伊坂幸太郎 SOSの猿を語る

物語の面白さと文章の快楽をバランスさせた、僕にとって「理想型」という気がしています

星のマーク

――2000年にデビューして来年で作家生活10年。『SOSの猿』は、伊坂作品のひとつの集大成という印象を受けます。

伊坂

 集大成という意識はありませんが、最近のやりたいことが一番よくできた「理想型」という気がしています。

――理想型とは?

伊坂

 僕の作品のイメージは、伏線を回収して最後に全部かっちり収まる、バランスの良いものという感じだと思うんです。もちろんそういうものも好きで、ずっと書いてきました。でも、本当は、どこか破綻しているもの、ちゃんと解決しない部分があったり、不可解な部分があるほうが好きなんですよ。だけど、それじゃ読者が放り投げられてしまう。どこまでのラインだったら読者も納得し、不可解な部分も残せるのかというバランスを手探りしてきたのがここ2、3年でした。作品でいえば『ゴールデンスランバー』から。そういう意味で『SOSの猿』は、そのバランスがようやくうまく取れたと感じています。

――『ゴールデンスランバー』以降というと『モダンタイムス』や『あるキング』。

伊坂

 そうですね。『ゴールデンスランバー』を含めて、です。それで、とくに『あるキング』は意図的に変えようとしたんです。バランスは崩れてもいいから突き抜けている、というような面白さを目指したんですが、ほら、よく性能評価のバランスシートみたいな図があるじゃないですか。

――ああ、蜘蛛の巣みたいな形の。

伊坂

 そうそう。僕の好みとして、みんな満点じゃなく、すべての要素が80点くらいの感じが好きなんですよ。そういう風にずっと書いてきた。

――つまり、バランスよく多角形になるように。

伊坂

 そうです。しかも、全部満点じゃない方が好き(笑)。ただ、それでずーっとやり続けても意味がないような気がして、いろいろ極端なことにトライしよう、それでも僕らしさが出ればいいなと思って。『あるキング』は、読者への配慮を極力少なくしたんですよ。楽しい会話とか、登場人物が変わり者で共感できるとか、伏線張って回収するとか、そういうものを意識的になくした。『魔王』のときも近い意識だったんですが、『あるキング』ではもっと開き直ってやったんですね(笑)。その意味で『SOSの猿』も好き勝手にやってるんですが、それが「星のマーク」になった感じなんですね。

――ギザギザだけどバランスのいい形に。

伊坂

 これはこれで何か楽しいことになったなあと。最近ふと思うんですが、『ゴールデンスランバー』を書く前に、それまでのバンドを解散して新しいバンドを組んだような、そんな感じがするんですよね(笑)。で、新しいバンドになってから、前以上に好き勝手書いて、どれもバランスが変なんですけれど、これが一番、完成度が高いような気がしています。

読者に寄り添う

――「どこかで誰かが泣いている。SOSを発している」というモチーフは、まさに伊坂さんが「小説の役割」としてこれまで語ってきたことですね。

伊坂

 何年か前、伊集院静さんに「小説というのは、どこかで悲しんでいる人にそっと寄り添ってあげるものなんだ」と教えられて、「ああ、それでいいんだ」と、自分でも確認できた感じがあるんですね。映画や音楽は大勢の人を一瞬でバーンと興奮させたりできますが、小説は読者が本屋さんで一人で選んで読むものなんですね。

――本と読者が一対一の関係。

伊坂

 例えば父親に説教されても聞く耳持たないけど、本に同じようなことが書いてあったら「ああ、そうかもね」と思えるじゃないですか。それは自分で選んだ本だから、押しつけられてる感じがしないからだと思うんです。自分で選んで、自分で読んで、それが本に書いてあったことすら忘れて、自分の感覚として残って染み込んでいく。読書とは人の内面に色を塗っていく作業だと思うんですよ。小説を読めば読むほど内面にたくさんの色が塗られて、それで悶々とすることもあるんだろうけど......。僕自身も、そうしてたくさんの色を塗られてきたと思うし。

――今回はとくにタイトルが印象的です。

伊坂

 「SOS」という信号は、昔から衝撃的だなあと思ってたんです。「Save Our Ship」(私たちの船を救って)って。

――作品中ではSave Our Soulsとも。

伊坂

 「私たちの魂を救って」なんて、切ないじゃないですか。みんなSOSを発信してるんですよね、僕もそうだし、回りを見渡してもみんなそう。そういう寂しさに寄り添うのがフィクションの役割なのかなあとぼんやり思ってて。実はタイトルは最初『SOS』だけだったんですね。でも、やはりそれだけだと座りが悪いので、読売新聞夕刊連載時の担当記者とアイデアを出し合って、孫悟空の話であることは決まってたので、『SOSの猿』というタイトルが出てきた時「おおっ」と思ったんですよ。いろいろイメージが広がるなあと。

