メディア知識人の運命 -清水幾太郎論>

竹内洋

 異郷人は一定の空間的な広がり――あるいは、その境界規定が空間的なそれに類似した広がり――の内部に定着してはいるが、しかしこの広がりのなかにおける彼の位置は、彼がはじめからそこへ所属していないということ、彼がそこには由来せず、また由来することのできない性質をそこへもたらすということによって、本質的に規定されている。 ゲオルク・ジンメル『社会学』(居安正訳)

片足で傍系のあぜ道を歩き 真鍮の腕で欠けた月を拾っていった 呪われた永久孤立者はだれだ 田村雅之「異郷者」


アカデミックな指導部が元凶

1960年7月8日午後6時、東中野で、清水を輪の中心にした安保総括の会がおこなわれ、数十名が出席する。清水は、ここで安保闘争の経緯を報告した。出席していた『中央公論』編集部の塙嘉彦の勧めで、この報告は「安保戦争の『不幸な主役』――安保闘争はなぜ挫折したか・私小説風の総括」として『中央公論』9月号に発表される。このころの『中央公論』は、安保問題の執筆を進歩陣営でない宇都宮徳馬や藤原弘達などの論客に求めていた(竹森清「直球主義を排して」『週刊読書人』1960年5月2日号)から、清水の原稿は打ってつけだった。だから『中央公論』編集部員は、その場にたまたま居合わせたというより最初から原稿狙いでいたとおもわれる。

清水の報告は、新安保阻止運動の中で経験したことを徹底的に反省し批判しておかないと、今後の戦いに勝てないということからはじまった。指導部は5月26日前後から一挙に盛り上がった反安保のエネルギーを持て余していた。そこで新安保阻止よりも民主主義の危機とする目標置換がおこった。社共と総評はこれに乗ったから、せっかくの勝利のチャンスをつぶしたのは、「アカデミックな指導部」だったとした。そしてこうもいった。安保闘争は敗北なのですが、敗北を認めれば敗北の責任者を探さなければなりません。あれだけ盛り上がった大衆運動ですから、今度ばかりは、敗北を大衆の無関心や大衆の立ち遅れのせいにすることはできません。だから「学者たちの民主主義勝利説は指導部にとって『神』であったと言えるようです」。もし、自分が志を同じくする仲間と組織をつくっていたら「結局、全学連に似た行動へ進むことになっていたでありましょう」。

ここでいわれた「アカデミックな指導部」は、前回ふれた5月24日の教育会館での丸山眞男の基調講演や「民主か独裁か」(『図書新聞』1960年6月4日号)の竹内好に代表される民主主義擁護へ向けての反安保運動の転轍機の切り換えを指していることはいうまでもない。「民主か独裁か」では、竹内好はこういっていた。

 

民主か独裁か、これが唯一最大の争点である。民主でないものは独裁であり、独裁でないものは民主である。中間はありえない。この唯一の争点に向っての態度決定が必要である。そこに安保問題をからませてはならない。安保に賛成するものと反対するものとが論争することは無益である。論争は、独裁を倒してからやればよい。今は、独裁を倒すために全国民が力を結集すべきである。

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-2010/4/10-

第七章 アラーミストに(下)

-2010/4/10-

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