2019 09/27
日本ノンフィクション史 作品篇

第20回 写真とノンフィクション①――藤原新也『東京漂流』を中心に

■東京最後の野犬

“有明フェリータ”が死んだ場所がどうなったか。ふと、それが見たくなって10号埋め立て地にクルマを走らせた。

 10号埋め立て地は、行政区分で言えば東京都江東区有明である。平成生まれであれば有明という地名から“コロシアム”やら“テニスの森公園”やら“ビッグサイト”やらを連想するのだろうが、昭和の後半を知る筆者にとって、東京湾岸の埋め立て地は10号とか13号とかいった無機質な記号で呼ばれるほうがしっくりくる。そこは高度成長期に作られてからも開発がなかなか進まず、船舶と大型トラックを用いた長距離物流の拠点こそいくつかできたものの、暮らす人がいない巨大な無人島という印象が強いからだ。

 藤原新也も呼称については同感だったようだ。

《東京湾の埋立て地のちょうど大井埠頭と夢の島の間に、カッターナイフの刃形に似た方形が突き出ている。長辺がきっちりと一・五キロ、短辺が五〇〇メートル。いかにも人工的な数字だ。住所は東京都江東区有明四丁目だが、一〇号埋立て地 その二、といったほうがわかりよい。湾が獣の口とすれば、それに沿って海に突き立つ数々の埋立て地は、さしずめ東京の牙のように見える。》(単行本『東京漂流』情報センター出版局、1983年)

 新潮社発行の写真週刊誌『FOCUS』(現在は休刊)に連載されていた「東京漂流」シリーズの第3回(1981年11月13号)の一節だ。

 そのとき、藤原は10号埋め立て地に数匹の野犬(人に飼われた後に捨てられたり、鎖に繋がれた生活から逃れたりした“野良犬”ではなく、生まれてから一度も人間の手に触れていない)がいるという話を東京都の所轄職員から耳にして興味を持つ。その存在を知った都側は駆除に着手しようとしていた。狂犬病予防法は野犬を捕獲し、殺処分することを求めていた。藤原は殺される前に“東京最後の野犬”を撮影してみたいと思った。そして夜になると《一〇号埋立て地 その二》に出かけるようになっていた。

《昼寝て夜になるとこの埋立て地にやってきてカメラを片手に歩き回った。埋立て地の東と南に設けられた苫小牧や釧路に向かうフェリーターミナルを往復していた大型トラックは、夜になるとぱったりと走り止み、頭部をはずした巨大なジュラルミンボックスだけが倉庫がわりにあちこちに置き去りにされて、妙にうすら寒い光景をつくっていた。
 真夜中になると、その無人の海市は、別の次元のものへと反転する。夜行性の虫と、無数の野ネズミと、そして、あの夜行犬どもの帝国となる。夜の暗闇の中で、そのナイフの刃は、東京より分離独立し、野犬と野ネズミの治外法権を確立する。
 私はカラーフィルムを超高感度にして二八ミリレンズの絞りをいっぱいに絞った。それに強力なストロボを取りつけた。こうすれば二、三メートル手前から二〇メートルまでレンズ焦点とストロボ照射圏内に入る。その間に野犬がうまく飛び込めば、形はどうであれともかく写るのだ。暗闇の中では何も見えないから、犬の気配でシャッターを押すしかない。》(同前)

 深夜の埋め立て地通いを始めて4日目、草のない荒地を歩いていると前方に何かが動く気配を感じた藤原は、やみくもにシャッターを押した。ストロボの閃光のなかに浮かび上がったのは茶色の子犬だった。そして2時間後、再びチャンスが巡り来る。

《私は、きっと親犬は子犬のもとへ戻ってくるに違いないと思い、犬が通ると思われる道の風下に置いてあるトラックの車輪の下に隠れて待っていた。二時間ほどして、とつぜん真っ黒い犬の影が、街灯の明かりのわずかに届く道に出てきたのだ。私は息を殺して影の近づくのを待った。影はほんの四メートル手前まで来た時、何かの気配を嗅ぎつけた。影が一瞬くびすを返した。私はシャッターを押した。巨大な閃光があたりを浮かび上がらせる。光の中に真っ黒い犬の型が一瞬定着した。真っ黒い犬型の中に二つの目がストロボの光をはね返して蛇の目のように光った。
 一瞬見た犬型は贅肉のそぎ落とされた黒人ミドル級ボクサーのように見えた。犬は閃光のまたたきと同時に闇の中に消えた。私は彼と闘いの一ラウンドを終えたような気分になった。私は、有明四丁目とフェリーターミナルの文字を取って、奴に「有明フェリータ!」という名前をつけてやった。》(同前)

