ブラック・ムーン第六回

 トウオムアは、とっさに馬上に体を伏せたまま、キーマの腹を蹴った。
 同時に、ハヤトが握った手綱を放したので、キーマは犬が鎖を引きちぎったような、猛烈な勢いで駆け出した。
 脚にからんだクラッパーが、やかましい音を立てる。
 間をおかず、焚き火の右手から立て続けに、銃声が起こった。
 そのときには、トウオムアは馬上で体を左に倒し、右手の弓に矢をつがえていた。
 火薬がはじけた闇をめがけて、キーマの首の下からひょう、とばかり矢を射放つ。
 同時に、反対側からも銃声が聞こえ、頭上を弾が飛び抜けていった。
 トウオムアは、すばやく体を馬上にもどした。
 回れ右をして矢をつがえ直し、一の矢を射込んだ草むらへ、突っ込んで行く。
 なぎ倒された草むらから、男がよろよろと立ち上がった。その右肩に、トウオムアの放った矢が、深ぶかと突き立っている。
 しかし、男の右腕にはナイフが握られており、その刃先は左腕に抱きかかえられた、サモナサの首に突きつけられていた。
 サモナサは、腕ごとロープで縛り上げられ、蓑虫のような状態だった。猿ぐつわは、かまされていない。
 それでも、うなり声一つ上げず、もがきもしなかった。
 ただ、唇を真一文字に引き結び、強い目の光でトウオムアを、見返すばかりだ。
 そこには、幼いながらコマンチの男の誇りが、こもっているようだった。
 トウオムアは、無理やりサモナサから視線をそらし、男の顔に目をもどした。
 曙光をまともに浴びて、男は怒りと苦痛に頬をゆがめ、わめいた。
「やってみろ。がきの命はないぞ」
 男の、両の手首に巻かれた黒いカフを見て、それがソルティだと察しがついた。
 トウオムアは、矢を引き絞ったまま、じっとしていた。
 ハヤトはどうしたのかと、一瞬不安が頭をよぎる。
 ソルティの顔を、まともに射ぬくこともできたが、顎の下にサモナサの頭が埋まっており、わずかなためらいが生じた。
 次の瞬間、つがえた矢は弓の弦を離れて、ソルティの頭上を飛び去った。
 首を縮めたソルティが、一転してまぶしげに目を細め、トウオムアの背後を見据える。 自信ありげに、勝ち誇った声を上げる。
「やっちまえ、ザップ」
 トウオムアは、ベルトに差した拳銃を抜く間もなく、あわてて振り向いた。
 二ヤードと離れていない草むらに、黒い影がぬっと立っている。
 逆光のために、ザップの顔は分からなかった。ただ、右手に握られた拳銃の銃口が、ゆっくりと上げられるのが見えた。
 しかし、それは途中まで上がったところで、ぴたりと止まった。
 と見る間に、その手から拳銃が滑り落ち、黒い影は揺らぎながら前へ傾いて、踏みしだかれた草むらの上に、頭からどっと倒れ伏す。
 その後ろに、ハヤトがのそりとばかり、立ちはだかった。右手には、例のサーベルが、握られていた。
 どうやら、首尾よくザップのそばに忍び寄って、仕留めたに違いない。
 ただ、格闘の際にやられたものか、ハヤトの口の回りは血だらけだった。
 トウオムアは、愕然として唾をのんだ。
 これでは、ハヤトも例の吹き針の隠しわざを、繰り出せないかもしれない。
 そう悟ったとたん、背筋に冷や汗が噴き出すのを感じる。
「くそ」
 ソルティの罵声に、目をもどした。
 ザップがやられたと知ってか、ソルティが怒り狂ったようにわめく。
「おまえの馬を、ここへ引いて来い。おれは、このがきを連れて、ブラックマン牧場へ行く。金をもらったら、それでおさらばする。このがきがほしけりゃ、おまえがあとでまた牧場から、連れ出せばいいだろう。何もここで、けりをつけることはあるまい」
 むろん、ソルティの言うことにも、一理ある。