遠藤と五十嵐

――「困っている人を助けたい」という遠藤二郎は、まさに伊坂的キャラクターですよね。一方、もう一つのストーリーには、因果関係をあくまでクールに追究する五十嵐真が配されます。

伊坂

 五十嵐みたいな人って書いたことなかったんですよ。そういえば僕自身、やっぱり原因を分析したくなるんですよね。なんでこういうことになったのかなあとか。僕の作風自体がそうですよね。論理的に構築してる部分と、人情的な部分と。五十嵐と遠藤は、まさに僕の裏表なのかもしれない。

――伊坂さんも大学を卒業してから、7年ほどシステムエンジニアの職に就いています。そういう体験は大きかったですか。

伊坂

 大きいですね。システムエンジニアって、仕事上で人間関係がないかなと思ってたら、実は人間関係ばっかりなんですよ(笑)。会社員としてそれを経験したことは今すごい役に立っている。

――大学は法学部ですよね。なぜコンピュータ会社に就職を?

伊坂

 その会社が法学部の学生を募集してたんですよ。社長は全然コンピュータのことがわからない建築関係の会社の社長さんで、いろいろな事情でソフトウェア会社もやっている、という感じで。で、その社長がテレビで「プログラム作りには文章能力が必要だ」と誰かが言ってたのを見たらしく。「文章能力があるのは、うーん、法学部だな」みたいなノリで募集したら、僕がのこのこやって来たという(笑)。
 でも、確かにプログラムは文章表現に似てるんです。「コップをここまで移動しなさい」っていうプログラムには、何通りも書き方があると思うんです。人によっても個性が出る。いかに相手に伝えやすくするか、いかに直しやすくするかを考えて書くんです。で、僕はまさに五十嵐と同じ品質管理の部署にもいたんですよね。「なんでこんな故障が出たのか」っていう原因調査。だから、小説には実体験もかなりデフォルメした形で入ってます。

――失敗の原因を追究する仕事。

伊坂

 嫌われる仕事でしたね。プログラマーの人には「時間もないのにそんなことを調べてどうするの」みたいに言われました。理屈としては、原因を追及して二度と起きないようにするためっていうんですけど、あくまで報告書を作るのが目的なんですよ。だから、そのバグがもう起きないかといったら全然そんなことなくて、報告書ありきでやらなきゃならないので、聞かれる方も意味がない、形骸化してると思うじゃないですか。僕も向こうの気持ちや事情も分かるし、それが本当につらかった。

――伊坂作品にはしばしばコンピュータ関係の人が出てきますが、そういった実体験が根っこになっているんでしょうか。

伊坂

 自分では、システムエンジニアの体験を生かして書こうという気はないんですが......やっぱりそれくらいしか仕事の経験がないから、使っちゃうんですかね(笑)。あと、僕はけっこう諦念的なんです。「だってそうなってるからしょうがないじゃん」ってことが世の中多いじゃないですか。その「しょうがない」を認める人と認めない人がいて、僕はどうしても認めちゃうんですよ。認めちゃった上で、でも何とか人間は楽しい生活が送れるのではないかって考えるんですよ。

ドミノ倒し

――ミステリーでは島田荘司さんが好きだったとか。

伊坂

 島田作品はとても好きですね。島田荘司さんがいなかったら、プロの作家になろうなんて思わなかったような気がします。で、探偵小説は人工的にかっちり構築されてるじゃないですか。昔はそういうものが好きだと思ってたんですよ。でも、やっぱり自己完結してしまうもの足りなさはあって。破綻してるものの方が本当は好きなんですよね。

――最近のミステリーでは謎が完全に解かれず、余韻を残す作品も増えてますよね。

伊坂

 僕は、肩透かしで終わるものがほんとに好きなんです。「肩透かしだったけど、これはこれでよかったね」って思えるのがベスト。最後でズッコケるんだけど、「それはそれで楽しいね」っていう着地点がとても好きですね。