『FOCUS』の連載は最初の見開きをいっぱいに使った1枚の写真、次の見開きは片面が写真で片面が文章、文章は次の見開きの片面まで続くという全5ページの構成だった。

 連載第3回の「東京最後の野犬 有明フェリータの死について」では最初の見開きに目をぎらりと光らせた犬の写真が掲載されている。1981年10月25日午前3時前後と撮影時刻の記載がある。そしてページをめくると黒い犬は枯れ草の上に横たわっている。有明フェリータは藤原が撮影に成功したわずか3日後には、野犬駆除のために置かれた毒入り肉団子を食べて死んでいた。

■文章よりも写真の評価が先行

 この『FOCUS』の連載は藤原の表現スタイルを生かしている。藤原は写真と文章を組み合わせた独自のスタイルのノンフィクション作品を発表してきた。

 雑誌『SWITCH』2016年2月号は藤原の特集号であり、藤原自らが自分の人生を語っている。そこからデビューするまでの軌跡をかいつまんで紹介すると《一九六九年、学生運動華やかな頃、世の中が騒然としている中で東京芸大の油絵科に在籍していた》が、《六〇年代は前近代の農本社会から今日の情報化社会へと産業構造が劇的に変化する変わり目の時期》で《その変化を予感し身体性がなくなっていく危機感が自分の中に》あって《四畳半にこもって絵を描いてる場合じゃないって感じが》して《土着と身体性が色濃くうごめいていた》インドへ旅立とうとする。しかし旅行費用が心もとない。《日本を発つ前にある日銀行に置いてあった「アサヒグラフ」という雑誌をめくったら、最後のページに“私の海外旅行”という一ページものの投稿コーナーがあった》。《これだと思って編集部に電話をして「インドに行ってタージマハルの前で写真を撮ります。取材費をくれませんか?」と言ったら、そんなのない、写真を撮ってきたら持ってきなさいと言われた》。癪に障った藤原青年は編集部に乗り込んで直談判に臨んだ。すると編集長が《コダックのエクタクローム・フィルム三十六枚撮りを三十本と現金十万円を出してくれたんです》。

 こうして旅費を獲得した藤原は、兄から借りたペンタックスSPでタージマハルの前で写真を撮ったが、それだけではフィルムが余る。《カルカッタで二十本売ったけどまだ九本フィルムがリュックの底に残っていた。/それでそのままではもったいないから記念に撮っておこうと写真を撮りはじめた》。

《日本に帰って撮ったフィルムを編集部に全部渡すと原稿を十枚書いてくれと言われた》。「私の海外旅行」は写真1点に200字程度の文章がつくだけだったので、10枚書かせてそのなかから抜粋したいのだろうと考えていたが、《それがとつぜん巻頭二十ページの特集になってびっくりした》。こうして『アサヒグラフ』1970年3月6日号に「“インド発見”100日旅行」が掲載される。以後、1970年代前半は『アサヒグラフ』が藤原の発表の場となり、「インド放浪」「印度行脚」などのフォトルポルタージュを連載した。

 1977年には台湾、韓国、香港を旅した『逍遙游記』を刊行。紀行文に、紗をかけたように滲んだトーンが特徴的な写真を添えた作品で、第3回木村伊兵衛写真賞を受賞している。1981年には『全東洋街道』が第23回毎日芸術賞を受賞しているが、これも写真と文章の作品だった。こうして作家・藤原新也が社会的に認知されてゆく過程で写真への評価が先行したという事実はあらためて考察に値するように思うのだ。

■ノンフィクションとしての写真

 ノンフィクションが現実を表現するカテゴリーだと考えるならば、写真ほどそれに適したメディアはない。なにしろレンズの前にあったものを写すのだし、逆にいえばそれしか写らないのだ。その意味で、現実を、主観を差し挟むことなしにそのまま表現することを理想とする客観主義的な報道観に、写真は応える。

