地下鉄サリン事件などを起こし、日本中を震撼させたオウム真理教。先日、麻原彰晃らその幹部13人の死刑が執行された。
  では今、私たちは彼らが起こした大事件の数々から何を学ぶべきなのか?

  自身の評論活動から、一時「オウムシンパ」との批判を受け、以来、オウム事件の解明に取り組んできた筆者曰く、信念なき「普通の人」たちが凶悪犯罪を起こしたのは、オウムが日本組織に特有の奇妙な構造を持っていたからだという。
 
  今回その主張をまとめた最新刊『オウムは「再び」現れる』から序章をご紹介。
  日本組織の特殊さを理解せずに、オウム事件は終わらない!

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<序章>


 13人の死刑執行

 2018年7月、オウム真理教の教祖であった麻原彰晃をはじめとする13名の死刑囚に対して刑が執行された。死刑囚の数が多いため、執行は二度にわたった。死刑制度の是非については内外で議論があるものの、今回の死刑執行について激しい批判は起こらなかったように見受けられる。

 作家の村上春樹は、『毎日新聞』(7月29日付)に寄稿した文章のなかで、自分は死刑制度には反対だが、地下鉄サリン事件の被害者にインタビューする過程で被害者や家族の苦しみにふれており、「『私は死刑制度に反対です』とは、少なくともこの件に関しては、簡単に公言できないでいる」と述べていた。

 それも、オウムが引き起こした数々の事件がどれも凶悪なもので、多くの被害者を生み、現在でもそれに苦しむ人々が少なからず存在するからである。地下鉄サリン事件では、地下鉄の乗客や駅員13名が亡くなり、負傷者は6000名を超えた。ほかにもオウムは、坂本堤弁護士一家殺害事件や松本サリン事件などで多くの死者、負傷者を出している。死刑囚が13名と多数に及んだのは、オウムがそれだけ多くの事件を引き起こしたからである。それは、許されない行為であり、現在の制度下では、死刑の執行は当然である。

 地下鉄サリン事件から死刑の執行まで23年の歳月が過ぎた。地下鉄サリン事件が起きた1995年に、ある程度の年齢に達していた人間なら、当時の状況を覚えているだろう。だが、その時点で生まれていなかった人間の数も増えてきた。

 現在の大学生にしても、そのほとんどは地下鉄サリン事件が起こった時点で、この世に生を受けていなかった。私は今、ある女子大で非常勤講師として教えているが、彼女たちはオウムの事件をリアルなものとして感じることができないはずだ。

 彼女たちのような若い世代に、オウムのこと、そしてオウムが引き起こした事件を伝えていく必要がある。それは、同種の事件を再発させないために不可欠な作業である。この本を書く必要があると感じたのも、そうしたことが背景になっている。

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 遺骨という難問

 ただ、オウムが引き起こした事件は、すでに述べたように規模があまりに大きい。その過程を追っていくだけでも、相当に大変な作業になってしまう。それを、事件のことを直接に知らない人間に説明するのはなおさら難しい。直接に知っているという人でも、事件から時間がかなり経ったこともあり、事実を正確に認識できていない可能性がある。

 死刑が執行されることで、オウムの事件に完全に決着がついたかと言えば、必ずしもそうとは言えない。

 これは、死刑が執行される前から問題としてとりあげられていたことでもあるが、麻原の遺骨の行方がどうなるかという問題が浮上している。麻原の遺体は刑の執行後火葬に付され、遺骨は現在、東京拘置所に安置されている。その遺骨を誰が引き取ることになるのか、それが大きな問題となっているのである。

 麻原はオウム真理教の教祖であった。これまで日本で、教祖となった人物が死刑に処せられた例は、おそらくないであろう。新しい宗教は、当初の段階で弾圧を受けることもあり、その過程で殉教者も生まれる。だが、教祖となれば、それは特別な存在である。

 死刑に処せられた教祖ということで、すぐに思い起こされるのが、キリスト教のイエス・キリストである。イエスは十字架に掛けられて殺された。犯罪者として処罰されたのである。ただ、こうした例は珍しい。

 仏教の釈迦は80歳になるまで説法の旅を続けたと伝えられており、死因は激しい腹痛によるものだった。腹痛は、豚を食べたからだとも言われるし、あるいは豚が追い求める茸を食べたからだとも言われる。要は食当たりであり、自然死である。