――伊坂作品にはしばしば「未来予言」が出てきますよね。しかも、不完全な。

伊坂

 あ、未来を予言する話って多いですねえ。なんでだろうな。ワクワクするからですかね。ワンパターンなんじゃないですかね(笑)。でも、現実には、占いとかで未来を予言する人がいても、本当に当たってるかどうか、すぐにはわからないじゃないですか。その答え合わせができちゃうのがフィクションの良さなんですね。僕の作品で予言が不完全なのは、島田荘司さんの理論なんです。完全犯罪は必ずどこかで失敗させろっていう。失敗した結果、もっと変な、歪んだ結果になるほうがリアリティーがあるって理屈なんですね。読者にとっても、完璧に設計図通りいくより、「失敗したからこんなになった」っていう方が納得できるし、親近感がわく。そういう理由もあります。

――デビュー作『オーデュボンの祈り』では、そのあたりをカオス理論で説明していますね。

伊坂

 「バタフライ効果」とか、ああいうのは好きですね。「風が吹けば桶屋が儲かる」式の話も好きなんで、ドミノがバタバタ倒れていく感じは、ものすごいワクワクしますね。『SOSの猿』でも、また同じことやっちゃうなあとは思ったんですが、今回はまあ、ドミノの逆倒しというか、因果を遡って推理していくので、ちょっと違うかなと。

――その辺の興味は、伊坂さんの「理」の部分?

伊坂

 いや、「情」もあると思うんです。自分の力で何でもできるって信じられないんですよね。個人の力は無力だというのは、さっきの「どうしようもない」っていうのと一緒で、そこが僕の前提なんですよね。  「すごい努力をすれば、すごいことができるよ」とは僕には言えない。でも、微力でも、ドミノがバタバタ倒れるように、何かの偶然とか、不思議なことが起きれば、こんなことができるよっていう......悲観的なような、楽観的なような感じなんですけど。
 それに、「人間っていうのはなんて無力なんだ」っていうことを、わざわざフィクションで描きたくないんですよ。人間が無力なんて、毎日テレビを見てればわかります。せめてフィクションの中でぐらいは、こんなに無力な僕が、不思議な偶然でこんなことが出来ちゃったんだよ、っていうことを読ませてあげたいですよね。せっかく作り話なんだから。

――それだけ伊坂さんの中で、現実への無力感が強い......。

伊坂

基本的に大したことはできないとは、常に思ってますよ。だけど諦めるでもなく、生きていくしかない。それでも人間って歩いていかなきゃいけないよね、みたいな感じは、4年前に子どもが生まれてからよけい強くなりましたね。

泣き笑いがいい

――生まれかわりとか死後の世界は信じる方ですか。

伊坂

 僕はそういうのは信じられないんですよね、どうしても。やっぱり人間の体は細胞とかでできていて、死んで、それが燃えちゃったら全部無くなっちゃう気がする。もし死後の世界があれば、どれだけ救われるだろうって気持ちも強いですが。

――そういう伊坂さんが、ファンタスティックな話を書くから面白い。

伊坂

 「死んじゃったお祖母ちゃんは、いまもどこかにいるんだ」と思えればいいんだけど、本当は信じていないだけに、信じられる物語を書くことで補強したいのかもしれない。僕は現実主義者ですけど、ロマンチックなものへの憧れはある。だけども、やっぱりそれは無理だろうみたいな、そんな葛藤、バランスが僕の作風かもしれないですね。

――伊坂さんの小説は読後感がとてもいいんですけれど、どこか非常に寂しさ、孤独感みたいなものを感じさせます。

伊坂

 そうなってればいいなあ、とは思いますね。僕はほんとは悲観的なので、どうしてもやりきれない話が多くなっちゃうんですよ。それだけでは読んでもらう意味がないんで、読んでよかったなあっていう話にしたくてバランスを取る。だから、「ああ、よかったね、楽しかったね」と終わってほしくないんですが、かと言って、「すごい悲しい話を読んじゃったね」でもつらいですし、なんか泣き笑い的な、真ん中あたりがいいです。
 『SOSの猿』でも、実は最後までなにも解決されない。でも何となく、緩やかに何か前向きになっているんじゃないかって思える感覚が好きなんですよね。

コラボ効果

『西遊記』は漫画家の五十嵐大介さんとの共同作業で出てきたアイデアとのことですが、これまでも『罪と罰』とか、『あるキング』では『マクベス』とか、そういう古典文学からの引用がけっこう多いですね。

伊坂

 『あるキング』では悲劇がやりたくてシェイクスピアを出したんですが、別にシェイクスピアに詳しいわけじゃなくて、『マクベス』には魔女が出てきたよなあとか、そのくらいの発想です。ドストエフスキーは昔からすごく好きなので、『カラマーゾフの兄弟』とか『罪と罰』は、好きだから出て来ちゃうんですよね。『SOSの猿』に関しては、『西遊記』は読んでみたらすごいポップで面白くて、もっと取り込みたかったくらい楽しかったですね。

