仕掛け数え

――それにしても今回、井戸と皿というモチーフが非常に強烈です。

京極人間関係が曖昧な分、モチーフはすっきりしてますね。今回はタイトルからして『数えずの井戸』ですしね。前二作を踏襲するなら、『頑張れ播磨』とか『泣くな菊』とかにするべきなんでしょうけど(笑)、できませんでした。井戸は『伊右衛門』の蚊帳とか『小平次』の押入れなんかと同じような装置ではあるんですけど、それらがあくまで主役と主役のいる場所に関わってくる象徴であるのに対して、今回の井戸は作品全体にかかっているんですね。登場人物のほとんどが同じ人物の複写であるということも影響しているんでしょうが、そもそも元が「皿屋敷」ですからね。皿と井戸は外せないわけだけれども。 井戸って、まあ縦穴だから、垂直のイメージがあるんだけど、地下の広大な水脈というか水を含んだ層に繋がった地表の穴ですよね。要は冥土の蓋みたいなもので、深さ自体はあまり意味がないんだろうなと。そうすると皿と変わらない。月や湖なんかも、とてもわかりやすいメタファーにできるし、結局のところそれも井戸に収斂しちゃう。だから、イコンとしては円相があるだけなんですね。

――丸いというのもポイントですか。

京極そうですね。円相は空ですからね。そういう、イメージが折り畳まれた言葉をちりばめることで書いてない部分を作り込んで行く手法ではあるんですよね。例えば、皿が隠される神社は白山神社で、祭神は白山比咩神。これ、筋書きには何の関わりもないわけです。別に神社である必要もないといえばない。でも白山比咩神って、菊理媛命の別名と されるんですね。菊理媛は「日本書紀」に出て来る神さまですが、黄泉路から戻った伊弉諾命に「何か」を言うだけの神さまなんですよ。何と言ったかはわからない。謎が多いからいろいろ考察もされていて、お菊の名前と繋げてしまう人なんかもいるんですけども。真偽の程は別にして、そうしたイメージの結び付きがあるという事実は捨てられないでしょう。

――それは気がつきませんでした。

京極そういう小細工はたくさんあるんだけど、仕掛けが多すぎて分からないし(笑)。わかる必要もないことですね。困ったのはお皿ですね。僕は普段はあんまり困らない人なんですけど(笑)、この作品で皿は大事ですからね。お菊さんが割った皿というのは、まあいくつも残っているんですけども、どれもねえ、悪いんですけどパッとしない(笑)。割ってお手打ちというようなもんじゃないんですね。南蛮の皿だとか、いろいろ箔づけはしてあるんだけど。思案の末に、「姫谷焼はどうだ」とある人にいわれて、それだ、と。いや、あるんですよホントに姫谷って。

――あるんですか。

京極まあ数も少なく、本当に幻の窯なんですけども。姫谷焼色絵皿十枚揃いなんて、いま出たらものすごい値段になるんじゃないでしょうか。これは、備後福山の窯なんですけど、キリシタン伴天連が焼いたとか、京都の陶工がお姫さまと駆け落ちして焼いたとか、そんな伝説もあるくらいで。

――なんか出来過ぎてますね(笑)。

京極出来過ぎですが、ほんとうなんだから仕方がない(笑)。作中ではまったく触れませんでしたけども。姫谷って、同時代の有田焼がどこか中国風なのに和風なんですよ。京焼の影響があったんだろうということですが。そういう僕も、本物は見たことないんですけどね。