2022 04/28
著者に聞く

『北条義時』/岩田慎平インタビュー

北条氏の本拠地であった伊豆国北条(現在の静岡県伊豆の国市)から富士山を望む。同地は伊豆国における水陸交通の要衝であった。

2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主人公として注目を集める北条義時。教科書には必ず出る重要人物のはずだが、その生涯と事績はあまり知られていない。鎌倉幕府成立をめぐる時代背景も複雑に見える。『北条義時 鎌倉殿を補佐した二代目執権』を著した岩田慎平さんに話を聞いた。

――岩田さんのご専門は。

岩田:日本中世史で、とくに鎌倉幕府論、武士論を専門と称しています。おもに鎌倉時代までの武士の存在形態に関すること、それを踏まえて、武士の集団である鎌倉幕府を、軍事を専門とする権門勢家(貴族の家)という側面に注目して研究してきました。

――北条義時について一般にはほとんど知られていないように思われます。義時の主な事績は何だとお考えですか。

岩田:鎌倉幕府と北条氏においては、北条氏(とりわけ義時の子孫)が鎌倉殿を補佐する地位、すなわち執権を世襲する土台を築いたということにあると思います。

公武関係においては、武力で治天(後鳥羽院)を圧倒したということにあると思います。ただし三人の上皇を配流しても、別の皇族が院政を開始するよう取り計らい、新たな天皇も直ちに即位させていながら、それを幕府が丸抱えする体制となるようにはしていませんから、天皇の正当性自体は否定せず、公武関係においては適度に距離をとることを選んだといえるでしょう。

――源頼朝と義時の関係はどのようなものだったとお考えですか。

岩田:まず義理の兄弟です。この時代の武士たちにおいては、義理の兄弟や乳母子(乳母夫婦の子)はみな主にとって股肱の臣となります。「股肱」とは、一番の頼みとする部下のことですが、義時は頼朝から「家子の専一」と称されていたといいますので、まさにこれに当たるわけです。このような者たちは、たとえ主が謀叛人となるようなことがあっても、最後まで付き従って生死を共にすることが一般的です。

――では姉の政子と義時の関係は。

岩田:おそらく同母きょうだいで、頼朝の妻であり、頼家・実朝の母であり、三寅(4代将軍九条頼経)の後見人である政子を、義時は終生にわたって支え続けます。『吾妻鏡』には彼らの関係を情緒的に物語るエピソードはとくに見当たりませんが、政子が重要な決断を下すとき、義時はいつも彼女とともにありました。

――大河ドラマのタイトルにもある「鎌倉殿」とは何ですか。征夷大将軍の地位とは異なるのでしょうか。

岩田:頼朝の味方に馳せ参じた武士たち(彼らは御家人と呼ばれます)の棟梁である地位を示す言葉が、鎌倉殿です。貴族社会においては、京都の近衛通沿いの邸宅は「近衛殿」、九条通沿いの邸宅は「九条殿」、洛南の鳥羽に設けられた邸宅とその付属施設は「鳥羽殿」と呼ばれたように、自らの居所を鎌倉に定めた頼朝は、その居所にちなんで、このように呼ばれたと考えています。

頼朝は、挙兵直後は謀叛人でありましたが「鎌倉殿」と呼ばれ、寿永二年十月に本位に復した後も「鎌倉殿」であることに変わりはありませんでした。その後、平家を滅ぼし、上洛を果たして右近衛大将に就任しても「鎌倉殿」であり、官位(官職と位階)の変遷とは基本的に関係がありません。

やがて頼朝が征夷大将軍に就任すると、鎌倉殿=将軍となりますが、征夷大将軍へ就任しても配下の武士たちとの主従関係にはとくに変化はありません。ですから、鎌倉殿であることと将軍であることとは必ずしも一致しません。

――3代将軍実朝は甥の公暁に暗殺されました。黒幕がいたという諸説について、どうお考えですか。

岩田:限られた情報だけで原因を探ろうとすれば、どうしても解き明かせない問題というものがあります。実朝の暗殺も、鎌倉幕府内部で発生した事件であるからといって、幕府の事情だけをいくら突きつめても解明には至らないと思います。それでも何らかの結論を得ようとして捻り出されたのが、誰か黒幕がいたという説ではないでしょうか。

しかし現在は、中世における武士や、彼らが形成する集団の特徴、さらには貴族社会との関係やそれとの比較などに関する研究が進展したため、実朝暗殺の背景についても、幕府内部の事情からだけではなく、より多角的に検討することができるようになりました。その結果、黒幕の存在を捻り出すことなく、当時の公武関係や幕府内部の事情から、公暁が焦りと苛立ちを募らせて凶行に及んだと考えるのが妥当であろうと言うことができます。もちろん、今後新たな関連史料の発見や、既存史料の斬新かつ正当な解釈が行われれば、これも再考を余儀なくされる可能性はあります。

――後鳥羽上皇と対決した承久の乱は、波瀾に満ちた生涯においても最大のクライマックスと感じられます。勝因は何だとお考えですか。

岩田:まず、近年の研究では後鳥羽院の側にも勝利の可能性があったと指摘されています(長村祥知『中世公武関係と承久の乱』)。それでも鎌倉幕府が勝利を収めたのは、義時個人が標的にされたのを、あくまでも幕府全体への敵対行動であるとして鎌倉とその周辺の御家人の結束を図ったことにあると思います。そのために、情報の巧みな制御もなされたのではないでしょうか。

また、御家人間で伏在していた同族間対立を利用し、幕府に敵対しているのは後鳥羽院の麾下の西国あるいは在京の御家人、および院近臣らであるとしたことも重要であったと考えられます。これにより、院や天皇に弓引くのではなく、日ごろから敵対していた者を倒すのだという形で、幕府は東国御家人をモティベートすることができたと考えられます。

実際に幾度か行われた合戦では、軍勢の多寡も決め手となったであろうと考えることもできますが、それについて正確に伝える史料が存在しないため、ここに幕府の勝因を求めることはできません。

――読者へのメッセージがありましたら。

岩田:北条義時の個人的な人柄を知りたいという方の期待には沿えないかもしれませんが、義時が生きた時代のことを知りたいという方には、それなりにご納得いただけるのではないかと思います。

本書が、興味を抱いた人物についてその時代背景まで捉えれば、より深く楽しめるということに読者の皆さんが気付くきっかけになるようでしたら、この上なく嬉しく思います。

岩田慎平(いわた・しんぺい)

1978年、和歌山県生まれ。京都教育大学卒業後、佛教大学大学院修士課程、関西学院大学大学院博士課程に進み、博士(歴史学)を取得。専門分野は日本中世史。関西学院大学,立命館大学,佛教大学の非常勤講師を経て、現在、神奈川県愛川町郷土資料館主任学芸員。著書に『平清盛』、『承久の乱の構造と展開』(分担執筆)、『日本中世の政治と制度』(分担執筆)などがある。