この本と初めて出会ったとき、それはほんの数か月前なんですけれど、私は心底疲れていたみたいでした。こんな風に回りくどい書き方をするのは、その自覚が全くなく心を鈍化させることでしか、自分自身を守ることができない所にいたからでしょう。
「普通」の生活がある日ぐらっと揺らぎ、瞬く間に暗く重いものへと変貌し、訳も分からぬまま突入した"あたらしい生活"というものが、みなに降りかかってきましたね。
それから幾分時が経ち、今は本当の二極化が進んでしまったと感じています。
世界の捉え方は、そのひとの立つ場所や視点によってこうも違うのかとまざまざと見せつけられたことは、決して望んではいないけれど私がたどり着いた真実でした。
多くの物事の前で、あるいは人々の前で、口をつぐむことが私にとっての誠実さだと判断したがゆえに、口には出せない数々の言葉は体内に蓄積させていく他ありませんでした。
うまくやり過ごせればよかったのでしょう。
こんな事で私は損なわれないんだからって、鼻歌でも歌えればよかったのでしょう。
でも、そんな器用さは、元来私が持ち合わせていないものでした。
何でもないような涼しい顔して、とっくに限界を迎えていた私が出会ったのは、イラストレーターの高橋和枝さんのエッセイでした。柔らかなタッチのイラストと、自身をくまに見立てた彼女の日常のなかにあるそのささやかさにこそ、偉大なものを見た気がしたものです。
くま子さんと名付けられた主人公は、イラストや文章を書くことで生計を立てています。
年齢のことを言うのはあまり気が乗らないんですけれど――(だってそれはただの数字の羅列でしょう?)40代で独身のくま子さんと「ねこ」という名前の一匹の猫と暮らした7年の年月が綴られています。
くま子さんの両親はすでに他界しており、唯一の家族である兄は家庭を築き、小さな子どもがいる家族特有の強引さと明るさで、時折くま子さんの日常に波風を立てます。
兄家族に限らず、取引先のひと、ご近所さん、外部のひとたちとの交流はくま子さんのリズムで刻まれた秒針をいつだって少し狂わせます。
ひとりで過ごす時間はさみしいけれど、完璧なかたちをしている。欠けるところがない。
だれかと一緒だと 辛いが増える以上に しあわせが増える。
でもそれは いつもどこか足りなくて 完璧じゃない。
いつもひとりでいるくま子さんにとっての完璧は、ひとりでいるときの静寂の中にあります。その静寂は孤独と強固に結びついていて、簡単には引き剝がそうにありません。
ピックで胸を突きさされるような、孤独による痛み‥‥
それはひとりでいるときにしか訪れず、静寂の使者とともにやって来るものでしょう。くま子さんの知る「完璧」も「孤独」も、そして「静寂」でさえも、私は見知ったものであると感じました。
私の孤独は、くま子さんに訪れているものと友だちなのかもしれません。
自分の足音だけが響く静かな夜。
くま子さんが思い出すのは、兄の子どもが放った名言です。
「お父さんはベルトがかっこいい!」
思い返すのは、目撃してしまった小学生同士の喧嘩の一幕です。
「みんなに、リア充って言われたの」
同年代の友人とはガタが来始めた身体の報告会がまことしやかに行われ、誰かの訃報が風の便りで聞こえてくることもあります。
過去の様々を思い出し自分を諌めたくなる日もあります。いや、やっぱりあの時の私は立派だったと誇らしく思うときも、もちろんあります。
目の前の瑞々しい命を見つめるうちに、自身の幼少時代の思い出がよみがえることもあります。物書きの宿命である多様な視点をもってして、あの時の正しさや傲慢さや、言葉の真意をこねくりまわしてしゅるんと自信がすぼむ日もあります。
たぶん どちらもほんとうで どちらも ほんとうじゃないのだ。
これも 私の人生・・・と 心の奥底に沈めるしかない。
こうやって生きていくしかないのだと思うことは、こうやって生きていくという生への明るい宣誓になりはしないでしょうか。
くま子さんの日常を私の日常と照らし合わせながら、ゆっくりゆっくり大切に読み進めました。それは、時に私自身の過去を振り返る壮大な物語の様相を見せ、自分の中にある孤独と向き合わざるえない時間でもありました。
でもそんな旅を続けるうち、私の心が息を吹き返していくことをはっきりと感じていました。
ひとりで考え、ひとりですたこら歩いてきたであろうくま子さんの姿は、私自身と重なる所が多くあるように思いました。
ひとりでいるのは、嫌いじゃない。むしろ、すき好んでようやく見つけた道です。
でも時折、あまりの静けさに宇宙にひとりぼっちでいるような心許なさを感じてしまうのは、とことん「ひとり」を経験したひとにしか分からない痛みや辛さがあります。
けれども、その道を歩んできたからこそ、くま子さんとしっかと瞳を交わした瞬間がたしかに、うん、たしかにあったように感じられました。
「救われた」とか「癒された」なんて言葉は、安易に使いたくないのです。分かりやすく強き言葉を振りかざした途端、やっと表れたやわらかで素直な言葉は、また心の奥底に沈み込んでしまうのです。
それが分かっていたから、私は口を閉ざしてもいたのでしょう。
でも、この本の前では、本を前にしたときくらいは、とことん素直な私で。
そうありたいと、思ったのです。
本との出会いによって、魔法のように何かが解決するようなことはありません。
思いもよらぬ救いの手が差し伸べられるというような奇跡だって起こりはしません。
けれど、静かな世界でどこまでも響く言葉の波音に身を委ねることで、肩の力が抜け、ふうっと深い息を吐きだせたことは、間違いなく本からもらったギフトでした。
あの出会いから少し時が経ち。
外側の世界では、よりいっそう時代を揺るがすような変化の兆しが顕著になりました。その衝撃は一個人としての私を巻き込み、揺さぶり、想像もつかない場所へと放り出すというようなことだってあるかもしれません。
大きな波に巻き込まれているのを自覚しつつもなお、私は小さなオールで荒れ狂う波をなんとか乗りこなそうとしています。
その旅は当然ながら厳しく、逃げ出したくなるような局面もあります。でも、穏やかな水面にただ浮かび、澄みわたる青い空をぼんやりと見つめられる瞬間もあるのだと、私は知るようになりました。
私という名の船の航路が少しだけ明るい方向へと逸れたきっかけは、ささやかな日常を綴った一冊の本との出会いだったと確信しています。
本はこんな効用をもたらしてくれることもある。
慈しむように一冊の本を抱きながら、世界の片隅で、ちいさな声のままそっと私はつぶやきます。
いつかの私に届くよう。
いつか、あなたに届きますようにと。
1971年神奈川県生まれ。絵本作家。著書に『くまくまちゃん』、『りすでんわ』『くまのこのとしこし』『トコトコバス』『あめのひくまちゃん』『あら、そんなの! 』『うちのねこ』など。絵を手がけた本に『月夜とめがね』(小川未明・作)、『あ、あ! 』(ねこしおり・文)などがある。