだれに聞いても同じイメージの四角四面となっている根本原因です。しかもその朱子学は、儒教を倫理道徳として捉えているものですから、儒教即倫理道徳という偏った解釈、私から言わせれば不十分な解釈が広がって、ほぼ定着していると言っていいでしょう。
 
 しかし、儒教を倫理学・道徳論としてしか見ない見かたでいいのでしょうか。

 私は、儒教をそのような狭い見かたで捉えていません。もし倫理・道徳だけとしましたら、それは時代によっては、無力になってしまうのではないでしょうか。例えば、今日の個人主義全盛の時代に在って、いわゆる儒教道徳をそのまま持ってきても、果たして説得力があるのでしょうか。個人主義の時代に、例えば儒教倫理の中心中の中心、孝倫理をどのように位置づけることができるのでしょうか。十年一日のごとく、昔ながらに儒教を倫理としてだけで解釈する人は、きちんと位置づけできるのですか。

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 できません。その大きな理由は、儒教を倫理一本で考えるからできないのです。そうではなくて、儒教には宗教性があるとし、その宗教性と倫理性との二本柱が儒教を支えているという考えかたに転換すれば、個人主義全盛の時代に在っても、儒教家族主義を再建することは可能です。そのことを、これから本書が語ってゆきたいと思います。

 『大人のための儒教塾』

加地伸行(かじ のぶゆき):1936年(昭和11年)、大阪市生まれ。1960年、京都大学文学部卒業。大阪大学名誉教授。文学博士。専攻は中国哲学史。2008年、第24回正論大賞受賞。主な著書に、『沈黙の宗教――儒教』(ちくま学芸文庫)、『論語 全訳注』(講談社学術文庫)、『論語 ビギナーズクラシックス』(角川ソフィア文庫)、『儒教とは何か』(中公新書)、『マスコミ偽善者列伝』(飛鳥新社)など。『加地伸行著作集』(全三巻、研文出版)がある。