 イスラム教のムハンマドの場合には、そもそも詳しい伝記的な事実が伝えられていないのだが、やはり60代で自然死したものと考えられる。ムハンマドはイスラム教を広めるために戦ってはいたものの、亡くなったのは自宅においてだった。

 イエスの場合、たんに十字架に掛けられて殺されたというだけではなく、墓に埋葬された後、3日目に復活し、信者たちの前に肉体をともなって現れたとされる。その後、キリスト教の信者のあいだでは、世の終わりが訪れたときには、イエスがふたたび地上に現れる、つまりは再臨すると考えられるようになる。

 パウロによる「テサロニケ人への第一の手紙」第4章16〜17節には、「なぜならば、主自らが、指令〔の呼び声〕と、筆頭の御使いの声と、神のラッパ〔の響き〕と共に、天から降りて来られ、そしてキリストにある死者たちが最初に甦り、次いで〔はじめて〕私たち生き残っている者たちが、死者たちと一緒に、雲の中へと運び挙げられて、空中で主と邂逅するであろうからである。そしてこのようにして、私たちはいつも主と共にいるであろう」(新約聖書翻訳委員会訳『新約聖書』岩波書店)とある。再臨したイエスは、すべての人々を救うというわけである。

 十字架に掛けられて殺されたことは、イエスによる宣教活動が頓挫したわけだから、当人にとっては敗北である。しかし、再臨の信仰が確立されることで、その死には重大な意味が与えられ、そこにこそキリスト教の独自性が示されることとなった。イエスが十字架に掛けられなかったとしたら、キリスト教という宗教は誕生しなかったはずなのである。

 仏教の場合、釈迦は自然死であったものの、遺骨は「仏舎利」という形で信仰の対象になった。仏舎利は最初八つに分割されたが、その後、仏教を厚く信仰したアショカ王によって、さらに8万に分割された。仏舎利は塔を建てて安置されるようになり、仏塔がインド各地に建てられた。仏塔の周囲に出家した僧侶が生活するようになり、それが仏教の寺院へと発展していった。

 遺骨が信仰の対象になった例としては、もう一つ、キリスト教の「聖遺物崇敬」があげられる。これは中世のヨーロッパで大流行したものだが、殉教などして聖人として崇敬の対象になった人物の、主に遺骨が対象となった。ヨーロッパの教会は、そうした聖遺物を祀るために建てられている。

 日本でも、浄土真宗の本山である本願寺は、宗祖親鸞の遺骨を葬った墓所から発展した。日蓮宗の身延山久遠寺も、日蓮の墓所がもとになっている。イスラム教にさえ、聖者崇拝が存在し、聖者の墓所が信者の信仰を集めてきた。

 このように、教祖や聖者の遺骨、それをおさめた墓所は、信仰の対象として、それぞれの宗教において極めて重要な役割を果たしてきた。極端な言い方をすれば、骨やそれをおさめた墓から宗教がはじまるとも言えるのである。

 このように説明してもピンと来ないという人がいるかもしれない。だが、一般の日本人にも骨を信仰の対象とする傾向が見られる。

 現在、日本の火葬率は99・98パーセントに達しており、火葬された遺骨は墓に埋葬される。その墓に親族などが定期的に訪れる墓参りは盛んだ。

 火葬がこれだけ普及する以前には、土葬が広く行われていた。土葬の場合、遺体がそれを入れた棺桶ともども腐っていき、土が陥没するので、そこに石塔を建て、墓とするわけにはいかない。そのため、庶民の家には参るべき墓などなかった。

 ところが、火葬が普及することで、遺骨が必ず残るようになり、それを墓に埋葬する習慣が確立された。そして、その墓に参り、墓前で手を合わせるようになった。形としては、遺骨を崇拝の対象としているわけで、ここにも骨の持つ宗教的な力が示されている。このことを踏まえるなら、麻原の遺骨が信仰の対象となる可能性は十分に理解されるだろう。

 もちろん、麻原の遺骨が、それを信仰の対象にしようとする人間の手に渡ったからといって、すぐに大きな変化が起こるとは考えられない。急に、後継教団が拡大し、危険な行動に出るということはないだろう。

