中公文庫「走狗」刊行記念

著者伊東潤氏 インタビュー
「走狗」

伊東潤

(いとう・じゅん)
1960年、神奈川県横浜市生まれ。早稲田大学卒業。『国を蹴った男』で第34回吉川英治文学新人賞を、『巨鯨の海』で第4回山田風太郎賞と第1回高校生直木賞を、『峠越え』で第20回中山義秀文学賞を、『義烈千秋 天狗党西へ』で第2回歴史時代作家クラブ賞(作品賞)を、『黒南風の海――加藤清正「文禄・慶長の役」異聞』で本屋が選ぶ時代小説大賞2011を受賞。最新刊に『潮待ちの宿』がある。

――人はなぜ、権力を求めるのか

権力の座に魅入られた男を通して描かれる、維新の光と闇とは。
西郷と大久保の影を担い、初代警視総監まで上り詰めた川路利良の生涯を描いた「明治ノワール」傑作巨篇。中公文庫版刊行に際し、著者にこの作品に込めた思いを語ってもらった。

インタビュー・構成/編集部

どのようなお話なのですか。

 禁門の変(蛤御門の変)で敵将の来島又兵衛を狙撃するという大功を挙げた川路は、幕末期は西郷と大久保の手足の一人として走り回り、維新初期の人材不足と持ち前の上昇志向から頭角を現わしていきます。しかしそこには、無理に無理を重ねて走り続けた男特有の「負の部分」もありました。そうした明治維新の陰と陽を川路利良という男に託し、余すところなく描いたのが、本作です。

 そうした意味で、本作は川路利良という一人の男のビルドゥングス・ロマン(成長物語)であり、また維新後は、ピカレスク小説つまり「明治ノワール」でもあるという二段構造になっているのです。

この作品を書こうと思った動機は何ですか。

 この作品を書いた理由は三つあります。

 まず川路が外城士(とじょうし)という、武士としては足軽同然の最下層の出身でありながら、維新政府で異例の出世を遂げ、現在の警視総監にあたる大警視という地位にまで登り詰めたことに関心を持ちました。つまり川路は、自らの能力を頼りに頭角を現わしていった明智光秀や石田三成のような男だったのです。

 また西南戦争で西郷に付いた村田新八を『武士の碑』(PHP文庫)で描いたので、その対照的人物として大久保に付いた川路を描こうと思ったことも執筆動機に挙げられます。西郷を大恩人としながらも、鬱屈した心情から大久保側(体制派)となり、西郷を葬り去ろうとまでした心の内を描きたかったのです。これぞ小説にしかできないことです。

 第三点として、文明開化で沸き上がる明治維新期の陰の部分、言うなればノワールな明治の実像を、川路という恰好の存在を通して描いてみたいと思ったこともあります。

 この三点が執筆動機になりますが、そうした理屈は抜きにして、読者の皆様は川路の視点を通して「薩摩藩の幕末と維新をウォークスルーする(通り抜ける)」ことをお楽しみ下さい。

明治維新の功罪は様々に言われていますが、川路利良の果たした役割とは何でしょう。

 功としては、国内の治安を維持する組織として警察を創設し、社会に秩序をもたらしたことです。現代を生きる私たちにとって、警察は水や空気のように、あって当たり前の存在ですが、江戸幕府の奉行所しかなかった当時の日本に警察制度を導入していくのは、並大抵のことではありませんでした。しかもフランスの交番制度を導入したことにより、日本の治安は世界のトップレベルにまで一気に引き上げられました。そうした安心感があってこそ、人々は日々の仕事に邁進でき、日本は近代国家の道をひた走れたのです。

 川路は自ら率先して警察官であろうとし、自らの生活まで律します。その姿勢は真面目一筋で、いかに彼が警察制度の導入に情熱を燃やしたかの証左になります。

 そうした表の部分だけなら、川路も偉人の一人として扱っていいと思います。しかし陰の部分を担わねばならないのも警察の宿命です。陰の部分とは今で言う公安的な仕事ですが、それがどんなものかは、作品の中でお楽しみ下さい。

西南戦争では、大久保に付くと目されていた村田新八が西郷に付き、西郷に付くと目されていた川路が大久保に付きますね。

 人というのは不思議なもので、村田は運命の糸に搦め捕られるようにして西郷軍に身を投じます。おそらく私学校の若者たちの暴発を抑えるために鹿児島に帰ったのでしょう。これには従兄弟の証言あります。しかし周囲の熱気に煽られたのか、内戦を最小限で押さえようとしたのか、西郷と共に起つことになります。佐賀の乱における江藤新平と同じような状況です。

