デビュー40周年を迎えた歌手、影山ヒロノブさん。
アニソンシンガーのパイオニアの一人とされる彼は、いまや日本のみならず、海外からラブコールを受ける存在となりました。17年年末の今も、自身がリーダーを務めるJAM Projectは海外公演や全国ツアーの真っ只中です。
しかしその道のりを振り返れば、すべてが順風満帆だったとは言えないでしょう。
「LAZY」のメンバーとして16歳でデビューし、一度は爆発的な人気を獲得するものの4年で解散。長い苦難の道を歩んだ先で、「ドラゴンボールZ」の主題歌「CHA-LA HEAD-CHA-LA」などの"神アニソン"、アニソンレジェンドたちとの出会いを経て、キャリアを開花させています。
武道館にワールドツアー、憧れのミュージシャンとのコラボレーション。多くの夢を叶えた人生を振り返りながら、影山さんはおっしゃいます。「でも、まだ俺の歩みは終わりじゃない」と。
「確かに夢はたくさん叶えてきたけれど、それでもゴールなんかじゃない――」
なぜ歩みを止めないのか? なぜ「アニソン」という言葉すら無い時代に未来を信じられたのか? そして世界から、ファンから、どうしてこれほど愛されるのか?
長い歩みと想いを解きほぐすと、次々に夢を叶え、その向こう側までたどり着くことができた理由が見えてきました。
そこで今回、初著書『ゴールをぶっ壊せ―夢の向こう側までたどり着く技術』より「はじめに」を公開。皆さんに影山さんが届けたいと考えた熱い熱いメッセージ。ぜひ感じてください!
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違う国でも同じ印象を受けること
泣きながら笑う顔って、わかりますか?
世界中のステージでアニメソングを歌ってきて、身をもって知ったことですが、すごく嬉しかったり、幸せすぎたりすると、人は笑い顔を超えて、泣き顔になるんです。
これまで、中国や韓国、フィリピンといったアジアの国や地域はもとより、フランス、スペイン、アメリカなど、本当に世界のあちこちで歌ってきました。
日本の反対側のブラジルやペルーで「聖闘士星矢」の主題歌、「聖闘士神話 ~ソルジャー・ドリーム~」の大合唱が起きたこともあるし、エジプトのピラミッドの前でコスプレしたファンが歓迎の横断幕を持って待っていてくれたこともありました。
もちろん行く国によって言葉や宗教は異なります。人々が育ってきた環境も触れてきた文化も大きく異なることでしょう。それでもどこに行こうと「同じ」印象を受けるものもあります。
それは俺がひとたびアニソンを歌えば、どこだろうとみんな本当に嬉しそうに、それこそ泣きそうな笑顔で、シャウトする曲を一緒に口ずさんでくれること。
アニソンを、歌を、そして音楽を続けてきてよかった、と思うのは、そんな笑顔を見た時。月並みな表現になってしまうけれど、音楽に国境はないんだな、と実感しています。
電車で覚えた「CHA-LA HEAD-CHA-LA」
シンガーとしての俺の人生は、決して順風満帆だったわけではありません。
16 歳で、幼なじみたちと結成したロックバンド「LAZY」のボーカル、ミッシェルとしてデビューし、一躍アイドル的な人気を得ましたが、本格的なロックを目指していた俺たちは、アイドル扱いされることに抵抗があり、わずか4年で解散することになります。
その後、ソロ歌手として再出発したものの、今度は全く売れなかった。ライブの動員数はどんどん減っていき、音楽活動での年収がわずか「7万円」という時代すら経験しました。
レコード会社に声をかけられ、アニソンを歌うことになってからも、それこそ30代半ばまで、生計のために建設現場でのバイトを続けていました。代表曲の一つでアニメ「ドラゴンボールZ」の主題歌、「CHA-LA HEAD-CHA-LA(チャラ・ヘッチャラ)」をレコーディングしたのは、まさにそのバイトの日々の中のことです。
レコーディング当日のことは、今もはっきり覚えています。
建設現場での仕事を終えると、もう町は真っ暗。家路を急ぐ人に交じって、三田にあるスタジオに向かいました。スタジオまで向かう京浜急行や京浜東北線の中、携帯音楽プレーヤーでカセットテープに録音された仮歌を聴いて、歌詞を覚えました。自分がどう歌えば、この作品を盛り上げることができるのか、考えを巡らせながら。