 だが、オウムの場合、麻原は膨大な説法を残している。教団では事件後、『尊師ファイナルスピーチ』という本を刊行している。これは、麻原の著作や説法をテープから起こしたものからなっていて、全部で4巻に及び、第4巻だけは400頁強だが、他の巻は1000頁前後に達している。つまり、膨大な量になる麻原の教えが残されているのである。

 また、オウムには独自の修行の方法が確立されている。これは、ヨーガを基本としたものだが、優雅で静かな動きを特徴とする一般のヨーガとは異なり、かなりハードで、それを長時間続けることが求められる。

 教義と修行の方法、そこに信仰対象としての教祖の遺骨が加われば、それは宗教活動を実践する上でかなり強力な武器になる。問題はそれを活かし、教団を拡大させていくだけの力を持った後継者が生まれるかどうかである。

 そうした後継者が、いつ、どういう形で現れるかは、現時点で予測不可能だが、その可能性は決してゼロではない。スピリチュアルなものを求める傾向は、近年になってかえって強まっている。オウムの残したものを、何らかの形で活用する新しい勢力が生まれても不思議ではない状況になっている。

 その点でも、オウムとは何だったのか、彼らが引き起こした事件とは何だったのかを改めて考える必要があるわけである。

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 私とオウム真理教

 私の場合、オウムとの関係はさまざまな点で深い。私が世に出るきっかけを与えたのもオウムであり、一方で、勤務していた女子大を辞職せざるを得なくなったのもオウムの事件が起こったからである。

 その詳細を述べていくならば、それだけで1冊の本になってしまうであろう。すでに、その点については、2001年に刊行した『オウム--なぜ宗教はテロリズムを生んだのか』(トランスビュー。その後、『オウム真理教事件Ⅰ・Ⅱ』として再刊)で述べたし、『私の宗教入門』(ちくま文庫)に書き足した「私の『失われた十年』」の章でもふれた。

 詳しくはそちらを見ていただきたいが、オウムとかかわりを持ったことが、私の人生を大きく変えたことは間違いない。

 その背景には、私が学生時代に、理想社会の建設をめざすヤマギシ会にかかわったことがあった。私がヤマギシ会に入り、その共同体で生活したのは1975年から76年にかけてのことである。その後、ヤマギシ会はやめたものの、共同体の運動には数年にわたってかかわった。

 当時のヤマギシ会は、「コミューン」の一種としてとらえられ、メンバーには衰退期にあった学生運動の経験者が多かった。そうした現実の社会とは異なる新たな世界を開拓しようとする動きは、「対抗文化運動(カウンター・カルチャー・ムーブメント)」と呼ばれていたが、それは、1980年代に入ると、「サブカルチャー」と呼ばれるようになる。オウムが出てきたのは、このサブカルチャーのなかからだった。

 私は、オウムの教えに共感したわけではないし、修行についてはまったく関心がなかった。ただ、背景に共通したものを感じており、オウムのような運動が、金だけがすべてとされたバブル経済の時代に登場した必然性は十分に理解できる気がした。

 オウムと背景を共通にしていたがために、一般の人間からすれば異様に見えるオウムのあり方が、私にはあまり気にならないというところがあった。あるいはそこに、私の言動が誤解を生んだ要因があったのかもしれない。

 女子大をやめた後、10年近くほとんど仕事のない時代が続いた。「私の『失われた十年』」でも書いたが、その果てに大病をして、死にかけた。

 その時点で死んでしまっていれば、その後の著作は生まれなかったことになるが、宗教について、あるいは宗教教団についてどのように書いていけばいいのか、そのあいだに随分と考えた。

 それぞれの宗教は特殊な前提の上に成り立っている。キリスト教の場合なら、イエスが復活し、やがて再臨するということがそれに当たる。仏教なら、釈迦が悟りを開いたという事実が特殊な前提で、仏教の信者はそれを信じるが、果たしてそうした事実があったのかどうか、その悟りが本質的なものなのかどうか、証明は不可能である。

 オウムの場合には、麻原がヒマラヤの麓で「最終解脱」を果たしたということが前提になっている。その体験は彼の著書のなかにつづられているが、果たしてそれは真実なのだろうか。あるいは最終解脱という名に値するものなのかという点になれば、個人の内面での出来事だけに、それを証明することは困難である。