 一方、川路は確信犯でしょう。彼にとっては西郷への愛よりも、自分が丹精込めて作り掛けていた警察への愛が勝ったのです。もちろんそこには、せっかく得た富と名声を手放すことができなかったという人としての弱さもあったのかもしれません。

 結局、いかに西郷を尊敬し、西郷を慕っていても、彼は鹿児島に帰って芋を掘る生活に戻る気はなかったのです。それが西郷側近の桐野利秋、別府晋介、辺見十郎太たちと異なる点です。

 そこにはホモ・ソーシャリティという微妙な心理が存在していました。桐野らは、その頸木から逃れられなかったのです。その逆に川路は、西郷を中心としたホモ・ソーシャリティ・サークルの少し外縁部にいたので、そこから脱するために西郷を葬らねばならなくなったのです。

 桐野ら西郷子飼いの連中に対し、川路が憎悪と嫉妬を抱いていたこともあります。要は、西郷にもっと近づきたいのに近づけさせてくれないというコンプレックスです。桐野たちは「おいたちの西郷先生」として西郷を囲い込み、少し距離のある川路や黒田清隆を近づけさせなかったわけです。男の嫉妬とは、げに恐ろしいものなのです。

 いわば西南戦争は、「おいたちの西郷先生」に殉じたい桐野たちと、西郷という偉大過ぎる存在から解き放たれ、新たな道を歩みたい川路たちとの戦いでもあったわけです。

川路利良とは、どのような男だったのですか。

 端的に言えば「誰かのNO.2ないしは補佐役で輝く男」だったと思います。明智光秀、石田三成、土方歳三に近いものがあります。

 光秀は信長あってのもので、信長の命令を忠実に実行しただけでなく、その言外の意を捉えるセンスに長けていたからこそ頭角を現わせました。しかし自らの手で信長を討ってしまうと、迷走が始まります。光秀が本能寺の変までは周到だったのに、変が成功した後は人変わりしたように何もできなかったのは、信長の頸木から解き放たれることで思考停止してしまったからでしょう。光秀は単体では輝けず、信長がいたからこそ輝けたのです。

 三成についても「秀吉がいてこそ」だったのは言うまでもありません。しかも三成は秀吉の死後、秀吉が担っていた人望、人徳、リーダーシップ、創造性といった部分を全く補えず、自滅するかのように敗れ去ります。これは「大谷刑部主導者説」でも、さして変わりません。三成も刑部も秀吉にはなり得なかったからこそ、多少なりとも人望のある家康に敗れたのです。

 土方は例外的にリーダーもできる存在だったかもしれません。しかし近藤勇と袂を分かった後も、大鳥圭介や榎本武揚のNO.2的立場に回っています。土方は誰かと補完関係を築き、自分の居場所を見つけるのに長けていたからです。

 同様に川路も西郷や大久保あってのものでした。彼は誰かを支えるのが得意で、その暗部を担うことさえしました。しかし西郷を裏切り、大久保を失うことで、自身も破滅するしかなくなります。彼の上昇と転落の軌跡こそ、明治維新の理想と現実を端的に表していると言えるでしょう。

明治維新同様、現代社会も大きな変革が訪れていますね。

 ここ20年、グローバリズムの流れが加速することで、世界では少数の富裕層と大多数の貧困層という分断が生まれ、グローバリズムに疑問が呈されると同時に、それを支えてきた民主主義という政治理念さえ軋んできています。西側諸国は、新たな国際秩序と政治理念を確立すべき時期に来ているのです。

 こうした背景を踏まえて、現状維持をよしとしない中国・ロシア・イラン・北朝鮮といった強権的な国家が、軍事力による拡張主義を鮮明に打ち出してきています。つまり、これからの日本は、たいへんな外圧に見舞われます。

 こうした状況は幕末と酷似していると言ってもよく、政治体制から社会制度のみならず、日本人のメンタリティまで抜本的な改革をしていかないと、日本は衰退の一途をたどることでしょう。しかも少子化によって社会から活力が失われているので、明治維新のような画期的な改革は望むべくもありません。

