2019 11/11
編集部だより

白に建てる弁明

ノートや手帳は使用目的に関係なく購入しています。なぜ? なぜって白い紙が欲しいからです。白い紙? そうそう、土地みたいなもので、白い紙さえ所有していれば、いずれそこに家を建てるでしょう? こんなに手軽でリーズナブルな土地はないですよ。

吉田篤弘『木挽町月光夜咄』「改行なし」より

web担当のKさんから、編集部だよりの催促が来てしまった。
前回の波さんが2月だったから無理からぬことだ。わたしがあまりに書かないので、Yさんに先に書いてもらうことにもなった、ごめんなさい。

個人的な日記や読書記録、長めのSNS投稿の類は割とマメに書き飛ばす。手帳やスマホの画面には、今にも崩れそうなあばら家や怪しげな秘密基地が乱立しているのに、中公新書の読者のみなさんにお見せするような文章となると、かなり力んでしまい、基礎工事にばかり時間がかかってしまうのである。(言い訳です)

ところで、わたしは吉田篤弘さんのファンである。特にエッセイの、思考を自由に連想で広げていく跳躍力が大好きで、それに倣いたいのであるが、そんな達人芸はできそうにない。そも、できるのであれば、編集する側でなく書く側に適性があるということなのだろう。編集者としての適性はさておき、書き手としての力量はゼロに限りなく近い。

前置きとはほとんど関係ないが、せっかくの広大な白い土地だ。なにがしかの建築物があってしかるべきだ。わたしの力が及ばないから、今回も凄腕の力を借りよう。

この夏から秋にかけて、並外れていると感じる芸術作品に触れた。
川上未映子の小説『夏物語』(文藝春秋、2019年7月刊、毎日出版文化賞受賞)と市原佐都子作・演出の舞台『バッコスの信女――ホルスタインの雌』(あいちトリエンナーレ2019が初演)である。

ともに、その基層をなすテーマは生殖、そして反出生主義。

概略を記す。
『夏物語』は、小説家の主人公(第二部の時38歳)とその姉、姪っ子の、女たちの物語。
第一部では姪の初潮とその戸惑い、姉が希望する豊胸手術、第二部では子を欲した主人公が人工授精を選択するかに悩む姿が描かれる。

『バッコスの信女――ホルスタインの雌』には、乳牛を飼育する牧場で、雌牛に精液を注射する家畜人工授精師だった主婦が登場する。主婦は、自身の受精用に、精子バンクから購入した日本人男性の精液を、いざという段で尻込みしてホルスタインの雌に注射してしまう。そこから上半身は人間、下半身は牛、という獣人が生まれる、という設定である。

(かなり単純化した説明なので、ご興味を持っていただいたのなら、ぜひ作品に直接アクセスしてほしい。生殖や出生以外にも、親密圏、ポスト・トゥルース、環境問題、など多くの語り方がある、「問題作」です)

読後、観劇後、わたしは混乱の只中にいた。たしかにそれがフィクションで、特に後者は設定からして荒唐無稽だと、頭では理解している。
しかし、作中の人物の台詞が、まるで大切な友人に反省を促すため直接言われた言葉かのように、頭を鳴り響いてやまないのだ。

「自分の子どもがぜったいに苦しまずにすむ唯一の方法っていうのは、その子を存在させないことなんじゃないの。生まれないでいさせてあげることだったんじゃないの」(『夏物語』より)

「あなたはあなたの欲望が誰も傷つけることのない安心安全なものだと言い切れますか」(『バッコスの信女――ホルスタインの雌』より)

命は尊い、子どもが生まれるのはめでたいことだ、という「一般的な考え」に真っ向から疑問を投げかける台詞だ。
そして、その台詞がわたしに響いたのは、2019年現在のわたしだからなのだと思う。きっと出会うタイミングが違えば、別の部分に揺さぶられただろう。それだけ、多層的で、複雑な作品だったのだ。容易な説明や批評を拒絶する強さがある。(否、わたしの力量不足でうまく魅力を解説できないだけなのかもしれない?)

中公新書のような本を編むにあたっても、社会通念に挑戦する論考には日々触れている。新しい学説を紹介したり、常識をひっくり返すような研究や発見をお届けしたりするのが、新書の役割とも思っている。
さらに付け加えれば、著者の問題設定や思考の筋道がしっかりとわかる本が、いい本だとも言えるのではないか。いわば柱のしっかりした、堅牢な建物である。

これは当て推量だが、文芸作品の場合は、作家の中で多くの考えが咀嚼され、醸成し、それが結晶して、登場人物の声や行動になるのだろう。作家の考えは、登場人物たちに担われるが、その出所は謎に包まれる、そんな印象さえ抱く。作業工程がわからない立派なランドマーク。

それで、ですね。この「編集部だより」で何が言いたかったのか・・・・・・と問われると、やや返答に窮するのですが、新書を編むときも、本や作品を紹介するときも、玄関ポーチを照らす小さな電球になれたらいいな、と思っているのです。(亮)