――そういう異化効果といいますか、自分にないセンスを外部から取り込むことは刺激的ですか。

伊坂

 好きですね。外部の意見を取り入れても、僕でしか思いつかない話になるぞって、やっぱり信じたい。だから、いろんな編集者のアイデアもどんどん聞いて、どんどん採用して、当然、合わないものは弾きますけど、自分では思いつかないことはなるべく採用したいですよね。

――プログラムのオープン・ソースみたいな(笑)。

伊坂

 そうそう、だけど僕の作家性は残るって信じてる。自信というより、過信かもしれないけど。

大江と春樹

――大江健三郎さんにも大きな影響を受けたそうですね。

伊坂

 大江さんは好きでしたねえ。大学生の時、一日一冊読んでたんですよ。大学へ行って、一冊買って読んで、「おおっ、すごい」って興奮して、次の日また買いに行って。一番集中して読んだのがその時期ですが、最近、未読だった作品を読むと、やっぱりワクワクするんですよね。大江さんには、けっこうあからさまに影響を受けているなあと思うことがあります。「僕」という一人称語りとか、奇妙な犯罪とか。

――村上春樹さんにも影響を受けてるのかなと思いましたが......。

伊坂

 よく言われるんですが、直接影響を受けるほどには読めてないんですよね。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を読んだのはデビューした後ですし。高校生のときに『ノルウェイの森』を読んだんですけど、当時はお子様なので、性描写とかで抵抗を感じちゃって(笑)、わからなかった。大江さんの作品の「性」の扱い方のほうが不穏だし滑稽だし、僕は好みなんですよね。で、春樹さんの本はそれくらいしか読んでいないので、逆に、影響を受けているというと申し訳ない気がします。  でも、春樹さんから影響を受けた人たちの本を、僕はたくさん読んでいるのかもしれませんし、そういう意味では春樹さんは避けて通れない巨人で、間接的でも「ああ、影響を受けてるんだなあ」と最近、思うようになりました。でも、たとえば、僕の小説の中で時々、変な名前の登場人物が出てくるんですよね。「鯨」とか「蝉」とか。それはもう、大江さんの作品の「蜜」とか「鳥」とかそういうところからの影響なんですけど、そういう奇妙な名づけ方もまた、春樹さんからの影響と指摘されると少し悩むところもあって、でもまあ、どっちでもいいのかもしれないですね(笑)。

――世界を覆う検索システムの恐怖を描いた『モダンタイムス』はヘビーな作品でした。

伊坂

 あの作品、僕はすごい達成感があるんですが、読者からは賛否両論だった気がするんですよね。小説を書く時にテーマとかあんまり考えたことなくて、唯一ちゃんと「これを伝えよう」と思って書いたのが『モダンタイムス』なんです。システムの中でも個人は幸せに生きていけるんだよって。逃げても勝てるかもよ、って(笑)。
 『魔王』はテーマ性が強いとよく言われますが、あれはただ、物語を面白くするためにファシズムを出しただけです。でも『モダンタイムス』だけは、「こういうことを書こう」と最初に思って、それがある程度達成できた。読者には『ゴールデンスランバー』のほうが高く評価されたような感触があるんですが、いい意味で開き直れたというか、やっぱり自分の頑張れることをやっていくしかないなって思えたのは、『モダンタイムス』を書いてからですね。

暴力の気配

――『SOSの猿』もそうですが、伊坂作品には常に暴力の気配が濃厚ですね。

伊坂

 それも大江さんの影響です。あとは世代的にタランティーノですよね。フィクションに「穏やかならざるもの」がないと物足りないんですよ。無菌状態の美しい話とか、平和なのどかな話って、嘘っぽく思えちゃうんですよね。やっぱりドキドキハラハラしたいじゃないですか。物語にバイオレンスな部分をどうしても導入したくなるんですよ。物語の上で必然性のある暴力。

――『SOS』にも理不尽な暴力が出てきます。

伊坂

 力関係がはっきりしていて、振るう方にリスクがない暴力に嫌悪感があるんです。男が女の人を襲うとか、いじめとか。『SOSの猿』では最初「人間に潜む暴力性」を書きたかったんですよ。それが、孫悟空の物語性に引っ張られて、当初のプランよりはやや引っ込んだ感じです。