 唯一の光明は「年功序列」「責任を取らない体質」「事なかれ主義」「先送り」といった日本企業に巣くう悪しき風習が一掃され始めたことで、優秀な若者たちが台頭してきていることです。今われわれにできることは、こうした若者たちをいかに育てるかです。

 これからの若者たちは大海、すなわち世界へと進出していきます。その時、五十代以上の世代ができることは、川をさかのぼって得た収穫を若者たちに持たせることです。川とは歴史のことで、収穫とは歴史から学んだ教訓のことです。

 ドイツの鉄血宰相ビスマルクは「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と言いましたが、経験を語らず歴史を語ることこそ大切です。

 その役割を担う者の一人として、私も襟を正して歴史に取り組んでいくつもりです。とくに現代社会の写し鏡でもある幕末を描くことは、時代の変革期を迎えようとしている日本の若者たちにとって、極めて重要だと心得ています。

本作は『武士の碑』と『西郷の首』と共に西南戦争三部作という位置付けだと聞きました。

 仰せの通りです。まず『武士の碑』で西郷に寄り添った村田新八を描き、本作で西郷を裏切った川路利良を描き、『西郷の首』で外野的立場の加賀藩士たちを描きました。この三作は時代がかぶるだけでなく、西南戦争によって運命を変えられていった男たちの悲劇を描いています。

 村田の場合、あえて渦中に飛び込んだ感がありますが、大久保に付いた川路も、毒殺としか思えない不可解な死を遂げます。さらに西郷軍が潰え、親友(千田登文)が西郷の首を見つけてしまったことで、明治政府に失望した島田一郎は大久保を暗殺します。彼らの西郷との距離は様々ですが、その運命はタペストリーのように複雑に絡み合っており、渦の中心には常に西郷がいます。

 それだけ西郷という存在は大きく、今でも幕末から明治維新期のシンボルないしはメルクマークとなっているのは、ご存じの通りです。

 この機会に『走狗』文庫版をお読みいただきたいのはもちろんですが、この三作すべてを読み、明治維新とは何だったのかを、読者の皆様にも考えていただきたいと思っています。

単行本版から改稿はしたのですか。

 今回は文庫化にあたって、単行本版から全文で15%前後のカットを断行し、リーダビリティを格段に引き上げました。不用な人物や地名をカットし、テーマから逸脱するウンチク的なものも容赦なく切り捨てました。こうした作業により、一段と贅肉が剥ぎ取られ、スリリングな展開が際立つようになったと思います。

本作について、読者へのメッセージはありますか。

 本作は歴史の流れを追うだけの偉人伝ではありません。川路利良のビルドゥングス・ロマンであり、ピカレスク・ロマンでもあります。つまり上昇と転落の軌跡を描いていくことで、明治維新の理想と現実を知っていただきたかったのです。

 また本作は、歴史解釈とミステリー小説的な伏線が絡み合った作品でもあります。とくに後半から終盤にかけてのグルーヴ感は拙著の中でも出色の出来でしょう。いわゆる一気読み状態になることは間違いありません。

 歴史小説には、読者が結末を知っているというハンデがありますが、そこに至るまでのプロセスで、いかに楽しませるかに作家の腕が掛かっています。

 私の場合、史実をしっかり押さえつつ、歴史解釈力という武器で一気読みのグルーヴを生み出してきましたが、本作はその方法論が成功した作品の一つだと思います。

 もちろんドラマ部分は作り込んだものなので、史実の通りとは言い難いものですが、読者が「ああ、こういうことが実際にあったかもね」と思っていただけるよう、妥当性には細心の注意を払っています。すなわち「史実から逸脱せずに、スリリングなドラマが展開されている」という歴史小説にとっての理想的な作品となっているのです。

 『走狗』を読み、歴史小説でも「ここまでやれるんだ」ということを、ぜひ知っていただきたいと思っています。

走狗

走狗

伊東潤

西郷隆盛と大久保利通に見いだされ、幕末の表舞台に躍り出た川路利良。警察組織を作り上げ、大警視まで上り詰めた男が見た維新の光と闇。〈解説〉榎木孝明

初版刊行日:2020/2/20 判型:文庫判 ページ数:568ページ 定価:本体860円(税別)
  • amazon
  • 楽天ブックス
  • 7net
  • 紀伊國屋
  • honto
  • TSUTAYA
  • ehon
  • HonyaClub