皿屋敷数え

――巻末の参考文献で挙げられていた伊藤篤『日本の皿屋敷伝説』(海鳥社)を読みましたが、これほど日本全国に皿屋敷伝説があるとは思いませんでした。

京極いや、あるんですよ。それはもう、どこにでもあるというくらい。

――そういう意味では、四谷怪談や小平次怪談とはちょっと違う印象ですよね。

京極 そうなんです。『数えずの井戸』は『嗤う伊右衛門』『覘き小平次』とまったく同じ手法で作ったんですが、かなり手続きが面倒でした。
 四谷怪談の場合はまず実録小説の「四谷雑談集」があって、あと何と言っても四世鶴屋南北の「東海道四谷怪談」があって、それ以外のものはその二種のヴァリエーションと言っていいでしょう。付け加えるとしたら実際に伝えられている田宮家の家伝ですね。小幡小平次に関しては、まとまったテキストというのはなくて、山東京伝の「復讐奇談安積沼」での小平次は実は客演というところ。ただ小平次の場合は、いわゆる都市伝説的な短い話がたくさん残っています。スタイルこそ違いますが、双方江戸のものですね。
 一方、皿屋敷に関しては、お芝居、浄瑠璃、小説など、大同小異のテキストがそれはたくさん残されています。加えて、江戸ではなく地方にも口碑伝承が多く伝わっていて、ご指摘の通り数がものすごく多い。ただ、みんな細かく違ってはいますが、骨子は一緒なんですね。昔話における「類話」と同じです。構造が一緒でガジェットに地方色が出ているだけなんです。
 ただ、ユニークなのが、人物の性格と関係性についてのみ、驚くほど違ってしまっているということ。起きる事件に大差はないのに、主役二人のキャラが、もうバラバラなんですね。播磨がいい人だったり悪い人だったり、好色な狒々親父だったり、恋に殉じる好青年だったり、お菊ちゃんがバカだったり賢かったり、自ら身を引く健気な人だったり恋に身を焦がす少女だったり、事件に到るまでのメンタリティがまったく違う。これをひとつにまとめなければいけなかったんですが、どれかを削るのはいやだったんですね。「ボツのヴァージョンは間違いだ」となっちゃうのは失礼だし(笑)。「全部間違ってません」というふうにしたかった。これは、過去の二作でもそうだったんですけど、今回はやたらに数が多かったわけですよ。その整合性のない様々な人間関係と矛盾した様々なキャラクターをひとつの話にまとめなければいけなかったんですね。

――「番町皿屋敷」でお菊に祟られるのは青山播磨守主膳。ところが『数えずの井戸』では、青山播磨と遠山主膳という二人の人物が出てきます。

京極名前は記号ですからね。播磨は「青山」「播磨」「主膳」「遠山」「鉄山」あたりの組み合わせが多いですね。菊は、まあ「菊」が多いんだけど、「きら」とかね、突然変異的に変わる場合もあるわけですね。ですから、矛盾した複数の人格を一人なり二人なりに重ね合わせて統合し、さらにそれを複数に振り分け、それらの記号をつけ直してキャラクターに仕立てたわけですね。ですから、まあ言ってみれば実は二人しか出てない(笑)。遠山主膳と青山播磨は同じ人で、大久保吉羅と菊も同じ人です。ただ、自分というものに対するアプローチが違うだけだという。いや、「確固たる自分」なんてありませんから、探すだけ無駄なんだけど、それに気づくと怖くなるので、「自分はこうなんだ」と思い込みたくなるもんですね。その思い込み方に差が出るというだけで、みんな、根っこはそんなに違いないもんでしょう。

――確かに、菊と吉羅は対照的な性格に見えて、「数えるのが嫌い」という意味では一緒ですね。

京極同じ人ですからね(笑)。主膳と播磨は、外見は違うのに「区別がつかない」と書いてありますからわかりやすいですね。ざっくりと言えば「男と女がいて死んじゃう話」ですよね(笑)。まあ三平や十太夫が絡んでくるんですけど。