――作中で「暴力がすべて悪いことでしょうか」という問いかけがあります。

伊坂

 僕にもその答えはわからないんですね。逃げるわけじゃないんですけど、小説って答えがわかんなくても書けるところがいい。例えば、学校の先生の体罰はいけないっていうけど、それでうまく教育できるのかという素朴な疑問はあります。肉体的暴力じゃなくても、罰は必要じゃないかと。「暴力=悪」と言い切ってしまうことへの違和感ってありますよね。「断定する前に、いろいろ考えようよ」っていうのは、僕の根底にありますね。

――孫悟空というのは、この物語においては暴力の象徴とも言えますね。

伊坂

 『西遊記』を読んでたら、ほんとにそう思ったので、面白いなあと思って。沙悟浄は思索的、哲学的な存在で、孫悟空は運動能力と暴力性の固まり、猪八戒は性欲と食欲っていう、あのキャラクター構成はすごくよくできている。今後、三人組を出す時はこれを応用するといいなと思ったくらい。
 で、三蔵法師がやたら猪八戒を贔屓するんですよ。もうほんとに「それはないだろう」っていうぐらい贔屓して、孫悟空は理不尽なぐらい怒られちゃう。『西遊記』は暴力を戒めるけれど欲望には寛大な話、という無理やりな分析も可能かもしれない。

螺旋階段を上がる

――小説を書いてないときは何をしていますか。

伊坂

 何にも......(笑)。本を読んだりとか、映画を見たりとか。あと、最近は子どもの世話ですね。

――「伊坂幸太郎をやめたい時がある」と語ったことがありますね。

伊坂

 贅沢な悩みですし、みんな多かれ少なかれ同じ気持ちだとは思うんですよね。ただ、「伊坂幸太郎」っていう名前が、いろんな先入観を生むと思っちゃうんですよね。「伊坂幸太郎」っていうだけで読まない人もいるだろうし、「伊坂幸太郎」っていうだけで何でも面白いと思っちゃう人もいるんじゃないか、って(笑)。僕自身がひねくれた読者だったので、すごい売れてる作家には手を出さなかったんですよ。だから昔の僕だったら「伊坂幸太郎」は読まないだろうと思うと、すごく複雑な気持ちになる。もちろん、恵まれていることはわかってるんですが。

――スティーヴン・キングが正体を隠して別名義で書いたりしてましたよね。

伊坂

 その気持ち、わかりますねえ。「伊坂幸太郎なんて!」っていう人には、どんな本を出してもフラットな気持ちでは読んでもらえないような気持ちもあって。だから、名前を隠してでも面白いと言わせたい、という欲求は何年か前にありました。でも、やるからには絶対ばれないようにしないと格好悪いですし、それは難しそうなので、僕にはできないですけど。だから結局、名義は同じだけど、バンドを解散して、新しく結成し直した感じになったのかもしれないです(笑)。
 ミステリーも好きだけど、僕、純文学も好きなんですよ。どちらを上に見ているということではなく、やはり純文学作家の文章能力はすごいですし、憧れはありますよ。「読み進めることが快楽である」って、奥泉光さんが言ってましたけども、小説ってそうだと思うんですよ。小説の喜びはあらすじではない。でも、あらすじを楽しむ人はけっこう多いですよね。僕はストーリー展開には実はあまり興味がなくて、文章を読む喜びがある、読んでること自体が楽しい小説が好きなんですよ。だから、そういうものを自分でも書きたいなあ、と思って。例えば『あるキング』はストーリー的にはまったく何もない。あえてそういうのを書いてみたんですけど、たぶん面白くないと感じる読者も当然いるわけで、そういう部分は悩んじゃいますね。

――その意味で、伊坂さんにとって『SOSの猿』とは?

伊坂

 物語的にもすごいエンターテイメントだと思うし、五十嵐真のパートでは、現実が歪んでいく感じみたいな、小説にしかできない喜びも追求できた。僕好みの肩透かしな終わり方ですし。だから、さっき言ったようにひとつの理想形だと思うんですね。
 『SOSの猿』を書いて、また元に戻れそうな気がするんです。さっき、新しいバンドを組んで、作品を作ってる気がする、と言いましたけど、『ゴールデンスランバー』から『SOSの猿』まで書いてきて、前のバンドみたいな曲もやれるような気がしてきました(笑)。同じことの繰り返しに見えて、僕にとっては螺旋階段をひとつ上にのぼった感じなんですね。

2009年11月10日、中央公論新社にて。聞き手=石田汗太