対談

『一路』をいち早く読んだ渡邊あゆみさん。
物語の舞台となった参勤交代について、著者と語り合う。

渡邊この小説で、参勤交代を舞台にした理由はなんですか。

浅田幕末の文久二年(一八六二)に至って、参勤交代制の緩和というのがなされます。幕府の権威がそうとう揺らいできて、参勤交代どころではなくなっていたんですね。そこで一所懸命に江戸に出仕した殿様が、もう例年のように参勤交代しなくていいと言い渡されたら、どんなにがっくりするだろうか----と想像をめぐらせたのが最初です。
 僕は歴史オタクだから、そういう歴史の細部に素朴な興味があって、その後から、テーマとストーリーがついてくるんです。

渡邊一路たちが江戸に向けて出発したのは文久元年十二月三日です。将軍徳川家茂に嫁ぐ皇女和宮の行列が中山道を下ったのが、まさにこの年の秋。薩摩藩の島津久光の行列を乱したイギリス人が護衛の武士に殺傷された生麦事件は、翌年の九月です。
『一路』の設定は、史実ではこの二つの行列に象徴される時代にあたりますね。
 一路がお仕えする蒔坂左京大夫は大名ではなく、交代寄合という七五〇〇石の旗本です。

浅田幕府の仕組みとか職制は、幕末まで二六〇年かけて屋上屋を架していくんです。だから、一路の時代には、どうしてこうなっているのか誰にも分からないというものがたくさんあった。交代寄合はその代表です。大名は一万石以上。石高はそれ以下の旗本なのに、そんじょそこらの大名よりエライ。大名と同じように、領地を持って陣屋を構え、参勤交代も義務付けられていました。
 江戸城に上がったとき、どの家が偉いかという順位付けはなかなか複雑です。城中の詰席、石高、朝廷からの官位----これら三点を勘案して格付けをしなくてはならない。交代寄合と同じくらいよく分からない集団に高家というのもあります。幕府の儀礼を司る旗本で、「忠臣蔵」の吉良家がおなじみですが、五万石の赤穂浅野家など歯牙にもかけなかった。

渡邊長い参勤道中では、ほかの大名とすれ違うこともありますね。家紋や行列の規模から、相手の家格を瞬時に分からないといけないですね。そういう煩わしさがないように、蒔坂家は年の暮れというオフシーズンに参勤交代をすることになったのでしょうか。

浅田僕の想像ですけど、そうかもしれません(笑)。参勤交代は通常、季候のよい時期に行われますが、いくつかの例外はあります。いろいろな理由があったのでしょうが、長い年月のうちに時期やルートも慣例化していきます。一路たちも、なぜ真冬に、雪深い和田峠(長野県)をわざわざ越えなければならなかったか。代々そうだったからとしか言えなくなっているんです。

渡邊一路はそういう慣例に疑問を抱きながらも、元和慶長の昔の姿に行列を仕立てます。二六〇年にわたってつくられたシステムをなぜ元に戻そうとしたのですか。

浅田幕末になると、原理原則が緩やかになって、合理的な考えが現れてきます。迷ったときは原理原則に立ち返れ、というのは僕の中での常識ですが、一路はそれを考えたのだと思う。急死した父親からは何も申し送りを受けていない。ならばご先祖様の言い伝え通りにやってみようと。

渡邊参勤交代イコール行軍なんだという発想は?

浅田じつはそういうお定めだったんです。「いざ鎌倉」と言って馳せ参じるのと同じです。徳川家が危急のとき、軍勢をまとめて駆けつけるという予行演習を毎年やっていた、というのが本質でした。

渡邊よく大名家にお金をつかわせるため、と言われますけど。

浅田それは結果論でしょう。ほかにも街道の整備に役立ったとか、経済面も指摘されますが、幕府への忠義を表現させるというのが本来の目的で、まさに行軍なんです。

渡邊目から鱗です。それを家伝の古文書に則って一途にやろうとしたのが一路ですね。私も実際に歩いてみたくなりました。

浅田中山道歩きがブームになるんじゃないかと、密かに期待してるんですよ。

プロフィール

渡邊あゆみ(わたなべ あゆみ)
NHKチーフアナウンサー。1960年神奈川県生まれ。東京大学卒業後、82年NHK入局。報道、生活情報番組キャスターを経て、現在は「歴史秘話ヒストリア」「新・話の泉」の司会、「100年インタビュー」の聞き手などをつとめる。

浅田次郎(あさだ じろう)
作家。1951年東京都生まれ。97年『鉄道員』で直木賞、2000年『壬生義士伝』で柴田錬三郎賞、06年『お腹召しませ』で中央公論文芸賞・司馬遼太郎賞、08年『中原の虹』で吉川英治文学賞、10年『終わらざる夏』で毎日出版文化賞を受賞。

あらすじ
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