数えずの幽霊

――井戸をこういうふうに使うことは、最初から構想があったんですか。

京極最初からですね。まず、僕の小説は幽霊が出ませんね(笑)。まあ、いないから出ないってだけですけども。で、お岩さんは姿と祟りが怖いわけ。小平次は生きているか死んでるかわからないのが怖い。ところが、皿屋敷は井戸から出てきて皿を数える幽霊そのものが怖いというスタイルで、一番やりにくいわけです。お岩さんは見間違い、小平次は生きていた、そういう話でも成立するんですけど、皿屋敷だけはそうはいかない。とりあえずお菊さんは死んでもらわなくちゃいけないし、その後で井戸から出てお皿数えてもらわなくちゃいけないわけでしょう。見間違いってわけにはいきませんよね、毎晩数えるんだし。実は井戸の底で生きていて、こっそり暮らしてましたなんて、ドリフのコントじゃないんですから。どうやって幽霊抜きで死後に皿を数えさせるのか、というところから入らなくちゃいけなかったわけですね。その皿数えにしてもですよ、「一枚、二枚、三枚……一枚足りなーい」で、坊さんが出てきて「十!」で成仏って、それはもう、今ではギャグなわけです。『南極』じゃないんだからギャグにしちゃいかんだろうという。何がどうなったって幽霊なんかいないんですから、これは「いかにして井戸から娘が出てきて勘定する怪談がまことしやかに流れたのか」、という話にしなければいけなかったんです。

――だから井戸を怖くしなきゃいけなかったと。

京極そうなんです。この井戸自体、高貴な女性が男あさりをして、遊んだ後に殺して死体を放り込んだ井戸という巷説があるわけですし。青山皿屋敷の怪異井戸というのは、それだけでけっこう化け物譚として成立してるんです。これは使わない手はない。死んだ人が出てくるわけじゃなくて、現実にも幽霊というのは「そういうものだろう」と思うんですよね。