 しかし、いったんサモナサが牧場に連れ込まれたら、父親は自分の娘を傷つけてでも、孫を手放さないだろう。
 それを阻止しようとすれば、最後には父親と自分の殺し合いになる。
 その修羅場を避けるためには、ここで何がなんでもソルティを倒し、サモナサを取りもどすしかない。
 ソルティもまた、サモナサを生かしたまま牧場へ、連れて行かなければならない。ザップが死んだ今、ソルティは謝礼金の千五百ドルを、独り占めできるのだ。
 いきなり、ハヤトがトウオムアの体を押しのけて、ソルティの前に立つ。
 ソルティは、ぎくりとしてサモナサを引きつけ、ナイフを構え直した。
「そのサーベルを捨てろ」
 ハヤトは、捨てなかった。
 ソルティは、トウオムアに目を移した。
「サーベルを、捨てるように言え」
 ハヤトが、例のわざを繰り出せるように祈りながら、ゆっくりと言う。
「そのサーベルを、捨ててちょうだい。息子のために、お願い」
 ハヤトは、少しのあいだじっとしていたが、やおらサーベルを逆手に持ち直し、草むらに突き立てた。
 ほっとしたように、ソルティが言う。
「この女の馬を、ここへ引いて来い」
「おまえたちの馬は、どうしたのだ」
「気づかれないように、離れた場所につないだんだ。連れもどしに行く暇はない」
 トウオムアは、口を挟んだ。
「むだなことは、しなくていい。あたしが、馬を呼ぶから」
 なんとかして、ハヤトにわざを繰り出すチャンスを、与えなければならない。
 しかし、いまだにその気配を見せないのは、やはり口を怪我したせいだろうか。
 やむなく、トウオムアは口の脇に右手を当てて、声を出した。
「キーマー」
 そう叫ぶと、間をおかずにキーマのいななく声が、聞こえてきた。
 三十秒としないうちに、草むらを掻き分けるようにして、キーマが姿を現す。
 ソルティが、ハヤトに言う。
「そいつを、ここへ引いて来い」
 ハヤトは、動かなかった。
 トウオムアは、拳を握り締めた。
 吹き針ができるなら、もうとっくにやっているだろう。
 やはりハヤトは、口が使えないのだ。
 そのとき、突然ソルティにかかえられたサモナサが、大声で叫んだ。
「コーレ、トッテ」
 とたんに、キーマが後ろ脚で立って前脚を躍らせ、鋭くいなないた。
 はっとして、ソルティが一歩さがる。
 一瞬、ハヤトの体が沈んだかと思うと、地面に突き立てられたサーベルが、天に向かってするどく伸びた。
 その刃に、曙光が当たってきらりとひらめき、トウオムアは一瞬目がくらんだ。
 何か、棒のようなものが宙を飛んで、くるりと舞う。
 トウオムアは、目をみはった。
 ソルティの、右肩のあたりから血がどっと噴き出し、恐ろしい悲鳴が上がった。
 サモナサが、抱かれていたソルティの左腕を逃れ、ハヤトの足元に転がり込む。
 それと同時に、ナイフを握ったままの右腕が、どさりと地に落ちた。
 ソルティが、わめきながら草むらの中を、転げ回る。
 それにかまわず、トウオムアはハヤトの足元に飛び込み、サモナサをしっかりと抱き締めた。
 声も出せず、ただ泣くしかなかった。
 ハヤトが、何ごともなかったように向き直り、サーベルを背後に隠す。
「サモナサは、キーマになんと声をかけたのだ」
  くぐもった声で、そう問いかけてきたとき、口から血があふれ出た。
 トウオムアは、サモナサを胸に抱いたまま、ハヤトを見上げた。
 息を継ぎながら言う。
「コーレ、トッテと言ったの。立って踊れ、という意味よ。いつの間にキーマに、そんな芸を仕込んだのかしら」
 そう言いながら、サモナサの体をいっそう強く、抱き締める。