 もちろん写真であっても、たとえばヨハネスブルクの町中をライオンが歩いている写真を、熊本地震で動物園から逃げ出したライオンだと称するなど嘘はつける。しかしそれは写真を説明する言葉が間違っているのであり、写真が撮影された時にレンズの前にライオンがいたという事実自体に嘘はない。デジタル時代には合成や修整が易くなったが、合成・修整する前の写真はレンズの前の光像を確かに記録していたのであり、合成や修整は事後的に施されている。CG合成はこの論理では語れないが、それはもはや写真とはいえないだろう。たとえばレンズの前の光がカメラ内で発生させたハレーションを、霊が写っていると解釈する心霊写真の類でも、ハレーションを起こさせた光が実在したことは確かだ。

 こうして考えると、写真は何がどのように写っているのかを“意味論”としてではなく、そこに在ったものを示す、“存在論”としてのノンフィクションのメディアだと言える。そこに写っているものが何と呼ばれるものであり、何ゆえにそこに在ったのかまでは写真単体では示せず、言葉の助けが必要となるが、写っていたものがそこに在った事実であれば写真はそれ自体で証し立てることができるのだ。

 こうした存在証明のメディアとしての写真の力を借りることで映像報道は成立してきた。藤原はその歴史の延長上に確かに立っている。

 そんな藤原の写真への評価を写真史に位置づけるなら、『プロヴォーク』の次の時代を画すると期待されたのではなかったか。『プロヴォーク』とは写真家の中平卓馬と高梨豊、美術評論家の多木浩二、詩人の岡田隆彦によって、1968年に創刊された写真同人誌だ。「思想のための挑発的資料」というサブタイトルが示すように、政治や革命を取り巻く状況が激しく動いた1960年代末の思想を色濃く反映した内容であった。

 写真的には第2号から参加した写真家・森山大道の印象が強い。写真とは何かを写すものという写実主義的な発想を否定し、手ブレやピンぼけを排除せず、現像や引き伸ばしの工程で画像を荒れさせ、写真そのものの物質感を強烈に示す手法を森山は採用。中平もそれに追随し、「アレ・ブレ・ボケ」写真は同時代に大きな影響を与えた。

 そんな『プロヴォーク』が一世を風靡した後に藤原は登場する。アサヒグラフ編集部が藤原に提供したエクタクロームはカラーリバーサルフィルムであり、『プロヴォーク』の写真家たちが愛用したモノクロフィルムと違って自分で現像処理することは難しい。結果として『プロヴォーク』よりも藤原の写真は被写体がよく「写って」いる。そんな写真だからこそグラフジャーナリズムで発表の場を得られた。ファインアートとしての写真芸術という見方を脱構築し、新しい反芸術写真の領域に先鋭化していった『プロヴォーク』の写真に対して、藤原の写真は、写真を事実の記録と伝達のために用いるフォトジャーナリズムの世界に回帰させるものだった。

 ただその写真が保守的、古典的だというわけではない。それは、やはり『プロヴォーク』後のものだった。カメラ操作に慣れていない初期の藤原の写真は被写体を比較的素直に、つまり写実的に写しているが、やがて絵画芸術を学んでいた素養が生かされるようになる。露出を意識的に不足させたり、過剰にしてみせたり、ピントをずらしたり、大型カメラを用いて画面の隅々にまで過剰なまでの精細度を獲得してかえって現実感を喪失させたり、藤原もまた素朴な写実主義を超えた写真表現の可能性を追い求めるようになる。1970年代の彼の作品を見ているとバリエーションの豊富さに感心させられる。こうして独自の作風を確立した藤原が『プロヴォーク』後の写真作家として評価されたことが、数々の受賞歴につながっているのだと思われる。(以下次回、「写真が持つ力とは」)

藤原新也『東京漂流』(情報センター出版局、1983年。新版、新潮文庫、1990年。朝日文庫、1995年) 『FOCUS』創刊号から6回で休載に至った連載を含め、13年間旅に明け暮れた「原アジアが与えてくれた視座」から見た日本社会論。

武田徹(たけだ・とおる)

1958年東京都生まれ。ジャーナリスト、評論家、専修大学文学部ジャーナリズム学科教授。国際基督教大学大学院比較文化専攻博士課程修了。80年代半ばからジャーナリストとして活動。専門は社会学、メディア論。著書に『流行人類学クロニクル』(日経BP社、サントリー学芸賞)、『原発報道とメディア』(講談社現代新書)、『暴力的風景論』(新潮選書)、『日本ノンフィクション史』(中公新書)など。