世界数え

――さらに、「数える」ことへのこだわりが全編にあふれています。

京極カウントするという行為は日本に限らず、けっこう呪的な意味を持ってますよね。石上神宮の祝詞なんかも一から十まで数える。ワンセットで世界をリセットして活性化するというようなイメージがありますね。いずれ人は世界を理解するために計ったり量ったりするわけです。重ねていき、分割して、知るわけでしょう。日本人はそういう概念で遊ぶのが好きだから、数遊びに関しても かなり高度なテクニックを持っていたと思います。計算が上手という意味じゃないですよ(笑)。例えば、「松尽くし」と言った場合、すべて「が」松で満たされる。「松揃え」と言った場合は、松「の」すべてが並べられる。これ、数と関係ないように思えるでしょうが、世界を「一から十」と規定しなければ、尽くすことも揃えることもできないんですね。だいたい全部とか、ざっくりみんな、とかいうのじゃない。まあこれが後のコンプリート・シンドロームなんかに繋がるのかもしれないですが(笑)。

――それは日本人特有なんですか。

京極顕著ではあるでしょうね。とても面白いですよね。「サケ尽くし弁当」は弁当の全部がサケで満たされてるわけですよ。鮭ご飯、塩鮭、鮭フライ、鮭の刺し身……くどくてあんまり食べたくないな(笑)。「サケ揃え」の場合はサケのすべてが揃ってるわけですね。部位も種類も何もかも。これ、まあ無限で境目ナシの世界を想定すると、成り立たないんですね。「こっからここまでが世界の全部」と線を引かなきゃ、何かで「尽くす」ことはできないし。「これとこれとこれが仲間」と線を引かなきゃ「揃える」こともできない。一から十までで全部、と規定すれば、同じもの十コで「尽くせる」し、同じ種類のもの十コで「揃え」られますけど。そうなって初めて「揃わない」という状態も生れるわけであって。

――京極さん自身は、数えることに対する強迫観念はありませんか。

京極あまりないですね。僕はむしろ、ちゃんと並べたい(笑)。

――似てるじゃないですか(笑)。

京極整頓したいだけですよ。量はあんまり関係ないし、完全かどうかもそんなに気になりません。ちゃんと並んでいれば、後が欠けててもいいですよ。でも、一、六、三、四、九、とかいうのはイヤなんです(笑)。連続しててほしいし、せめて順番にしようよ、と。そんなですから、僕は自分の本にはナンバリングをしたくなかったんです。一巻ニ巻とか。分冊でついちゃいましたけど。

――「数えるから。足りなくなる」というのは、非常に逆説的ですけど、真理ですよね。

京極そうそう。この帯のコピーは担当編集が選んだんでしょうが、彼女もそうだと思ったんでしょう(笑)。

――カウントというのは、近代的な精神の働きなのかなとも思ったんですけど。

京極アナログに対するデジタルということですかね。まあ、デジタルってのは分断された情報でできているわけですけども、概念としては別に新しいものじゃないと思います。勘定するためには分断しなきゃいけないんだから。要は技術が概念に追いついた、ってだけのことじゃないんでしょうか。それに、私たちはその分断された情報の集積を「ひと つ」の事象としてしか見てなかったりするでしょ。印刷物にしたって映像にしたって、点や線の集積に過ぎないんだけど、そこは見てない。走査線やドットを見てるくせに、映像や写真を見ていると思ってるわけで。技術は進歩してるけど、使ってる方はざっくりしたもんですよね(笑)。

――分割せずに、現代社会を生きられるのかという問題もありますよね。

京極それはまあ、あるでしょうね。時間だって1時間とか1分とか1秒とかに分断されてて、スポーツ競技なんかだとコンマ01秒あたりまで刻まれますからね。そんなもん、「両方速いね」でいいじゃないかと思うんだけど(笑)。ぼーっとしてれば一日はただの一日ですよ。

――三平は三平で、数えなければ暮らせない。

京極三平は数える意味がわからないんですね。一、二、三、四、五ぐらいでどうでも良くなっちゃう。だから、三平の場合は計るんじゃなくて、単にリズムを刻んでるだけですね。