まさか、そうして歌った歌がこれまでに170万枚以上を売り上げ、21世紀となった今や、日本を飛び越え、世界中で歌われるようになるなんて、このときは知るよしもありませんでしたが。
歌っていられればそれで幸せだった
当時はそもそも、「アニソン」という言葉自体、まだ一般的ではなかったと思います。俺たちの歌う主題歌は、子供向けの「まんがの歌」と呼ばれ、どんなにヒットしても、歌謡曲やニューミュージックより1段も2段も下に見られていました。
そこからアニソンを歌い続け、日本のアニソンを盛り上げるために生まれたJAM(ジャパン・アニメーションソング・メーカーズ)Project のメンバーに、そしてリーダーとなり、日本武道館でライブをし、世界ツアーまでやる日がくるなんて、あの頃の俺に言ったら「冗談やろ」と笑い飛ばすに違いありません。
この何十年かの間に、自分のまわりの世界は本当に大きく変わりました。
そして2017年、気が付けば、デビュー40年を迎えました。自分で言うのもなんですが、振り返ってみれば、これまでまさに山あり谷ありの人生を過ごしてきたように感じます。
ただし、アホと思われるかもしれませんが、歌との二人三脚で歩んできたこの40年間、「つらい」とか「歌うのをやめよう」と思ったことはほとんどありません。
白いジャンプスーツで振り付け通りに踊っていた時も。お客さんが消えて、歌う場が大きなホールから小さなライブハウスになった時も。24時間以上、飛行機のエコノミークラスにゆられた後、ブラジルの野外ステージに立った時も。
とにかく歌っていられれば、幸せだった。
お客さんが喜んでくれて、そして泣きそうな笑顔を見れば、体の底からパワーがわき上がってきた。だから、歌い続けて来られたんです。
ゴールなんていらない
今、アニソンは日本を代表する文化の一つと言われ、仲間のアニソン歌手が、毎月のように海外でのライブに呼ばれるようになりました。国内でも、毎年夏に開かれるアニメロサマーライブには2日間で計8万人ものお客さんが集まります。
素晴らしいクリエイターがいっぱい育ってきているし、アニソン歌手を目指す若い人たちも多い。これほどアニソンに光が当たっている時代は、いまだかつてない、と言っても過言ではないでしょう。そして、その立役者の一人として名前を挙げてもらえるのは、どこかくすぐったくも、やはりうれしいもの。
ただし一言だけここで言っておきたいのは、それでもまだ、決してここが「ゴール」ではないということです。
夢を持つことは大事だと思います。もし、それを叶えられれば最高でしょう。
でも、そこで「終わり」ではないのです。きっと夢を叶えた先には、また新しい夢が生まれるはずだから。そして一つ一つの夢を叶えたその先で、最高にでっかい自分になれるに違いない。
だからもちろん、俺の進む道も夢も、まだまだその途中です。
一方で、40周年を迎えた今、俺がこれまで歩んできた長い長い道のりや、そこでの経験や気付きを知ってもらうことが、後に続く誰かの役にきっと立つのでは、と思うようになりました。
だからこの本を読んで、これからアニソン界はもちろん、若い人たちが、「頑張っているおっちゃんがおるんやな」と感じてくれたら本望です。さらに、俺の打ち明け話が誰かの心の「元気玉」となってくれたなら、これほどの喜びはありません。
俺はまだまだ、歌い続けます。もちろん50年後、100年後も誰かに口ずさんでもらえるような歌を紡いでいきたい。でも、今はその前にちょっと立ち止まって......。
俺のシャウトを聞いてくれ!
「ゴールをぶっ壊せ―夢の向こう側へたどり着く技術」
影山ヒロノブ:1961年、大阪府生まれ。 アニソンシンガー、作曲家、編曲家。77 年、ロックバンド「LAZY」でデビュー。85年、アニメ・特撮ソングに出会い、「電撃戦隊チェンジマン」などの主題歌を担当。以後「CHA-LA HEAD-CHA-LA」や「聖闘士神話~ソルジャー・ドリーム~」などを通じ、アニソン界を代表する地位を確立。2000年、JAM(ジャパン・アニメーションソング・メーカーズ)Projectを結成。活動を世界に広げながら、現在では作詞、作曲をこなす「アニソンアーティスト」としてその音楽を届けている。