 キーマはすでに落ち着き、そのあたりの草をはんでいる。白人の馬は、枯れ草かまぐさしか食べないが、コマンチの馬は青い草でもなんでも食べる。
「それなら、サモナサは自分で自分の身を、守ったようなものだ。いいコマンチに、なるだろう」
 ハヤトはそう言い捨て、体を回してソルティが倒れた草むらに、踏み込んで行った。
 ほどなく出て来ると、サーベルを振って血糊を切り、背中の鞘に収める。
 いつの間にか、ソルティのうめき声が、やんでいた。
 トウオムアは、ハヤトがソルティに何をしたかを、すぐに察した。
 コマンチなら、決して敵にほどこさない憐れみを、かけてやったのだ。
 さらに、ハヤトはザップの死体を引きずって、ソルティのそばに移した。
 もどって来て言う。
「埋めてやりたいが、ここには掘る道具がないし、死体を流す川もない。おれの役目は終わった。あんたと息子は、また一族のところへもどればいい」
 トウオムアは、ハヤトを見上げた。
「それより、あんたは口を怪我したようだね。だいじょうぶなの」
「ザップに一撃をくらって、口の中を切っただけだ。ほうっておいても治る」
 こともなげに答える。
 それ以上は言わず、トウオムアは話を変えた。
「あんたはこれから、どうするつもりなの」
「とりあえず、また西へもどる。大きな町があったら、そこからサンフランシスコへ、電報を打つ。おれの連れに、無事を知らせるのだ」
 トウオムアは、首を振った。
「それから、サンフランシスコまで、行くのかい」
「ああ、そのつもりだ」
「どうやって行くのさ」
「この国の、東の端と西の端をつなぐ長い鉄道が、去年開通したはずだ。その、どこかの駅へたどり着けば、サンフランシスコに行けるだろう」
 ハヤトの返事に、トウオムアは首を振った。
「あの、アイアン・ホース(鉄の馬=汽車)が走ってるのは、ここからずっと北の方さ。行けたとしても、あんた一人じゃ何十日もかかるよ」
「何十日かかっても、おれはかまわぬ」
 トウオムアは、考えを巡らした。
 とりあえず自分は、最後に一族がキャンプを張った場所へ、もどってみよう。
「あたしはこれから、コマンチのキャンプにもどる。あんたも、一緒に来るんだ。夫のトシタベに、あたしの無事を知らせたら、鉄道の駅まで送ってあげよう。借りはきちんと、返さないとね」
 ハヤトはしばらく、考えていた。
 ようやく、口を開く。
「分かった。あんたの亭主がどんな顔をするか、見てみたいからな。馬を連れて来る」
 そう言い残して、自分の馬を留めた場所へもどって行くハヤトの背中を、トウオムアはじっと見守った。
 サモナサの、温かい体の熱が伝わってきて、トウオムアはまた涙ぐんだ。
〈了〉

ブラック・ムーン

Synopsisあらすじ

新選組副長・土方歳三は箱館で落命した――はずだった。記憶を失った土方は、内藤隼人と名を変え、米国西部へと渡っていた。彼の命を狙う元・新撰組隊士との死闘の末、ラヴァ・フィールズの断崖から落下した隼人だったが……。
逢坂剛が放つ、究極のエンターテイント・”賞金稼ぎ”シリーズ!

Profile著者紹介

逢坂 剛

1943年東京生まれ。80年『暗殺者グラナダに死す』でオール讀物推理小説新人賞を受賞しデビュー。86年に刊行した『カディスの赤い星』で直木賞、日本推理作家協会賞、日本冒険小説協会大賞をトリプル受賞。2013年に日本ミステリー文学大賞、15年には『平蔵狩り』で吉川英治文学賞を受賞。本作は『果てしなき追跡』『最果ての決闘者』につづく“賞金稼ぎ”シリーズの第3弾。

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