 科学的な観点から考えるならば、どの宗教も非科学的なものであるということになってしまう。だが、信者はその特殊な前提を信じ、そこに究極の価値を見出している。

 そこにこそ、宗教と現実の社会とのあいだに対立が生まれる決定的な要因があるわけだ。そして、私が専攻している宗教学の役割は、両者のあいだに橋渡しをすることにあるのではないかと考えてきた。

 しかし、一般の社会に生きる人々にも、信者にも、どちらにも受け入れてもらえるような分析を行うことは相当に困難である。バランスが少しでもどちらかに傾けば、それは、社会の側からすれば、宗教を擁護しているものととらえられるし、宗教の側からは、宗教に対してまったく無理解なものととらえられかねない。

 そうした困難を克服する具体的で明確な方法があるわけではない。できることは、どうバランスを取るのかに細心の注意を払うということだけである。

 私がオウム事件の後に書いた『創価学会』(新潮新書)の本は、幸い、多くの読者を得ることができたが、そのなかには創価学会の現役の会員が数多く含まれていると言われた。創価学会の幹部の一人から、そのように言われたこともあった。

 この本が刊行されたのは2004年のことで、当時は、新潮社の出している『週刊新潮』誌が、創価学会のことを批判する記事を数多く掲載していた。教団と出版社は対立関係にあったのだ。にもかかわらず、創価学会の会員が拙著を読んでくれたということは、うまくバランスが取れていたということではないだろうか。この本も、そうしたバランスを取りながら書き進めていきたいと考えている。

 宗教だからこそ多くの若者を集めた

 オウムが凶悪な事件を起こしたことは間違いない事実であり、教団のあり方は厳しい批判にさらされるべきものであった。とくに、教団にとって好ましくない人間を殺害するときに用いられた「ポア」の論理は、教団の身勝手さをもっともよく示している。

 けれども、そのオウムに多くの、とくに若い人間たちが引かれたのも事実である。最盛期のオウムは、1400人の出家信者を抱え、一般の信者も日本で1万人、ソ連邦崩壊後のロシアでは3万人を数えた。なぜ、それだけ多くの若者がオウムに魅力を感じたのか。その面も同時に見ていかないと、なぜオウムのような宗教が生まれたかを明らかにすることはできない。

 事件後、オウムは宗教ではないという声が上がった。とくに宗教界は、オウムは宗教ではない、仏教ではない--というとらえ方をするところが多かった。殺人を行うような団体は、宗教の名に値しないというわけである。

 しかし、歴史をいてみれば、宗教が人を殺すことと無縁だったわけではない。十字軍のような例もある。日本でも、中世において大規模な寺院が僧兵を抱え、世俗の勢力と戦いをくり広げた。戦前には、「血盟団」のように、信仰によって暗殺を正当化し、それを実行に移すような組織もあった。

 オウムは宗教だからこそ、多くの人間を集めた。オウムは仏教であるからこそ、無差別殺人を敢行した。私たちはむしろ、そうした観点からオウムを見ていく必要があるのではないだろうか。

 オウムはヨーガやチベット密教を取り入れており、その点では日本の宗教のなかでは異色の存在である。

 だが、その組織のあり方を分析していくと、随所に日本的と思える部分が見えてくる。オウムは、あくまで日本の宗教組織であり、日本社会の特徴的な部分を取り込んでいる。オウムが陥った状況は、宗教団体に限らず、日本の組織全般が直面するかもしれないのである。

 オウムは、どこかの時点で、日本社会にふたたび現れるであろう。ただし、それは私たちの知るオウムとはかなり異なる形をとることになるのかもしれないのである。

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『オウムは「再び」現れる』

島田裕巳:1953年東京都生まれ。宗教学者、作家。東京大学大学院人文科学研究科博士課程修了。放送教育開発センター助教授、日本女子大学教授、東京大学先端科学技術研究センター特任研究員を歴任。自身の評論活動から一時「オウムシンパ」との批判を受け、以後、オウム事件の解明に取り組んできた。2001年に『オウム なぜ宗教はテロリズムを生んだのか』を刊行し話題に。『戒名』『個室』『創価学会』『神社崩壊』『0葬』など著書多数。